いまはむかしの話である。本日(2014年3月14日)はいわゆる「ホワイトデー」なので、それにちなんだ話題を取り上げてみよう。
いまを去ること5年前の2009年のことだ。その当時、実年齢と見た目があまりにもかけ離れているので、「奇蹟の39歳」といわれていた頃の丸岡いずみという女子アナがいた。その彼女にかんする話である。
時の首相・麻生太郎氏が、女性記者たちからバレンタインチョコを貰ったお礼にホワイトデーにお返しをたのだが、直筆の礼状にあった「心ずかい」という表記は「心づかい」の誤りだとTVで指摘したらしい。これに対して視聴者から抗議が殺到したが、丸岡アナは謝罪しなかったという話だ。
ネット上では「心づかい事件」といわれているようだ。
「未曾有」(みぞう)を国会で「みぞゆう」と読み上げてマスコミからバッシングされた麻生元首相だが、「未曾有」にかんしては、じつはどちらの読み方でも間違いではないらいい。さすがに2011年の「3-11」でさかんに「未曾有の大災害」というフレーズが連呼されたので「みぞう」という読み方が定着しただろうが。
ドッグイヤー(・・これはすでに死語か?)のネット時代、5年前のネタなどカンブリア紀のようなものかもしれないが、あえて取り上げてみる。
この5年のあいだに二回の政権交代があり、選挙で大敗して失職した麻生氏も今回は財務大臣として政権にカンバックしている。ワイマール憲法下におけるナチス政権獲得など問題発言があったものの、首相ではないので「失言」がことさら取り上げられてバッシングされても炎上することない。比較的平穏(?)な日々を過ごしているようだ。
丸岡アナはその後、2011年の「3-11」後の被災地の取材で激しいうつ病にかかりアナウンサーは退職、現在は自称「専業主婦」としてタレント活動をしているらしい。
生きるということは、いろいろあるものでありますね。
■「心づかい」が正しい「かなづかい」である理由
前置きがながくなりすぎたが、「心づかい」について結論から言ってしまおう。
丸岡アナが謝罪しなかったのは当然である。「心ずかい」は明らかに間違っているからだ!
考えてみればきわめて簡単な話だ。「こころ」と「つかい」という2つのコトバが連続して発音することによって「つ」が濁音化して「づ」になる。「こころ・づかい」である。したがって「心づかい」が正しいのである。ただ単にそれだけの話だ。
これを、やれ旧仮名遣いだの新仮名遣いなどと、訳知り顔に主張すること自体がナンセンスである。
わたしは旧仮名遣いにもどせなどという頑迷固陋な主張にはまったく反対だ。発音どおりに表記するのが実用的だという立場である。しかしながら、発音どおりの仮名遣い(かなづかい)であるはずの新仮名遣いにも非常に大きな問題があることは指摘しておかねばならない。
たとえば地震だ。このふりがなを新仮名遣いでは「じしん」としている。これはあきらかにおかしい。
意味を考えてみよう。地(ち)が揺れるから地震なのだから、振り仮名は本来「ぢしん」とすべきなのだ。地頭もまた同じ。「じとう」や「ぢあたま」ではなく、「ぢとう」や「ぢあたま」であるべきだ。
「心遣い」を「こころづかい」、「仮名遣い」を「かなづかい」と表記するなら、「地震」は「ぢしん」、「地頭」は「ぢとう」(または「ぢあたま」)と表記してしかるべきではないか。
発音にかんしてもそうだ。地震の場合、濁音が語頭にくるので一歩譲って「じしん」もよし、としよう。
しかし心遣い、にかんしては、おそらく大半の日本語人は kokoro-dzukai と発音しているはず。zu ではなく dzu、ひらかなで書けば「づ」である。
だから、「心遣い」は「こころづかい」が正しいのである。
小学校の教師が、中学校の教師がなんと言おうと、日本語の原理からいえば文部科学省の指導方針が間違っているのである。新仮名遣いを金科玉条のようにたてまつるべきではない。
■いまだ「正書法」を確立できない近代日本語
比較文明論の梅棹忠夫も指摘しているように、日本語の正書法はいまだに確立していない。正書法とは、その言語をただしく表記するための公的に定められた方法のことである。
梅棹忠夫自身は、"かな文字論者"よりもさらに過激な"ローマ字論者"である。
主著の一つである 『知的生産の技術』(岩波新書、1969)はロングセラーとして類書の模範となってきたが、ローマ字表記を主張した箇所はずっと黙殺され続けている。ワープロ開発以後は漢字変換が容易になったので、日本語表記のローマ字化の議論は世の中からほぼ完全に消えてしまった。
梅棹忠夫は、 『日本語の将来-ローマ字表記で国際化を-』(NHKブックス、2004)でローマ字表記を主張を展開されているが、ローマ字化の是非はさておき、日本語表記の科学的研究は徹底的に行われるべきである。日本の人口が減少すると、日本語の世界的なパワーも減少していくことが予想される。日本語の世界的な普及のためにも、日本語の正書法の確立が求められるのである。
(科学未来館で開催された「梅棹忠夫展」より 訓令式である)
どこの国のコトバでも公用語にかんしては、正書法の問題は悩ましい問題である。近代国家でナショナリズムの根幹に据えるべきなのが「国民語」であり「国語」、その「正書法」を整備することが国民国家としての統一性や求心力を維持するカギとなってきたからである。
ドイツ語の場合も頻繁に正書法が変更されており、むかし勉強した人間には大いに困惑させられるものがある。
最新の1998年のドイツ語正書法では、たとえば ß を使用せず ss で代用することとなった。くわしくは、ドイツ語の新正書法(公式の正書法)について を参照していただきたい。ドイツ再統一など社会的な激変は言語にも大きな影響を及ぼしている。
おそらく、インターネット上でも html 言語ならドイツ語特有のアルファベットも表記可能だが text ベースでは誤変換してしまうのも、その理由の一つだろう。
きわめて合理的な発想ではあるが、1980年代にドイツ語を勉強したわたしのような「古い世代」の人間には、なんとなく馴染めない感もなくはない。現在、大学生でドイツ語をあらたに勉強し始めた人には問題ないだろうが。こんなことをいうわたしも、さすがに戦前にはフツーであったドイツ語特有の「亀の子文字」にはなじめないが。
日本語の正書法にかんしても、激しい議論が巻き起こることを望むものである。
このためには、先生がいっているから正しい、お上(=文部科学省)がいうから正しいのだ、などという権威主義的で、また"長いものに巻かれろ式処世術"ではなく、日本語人すべてが巻き込まれる激論がなされることが求められるのではないか。
戦後の国語改革にかんしては、国文学者・民俗学者の折口信夫が語ったコトバが思い出される。この件はすでにブログに記事を書いているが、何度でも繰り返しておきたいので再録しておく。
彼は、弟子の池田彌三郎に対してこう語っている。
(-新仮名遣いの制定ということは、容易ならぬ、国語の表記法の大改革である。国語の表現が一ぺんに飛躍するような大きな改革である。)そのためには、役人の一人や二人は死ぬ覚悟がないと、なしとげられはしないのだ。それだけの覚悟をもってかかった改革なのかどうか、それを聞きたい。
(出典:『まれびとの座-折口信夫と私-』(池田弥三郎、中公文庫、1977) P.53)
役人のみなさん、「国語改革」で死ぬ覚悟はできてますか? 命懸けてますか?
「正書法」というのは、それほど重要な問題である。国民的な議論が必要なのである。
PS 丸岡いずみアナのその後
冒頭に記した「奇蹟の39歳」といわれていた頃の丸岡いずみアナ、もちろんいまはすでに「39歳」ではないのだが、その後の「うつ病体験」はかなりひどいものだったらしい。「うつ病」から脱出した体験が『仕事休んでうつ地獄に行ってきた』(主婦の友社、2013)という手記にまとめられている。(2017年7月28日 記す)
<関連サイト>
なぜ「稲妻」の仮名は「いなづま」ではなく「いなずま」なのか?(MagNews、2016年11月8日)
・・こんなことを何の疑問もなく平気で書くバカがいるとは驚きだ
(2016年11月8日 項目新設)
<ブログ内関連記事>
「役人の一人や二人は死ぬ覚悟があるのか・・!?」(折口信夫)
梅棹忠夫の「日本語論」をよむ (1) -くもん選書からでた「日本語論三部作」(1987~88)は、『知的生産の技術』(1969)第7章とあわせて読んでみよう!
梅棹忠夫の「日本語論」をよむ (2) - 『日本語の将来-ローマ字表記で国際化を-』(NHKブックス、2004)
・・近代国家でナショナリズムの根幹に据えるべき国民語の「正書法」が確立しないまま現在にいたる
「地頭」(ぢあたま)について考える (1) 「地頭が良い」とはどういうことか?
「地頭」(ぢあたま)について考える (2) 「地頭の良さ」は勉強では鍛えられない
書評 『ことばの哲学 関口存男のこと』(池内紀、青土社、2010)-言語哲学の迷路に踏み込んでしまったドイツ語文法学者
(2012年7月3日発売の拙著です)
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