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2021年5月24日月曜日

船橋はかつて別荘地だった!-海の見える丘にある旧別荘地の「凌雲荘」(現在 東船橋花輪緑地)にはじめて行ってみた(2021年5月24日)

(「凌雲荘」の額が掲げられた正門 筆者撮影。以下同様)

船橋はかつて別荘地だった。このことを知ったのは、たまたま wikipedia で「船橋市」という項目を見ていたらときのことだ。はじめて知った事実だ。

こんな記述である。そのまま引用させていただくこととしよう(2021年5月24日現在のもの)。

明治以来、船橋では軍事施設が増えたため、軍の将校、外国の武官、留学生などの住宅が建てられた。1933年(昭和8年)、京成電鉄が海神駅北側の海神台や風光明媚な海神山(丘陵地)に開発した海神台分譲地(海浜別荘住宅地)が売り出された。花輪台(宮本6丁目周辺)では、明治40年頃に凸版印刷の創始者・伊藤貴志の別荘(伊藤別荘)が建てられ、大正期には東京両国で広く洋紙卸業を営んでいた山崎梅之助の息子・山崎鉦三が迎賓館的な使用を目的として山崎別荘(凌雲荘)を建てるなど「西の海神、東の花輪台」と呼称される別荘地・高級住宅街となった

なるほど、「西の海神、東の花輪台」と呼称される別荘地・高級住宅街」ねえ。

海神(かいじん)とはいかにも海辺の街にふさわしい由緒あるネーミングだが、なぜ花輪台と命名されたのかはわからない。開発後の命名か。「船橋では軍事施設が増えた」というのはもっぱら海軍のものだろう。

さっそく「凌雲荘」を Google map で調べてみると、東船橋にある船橋税務署からも近い。税務申告書を提出するついでに立ち寄ってみることにした。


この近辺は、わが母校の千葉県立船橋高等学校からも近いが、いまのいままで「凌雲荘」のことはまったく知らなかった。まことにもって迂闊なことである。

e-taxが推奨されているが、創業以来、税務申告書の提出は直接税務署で行うことにしている。東船橋駅から船橋駅まで歩くことで、環境変化を実感したいからでもある。この習慣は10年以上にわたってつづけている。

実質的に早い梅雨入りとなっている関東地方だが、月曜日のこの日は晴れていたので、いい散歩日和となった。

スマホの地図をたよりに移動していくと、石垣が目に入ってくる。おお、ここだな、と。



「凌雲荘」の額(ただし右から読む)の掲げられた正門(*上掲の写真)をくぐると、石畳の坂となる。


現在は建物は残っていないので、日本庭園となっている。


歩ききると、休憩スペースがあって、由緒書を記した「高札」が立てられている。


高札にはこう書かれている。そのまま書き起こしておこう(*スマホでスキャンして文字起こしした。ただし、読みかな太字ゴチックは私によるもの)。


凌雲荘の地は、 凸版印刷株式会社の創始者伊藤貴志(たかし)の「伊藤別荘」(明治40年頃)でした。その後、両国で大規模に洋紙卸業を営んでいた山崎梅之助が昭和2年に別荘地として取得し、その息子山崎鉦三(しょうぞう)とともに昭和1年から12年にかけ迎賓館的な使用を前提に木造3階建ての「凌雲荘」(通称「山崎別荘」)を建築しました。 
また、戦前は一時閑院宮(かんいんのみや)邸として使用され、 戦後は「観光荘」という名の料理屋になったこともありました。 
別荘の土地は、全体が砂地で崩れやすいことから、多摩川石や筑波石で砂山全体を覆ってお り、玉石を敷いた回遊路を設け、東側斜面には 岩石を何段にも組んだ滝や池も造られた日本庭園でした。 
なお、この地域は昭和初期に船橋町で区画整理が実施され「花輪台・はなわだい」と名付けられ別荘地として宅地分譲が行われた土地でありました。
市は、平成7年度に住宅地に残る数少ない緑地の保全を目的に取得しましたが、平成12年度に老朽化や構造上の問題もあり解体しました。
その後、平成26年度に当時の凌雲荘の領域を復元し、隣接する東船橋1号緑地と併せて日本風庭園に緑地として整備したものであります。


高校時代のことだからすでに40年前のことになるが、当時すでに「教員生活25年!」という数学教師のS先生が、「むかしは高校から海が見えました」と言っていた。

現在では船橋の海岸は三番瀬以外は埋め立てられて、京葉工業地帯の工場や倉庫群が並ぶ一帯となっているが、いまから60年近く前の1950年代から60年代にかけては、埋め立て事業も活発化されていなかったわけだ。

そう考えれば、この別荘地は「海を見下ろす丘の上の別荘地」だったということになる。おそらく往事には「風光明媚な別荘地」だったのであろう。

(坂の上から見下ろす形で石垣が続く)

別荘地は坂をあがっていた高台のうえにある。現在では石垣だけが残っているが、別荘地の跡地は「東船橋花輪緑地庭園」(船橋市)として整備されている。この周辺の住宅は、なるほど立派なものが多いことに気がつかされた。

(山吹の黄色が美しい季節であった)

船橋大神宮には明治時代初期の木造の灯台が保存されているが、海からこの灯台が見えたということを意味している。大神宮の近くまで海があったのだ。まさに海神である。

船橋ゆかりの太宰治の夾竹桃の碑が市民センターに建てられているが、太宰治が籠もって執筆していたという老舗割烹旅館の「玉川旅館」はコロナウイルス感染症(COVID-19)のなか、廃業となり解体されてしまった。


「凌雲荘」については、私の高校時代の40年前にはまだ取り壊されることなく、その場所に「凌雲荘」があったわけだ。平成12年(2000年)までは建物も残っていたのである。

毎日通っていた高校の近くにありながら、高校時代にはまったく知らなかったし、関心もなかった。自分の交友関係には、そんな話題に関心をもつ者もいなかったからムリもない話だ。

毎週土曜日には、高校から歩いて船橋大神宮を経由して西武百貨店船橋店の書店LIBROに通っていたのだが、その西武百貨店もいまはない

ああ、玉川旅館など風情のあった建築物が消えていく今日この頃の船橋。昭和は遠くなりにけり。



<関連サイト>


上記の「連載」をあわせて『娯楽する郊外』と題して1冊の単行本として2019年に出版されていたことを知った。船橋がいちばん最初におかれて、市川の前にくることを、船橋市民は喜ぶべき。もちろん「市川 軍隊と芸術で栄えた「東の鎌倉」」も面白い。このほか、千葉県内では「稲毛・谷津」「柏」が取り上げられている。(2023年12月17日 記す)





<ブログ内関連記事>







・船橋の軍事施設は海軍。隣接する習志野市の軍事施設は陸軍(騎兵隊と鉄道部隊)



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