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2009年5月29日金曜日

アッシジのフランチェスコ (2) Intermesso(間奏曲):「太陽の歌」


             
 聖フランチェスコは自然を賛美し、小鳥たちに説教した、などのエピソードから、教皇ヨハネ・パウロ2世が正式に「環境保護の聖者」として認定したという。カトリック教会もフランチェスコの現代的意義の一つをそこに見出しているようだ。

 フランチェスコ晩年の通称「太陽の歌」(正確には、「被造物の賛歌」 Cantico delle Creature)では、神が創造した被造物(creature)として、太陽も月も、その他水も火も、すべての自然物を兄弟姉妹として同等に扱っている。ゼッフィレッリ監督の『ブラザーサン・シスタームーン』という映画タイトルはこの「太陽の歌」から採られている。

 こころみに Google でイタリア語の Cantico delle Creature と検索してみるとよい。YouTube で「太陽の歌」の映像と音声を聴くことができる。

 一般にダンテがトスカーナ方言をもとにイタリア語文章の基礎を創ったといわれるが、それより以前に聖フランチェスコは教会で正式に使用されたラテン語ではなく、一般民衆向けの説教で使っていたイタリア語で詩作していることは意味が大きい。イタリア語による詩歌集の一番最初にでてくるのが聖フランチェスコの「太陽の歌」であることからもそれがわかる。つまりイタリア人ならみな知っている、ということだ。

 ところで、アッシジのフランチェスコについて書く前に、私のブログでは偶然のことながら、松尾芭蕉の『奥の細道』を取り上げていた

 意図して取り上げたわけではないのだが、芭蕉も「太陽と月」を取り上げていた、なんという偶然か!

 「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり・・・」という冒頭の文章は、日本語だと、月日イコール歳月なのでこれまで何も考えていなかったのだが、さきに紹介したSam Hamil による英訳では、「The Moon and Sun are eternal travelers. Even the years wander on.・・・」とあって、「月日」というのは、文字どおりに解釈して、物理的な月と太陽をさしているのか、とあらためて気がつかされた。

 そうか、月日というのは、ブラザーサン・シスタームーンと同じことをさしていっているではないか。順番は逆になっているとはいえ・・・


 イタリア語では太陽は男性名詞、月は女性名詞であり、現代イタリア語ではそれぞれ frate sole, sorella luna (フラーテ・ソーレ、ソレッラ・ルーナ)となる。フランス語も、スペイン語もラテン語系の言語ではみな太陽は男性、月は女性である。

 ちなみにフランチェスコは「死」のことを「姉妹である死」、といっているが、現代イタリア語では sorella morte (ソレッラ・モールテ)と、柔らかく包み込むようなやさしさをもった音であることは、「死」のとらえ方として重要かもしれない。英語で sister death というと、響きがあまりよくない。

 日本語には文法上の性であるジェンダーは存在しないが、記紀神話では太陽神である天照大神(アマテラス・オオミカミ)は女性(!)であるのに対し、ツクヨミといわれる月の神は一般に男性とされているのは面白い。「原始、女性は太陽であった」と宣言した平塚らいてふではないが、発想が正反対である。

 フランチェスコと芭蕉の共通点は、太陽も月も「擬人化」していることだ。フランチェスコは兄弟と姉妹に、芭蕉は旅人(性別不詳)になぞらえている。さらに芭蕉は、月も太陽も「永遠の旅人」、つまり循環する時間の中にあることをいっている。

 しかしながら両者のあいだでは、自然に対する見方がまったく異なることに気がつかされる。

 フランチェスコの歌では、太陽も月もその他自然と同じく、あくまでも神の「被造物」であるのに対し、芭蕉にあっては、太陽も月も自分とは異なる存在であって、しかも人間と同列の存在とはみていない。芭蕉にあっては、そもそも「究極の存在者」をどう想定しているのか不明である・・・

 こんなことを考えていくと、ひとくちにエコロジー、自然環境保護といっても、洋の東西では発想そのものが大きく異なることがわかってくる。

 神なき現在とはいえ、やはり西洋人の思考の深層には神が存在するのであり、つまり「隠れた神」の存在は無視できない。
  
 したがって、エコロジーに対する考え方も実は大きく異なるのではないか、と考えたほうがよさそうだ。


 このブログでもたびたび神社の森の話を書いているが、日本人はあくまでも神(々)が降りてくる「依りしろ」として森を捉えて神社の森を守ってきたのであり、森が神の被造物であるとは捉えてはいない。

 環境保護団体のグリーンピースや、シーシェパードにみられるように、イデオロギーとして過激化しがちなの環境保護とは大きく異なる。

 違和感を感じるのは、ここらへんに原因があるのではないか、という気がしてきた。そもそもシェパード(shepherd)というのは羊飼いのことであり、もともとはキリスト教的色彩の濃厚な比喩であることに注意しておきたい。「海の羊飼い」は、「海の羊であるクジラ」を襲う「日本の捕鯨船という狼」を絶対に許すわけにはいかないのだ、こういうロジックだろうか。

 まあ、結果よければすべてよし、最終的に環境が保護されればいいのではあるが・・・


 とはいえ、「環境保護の聖者」としての聖フランチェスコというのは、なんかあまり好きにはなれないのは考えすぎであろうか?

 何事であれ、現代の視点から、過剰な意味づけをしすぎるのは控えたほうがよいのではないだろうか? 

 かっかせず、ほがらかにいきたいものだ。

(つづく)



<ブログ内関連記事>

アッシジのフランチェスコ 総目次 (1)~(5)


PS 読みやすくするために改行を増やした。 (2014年8月21日 記す)






(2012年7月3日発売の拙著です)







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