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2009年5月30日土曜日

アッシジのフランチェスコ (3)  リリアーナ・カヴァーニによる




リリアーナ・カヴァーニ監督の『フランチェスコ(Francesco)』(1989年)を先日やっと見ることができた。これで主要なフランチェスコ映画をすべて見たことになる。

 主役のフランチェスコ役がミッキー・ロークというのは、実際のフランチェスコが小柄だったことを知っているので、DVDを見る前も見ている最中もミスキャストではないか、という感じをずっと抱きながら最後まで見たのだが、フランチェスコの生涯を、キアーラも含めた弟子たちが回想するという形をとったこの映画は、かなり鮮烈な印象の強い、宗教性の濃厚な作品であった。

 カヴァーニといえば、ナチス収容所所長と収容されていたユダヤ人少女との倒錯的愛を描いた『愛の嵐』(The Night Porter:1973年)で有名な女流監督である。女性哲学者ルー・サロメとニーチェとの関係を描いた『善悪の彼岸』(1977年)、谷崎潤一郎原作の『卍 The Berlin Affairs』(1985年)チベットの聖者伝『ミラレパ』(1973年)は、私自身すでに見ている。

 ヴィスコンティ監督の弟子であるカヴァーニは、オペラ演出も手掛けており、師と同じくドイツものが多い。同じくヴィスコンティの弟子であるゼッフィレッリもオペラ演出家であるが、ゼッフェレッリの作品のもつほがらかさとは正反対の、耽美的な映像世界を作り出している。

 ゼッフィレッリは、シェイクスピア作品の映画化にみられるように、むしろ英国への親近感のほうが強いと思われる。フィレンツェ出身であることが、そうしているのであろう。『ムッソリーニとお茶を』(1999年)はまさに英国愛にあふれた作品である。

 カヴァーニの『フランチェスコ』は『愛の嵐』と同様、やや陰鬱な影をもった、深みのある映像に終始している。

 キャスティングについては、ミッキー・ローク(あくまでも当時の!)の醸し出すセクシュアルでかつセンシュアルな存在が、聖人といわれているフランチェスコも、実は生身の肉体をもつ一人の男でったことを忘れさせない、という意味だったのか、などと考えている。男と女という実存抜きに人生を、宗教を語ることはできない。


 そんなことを考えていたときに、イタリアの中世史家キアーラ・フルゴーニによる、『アッシジのフランチェスコ-ひとりの人間の生涯-』(三森のぞみ訳、白水社、2004、原著:Vita di un uomo: Francesco d'Assisi, Chiara Frugoni, 1995)の訳者解説をパラパラと読んでいたら、カヴァーニの映画のフランチェスコは、フルゴーニが描いたフランチェスコにかなり近い、といっているのが目にとまった。そこでこの本を通して読んでみたのだが、いままで『ブラザーサン シスタームーン』で頭の中に描いていたフランチェスコとは大いに異なるフランチェスコ像を初めて知ることができた。

 裕福な家庭の出身ながらすべてと訣別し、あらたな道に踏み出すことを決断した一人の青年フランチェスコ。

 人々の無理解と苦難を味わいながらも、自ら信じる道を切り開いていった人間フランチェスコ。
 世の中に認められ、弟子が増えていくにつれて直面した「組織」という問題に悩むフランチェスコ。
 いったん出来上がった組織は教団として制度化する方向へと動き出し、組織のもつ論理で存続発展しようとするために、そこに違和感を感じ、疎外感を感じ、最終的に居場所を見つけられなくなってしまうフランチェスコ。
 自分のいっていることが本当には理解されていないのではないか、という深い絶望の中に生きる一人の人間フランチェスコ。
 集団を離れ、山中にひきこもっての40日間の断食と瞑想、そして自らの肉体に受けた聖痕(stigma)という喜び・・・

 肉体をもつ人間であるからこそ、人間存在につきまとう悩み、苦しみ、希望、絶望、といったもろもろが、普通の人間であるわれわれにも感じることができる・・・

 フランチェスコは一歩踏み出した人である、種をまいた人である。だが決して成功者ではない、むしろ本人の自意識においては失敗者だったのだろう。

 こういう意味で、リリアーナ・カヴァーニとキアーラ・フルゴーニという二人のイタリア人女性が、フランチェスコをきわめて近い視線で見ていることに気づく。

 聖女キアーラ(=聖女クララ)と同じ名前をもつフルゴーニは、フランチェスコに寄り添い、慈しみのまなざしで見守っている。文献資料と図像研究をあわせた歴史記述は説得力がある。ジオットについても新しい見方を教えられた。

 歴史家のキアーラ・フルゴーニはこう書いている。 

福音の教えに従うフランチェスコは男女の扱いには相違を認めなかった。・・(中略)・・ フランチェスコによれば、神は、明白な功または罪をもつひとりの男、あるいは女を創ったのではなく、ただ人間を創ったのであった。男であるか、女であるかは二次的な特徴にすぎなかった。(P133-134)

 ゼッフイレッリ監督は、『ゼッフィレッリ自伝』(創元ライブラリー、1998)の中で、フランチェスコのことを、こういっている。

聖フランチェスコはイタリアでもとくに気難しい聖人として知られている。映画が描いた彼の人生の前半では、彼は自然と調和した素朴で聖なる生活を送ったが、年を取ってからは複雑で重い性格に変わった。老年期には神秘主義に傾き、妥協がなく気難しかった。瞑想に生き、超世俗的な生活を送り、厳しく近寄りがたい存在になったのである。この晩年の聖フランチェスコの精神を思えば、彼は人が来るのを好まなかったのだ。(自伝 P.456-7)。

 同じく男性のデンマークの詩人ヨルゲンセンは1907年に出版したフランチェスコ伝では、vita contemplativa(観想的生) と vita activa(活動的生) の間で揺れ動くフランチェスコを描いている。『アシジの聖フランシスコ』(永野藤夫訳、平凡社ライブラリー、1997)は、戦前の日本でもよく読まれたという。

 思想家の林達夫は久野収を聞き手にした対談集『思想のドラマトゥルギー』(平凡社選書、1974)では、第5章「聖フランチェスコ周辺」で、戦前1915年以降の日本でフランチェスコ・ブーム?があったことを回想して、ヨルゲンセンの本についても触れている。

 それぞれのフランチェスコ理解がある。

 男の実存と、女の実存は、同じ人間であるといっても違いがあるのは当然だ。

 同じ一人の人間をみるまなざしにも、さまざまなものがあっておかしくない。一人一人がフランチェスコに何を重ね合わせて見るのか・・・「自分が見たいものを見る」、「自分が見たいものしか見ない」、それはすべての人にとって否定できない事実である。

 もちろん私も例外でなく。


(つづく)


<朗報!>

ミッキー・ローク, ヘレナ・ボナム=カーター主演のDVD フランチェスコ-ノーカット完全版-、ついに日本版が発売!!(2010年1月22日)



     
<付録> 

書評再録 『アッシジのフランチェスコ』(キアーラ・フルゴーニ、三森のぞみ訳、白水社、2004)-フランチェスコに寄り添い、慈しみのまなざしで見守った、女性中世史家によるフランチェスコ伝


 イタリアの中世史家キアーラ・フルゴーニによる、アッシジのフランチェスコ伝。

 日本ではフランチェスコというと、フランコ・ゼッフェレッリ監督による映画 『ブラザーサン・シスタームーン』で知られているが、この映画はフランチェスコの前半生しか描いていない。

 訳者解説で触れられているが、リリアーナ・カヴァーニ監督による、ミッキー・ローク主演の映画 『フランチェスコ』は、中世史家フルゴーニが描いたフランチェスコにかなり近い、といっているのが目にとまった。

 そこでこの本を通して読んでみたのだが、いままで 『ブラザーサン シスタームーン』 で頭の中に描いていたフランチェスコとは大いに異なるフランチェスコ像を初めて知ることができた。


・裕福な家庭の出身ながらすべてと訣別し、あらたな道に踏み出すことを決断した一人の青年
・人々の無理解と苦難を味わいながらも、自ら信じる道を切り開いていった人間
・世の中に認められ、弟子が増えていくにつれて直面した「組織」という問題に悩む青年
・いったん出来上がった組織は教団として制度化する方向へと動き出し、組織のもつ論理で存続発展しようとするために、そこに違和感を感じ、疎外感を感じ、最終的に居場所を見つけられなくなってしまうひとりの人間
・自分のいっていることが本当には理解されていないのではないか、という深い絶望の中に生きる一人の人間
・集団を離れ、山中にひきこもっての40日間の断食と瞑想、そして自らの肉体に受けた聖痕(stigma)という喜び
・肉体をもつ人間であるからこそ、人間存在につきまとう悩み、苦しみ、希望、絶望、といったもろもろが、普通の人間であるわれわれにも感じることができる・・・


 フランチェスコは一歩踏み出した人である、種をまいた人である。だが決して成功者ではない、むしろ本人の自意識においては失敗者だったのだろう。

 こういう意味で、リリアーナ・カヴァーニとキアーラ・フルゴーニという二人のイタリア人女性が、フランチェスコをきわめて近い視線で見ていることに気づく。

 フランチェスコの生き方に感化されて、世俗の生活を捨てた聖女キアーラ(=聖女クララ)と同じ名前をもった歴史家フルゴーニは、フランチェスコに寄り添い、慈しみのまなざしで見守っている。

 文献資料と図像研究をあわせた歴史記述は説得力がある。画家ジオットについても新しい見方を教えられた。

 映画 『ブラザーサン・シスタームーン』でフランチェスコに興味をもった人はぜひ本書を読んでほしいと思う。

 より深く、フランチェスコを理解できるようになると思う。


(注) amazon に「左党犬」のペンネームで執筆投稿した「レビュー」((2009年7月9日)を再録した。(2014年8月21日 記す)









PS 読みやすくするために改行を行い、あらたに<付録>を付け加えた。 (2014年8月21日 記す)。

PS2 あらたに<総目次>を挿入した。(2022年2月20日 記す)



<ブログ内関連記事>

アッシジのフランチェスコ 総目次 (1)~(5)

アッシジのフランチェスコ (5) フランチェスコとミラレパ
・・リリアーナ・カヴァーニは『ミラレパ』という映画も撮っている

「信仰と商売の両立」の実践-”建築家” ヴォーリズ
・・『失敗者の自叙伝』を書いているヴォーリズ

(2014年8月21日 情報追加)
       


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