『フェリペ2世-スペイン帝国のカトリック王(世界史リブレット)』(立石博高、山川出版社、2020)が出版された。世界史におけるフェリペ2世の存在がきわめて大きいにもかかわらず、なぜか日本語による評伝がほとんどなかったので、小冊子とはいえありがたい。
フェリペ2世(1527~1598年9月13日)は、その全盛期には地球上の各地に領土をもち、「日の沈むことのない帝国」と呼ばれたスペイン帝国に君臨した国王だった。なんと「地球だけでは足りない」(Non Sufficit Orbis)と豪語までしていたらしい。19世紀から20世紀半ばまでにかけての大英帝国の先駆者といえよう。
フェリペ2世は、スペイン・ハプスブルク家の初代である。ハプスブルグ家といえばオーストリアとウィーンという連想があるが、分家によって2つ存在したのだ。だが、その後スペイン・ハプスブルグ家が断絶し、「スペイン継承戦争」(1701~1714)が勃発することになる。
■「複合君主制」の統治に必要だったカトリック擁護の姿勢
「複合君主制」とされるスペイン帝国はあくまでも俗称であり、真の「帝国」ではなかった。したがって、フェリペ2世自身も皇帝であったわけではない。ビザンツ帝国(=東ローマ帝国)滅亡後、ヨーロッパでは神聖ローマ帝国が唯一の帝国だった。彼の父カルロス1世は、神聖ローマ帝国の皇帝としてカール5世でもあったが、その息子であるフェリペにはその夢は叶わなかった。
ここで「複合君主制」について簡単に説明しておこう。2つの王国で国王を兼任する「同君連合」はヨーロッパの歴史上そのケースは多い。「複合君主制」は、さらに複数の王国の国王を兼任形態だ。
フェリペ2世の場合も、正確にいうとスペイン国王ですらなかった。本書によれば、カスティーリャ、レオン、アラゴン・・・と続くスペイン各地の領土の国王だったのである。ただそれではあまりにも煩瑣なので、スペイン国王としているに過ぎないわけだ。
1580年には隣国のポルトガルを「併合」したことになっているが、実際はポルトガル王を兼任するという形となっただけであり、基本的にポルトガルの政体を維持しながらの緩やかな統合であった。
具体的に日本史にかかわる事例で見てみると、当時のマカオ=長崎間の貿易はポルトガルが独占していたわけだが、ポルトガル「併合後」も、スペインが利権を奪い取るようなことはしていない。スペインは1571年にフィリピンのマカオを建設しているが(・・このおなじ年に「レパントの海戦」でスペインはオスマン帝国に勝利している)、形の上ではスペインとポルトガルは別の国ということになっていたからだ。
ここらへんの事情は、同時代の日本もある程度まで把握していたようだ。ポルトガルがスペインから「独立」したのは1640年のことだが、幕府がスペイン船の来航を禁じて断交したのは1624年、ポルトガル船の来航を禁じて断交したのは「島原の乱」後の1639年のことである。
フェリペ2世の「スペイン帝国」のような、地球上に散在する広大な領土を支配するにあたっては、すべてを統合するシンボルが必要であった。基本的に緩やかな支配であったからだ。人種的にも民族的にきわめて多様で異なる伝統をもち、しかも地域ごとの特殊性ににとづいたさまざまな特権があったからなおさらだ。
統合のシンボルとなったのが、カトリック擁護という姿勢だった。それしかなかったというべきかもしれない。敵味方の判断はカトリック信仰にあったのである。このために異端審問も使用されたのである。
フェリペ2世はカトリック擁護をことさら強調せざるを得なかったという側面があると考えるのが自然だろう。
世俗的な問題にかんしては、スペインはバチカン(=ローマ教皇)の意向にはかならずしも従っていない。にもかかわらず、宗教という側面においてはカトリック信仰を擁護し、副王を置いたヌエバ・エスパーニャ(=新スペイン=メキシコ)やペルーなどの植民地を含め、新たな支配地ではカトリック宣教を推進したのである。
■対外拡張主義とカトリック擁護が招いた財政破綻
「日の沈むことのない帝国」に君臨したフェリペ2世だが、その晩年は「落日」を予感させるものがあった。
カルヴァン派で反カトリックのネーデルラント7州の独立戦争(・・1568年に始まった「80年戦争」)や、おなじく反カトリックのイングランドとの「アルマダの海戦」(1588年)など、度重なる戦争で財政が疲弊、3度にわたって「国庫支払停止宣言」を出している。
スペインが強国となった再々の理由は、「新世界」のペルーとヌエバ・エスパーニャ(=メキシコ)で銀山を発見したことで豊富な銀を所有が可能となったとにあるが、「新世界銀」は、スペインを素通りして債権者であるジェノヴァやネーデルラントの国際銀行家の手に流れていった。
フェリペ2世は、国家財政が火の車状態だっただけでない。配偶者を含めた相次ぐ近親者の不幸だけでもない(・・カトリック国だったので離婚はできなかったが、王妃となった女性とは次々と死別し合計4人と結婚している。)。晩年には、彼自身の肉体が、まさに落日の諸相を示していたのだ。痛風に苦しんだ晩年を送っているのである
本書『フェリペ2世-スペイン帝国のカトリック王』の以下の記述が心にしみる。いまこれを書いている自分には、国王の痛みが手に取るように(・・いや右足のかかとをつうじてというべきだろう)、感覚的にわかるからだ。
(引用)
「1590年代になると国王の身体は、明らかに病に蝕まれていた。当時としては珍しく歯磨きの習慣をもつなど健康に気を遣っていたフェリペは、スペイン・ハプスブルク家のなかではもっとも長寿の国王となったが、晩年に近づくと痛風の悪化に苦しんだ。ヴェネツィア大使は「国王は痛風の症状がひどく、どんなことにも楽しみを見いだせない」と記している。歩行に困難を来すフェリペには、特別の椅子が誂えられていた。そして、すでに多くの近親者を失った国王の大きな支えは、まだ手元に残されていた王女イサベル・クララ・エウヘニアだった。」(P.98)(*下線と太字ゴチックは引用者=さとうによるもの)
ちなみに、実父のカルロス1世(=神聖ローマ皇帝カール5世)もまた、晩年の10年間は痛風に苦しみ58歳で亡くなっている。スペイン王位を退き息子に譲位したのは、痛風が原因だったという。
奇しくも5日後の1598年9月18日(グレゴリオ暦*)に61歳で没した秀吉は対外拡張主義という点で共通点があったが、養生に努めて、当時にしては珍しく71歳まで長生きしたという点においては、同様に73歳まで生きた家康を想起させるものがある。だが、その運命にかんしては、フェリペ2世と家康では真逆の姿勢を示していたといえよう(**)。
(*)グレゴリオ暦の使用開始は1582年のこと。ユリウス暦からカトリック諸国を中心に西欧で普及が進んでいった。教皇グレゴリオ13世の在世中だったための命名。ちなみに「天正遣欧使節」は1585年3月にグレゴリオ13世に謁見を賜っている。
(**)フェリペ2世は秀吉よりも10歳年長、家康より16歳年長だった。フェリペ2世からの求婚を退け、さらにはアルマダの海戦でスペイン無敵艦隊を破ったエリザベス1世(1533~1603)の6歳年長だった。
手を広げすぎて財政破綻を招き落日を迎えたスペイン帝国。鎖国によって国内を充実させて知らず知らずのうちに「近代」への準備を行っていた日本。対外拡張主義路線を否定した家康のすごさに注目すべきというべきであろう。
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