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2020年9月23日水曜日

弱肉強食の「第1次グローバリゼーション」を終わらせた家康のすごさを『戦国日本と大航海時代 ー 秀吉・家康・政宗の外交戦略』(平川新、中公新書、2018)を読んで考えてみる


2020年7月にNHKスペシャルで2回にわたって放送された「戦国~激動の世界と日本~(1)「秘められた征服計画」「(2)ジャパン・シルバーを獲得せよ」が面白かった。 最新の研究蓄積を存分に活かして、それをビジュアルとして再現した好番組だった。

この番組を視聴した機会に、購入したまま2年間積ん読のままだった『戦国日本と大航海時代-秀吉・家康・政宗の外交戦略』(平川新、中公新書、2018)を読んでみたら、これがまためっぽう面白かった。これほど面白い歴史書もなかなかない。  

今回は、この歴史書をベースにして、「第1次グローバリゼーション」という「危機の時代」について考えてみよう。

17世紀は世界的な「小氷河期」という「寒冷期」であり、気象異常にともなう飢饉と飢餓、感染症の蔓延(とくに西欧は14世紀以来のペストが再燃)にみまわれた「危機の時代」(Age of Crisis)であった。
   

■「大航海時代」の進展のなか「第1次グローバリゼーション」が始まった

いわゆる「大航海時代」は、15世紀にポルトガルから始まり、それにつづいてスペイン、さらにオランダとイングランド、フランスなどが続いていった「第1次グローバリゼーション」の時期に重なる。先行した人口小国のポルトガルが息切れし、ポルトガルに代わって世界帝国を築き上げたのが、おなじくカトリック国のハプスブルク家のスペインだ。

神聖ローマ皇帝カール5世は同時にスペイン国王カルロス1世であったが、その息子のフェリペ2世はハプスブルグ家の本家から分家して、スペイン・ハプスブルグ家の初代となった。カルロス1世がドイツ生まれなのに対して、フェリペ2世はスペイン生まれであり、文字通りスペインの国王として君臨することになる。

西洋史の文脈においてはカール5世はきわめて大きな存在だが、世界史という観点からみたら、フェリペ2世のほうがはるかに重要な人物である。なぜなら、フェリペ2世のときに、地球上のすべての大陸がスペインのもとに一体化することになったからだ。1571年にスペインが領有化したフィリピンにマニラを建設したとき、 「第1次グローバリゼーション」が始まったのである。フィリピンは、フェリペ2世にちなんだ命名である。

すこし時計の針を戻して、ポルトガルとスペインが覇権争いをしていた時代に触れておこう。この覇権争いとその解決策が、日本とその周辺の東アジア(東南アジア含む)にきわめて多大な影響を与えることになったからである。


■ポルトガルとスペインが勝手に地球を二分割

仲裁に入ったのはローマ教皇である。ともにカトリック国であったポルトガルとスペインは、上位の権威であったローマ教皇の裁定に従うことになった。それが「トルデシリャス条約」(1494年)だ。この条約によって、両者のテリトリーが確定したのである。覇権争いは戦争に訴えることなく決着したのである。

ヨーロッパからみてポルトガルは地球の東半分スペインは西半分が、それぞれの勢力圏として確定したのである。さしあたって問題になっていたのが「新大陸」(・・先住民の権利を無視したこの表現はつかうべきではないので、以下の記述は中南米とする)の線引きであった。境界線が引かれたのは子午線の西経46度37分で、ブラジルがポルトガルの領土となり、それ以外はスペインの領土と確定した。現在でも中南米ではブラジルだけがポルトガル語で、それ以外はすべてスペイン語地域であるのはそのためだ(*カリブ海地域には英仏蘭あり)。

ただし、1494年の時点では地球の反対側の境界線は定まっていなかった。ところが、マゼランによる世界一周航海(・・マゼラン自身はフィリピンのセブ島で殺された)の生き残りが1522年にスペインに帰還したことによって問題が浮上した。問題の焦点は、香料諸島(=スパイス諸島)という異名で呼ばれたモルッカ諸島の帰属にあった。

その問題は「サラゴサ条約」(1529年)によって解決された。モルッカ諸島から東へ17度進んだところに境界線を定め、モルッカ諸島のポルトガル領有が確定したことで決着した。条約によればフィリピンはポルトガル領となるはずだが、香料の生産地ではなかったこともあり、スペインのフィリピン領有にかんしてポルトガルからの反対はなかった

『米中戦争前夜』の著者で米国人政治学者のグレアム・アリソン教授は、ポルトガルとスペインの覇権争いは、戦争によることなく平和裏に解決したことを高く評価している。この500年の覇権争いの大多数が戦争で決着がついているからだ。現在でも、いわゆるグローバル企業が、営業権やブランド使用権の範囲を勝手に確定しているが、その走りであるといってもいいだろう。

問題は、上記2つの条約で定められた境界線が、なんと日本列島の真上を通っていた(!)ことにある。日本列島の大半はポルトガルガル領となっていたわけだが、居住者の知らぬ間にその意向をまったく無視した状態での境界線であり、まことにもってけしからん話だと言わざるを得ない。

問題をさらに・・していたのは、カトリック国のポルトガルとスペインはともに、進出先で推進していたビジネスをカトリック布教と一体のものとしていたことにある。

フレーズ的にいえば「宗経一致」ということになるが、戦国時代の日本に進出したポルトガルは、同時に布教活動も行う根拠を得たことになる。ポルトガル王国をバックにつけていたのは16世紀前半に誕生した新興のイエズス会であった。

組織のトップから布教を始めるイエズス会の方法は、九州各地の大名を味方につけ、さらには信長の知遇を得たことで京都でも成功していた。

資金源は、ポルトガルによるマカオ=長崎ルートの生糸貿易である。中国産の高級生糸と日本銀の交換を担っていたのがポルトガル商人だったからである。日本は倭寇であるとして明朝との直接貿易が許されず、ポルトガルは海賊退治の功績で明朝からマカオを手に入れていたので可能となったビジネスモデルであった。

ところが、フェリペ2世の時代の1580年には、同君連合としてスペイン王がポルトガル王を兼ねることとなり、実質的にポルトガルはスペインに併合され世界最大の帝国が誕生することになった。三大陸に及ぶ領土は「日の沈まぬ帝国」と呼ばれたのである。スペインは、日本へのビジネス進出と布教活動を同時に進めることが可能となり、フィリピンがその前線基地となった。

スペイン王国をバックにつけていたのは、フランシスコ会やドメニコ会、聖アウグスチノ会などの托鉢修道会であり、イエズス会が開拓していた日本市場への新規参入者が混乱をもたらすことになったのである。 この状況で発生したのが秀吉の時代の「二十六聖人殉教」であった。殉教者のうち宣教師はいずれもフランシスコ会の修道士であった。

先に見たように、ポルトガルとスペインの覇権争いは条約によって平和裏に解決し、しかもポルトガルがスペインに併合されることで、スペインが覇権国となったが、西欧では局地戦が継続して進行していた。スペインの金庫番ともいうべきネーデルラント北部7州(=オランダ)が1581年に独立戦争を開始、足許では大いにゆらぎが生じていたものの、世界規模の戦争は発生していなかった。

ところが東アジアでは状況はまったく違っていた。秀吉が、1592年に中国征服を目的として「朝鮮出兵」を断行したのである。16万人弱という大軍勢を送り込んだ大戦争であった。

もともと、中国征服はスペインの出先フィリピンで計画されていたものだった。宣教師たちは、人口大国の中国を支配すれば、大規模に布教が可能だと考えたからだ。1600年当時の中国の人口は1.5億人で、スペインはポルトガルとあわせて1,050万人、日本は2,200万人であったと推計されている(・・ちなみに、李氏朝鮮は500万人、オランダ150万人、ブリテン諸島全体で625万人)。おそらく、南米大陸のように簡単に征服は可能と想定していたのだろう。

だが、スペインによる中国征服計画はフェリペ2世が却下したことで立ち消えになった。1588年の「アルマダの海戦」で艦船を大幅に失った影響もあったろうし、ビジネスベースで考えれば中国を征服するメリットがないと判断したためかもしれない。

中国征服計画は、スペインではなく、天下統一を果たしたばかりの秀吉が実行することになったのである。秀吉は同時にフィリピン侵攻も計画しており、中国征服の暁には天皇を北京に移し、自らは寧波(ニンポー)に移ってインドまで征服する野望(夢想?)を抱いていたのである。

ところが、朝鮮半島では快進撃を続けていたものの、援軍に入った宗主国の明軍は想定以上に強く、日本軍の火縄銃に対して明軍は大砲を装備しており苦戦を強いられることになる。朝鮮が戦場となったが、実質的に日本と明朝との激突であったのだ。

日本側と明朝のあいだで(・・朝鮮の頭越しに!)講和条約交渉が行われたが交渉は決裂、秀吉はふたたび出兵を命じて朝鮮半島南部を占領したが、秀吉が1598年に没したことで(・・なんとその5日前には因縁のスペインのフェリペ2世が没している!)、無謀な大戦争は当事者に大きな被害をもたらしたことで終わった。とくに明朝の財政悪化が進行し、滅亡を早めた可能性がある。

日本では、秀吉亡き後の覇権をめぐる関ヶ原の戦い(1600年)で家康が天下取ることになったのだが、この直前に日本に登場したのがオランダとイングランドという新興勢力であった。ともにプロテスタント勢力であり、カトリック勢力のスペインと対立していた。


■家康は最終的にオランダを選択、天下泰平への道をつけた

NHKスペシャルの第2回放送「(2)ジャパン・シルバーを獲得せよ」では、家康がオランダ東インド会社(・・以下、オランダとする。東インド会社には外交権ろ戦争権も付与されていた)を使ってスペイン帝国を牽制し、大坂夏の陣の勝利によって豊臣側についたキリシタン大名とスペイン勢力を敗退させることに成功するところまでカバーしていた。 

家康とオランダとの出会いは、オランダの貿易会社が派遣した貿易船隊に属していたリーフデ号が豊後国(現在の大分県)に漂着したことから始まる。それは関ヶ原の戦いの半年前のことであった。

家康は、航海士のイングランド人ウィリアム・アダムズ(=三浦按針)とオランダ人のヤン・ヨーステン(・・東京駅八重洲口の「八重洲」の語源)を外交顧問に採用したことは、よく知られていることだろう。その後のオランダとイングランドとの関係の始まりの原点である。南蛮人に対する紅毛人である。

その2年後の1602年には、オランダ本国で連合オランダ東インド会社(略称VOC)が設立された。ハイリスクの遠洋航海を実行し、無用な競合を避けて利益を確保するために統合された。イングランドの東インド会社は設立はオランダより2年早かったが、資本金と貿易金額の規模においては、オランダがはるかに勝っていた。

オランダ東インド会社が、幕府から平戸に商館を開設することを許されたのは1609年のことである。その後、幕府の命令によって出島に移転させられるまでの33年間が平戸時代である。イングランドの東インド会社の平戸商館開設は、4年後の1613年のことであった(*)。

(*)イングランドは、アンボイナ事件によってオランダとの勢力争いに敗れたことと、日本での商売不振のため、10年後の1623年に商館を閉鎖し日本市場から撤退。半世紀後の1673年に家康が発行した朱印状をもって貿易再開を求めてリターン号で来日したが、幕府はイングランド国王がポルトガルの王女であることを理由に拒否。


オランダ東インド会社(以下、オランダとする)が欲しがっていたのは日本銀であった。16世紀から17世紀にかけては、銀がほぼ実質的な世界通貨の役割を果たしていたからである。西洋人も日本人も、絹織物や生糸、陶磁器などの中国製品が欲しかったほしかったのである。

当時の日本は世界中の銀の1/3を産出(!)しており(・・のこり2/3はスペイン植民地のペルーを中心にメキシコも)、オランダはスペイン銀だけでなく、日本銀が必要だったのだ。というのも、オランダはスペインからの独立戦争を戦っていたため、スペインに代わる銀獲得のオルタナティブ・ソースとして日本銀に目をつけており、いかなる手段を使ってでも日本に食い込みたかったのである。 

そして、日本から入手した「銅」もまた、オランダ製の大砲の材料として使用されたのである。17世紀前半のオランダにとって、日本の存在は想像以上に大きかったというべきだろう。

関ヶ原の戦いで天下は家康のものとなったが、まだ豊臣氏の勢力が一掃されたわけではなかった。その間は、生糸貿易の中心は依然としてポルトガル商人の独占であり、オランダとイングランドもしのぎを削っていたが、その牙城を崩せる状況にはなかった。

熟柿が落ちるのを待っていた家康は、ついに大坂の陣を開始する。1615年のことだ。だが、大坂冬の陣では決着がつかず、翌年1616年の大坂夏の陣で勝利し、徳川幕府の基礎を固めることに成功する。その決め手の一つとなったのが、オランダ製とイングランド製の大砲であった。

キリシタン浪人が豊臣側に集まっていたこともあり、キリシタン勢力と宣教師は豊臣側についており、プロテスタント勢力 vs カトリック勢力の戦いともなっていた。幕末の戊辰戦争が、裏面では英仏の対決であったことと似ている。

大坂の陣の終了後、満足のうちに家康は没する。長生きはするものである。

少し先回りしてしまったが、このプロセスと同時に進行していたのが、スペインとの関係構築の動きだ。スペインとの関係といえば、伊達政宗がスペインに派遣した支倉常長のことが想起されるが、その件が『戦国日本と大航海時代-秀吉・家康・政宗の外交戦略』で扱われており、これが本書の最大の特色といっていいだろう。家康と政宗の神経戦ともいうべき確執が手に汗握るような展開を見せるからだ。 

家康は、キリスト教は嫌いだが貿易はしたかった。そのため、様々なプレイヤーを互いに競わせて操っていたが、フィリピンを植民地にしていたスペインとの貿易も考えていたのである。

そんな状態で登場したのが伊達政宗だ。彼は、帰国船の確保に困っていたスペインの交渉担当者に助けを出す。そこで企画されたのが支倉常長の慶長遣欧使節である。スペイン貿易を行うため、家康からガレオン船建造と使節派遣を許可されたのである。 

支倉常長は、1613年に太平洋を横断してスペイン・ルートでメキシコのアカプルコ経由で欧州に行き、スペイン国王とローマ教皇に謁見することまでは成功した。だが、肝心要の貿易交渉は失敗に終わり、支倉は失意のうちに帰国することになる。 1620年のことだ。

その時点ですでに豊臣氏は滅亡しており、家康も没していた。政宗は健在だったが、すでに情勢は大きく転換していたのだった。

支倉の帰国から数日後、「禁教令」が出たのである。政宗の構想も夢と消えた。1624年にはスペイン船の来港も完全に禁止された。そこですべては終わったのである。 だが、江戸時代をつうじて日本列島の南のフィリピンにスペインが居座り続けたことは、アタマのなかに入れておく必要がある。

このあとは本書の範囲を越えるが、ポルトガルとの断交はまだしばらく先のことである。中国産の高級生糸確保のため、ポルトガル商人のマカオ=長崎ルートの貿易が必要とされていたからだ。

だが、「島原の乱」の鎮圧にあたって、ポルトガル勢力が背後にいるとにらんでいた幕府は、オランダに命令して軍艦から発砲させた。島原の乱鎮圧後、生糸入手に問題がないことをオランダから確認した幕府は1639年にポルトガルと断交し、以後カトリック勢力の排除が徹底して実行される。キリシタン弾圧とは、カトリック勢力排除のことであった。

日本は、幕末までオランダと、そして「開国」後は英米アングロサクソンというプロテスタント勢力との緊密な関係が現在にいたるまで継続している。日本とプロテスタントは相性がいいのだろうか。この関係は、すでに400年以上に及んでいるのである。


■強いからこそ江戸幕府は「鎖国」を実行した

『戦国日本と大航海時代-秀吉・家康・政宗の外交戦略』が扱っているのは、それだけではない。なぜ秀吉は明を征服するとして「朝鮮出兵」を行ったのか、さらに家康がヨーロッパ勢力から家康が「皇帝」と呼ばれていたことの意味を踏まえ、当時の日本は世界有数の「軍事大国」であったことを描き出す。 

そう、だからこそ、家康の意志決定によって最終的にオランダが選択され、スペインが切り捨てられたのである。弱いから、怖いから、引きこもって「鎖国」したわけではないのである。強いからこそ「鎖国」できたのである。これが著者の結論であり、わたしもまったく同感だ。 

日本と手を組んだオランダは空前の繁栄を享受し、世界初の「覇権国家」となって「黄金時代」を享受した一方、戦争にあけくれて財政破綻したスペインは衰退の道へ転落していく。世界情勢のカギを握ったのは軍事大国・日本であり、その中心にいたのが家康だったのだ。 

さらに付け加えれば、弱肉強食の「グローバリゼーション」を終わらせた家康が、いかにすばらしかったかを深く感じるのである。

家康が強大な軍事力を背景に、いち早く「第1次グローバリゼーション」から抜け出し、「パックス・トクガワーナ」(=徳川の平和)と称される「天下泰平」の基礎を作り上げた功績は、強調しても強調しすぎることはない。 

現在もまた、行きすぎた自由化がもたらした弱肉強食の「グローバリゼーション」の弊害が目に余るようになっている。新型コロナウイルスのパンデミックを機会に、「第3次グローバリゼーション」に、一時的にせよ強制終了が入ったことは、人類全体にとってたいへん善いことだ。 

その意味でも、17世紀に「グローバリゼーション」を終わらせた日本がいかにすばらしかったか、日本人は認識をあらたにすべきであろう。 

1571年に始まった「第1次グローバリゼーション」は、まさに信長・秀吉・家康という3人の「天下人」の時代の出来事なのである。





目 次 

序章 戦国日本から「帝国」日本へ 
第1章 大航海時代と世界の植民地化 
第2章 信長とイエズス会 
第3章 秀吉のアジア征服構想はなぜ生まれたか 
第4章 家康外交の変遷 
第5章 伊達政宗と慶長遣欧使節 
第6章 政宗謀反の噂と家康の情報戦 
第7章 戦国大名型外交から徳川幕府の一元外交へ 
終章 なぜ日本は植民地にならなかったのか

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