「岡倉天心ウォーキングツアー」と勝手に題して東京都内を歩いてみた(2026年4月9日)。
具体的には御徒町から北上して上野公園、そして谷中を通って日暮里まで。日暮里駅からは山手線で巣鴨駅まで移動、染井霊園を散策して駒込駅まで歩いた。
それぞれ岡倉天心ゆかりの土地である。
岡倉天心(1862~1913)とは、文部官僚として近代日本の美術行政を担った人物であり、美術評論家(アート・クリティック)である。
東京美術学校(現在の東京藝術大学)を立ち上げ、横山大観や菱田春草などを育成し、美術評論家として「日本画」をつくりだした人だ。野に下ったのち、晩年はボストン美術館の東洋美術部長として活躍した国際人である。
横浜生まれの天心だが、11歳で一家が東京に引っ越してからは、晩年に茨城県の五浦(いづら)に居を移すまで、いわゆる「谷根千」(=谷中・根岸・千駄木)を中心に暮らしてきた人である。
「岡倉天心ウォーキングツアー」とは、そんな岡倉天心ゆかりの土地を歩いて探訪しようという試みだ。まずは、御徒町駅で下車して、歩いて上野公園に向かう。蔵前駅近くに用事があったので都営大江戸線を利用し、上野御徒町で下車したからである。ふつうは上野駅で下車することにしている。
(地図をクリック!)
■上野公園の西郷隆盛像は美校関係者による制作
日本人にとっては、上野公園といったら、なんといっても西郷さんの銅像だろう。西郷隆盛像である。
すでい花見シーズンが終了したとはいえ、インバウンド客を多く見かける上野公園。だが、西郷さんの銅像の周辺にはインバウンド客は皆無である。すくなくとも、わたしがひさびさに訪れた平日のお昼前には皆無であった。
西郷隆盛といっても、日本人以外には関心がないのだろう。西郷隆盛を筆頭に取り上げた内村鑑三の『代表的日本人』は、原文は英語で Representative Men of Japan というタイトルであるが、もはや英語圏では読まれない本となっているのだろうな。日本語訳はあいかわらず読まれ続けているのだが・・・
(上野公園の西郷さんの銅像は美校関係者による制作)
その西郷さんの銅像は、じつは間接的に岡倉天心と縁がある。天心が創設した東京美術学校は現在の藝大、すなわち東京藝術大学の前身であるが、天心が美校に教師として引っ張ってきた彫刻家の高村光雲が教授を務めており、その光雲が主任になって製作されたのが西郷隆盛像なのである。
この件にかんしては、「西郷隆盛像が上野にある理由は?その歴史と製作に関わった人物を解説 | 藝大アートプラザ」 という記事があるので参考にするといいだろう。ちなみに高村光雲は、詩人で彫刻家の高村光太郎の父である。
西郷さんの銅像のすぐ隣には、上野の山に立って籠もって壊滅した幕府の「彰義隊」の墓があることをはじめて知った。戊辰戦争から150年以上たったいま、もちろん敵も味方もない。
■東京藝術大学キャンパスの「六角堂」内の岡倉天心像
上野公園を抜けて東京藝大へ。キャンパス内にあるという岡倉天心像を見るためである。東京藝大美術館にはなんども行っているのだが、うかつなことに岡倉天心像があることはつい最近までまったく知らなかった。
さて、東京藝大美術館を右手に校門からなかに入ったものの、なぜか岡倉天心像の場所は案内板には記載されていない。
未来に向けて作品をつくる藝大生にとって、岡倉天心はもはや過去の人に過ぎないのだろうか?
たしかに、現代の藝大生を描いたノンフィクション『最後の秘境 東京藝大: 天才たちのカオスな日常』(二宮敦人、新潮文庫、2019)では天心はまったく言及されていない。藝大生といっても美術専攻と音楽専攻ではまったく異なるし、岡倉天心が作り上げた「日本画」専攻は、藝大全体から見ればワンノブゼムに過ぎないためかもしれない。
とはいえ、せっかく来たのだから岡倉天心像を探さなくてはならない。入ってから最初の建物の左手に銅像が目に入ったので歩いていくと、それは先にも触れた高村光雲の胸像であった。
さらに右手に行くと六角堂らしき東屋がある。そこに巨大な岡倉天心像が鎮座していた。
(六角堂と岡倉天心像)
六角堂のなかで股を開いて座り、はるか先を見据えて睥睨(へいげい)するかのような岡倉天心。傲慢ささえ感じさせるものがある。愛弟子の彫刻家・平櫛田中(ひらぐし・でんちゅう)による作品だからであろう。神格化とまではいかないが、仰ぐべき存在であると意図されているという印象を受ける。
天心像が設置された六角堂は、ボストンに活動拠点を移した晩年の天心が日本に帰国した際に籠もっていた瞑想場所を模したものだ。太平洋に面した五浦にある。天心と六角堂は、切っても切り離せないアイコンと化しているのかもしれない。
なお、岡倉天心像などについては、「東京藝術大学に学ぶ」(台東区文化探訪アーカイブス)という記事が参考になる。
「六角堂と岡倉天心像」の周辺にはフェノロサの石碑や、美校関係者の胸像がずらりと並んでいる。メガネをかけた日本画家の岡田三郎助、そして年長だが天心と二人三脚で美校を軌道に乗せた橋本雅邦の胸像などなど。
(フェノロサの石碑)
(橋本雅邦の胸像)
藝大のキャンパスで岡倉天心像を見たあとは、道路をはさんで対岸にある東京国立博物館に向かう。
■東京国立博物館(法隆寺館、本館、東洋館)
あまり言及されることがないが、岡倉天心は美校を設立し、美術院を設立して日本画家を育成しただけではない。
官僚時代には、奈良を中心とした日本の「古美術品」を収容し、展示するための「帝国博物館」(のち「帝室博物館」を経て現在の東京国立博物館)にも深くかかわっていたのだった。
この件については、『<日本美術の発見> 岡倉天心がめざしたもの』(吉田千鶴子、吉川弘文館、2010)を読むと、岡倉天心(=岡倉覚三)が美術行政の実質的な責任者として、全身全霊を込めて精力的に取り組んでいたのが何であったのかがよくわかる。
文部官僚として美術行政を担い、みずから創設に奔走した美校の校長であっただけでなく、宮内省における帝室博物館の美術部長を兼任していたのだ。古美術、すなわち過去の美術遺産をきちんと整理し、「実物」として収容、展示するための博物館の設立と充実がその任務であった。
つまり、こういうことになる。帝国博物館での「歴史」の確認と、東京美術学校での「未来」の創造と、2つの「事業」を同時進行で進めていたことになる。
しかしながら、「未来」と「歴史」は別個の存在ではなく、「未来」を創造するという観点から「歴史」を重視していたのである。 懐古主義にもとづく「歴史」のための「歴史」ではなく、「未来創造のための歴史」がその思想の根底にあったのだ。
開国後の明治日本において、「未来」に向けてあらたな時代の日本本美術を創造するための人材育成は、岡倉天心にとっては車の両輪として理解されていたのである。
*******
さて、そんな観点から現在の東京国立博物館をあらためて見てみよう。帝国美術館は帝室博物館を経て、現在の東京国立博物館にいたるわけだが、帝国博物館設立に奔走したのは町田久成という薩摩藩出身の文部官僚であったことは記憶しておきたい。
この件については、博物館の誕生―町田久成と東京帝室博物館』(関秀夫、岩波新書、2005)に詳しい。英国の大英博物館(ブリティッシュ・ミュージアム)に引けを取らない博物館を帝都東京につくるという夢を実現させたのち出家した町田久成は、岡倉天心とも公私にわたって密接な関係をもっていた。
東京国立博物館(通称トーハク)には、「特別展」ではなんどもきているのだが、常設展示を見たことはあまりない。特別展のチケットで常設展を見ることができるのに・・・
だが今回は、あえて特別展ははずして常設展だけ見るために1000円払って入場することにした。チケットは事前にネットで購入し、当日はスマホの該当ページを示す。e-ticketは2ヶ月有効。
(向かっていちばん左が法隆寺宝物館。いちばん右が東洋館)
まずは向かって左奥にある「デジタル法隆寺宝物館」に行ってみた。その存在は知っていたにもかかわらず、一度も足を向けたことがなかったからだ。
(デジタル法隆寺宝物館)
法隆寺は、若き日の文部官僚・岡倉覚三が、フェノロサとともに夢殿を開扉させ秘仏を見て感激したお寺であり、しかもその生涯の最後の公的な仕事として金堂の壁画保存方法の提言を行った縁の深いお寺である。残念ながら金堂壁画は天心死後の1950年に焼失してしまったが・・・
「デジタル法隆寺宝物館」には、金属製の小型の観音像が部屋いっぱいに展示されている。質もさることながら、その量に圧倒される。金箔がはがれてくすんでいるが、製作当時は黄金色に輝いていて、それこそすごかったんだろうな、と思わされる。そのほか、国宝の鏡はすばらしい。
じつはプロジェクションマッピングで金堂壁画が映写されているのかと思い込んでいたのだが、そうではなかったのが残念。勝手な思い込みなのであった。
*******
つぎに訪問したのは「東洋館」(Asian Gallery)。「東洋美術をめぐる旅」をコンセプトに2013年1月にリニューアルオープンしたらしいが、じつは今回がはじめての訪問になる。
岡倉天心には、インド滞在中に完成し英国で出版された『東洋の理想』(The Ideals of the East)という英文の著書がある。源流を仏教美術を軸にインド、中国から日本にいたる経緯をたどった美術史といった内容で、日本美術の独自性を語っている。
岡倉天心を考えるにあたっては、日本美術のみならず、その源流である東洋美術全般を視野にいれておく必要があるのだ。
東洋館は、最上階の5階までエレベーターで上がって、順番に階段を歩いて下に降りてゆくかたちで見学した。百貨店などの小売業の視察方式とおなじである。
なぜかネットには、わたしが訪問した日の「東京国立博物館 2026年4月9日(木)の東洋館」という記事がアップされている。前後でたいした違いはないだろうが、各フロアごとの展示テーマが示されている。5階には朝鮮、中国。4階と3階には中国。2階には西アジア、インド、西域。1階には中国の仏像。スケジュールが書かれているので展示替えもあるのだろうか。
「東洋館」をざっと観覧して思ったのは、自分的には「仏教伝来以前の古代中国」が面白いという点だった。4階の「7. 中国の石刻画」のコーナーである。歴史に対する関心というよりも、人類学的な関心だ。神話や葬送儀礼にかんするものだ。
つよい関心を引かれたのは「画像石 羊の頭部 1面 中国山東省臨沂市出土 後漢時代・1~2世紀 羅振玉氏寄贈」である。おお、考古学者で満洲国にもかかわりのある羅振玉氏が寄贈してくれたものなのか!
(「画像石 羊の頭部 」)
「羊」という象形文字が、「両サイドに湾曲した角のあるヒツジの顔」を象ったものであるだけでなく、古代中国では西北部の生業が農業ではなく、ヒツジの放牧であったことがわかる貴重な石版だ。『貝と羊の中国人』(加藤徹、新潮新書、2006)という好著には、貝は貨幣の「貨」など商行為にかかわる漢字に多く、羊は正義の「義」な抽象的な概念をあらわす漢字に多い、海洋系と内陸系の違いだというようなことが書かれていたな。
さきにも触れたように、岡倉天心は『東洋の理想』で仏教伝来以後の中国美術史から日本への流れ主軸に描いているが、自分的には「仏教伝来以前の古代中国に」多大な関心があることに気がつかされたのだ。
そんな岡倉天心だが、『東洋の理想』の冒頭の章では、「イスラームは、剣件を手にもった馬上の儒教だ」(Islam itself may be described as Confucianism on horseback, sword in hand. )といっている。
そして、その理由を「(北方の)黄河流域の中国の遊牧民的要素」に求めている(For it is quite possible to distinguish, in the hoary communism of the Yellow Valley, traces of a purely pastoral element, such as we see abstracted and self-realised in the Mussulmân races. )。中国奥地までフィールドワークを行った知見にもとづく推論だけに、まさに慧眼というべきであろう。
ユーラシア大陸を東西につらぬく共通点がヒツジであり、遊牧民の存在だ。中国北部もまた遊牧地帯であった。モンゴル系やチュルク系だけでなく、漢民族の祖先のひとつである周人もまた西北中国において遊牧民であったわけだ。
(ガンダーラの石仏たち)
2階の「ガンダーラ仏教美術」には、とりわけ心引かれるものがあるが、中国の仏教美術にはあまり関心が向かわない。これは個人的なテイストの問題なので、良い悪いとは関係ないことだ。
*******
最後に本館の常設展示をひさびさに見たは、正直いってあまり面白くなかった。「博物館」と「美術館」の違いだろうか。英語ならともに Museum だが、あえて「ボストン美術館」のように「美術」を前面にだした「museum of fine arts」ではないということかもしれない。
■谷中の台東区立岡倉天心記念公園(旧岡倉天心邸、日本美術院跡)
博物館から北上して谷中を歩く。台東区立岡倉天心記念公園に向かって歩く。
細い道沿いの、ところどころに点在するレトロ風なカフェには、窓越しに見るとインバウンドの外人客が多い。まあ、こういう人たちは日本好きなのだろうなあ、と
谷中は意外と高低差がある。坂を下っていったところに、台東区立岡倉天心記念公園があった。岡倉天心の旧居跡であり、ここに野に下ったのちに立ち上げた日本美術院があったとのことだ。
(岡倉天心記念公園の六角堂)
これまた、六角堂に岡倉天心像が鎮座している。ただし、カギがかかっているので、ガラス越しに見だけ。外光がガラスに反射するので周りの風景も映り込んでしまい、撮影はなかなかむずかしい。
(黄金の天心像)
黄金の天心像! これまた彫刻家の平櫛田中(ひらぐし・でんちゅう)による作品だ。ただし、こちらは全身像ではなく胸像である。
岡倉天心旧居と美術院跡が公園になっている件については、「台東区ゆかりの巨匠たち 岡倉天心」という記事が参考になる。
「六角堂と岡倉天心像」という組み合わせだが、岡倉天心像のあるこの公園はすっかり地域に溶け込んでいて、岡倉天心が何者であるかなどまったく関心がないような様相を呈していた。当事者たちに祭り上げられてしまった天心は、没後100年を過ぎていることもあり、一般人からするとすっかり遠い存在の人になってしまっているかのようだ。
つぎの訪問地は岡倉天心の墓のある染井霊園だが、谷中から歩くのはちと遠い。そこでまずは日暮里駅まで歩いて、そこから巣鴨駅まで山手線で移動することにする。
■染井霊園を散策
染井霊園にくるのはひさびさだ。かつて巣鴨に近い文京区の千石に住んでいたこともあるので、桜の時期の終わりに訪れて以来のことだ。
染井で生まれたのが染井吉野。桜の名所である吉野にあやかったネーミングである。「桜の木の下には死体が埋まっている」という坂口安吾の有名なフレーズを想起させるのが染井霊園の桜である。
「東京都染井霊園」は開放型の墓苑であり、入口には案内看板が掲示されている。英語版の「Somei Cemetery Map」と中文版の「染井陵苑地圖」である。中文版は繁体字なので台湾人向けか? 英文と中文のいずれもインバウンド客向けに設置されたのであろう。
(上が英語版、下が中文版の案内看板)
印刷版の日本語の案内地図が品切れになっているので、英語版と中文版をもって散策することに。内容は案内看板とおなじである。
面白いことに英語版と中文版では、紹介されている著名人の墓に違いがある。岡倉天心は共通して掲載されており、このほか高村光雲と高村光太郎夫妻、二葉亭四迷も共通している。英語版は Okakura Tenshin となっているが、英語圏向けにはむしろ Okakura Kakuzo とすべきだ。
中文版にしかないのは高田早苗、大隈重信と一緒に早稲田大学を建学した人物である。そして、外交官であった幣原喜重郎。
英文版にしかないのは、ジャーナリストの Kuga Katsunan(陸羯南)、俳人の Mizuhara Shuoshi(水原秋桜子)、Iwamoto Zenji(巌本善治)と Wakamatsu Shizuko(若松賤子)夫妻、そして Loduska Wirick(ローデスカ・ワイリック)。最後の外国人は「東方のナイチンゲール」とよばれた人らしい。初耳である。
現在の日本で「陸羯南」と書いて「くが・かつなん」と読める人は、はたしてどれくらいいるのだろうか? 明治時代前半には「欧化主義者」に対して「国粋主義者」と分類される陸羯南だが、はたして英語圏で Kuga Katsunan は知られている存在なのだろうか?
(地図をクリック!)
平日の午後の染井霊園は、ほとんど人がいない。たまに散歩する人とすれ違うくらいだ。インバウンド客も皆無。桜の季節が終わっているからだろうか?
「岡倉天心ウォーキングツアー」の締めくくりとしての染井霊園であることから、なによりもまず岡倉天心の墓に詣でることに。
(岡倉天心と岡倉家の墓)
岡倉天心関連の書籍に掲載されている岡倉家の墓地そのものであり、いちばん左には「釋天心」と書かれた長方形の墓石が置かれている。
(まんなかの石版に「釋天心」とある)
「釋」ではじまることでわかるように、天心は浄土真宗の「法名」である。横浜で生まれた天心であるが、父親は元福井藩士。北陸の福井は、いわゆる門徒地帯である。
(二葉亭四迷の墓)
せっかくなので、二葉亭四迷の墓、高村光雲と高村光太郎夫妻の墓を詣で、スマホの Google Map にでてきた平田鉄胤(ひらた・かねたね)の墓に詣でる。鉄胤は篤胤の養子で、明治時代まで生きた人。国学者が仏教式の墓に眠っているのは不思議な感じがするのだが、本居宣長もそうであったな、と。
(平田鉄胤の墓)
最後に陸羯南の墓に詣でる。墓石には本名の「陸實之墓」とある。大きな墓石である。「国粋派」と目される陸羯南は、似たような志向の持ち主である岡倉天心とは関係があったようだ。
(陸羯南の墓)
ちなみに、おなじく「国粋派」とされる三宅雪嶺は、岡倉天心とは東大入学前の開成学校時代に同室だったらしい。岡倉と陸、そして三宅の3人は「明治新世代」であり、みな国際的を備えた国粋派であったことが重要だ。偏狭な国粋派ではなかったのだ。
陸羯南の墓を詣でたあとは、染井墓地を通り抜けて駒込駅へと歩く。ついでだから駒込の六義園の南側にある東洋文庫ミュージアムまで足を伸ばそうかとも思ったが、今回はパスすることにした。リニューアルオープンした東洋文庫ミュージアムは、また後日に訪問することにしたい。
(終わり)
(画像をクリック!)
PS. 上記の文章は当日のメモをもとに作成したドラフトをもとに、最終的に2026年4月19日に整理した。
<ブログ内関連記事>
(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!)
end
.png)
.png)
.png)












