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2026年5月27日水曜日

「河鍋暁斎の世界 ゴールドマン コレクション」(サントリー美術館)に行ってきた(2026年5月27日)― 日本よりも海外で高く評価され愛好されてきた天才画家の最大コレクション

 

「河鍋暁斎の世界 ゴールドマン コレクション」(サントリー美術館)に行ってきた(2026年5月27日)。河鍋暁斎(かわなべ・きょうさい)は、幕末から明治時代にかけて活躍した天才画家である。

ありとあらゆる画題を縦横無尽に描きまくった曉斎、その全貌を現時点では世界最大のコレクションから精選して出品されている。

曉斎については知っていても、一部しか見たことのないわたしにとって、今回の企画展は大いに期待していたものであり、その期待はまったく裏切られることはなかった

ほぼ同時期に見た日本の明治時代後期の洋画家の作品があまりにも陳腐で、まったく取るに足らぬほど印象の薄いものと感じたのもむべなるかな。天才と秀才の違いである。


(パンフレットの裏)


河鍋暁斎といえばカエルである。カエルの学校、カエルの行列、カエルどうしの戦争などなどの戯画や諷刺画。 3歳のときに最初に描いた絵がカエルだったというエピソードがある曉斎ならではである。

『河鍋暁斎戯画集』(山口静一/及川茂編、岩波文庫、1988)のカバーには、人力車を引くカエルと、人力車でふんぞり返っているカエルが描かれている。戯画であり、明治時時代初期の風俗を諷刺したものであるが、なんと生き生きとしたカエルであることか!





■日本よりも外国のファンの多い暁斎

今回の企画展は、「河鍋暁斎の世界 ゴールドマン コレクション」というタイトルにあるとおり、ゴールドマン氏のコレクションの日本公開である。

イスラエル・ゴールドマン氏は英国人の美術商で、日本版画を中心にディールしているそうだ。暁斎に惚れ込んで、現時点では世界最大のコレクターとなっている。

どうも河鍋暁斎は日本では正統の美術史から除外されてきたようだが、生前から外国人のファンが多いようだ。

「奇想の系譜」で有名な美術史家・辻惟雄氏が単独執筆した『日本美術史』の英語版の表紙カバーには、なんと北斎ではなく暁斎のカエルの戯画が使用されている。日本語のオリジナル版にも収録されている大英博物館蔵の作品である。

それほど、河鍋暁斎は外国受けする日本人画家なのであろう。




『日本の開国  ―  エミール・ギメ あるフランス人の見た明治日本(知の再発見双書54)』(創元社、1996)によれば、日本の宗教事情の調査のために来日した実業家のギメと同行した画家のフェリックス・レガメは、二人で暁斎を訪問している。

北斎没後では最高の日本人画家として暁斎を評価しており、河鍋暁斎とレガメの日仏両国の画家は、お互いの似顔絵を描いてエールの交換までしているのだ。スケッチをするレガメの姿は暁斎が描いたものであり、上掲書に掲載されている。


(曉斎が描いたレガメ wikipedia英語版より)


外国人の曉斎ファンといえば、なんといっても特筆すべきは、「日本の西洋建築の父」あるいは「日本近代建築の父」と称されるジョサイア・コンドルであろう。好きが高じてなんと暁斎に弟子入りまでしているのだ。

このことは、一昨年のことだが、はじめて駒込の「古河庭園」を訪問した際にはじめて知った。

三菱財閥の別邸である古河庭園の庭園内のレンガ造りの洋館はコンドルの設計で、館内には暁斎とコンドルとの師弟関係を示した展示品があった。暁英(きょうえい)と名乗ることを許されたコンドルの日本画は、玄人はだしであることに驚かされた。

その後、品切れになっていた 『河鍋暁斎』(ジョサイア・コンドル、山口静一訳、岩波文庫、2006)に重版がかかったのでさっそく入手し、その全貌について知ることができたという次第。コンドルにかんしては、建築家としてだけでなく、河鍋暁斎のコレクターで、しかも日本画家でもあったことも知っておきたい。




おそらくユダヤ系であろうゴールドマン氏も、ジョサイア・コンドルとおなじく英国人である。河鍋暁斎好きは意外なことに英国人好みなのだろうか? 

ゴールドマン氏のコレクションには、「旧ジョサイア・コンドル所蔵」のものだけでなく、「福富太郎所蔵」のものも含まれている。浮世絵コレクターとしても著名だった「キャバレー王」福富太郎である。ゴールドマン氏は、会場で上映されていた動画の挨拶で福富太郎のことを熱く語っていた。曉斎愛は国境を越える。

今回展示されている屏風絵仕立ての「百鬼夜行図」は、旧福富太郎コレクションである。こういう愉快な絵を見ていると、2020年代の日本人のほうが、暁斎をよく理解できるのかもしれないと思う。マンガやアニメにどっぷり浸かって育った現代日本人には、まったく違和感など感じさせないのである。

ゴールドマン氏は、コレクションを大英博物館に寄託しているとのこと。自宅で密かに楽しむのなんてケチくさいことはしないというのが素晴らしい。



北斎が自称「画狂人」なら、暁斎は自称「画鬼」(ガキ)

行きの電車のなかで村松梢風の『本朝画人傳 巻四』(中公文庫)所収の「河鍋暁斎」を読んでおいたが、これは正解だった。

まずは奇想の浮世絵師・歌川国芳に弟子入りし、そのつぎに正統派である狩野派で基礎をきっちり学び、その後は独自にさまざまな流派の画法を研究して自分のものとしたことを知った。

河鍋暁斎が少年時代の狩野派で学んでいたころ、川に流れてきた生首を写生したエピソードなど、なるほど「画鬼」(がき)と自称した曉斎ならではである。北斎が自称「画狂人」であるなら、暁斎は自称「画鬼」(ガキ)であったわけだ。

ちなみに「画鬼」(demon of painting)をタイトルにした企画展が開催されていたようだ。
Demon of Painting: Art of Kawanabe Kyosai,  Timothy Clark, 1993 という図録が出版されている。



英語版の wikipedia の河鍋 暁斎の項にはこうある。


Kawanabe Kyōsai (河鍋 暁斎; May 18, 1831 – April 26, 1889) was a Japanese painter and caricaturist. In the words of art historian Timothy Clark, "an individualist and an independent, perhaps the last virtuoso in traditional Japanese painting".


「伝統的な日本絵画の最後のヴィルトゥオーゾ」という評価である。ヴィルトゥオーゾとはイタリア語で巨匠のことだ。

そんな曉斎は、旺盛な好奇心の持ち主であり、ありとあらゆるものを観察して写生し、そのイメージをアタマの引き出しに蓄えていたからこそ、どんな画題であろうと即座に描き下ろすことが可能だったのだ。

構想を練ってから取り組んだ大作だけでなく、いわゆる鑑画会で即興で描き下ろした作品にもすばらしいものがあるのはそのためだ。



■狩野派最後の天才画家であった狩野芳崖


帰りの電車内でおなじく『本朝画人傳 巻四』(中公文庫)所収の「狩野芳崖」を読んだ。

狩野芳崖は、狩野派最後の天才画家とよばれていて、フェノロサと岡倉天心による「日本画」構想の重要な担い手と期待された人物である。

『本朝画人傳』の中公文庫版は、没年でそろえて再編集されているので、1889年に58歳で亡くなった河鍋暁斎のすぐ前に、1888年(明治20年)59歳で亡くなった狩野芳崖が収録されている。

じつは、河鍋暁斎(1831~1889)と狩野芳崖(1828~1888)は、ほぼ同時代生きた画家なのである。

しかも、この二人の天才画家には、意外なことに共通点も少なくない。二人とも狩野派の出身であることだけでなく、奇人変人の類いの芳崖ほどではないが、曉斎も能の愛好家あったことなどがそうだ。

さらにいえば、曉斎も芳崖も、二人とも外国人によって高く評価されたことは特筆すべきだろう。前者は英国人のコンドル、後者は米国人のフェノロサである。

とはいえ、あらゆる流派の画法を身につけた河鍋暁斎が明治時代に入ってからも大いに受けまくっていたのに対して、徳川幕府の崩壊とともに大名というパトロンを失った狩野派の狩野芳崖は、貧乏のどん底で苦しんでいた。

そんな芳崖の「仁王捉鬼図」が、『本朝画人傳 巻四』のカバーに採用されている。


(狩野芳崖の「仁王捉鬼図」)


芳崖といえば、完成間際で亡くなったことで遺作となった「悲母観音」(ひもかんのん)が有名だが、「仁王捉鬼図」における仁王がその首をつかんでいる鬼の苦悶の表情は、ほとんどマンガである(笑)

河鍋暁斎と狩野芳崖が、いっしょに論じらることなどほとんどないようだが、意外に似たようなテイストも示しているのが面白い。2020年の現時点で見ると、作品を作品として虚心坦懐に見ることができるようになるのかもしれない。

岡倉天心という権威づけもあって、オーソドックスな「日本美術史」に位置づけられいる芳崖と違って、正当に評価されてこなかった曉斎だが、そういった権威づけとは関係なく、作品本位で評価することがいかに大事なことか。この点は、とかくブランド(=名前)で判断しがちな日本人は、大いに反省すべきであろう。

日本サイドが海外に売り出したい画家、日本サイドの意向にかかわりなく海外勢のお気に入りの画家。この両者には大きな違いがある。現代では村上隆など、その代表的存在であろう。

美術品は、その作者の死後ほんとうの評価が定まる。生前に評価されても死後忘れ去られてしまう流行画家。死後だいぶたってから再評価される画家。死後のことなど誰にもわからないが、アーチストにとってはひたすら自分の思うままに作品をつくることのみ。






今回はミュージアムショップでマグネットを3ケ購入。今回はめずらしくマグネット愛好家のわたしの趣味にあった作品がマグネット化されていたのはうれしいことであった


画像をクリック!




PS 美術コレクターとしての福富太郎

曉斎のコレクターでもあった福富太郎についてもっと知りたいと思って資料を探していたら、『 芸術新潮 2021年5月号』で「キャバレー王は戦後最高のコレクター 「福富太郎」伝説」が特集されていることを知り、さっそく入手して読んでみた。


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福富太郎氏は、すでに2018年に亡くなっている。その生前に暁斎のコレクションを一括してイスラエル・ゴールドマン氏に譲渡したようだ。

美術コレクターとしての福富太郎については、もっと知られていい。

(2026年6月7日 記す)




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■日本人よりも外国人が高く評価してきた日本人画家

・・明治時代の日本美術発見者であるフェノロサとビゲローによる収集品は、その大半がボストン美術館に収蔵されている

書評 『若冲になったアメリカ人-ジョー・D・プライス物語-』(ジョー・D・プライス、 山下裕二=インタビュアー、小学館、2007) 
・・テーマ性で収集したジョブズやドラッカーとは異なり、埋もれていた一人の絵師の作品に惚れ込んだアメリカ人コレクターによるコレクション


■日本美術のコレクターたち

『ドラッカー・コレクション 珠玉の水墨画- 「マネジメントの父」が愛した日本の美-』(千葉市美術館)に行ってきた(2015年5月28日)-水墨画を中心としたコレクションにドラッカーの知的創造の源泉を読む 
・・青年期まで過ごしたウィーンやフランクフルトなどで接していた、第一次世界大戦と同時代の「ドイツ表現主義」が実現できず終わったことを、すでに江戸時代の日本人が禅画で実現していたとドラッカーは言う。「写実」ではなく「写意」として

・・「新版画」の橋口五葉や川瀬巴水



■その他の日本美術







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2026年5月20日水曜日

「2026年千葉開府900年」!? ― 2026年になってからすでに半年近くたっているのに、まったく知らなかったとは!(2026年5月20日)



昨日のことだが、ひさびさにJR千葉駅で下車して駅の外にでたら、いきなり「2026年千葉開府900年」という看板が目に飛び込んできた。 

「千葉開府900年」!? ということは、ことし2026年からさかのぼること900年前の1126年に千葉が開かれたということ? 

調べてみたら「公式サイト」まであるではないか!  

2026年になってからすでに半年近くたっているのに、まったく知らなかったとは! 

「千葉開府900年」なんてフレーズは、目にしたことも耳にしたことも、マジでただの一度もなかったのだ。 

市川や船橋(それに習志野や八千代)などの住民は「千葉都民」と言われることも少なくないのだが、実際に目は西側にある東京にしか向いてないのである。 だからなんだろう。

とくに用事がなければ「千葉県の県都である千葉市」にいくことなど、まずないと言い切っていい。幕張も行政的には千葉市ではあるが、「千葉」に行くという意識はない。 

現住所の千葉県船橋市の住民になってからすでに16年近くたつし、それ以前の八千代市時代もも含めたら千葉県民としての自分史は30年を下らないはずだ。 

それでも、「千葉開府900年」など「オレには関係ねえ」(笑)という感想しかない。 

「千葉城」のある千葉市をのぞいて、その他の千葉県民にとっては、あまり縁のないことなのかもしれないのかもね。 



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2026年5月19日火曜日

美術展「密やかな美 小村雪岱のすべて」(千葉市美術館)に行ってきた(2026年5月19日)― 書籍の装幀と連載小説の挿絵など制約条件下での画業とデザイン

 


文学書の装幀や新聞連載小説の挿絵などを中心に活躍し日本画家の業績を集大成した企画展である。

じつはこの美術展の存在を知るまで、小村雪岱(こむろ・せったい)のことはまったく知らなかった。

試みに wikipedia で調べてみると、以下のように要約されている。


小村 雪岱(こむら せったい、明治20年(1887年)3月22日 - 昭和15年(1940年)10月17日[1])は、大正から昭和初期の日本画家、版画家、挿絵画家、装幀家。


「大正から昭和初期の日本画家、版画家、挿絵画家、装幀家。」である、と。Wikipediaには英語版はなく、フランス語版ドイツ語版だけがあり、そのいずれでも作品が画像として紹介されている。フランスやドイツでは、その繊細な美が評価されているのだろうか。

東京美術学校では下村観山教室で学んだという。もともと日本画家を志していた人であったのだ。

だが、かれを有名にしたのは、泉鏡花の『日本橋』の装幀を担当してからである。

岩波文庫版の鏡花の『日本橋』は、改版にあたってカバーに初版の際の小村雪岱による装画が掲載されている。

日本橋川に面して倉庫が並んだ日本橋の風景は、この地に少年時代に移り住んだ小村雪岱ならではの作品といえるだろう。




『日本橋』の装幀がたいへん気に入ってもらい、泉鏡花のその後の作品の装幀も手がけることになったという。そんな泉鏡花の単行本が展示されている。泉鏡花との関係はその後も長く続いたらしい。

この美術展の会場を歩いて見てまわると、「密やかな日本美」というタイトルが、いかに的確であることか実感する。

書籍の装幀や、雑誌の表紙画でも活躍し、資生堂でも初期の企業文化誌「花椿」のデザインも担当していたとのことだ。

誠実で丁寧な仕事ぶりが評価され、名だたる作家たちから信頼されて依頼が殺到、大衆作家たちの新聞連載小説の挿絵も担当、歌舞伎の舞台装置と、デザイン関連の仕事が中心になっていく。

厳しい制約条件のもとでの仕事が性に合っていたのかもしれないが、そのために日本画を描く時間がなかったのは、本人にとっては残念なことだったかもしれない。

雪岱の出身校である東京美術学校は岡倉天心がつくった学校だが、おなじく天心が創設にかかわった日本の古美術雑誌『國華』に掲載する画像の下絵の制作に、雪岱はかかわっている。このことに見られるように、雪岱は本格的な日本画の技能の持ち主だったのである。


(「鳥辺山」 紙本着色 1931年 *撮影可能)


新聞の連載小説の挿絵は、連載が終了し単行本化されたときには使われないことが多い。このため挿絵を担当した画業が忘却の彼方に消えてしまうことも少なくない。

今回の展示では、連載小説に掲載されるまえの原画だけでなく、挿絵として掲載されたオリジナルの新聞紙面そのものも展示されている。

連載小説が掲載されている黄ばんだ紙面がそのままガラスケース越しに展示されているが、小村雪岱の小さくて洗練された挿絵を探すのに苦労してしまう。

というのも、紙面に登場する奇妙キテレツ(!)な広告の数々が、妙に強烈な印象をもたらすので、どうしても目がそっちに行ってしまうからだ。

ウェブメディアの無料記事に氾濫するポップアップ広告のように、雑然としていて落ち着いて記事を読む環境にはない。そんな紙面の状況を考えると、連載小説がよほど面白くなければ、そして挿絵が味わい深いものでなければ、ならなかったのだろう。制約条件は媒体としての性格も加わって重層化する。

先にも触れたように、連載小説の挿絵やデザイン関係の仕事を多く抱えていたため、本来の日本画家としての作品は少ない。

大東亜戦争の突入する前の1940年(昭和15年)、54歳で亡くなった小村雪岱の作品が散逸してしまうのを恐れて、画家や作家の友人たちが版画として世に出すことにしたのだという。展示スペースの最後には、死後の作品も展示されている。誠実な人柄がにじみでているではないか。


(没後に版画として世に出た「おせん」 *撮影可能)


少年時代に絵の修行のために日本橋に移り住んだ小村雪岱だが、生まれは埼玉県の川越市だという。そのためだろう、今回の美術展は埼玉県立近代美術館の所蔵品が多い。

千葉市美術館での美術展だが、先に大阪でも開催された巡回展である。どちらかといって関東テイストの作品のような気がするが、関西ではどんな評価を受けたのだろうか?


(カバー画は小村雪岱の「おせん」 画像をクリック!



◆美術展「密やかな美 小村雪岱のすべて」(4/11~6/7) 
会期:2026年4月11日〜6月7日(前期:4月11日〜5月6日、後期:5月8日〜6月7日) 
会場:千葉市美術館



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