『お布施のからくり ー 「お気持ち」とはいくらなのか』(清水俊史、幻冬舎新書、2025)を読了。出版されたばかりの新刊である。
タイトルや帯のコピーには販促目的の文言が並んでいるが、内容はきわめてラジカルな日本仏教批判である。
「額がいくらなら適当か」といった実用的なテーマではなく、「お布施」という慣行の分析をつうじて、日本仏教の問題点があぶりだされる内容になっている。
著者は、浄土宗の僧籍をもつ気鋭の仏教学者。専門分野は「初期仏教経典」の研究で、専門書はすでに3冊出している。 専門書の出版妨害という、きわけて陰湿で執拗なアカハラの被害者として、仏教者にはあるまじき加害を行ってきた東大教授を実名告発したことで有名になった。
「あとがき」でアカハラ被害について告発したのが、一般書として出版された前著『ブッダという男 ー 初期仏典を読みとく』(ちくま新書、2023)である。本書にもその後の推移について触れられている。
だが、本書の主たるテーマはそこにない。「お気持ち」とされる「お布施」について、多面的に考察を行い、日本仏教が抱える問題点が明らかにすることである。
著者は、「初期仏教」における基本的な意味を押さえたうえで、「お布施」する側と「お布施」される側の双方にかかわる関係性について考察し、日本仏教の主要な宗派ごとにロジカルに検証を行っている。
問題は、「お布施」する側ではなく、「お布施される側」にあることは言うまでもない。後者の「お布施される側」がそれに値するか否か、という問題だ。
そもそも日本仏教の僧侶は、「お布施される条件」である「戒」を受けていないのである。そして「戒」を破る行為を律するための「律」もない。
天台宗の宗祖である最澄が「出家戒」を否定して以来、「菩薩戒」しかない日本仏教。しかも、妻帯がなしくずしに行われるようになった明治維新以降は、「菩薩戒」すら有名無実化している。
つまり、仏教僧侶としての国際基準を充たしていないのである。袈裟を着たコスプレの在家信徒でしかない、という著者による手厳しい批判もそのとおりである。(・・ただし、教理によって「戒律」を否定する浄土真宗は例外である)。
僧侶たる国際基準を充たしていない日本仏教の僧侶に「お布施」するより、ペットにエサをやることや、「推し活」でアイドルを支援するほうがましではないかという著者の発言は、極端に聞こえなくもかいが、筋論としては間違ってはいないと言えよう。
核家族化によって家族葬や直葬が普及し、人口減少によって檀家に依存してきた寺院経営の経済的基盤が崩壊しつつある現在、日本仏教はまさに存亡の危機にある。
形骸化した日本仏教は、チベット仏教や上座仏教のように仏教本来の姿を取り戻すか、あるいは限りなく在家仏教的性格をもつ浄土真宗の指向性に習うか、新興仏教教団のように在家主義を貫くか。それとも、呪術に徹する道を選ぶか。岐路に立っているのではないか?
もちろん、「お布施」をする側だけでなく、「お布施される側」も真剣に考え、取り組んでいかねばならない課題であることは言うまでもあるまい。
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目 次はじめに第1章 お布施の起源と役割 ー 初期仏典を中心に第2章 少ないお布施で大きな功徳を得る方法第3章 在家化する日本仏教とお布施第4章 日本仏教におけるお布施と悟り終章 現代におけるお布施の意義を再定義するより深く検討するために参考文献[資料]破戒者か受戒者かを見極める判定基準出家戒(具足戒)/菩薩戒(大乗戒)あとがき
著者プロフィール清水俊史(しみず・としふみ)仏教学者。2013年、佛教大学文学部卒業後、2013年同大学大学院博士課程修了(博士(文学)。博士論文題目は『部派仏教における業の研究』。 その後、日本学術振興会特別研究員PD、佛教大学総合研究所特別研究員などをつとめる。 2018年、『阿毘達磨仏教における業論の研究: 説一切有部と上座部を中心に』により浄土宗学術賞受賞。ベストセラーとなった一般書『ブッダという男 ー 初期仏典を読み解く』(清水俊史、ちくま新書、2023)で出版妨害というアカハラの実態を実名告発。(Wikipediaの記述に加筆)
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