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2014年7月5日土曜日

『近代の超克 ー 世紀末日本の「明日」を問う-』(矢野暢、光文社カッパサイエンス、1994)を読み直す ー 出版から20年後のいま、日本人は「近代」と「近代化」の意味をどこまで理解しているといえるのだろうか?


「近代」とはなにか? 「近代」とは日本にとっていかなるう時代だったのか?

すでに「近代」が終わって次の「大きな時代」への移行期の渦中にあるのだが、どうも「この「近代」というものをキチンと対象化しないまま21世紀も2010年代の半ばにさしかかっているのではないか、どうもそんな気がしてならない、気になってならないというか、いらだちに似た気持ちをを感じて仕方がないのである。

「近代の超克」というタームはもともと、大東亜戦争の渦中の昭和17年(1942年)にはじめて登場したものだ。「超克」とは主体的に克服して乗り越える、とでもいった意味だろう。

1989年という冷戦構造の末期にも哲学者の廣松渉氏が『<近代の超克>論-昭和思想への位置視角-』を講談社学術文庫で再刊している。どうも日本においては、この手の問いかけが、時代の節目節目に噴出するようだ。社会主義の敗退が「近代」の終わりを意味していたと考えれば納得のいく話ではある。

だが、明治維新以来、「近代化」=「西欧化」に邁進し、アジアではほぼ唯一といってよいほど「近代化」を達成した日本であるが(・・あえていえば、日本以外で「近代化」に成功したのはシンガポールだけだろう)、「近代」というものをキチンと対象化して把握せず、「超克」したわけでないただずるずると過ごしているうちに、気がついたらすでに「近代」が終わっていたことに気がつきつつある、といったところではないだろうか。

その証拠に、1995年には「オウム事件」というおぞましい事件が発生している。先日、「松本サリン事件」から20年になったことが報道されていたが、「オウム事件」はその翌年に起こった事件だ。「オウム事件」の背景には、「近代の闇」あるいは「近代の鬼子」ともいうべき「ロマン主義・全体主義・原理主義」が英米オカルティズムをつうじてオウムというカルト集団に流れ込んでいたことは現在では明らかになっている。

(「近代の超克」 著作群)

『近代の超克ー世紀末日本の「明日」を問う-』(矢野暢、光文社カッパサイエンス、1994)が出版されたのは、「阪神大震災」と「オウム事件」の前年、すなわち1994年である。したがって、この本のなかには「オウム事件」のことはいっさい登場しないが、ある種の予感めいたものを感じることができるような気もする。

それは日本と日本人の「内なる近代」についてである。無意識に巣くい続ける、自覚症状なき「内なる近代」。著者は、「いまではおぞましい腐臭を発してさえいる」と呪詛に近いコトバを投げつけている。病理現象として捉えている。

「近代の超克」というと、どうしても大東亜戦争を正当化するための理論構築といった印象を免れ得ないが、矢野氏は昭和17年(1942年)の『近代の超克』そのものについては、具体的に検証しながら徹底的に批判を行っている。

「近代の超克」がらみで具合が悪いと思うのは、日本自体のなりたちのなかに血肉化した「近代」のことが、どう考えられたのか、という点での甘さである。(P.48) (*太字ゴチックは引用者=さとう 以下同様)

まずは、「近代化」=「西欧化」であったのは日本だけではなかったのだということを確認しておこう。

近代は、フォン・ラウエ流にいえば、絶対的な価値としての「ヨーロッパ」に導かれての、一種の世界革命の時代であったのだ。・・(中略)・・ しかし、「近代の超克」を語った日本の知識人たちが、西欧化の世界革命といわれるほどの、実に巨大な歴史過程の総体を読み切っていたのかどうかは、実に疑わしい。近代日本を特徴づけたある種の啓蒙主義には、視野狭窄ともいうべき、底の浅い世界認識がみられたことは否定できないのである。ヨーロッパ世界の奥深さと、いわゆる西欧化の力学の構図の複雑さを、人びとが読み切っていたとは思えないふしがある。(P.61~62)

植民地化されなかったタイだけでなく、西欧による植民地化を体験したビルマ(=ミャンマー)など東南アジアを研究してきた矢野暢氏の鋭い問題意識が反映した問題提起である。日本と西欧に東南アジアが加わった「三点測量」的な複眼思考がそこにある。

否定的に語るだけでなく、「総体」を把握することなくしては、植民地化された地域も、日本やタイのように、からくも植民地化を免れた地域も理解することはできないはずなのだが・・・。


「政治的生態史観」を生み出した矢野暢氏の功績

著者の矢野暢氏のことは、覚えている人もだいぶ少ないのではないかと思うが、かつては東南アジア研究の中心的存在で、マスコミの寵児でもあった人だ。アウンサンスーチー氏が京大に留学中には指導を行っている。

東南アジア研究センターは、学内外の激しい反対を受けながらも、1965(昭和40)年に官制化されるが、草創期からかかわった私の記憶に残るのは、京都大学の伝統につながる中国学やインド古典研究と並び立ちうるような、いわば世界水準の東南アジア学を確立したいという、純粋に学問的な情熱がみなぎっていたという事実である。どこにも戦略的邪心は感じられなかった。(P.127)

これは第二次大戦後に東南アジアに大きくコミットした米国の人類学が、アジア政策の一環として豊富な予算がついていた「政治性」を念頭においた発言だ。さらにいえば、それ以前に東南アジアを植民地化していたヨーロッパの人類学の「政治性」との対比もある。

私自身の東南アジア研究は、タイとビルマとを比較研究するという決断から始まった。植民地化したビルマとそうではないタイとで、近代史のたどり方がどうちがうかを学ぶことは、たいそう意味があるように思えてならなかった。(P.127)

このことを回想して「未熟な意識の状態」と語っているのは、のちにフィールドワーク体験にもとづいて「政治的生態史観」を構築した時点での回想だからだが、こういう問題意識を最初からもっていたことが、西欧近代についての思考におおきく影響していることは間違いない。

私なりの独創的な「政治学」を編み出したいという野心は強まっていった。ただ、これは自分だけの方法論、つまり自分の人生体験を踏まえ、自分なりの知性主義の枠組みと世界観を折り合わせながら、独自の語法と理論体系で組み立てる、いわば主体的エピステーメーとしての政治学、であればそれでよかったのである。(P.131~132)

自分なりの方法論を打ち立てること。理論的フレームワークをつくりあげること。学問研究の醍醐味とはこれに尽きるのではないだろうか。学問研究における独創性とはこうして生まれるものである。

私の専門は、タイ研究である。その「タイ」という国家的モチーフが、いわゆるエスノジェネシス(民族創出)という近代主義的操作によって、後天的に生まれたことはほぼ判明している。あわせて、一見すぐれて一次資料のようにみえる歴史資料が、そのエスノジェネシスがらみの近代の創造物であることもはっきりしている。(P.150)

1990年代に東南アジア世界の存在に触れて目覚めてから、わたしは矢野氏の著作をだいぶ読んで勉強した。したがって、わたしの東南アジア観は基本的に現地体験と矢野氏の著作を読むことによって形成されたといえる。

矢野氏の業績の特色は、欧米世界を熟知したうえで、東南アジア世界の独自性を明らかにしようと試みてきたという点にあるだろう。クラシック音楽をつうじて西欧文明の根幹に触れていたことも大きいのではないか。なぜ東南アジア研究者がクラシック音楽なのか、その関係性についてはかつてはあよくわからなかったのだが、いまならその意味がよく理解できる。

だが、矢野氏は「セクハラ」というスキャンダルに巻き込まれすべてを失った。マスコミによって社会から葬り去られ、「抹殺」された人である。当事者ではないので真相についてはわからないが、なんとも後味の悪い事件であった。

本書は、そのあとに出版された本で遺著ともなったものだ。わたしはこの本を1999年に読んでいるので、今回15年ぶりに再読したことになる。

個人的な私怨というかルサンチマンめいた感情が初発の動機として存在するが、その感情は、ある程度まで「昇華」しているといってもいいのではないだろうか。俯瞰的で、メタレベルからの大きなテーマで議論を行っているからだ。


(カバー見返しより)

現代日本の病理と「近代」の皮相な理解

アジア文明の圧倒的影響を受けながら、遣唐使廃止後の10世紀には「日本化」と「脱亜」を推進し、明治維新後には西欧文明の影響を大きく受けながら「近代化」を達成した日本。日本はアジアでもなく、西欧でもない

この認識は矢野氏自身が述べているように、独自の「日本文明」の存在を全面に打ち出した鈴木大拙の「日本的霊性」、梅棹忠夫の「文明の生態史観」にも共通するものだろう。

結局、アジアでも西欧でもない存在。それは積極的な意味合いでも消極的な意味合いでも、固有の文明世界、すなわち「日本文明」を形成しているとしかいいようがない。

だが、「日本文明」は肯定的な面ばかり見ていると誤解を招く。大きな問題点を抱えていることに注意しなくてはならない。

日本では、新聞や週刊誌の読者とテレビの市庁舎が市民なのである。逆にいえば、マスメディアの介在なしでは市民性が成立しえないところに、日本の市民性のいい加減さがあるのだ。(P.165)

これはシヴィリティ(civility)の欠如という日本の病理である。シヴィリティとカタカナ書きにされているのは一語で表現できる日本語表現がないからだろう。説明的にパラフレーズすれば、「文明化された礼節や言動」のことである。

それにしても、「どこにもない場所」を求める空想的進歩主義は、いまの日本でまだ健在である。ほとんどの先進国で衰退していっている左翼ドグマティズムが、なぜ日本でだけ健在なのかはおもしろい問題である。そのような政治的スタンスは、美意識とすら結びついている感じさえする。・・(中略)・・近代性とは、もっと厳しいなにものかであったはずである。嘴の黄色い幼稚な議論をすぐさま叩きのめし、そこから個人の思惑や恣意性を除去し、広く世界に通じる普遍言語として練り上げるしたたかさを、近代という装置はもち備えていたはずである。(P.177)

「近代化」された日本ではあるが、「近代主義」の構築はきわめてゆがんだものになったというのが矢野氏の主張である。

このような世紀末を日本に導いたのは、まさしく近代主義の組み立てをめぐる失敗であった。日本において、「近代」は、その正常化を支える力学、すなわち生理と病理との望ましい緊張関係抜きに、いわばたてまえのきれいごととしての近代主義と、その皮膜のもとでのふしだらな前近代主義の残存という、日本独自の二重構造をもつものとして定着してしまった。したがって、日本の「近代」とヨーロッパの「近代」とは、本質的に成立論理がちがうのである。その一点でもって、日本とヨーロッパとは異なる世界だと断言しきっていいのである。・・(中略)・・日本は独自世界なのである。(P.185)

「日本は独自世界」であることはたしかだが、肯定的な側面だけではなく、問題をはらんだ否定的な側面があるというのはそういうことだ。これをさして、矢野氏は、「日本国Aと日本国B」があり、この両者が複雑にからみあったものとして捉えている。

日本国Aは、アジアから生まれ、アジア史にこだわりながら歴史を展開させてきたが、その特性は、意外なことをいうようだが、「脱亜」なのである。日本国Aは、おそらく10世紀であろうが、比較的早い段階から日本化と「脱亜」という二つの力学をフルにはたらかせ始めたとみていい。(P.213)

10世紀とは、先にも見たように、遣唐使が廃止され「国風化」が開始された時代である。「脱亜」は明治維新後に始まったのではない。

明治維新に前後して、新しい日本国Bをつくろうとする機運が生じる。福澤諭吉や伊藤博文などは、その最大のイデオローグであった。日本国Bは、古い国家伝統である「脱亜」を「入欧」と読み変えてみせた。そのうえで、文明開化と富国強兵という、西欧化と近代化とを織り合わせた政策を展開するのである。(P.213)

「日本国A」と「日本国B」の関係は以下のようなものである。

ところが、日本国Bの骨格をつくり、核心をつくったのは日本国Aであった。日本国Aは、江戸の末期までに精緻な装置として完成していたのであって、そう簡単に崩壊するようなもろいものではなかった。しかし、律令国家的体質と近代主権国家との落差は大きかった。それを埋める努力は同時代的適応という課題からしても必要であった。・・(中略)・・ このような近代日本、つまり一見西欧化の粋を究めたような日本国Bのなかに、実は日本国Aが巧妙に組み込まれているという国家像は、本質的に不安定であって当然である。日本国Aは、ほとんど永遠の生命をもち、日本のために歴史の長いタテ糸をつむぎ続けるのである。日本国Bは、内なる存在としての日本国Aにこびへつらい、なだめすかしながら、世界史という空前の舞台で活躍しようとしてきている。(P.214)

政治学者として独自の理論体系を構築し、「生態史観」的な観点で「政治」を捉えようとした矢野氏ならではの見解である。

わたしは、矢野氏のこの見解は、わが恩師の阿部謹也先生の「社会と世間」という問題意識と共通していると考える。

矢野氏のいう「日本国A」は阿部氏のいう「世間」に該当し、「日本国B」は「社会」に該当する。「社会」が日本人のなかに根付いたものでないがゆえに、それがシヴィリティが欠如していることにあらわれていると考えるのは不思議ではない。

さらにいえば、日本国Aからは、けっして「人格」や「人権」といった概念が生まれてこなかったことにも注意しておきたい。これらの概念は、キリスト教を根幹にもつヨーロッパ近代で確立したのであって、日本文明から内発的に生まれてきたわけではない。

矢野氏はまた、「たてまえとしてのきれいごととしての近代主義と、その皮膜のもとでのふしだらな前近代主義の残存」(P.185)という発言もしているが、わたしはまったく同感である。

グローバル化が叫ばれるなか、国際化を志向する開放的な側面がある一方、叩かれれば卑屈になり、ややもすれば夜郎自大に傲慢になりがちな閉鎖的な傾向もある。

われわれが留意しなければならないのは(・・もちろん、わたしも含めて)、タテマエとしての「日本国B=社会」の下には、「日本国A=世間」が横たわり続けているという認識なのである。

内なる存在は隠れた存在である。「隠れた神」は顕在化したことき、「荒ぶれる神」として猛威をふるう。過剰な自己肯定感は、ときに夜郎自大な存在と化すことがある。「内なる存在」は、つねにその存在を意識していることが必要なのである。


(矢野暢氏の東南アジア関連の著作)


矢野暢氏の業績は忘却から救出されるべき

東南アジアにかかわる関係者の多くが、東南アジアと日本しか知らないという現状は、きわめてこころもとないことだ。

西欧近代が生みだし、西欧の知的世界での格闘の歴史を理解することなしに東南アジアを語ることは危険ではないだろうか。植民地化という屈辱をつうじて近代化を体験することになった東アジアを理解するには、「西欧」と「近代」そのものの深い理解が不可欠であるはずだ。

きわめて西欧的な学門世界である法学部の政治学から出発しながらも、タイ南部のムスリム共同体でのフィールドワークをつうじて「自前の理論的フレームワーク」を構築した矢野氏もまた、京大的な知性の系譜につらなる人であったというべきだろう。

東南アジアで研究を確立しただけでなく、スケールの大きな骨太の議論を展開する能力をもっていた矢野氏が「セクハラ」というスキャンダルによって研究者としてのキャリアを断たれ、しかも社会からの「抹殺」されたまま1999年に亡くなったことは、日本の知的世界にとっては、かえすがえすも大きな損失ではないかと思うのである。

矢野氏の業績もまた「超克」されなければならない対象ではあるとはいえ、「過去の人」として業績もろともスルーしてしまうのは、知的怠慢以外のなにものではないというべきであろう。

幸いにしにして、『「南進」の系譜』(中公新書、1975)と 『日本の南洋史観』(中公新書、1979)が合冊版として千倉書房から 2009年に再刊されている。この動きが今後も続くことを願いたい。




目 次

まえがき
プロローグ いま、なぜ「近代の超克」を語るのか
Ⅰ 論争としての「近代の超克」
Ⅱ 「近代」とはなにか
Ⅲ 日本・アジア・ヨーロッパ
Ⅳ 日本人としての自分史
Ⅴ 私を裁いた日本の「近代」
Ⅵ 独自世界としての日本
Ⅶ いま、「近代」を超えて


著者プロフィール

矢野 暢(やの・とおる)
1936年~1999年。日本の政治学者。専門は東南アジア地域研究。1986年『冷戦と東南アジア』で吉野作造賞を受賞。 アジア地域の社会科学者として初めてスウェーデン王立科学アカデミー会員となり、ノーベル賞に関するテレビ番組等にゲストとして出演するなどマスコミ露出も多かった。またアウンサンスーチーの京都大学留学時代の恩師といわれる。また、クラシック音楽への造詣が深い一面も持ち、京大の先輩に当たる朝比奈隆との対談集もある。晩年はウィーンで過ごした。(wikipediaの記述より)

(カバー見返しより)


PS 近代化したはずの「日本国B」の下に厳然として存在する「日本国A」

東京都議会における「セクハラやじ問題」などもまた、「近代西欧」の議会制民主主義をカタチとして導入しながらも、まったく根付いていないことが、女性の人権を踏みにじっていることに鈍感なシヴィリティ(=文明的な節度)の欠如としかいいようだがない。「日本国B」の外皮の下に、根強く存在しつづける「日本国A」の存在を感じないわけにはいかないのである。 (2014年7月14日 記す)



<ブログ内関連記事>


「近代」の「ポジ」のウラには張り付く「ネガ」

書評 『オウム真理教の精神史-ロマン主義・全体主義・原理主義-』(大田俊寛、春秋社、2011)-「近代の闇」は20世紀末の日本でオウム真理教というカルト集団に流れ込んだ

『「経済人」の終わり』(ドラッカー、原著 1939)は、「近代」の行き詰まりが生み出した「全体主義の起源」を「社会生態学」の立場から分析した社会科学の古典

書評 『近代の呪い』(渡辺京二、平凡社新書、2013)-「近代」をそれがもたらしたコスト(代償)とベネフィット(便益)の両面から考える

書評 『自爆する若者たち-人口学が警告する驚愕の未来-』(グナル・ハインゾーン、猪俣和夫訳、新潮選書、2008)-25歳以下の過剰な男子が生み出す「ユース・バルジ」問題で世界を読み解く
・・「ユース・バルジ」という「人口爆発」による若年層男子の行き場の無さがファシズムにつながったと説く著者の見解は、なによりも「青春」を礼賛したムッソリーニやヒトラーユーゲントとして「若者」を組織化したヒトラーを考えると納得がいく


書評 『バチカン近現代史-ローマ教皇たちの「近代」との格闘-』(松本佐保、中公新書、2013)-「近代」がすでに終わっている現在、あらためてバチカン生き残りの意味を考える


植民地化を経ずに「近代」=「西欧化」を志向した国々

福澤諭吉の『文明論之概略』は、現代語訳でもいいから読むべき日本初の「文明論」だ

書評 『もうひとつの「王様と私」』(石井米雄、飯島明子=解説、めこん、2015)-日本とほぼ同時期に「開国」したシャム(=タイ)はどう「西欧の衝撃」に対応したのか
・・「開国」後に、日本は「明治維新」という「革命」を断行し「近代化」=「西欧化」を全面的に遂行して「国民」形成の道を突き進んだのに対し、シャムは上層エリートは「近代化」=「西欧化」を受け入れたものの、「立憲革命」という「革命」は日本に遅れること64年、「国民」形成はそれ以降の課題となった。出発点が同じであったのにかかわらず、日本とタイで大きな差が生まれたのはこのためだ」


植民地化によって「近代」=「西欧化」を体験した国々

会田雄次の『アーロン収容所』は、英国人とビルマ人(=ミャンマー人)とインド人を知るために絶対に読んでおきたい現代の古典である!
・・英国人を代表とする西欧人(=白人)のアジア人に対する蔑視が鮮明に表現された名著

書評 『抵抗と協力のはざま-近代ビルマ史のなかのイギリスと日本-(シリーズ 戦争の経験を問う)』(根本敬、岩波書店、2010)-大英帝国と大日本帝国のはざまで展開した「ビルマ独立」前後の歴史

書評 『語られざる中国の結末』(宮家邦彦、PHP新書、2013)-実務家出身の論客が考え抜いた悲観論でも希望的観測でもない複眼的な「ものの見方」
・・「脆弱性」と「トラウマ」というキーワードで中国と中国人をみる。「著者は、中国が膨張姿勢をとりつづける理由を、いわゆる「西洋の衝撃」(Western Impact)を植民地化という形でプライドを傷つけられたトラウマに見ている。いわば漢民族全体の精神分析であるが、おなじく「西洋の衝撃」をうけながらも、からくも植民地化を回避し、いちはやく近代化=西欧化をなしとげ、むしろ「西欧列強」の一員として中国大陸に軍事的進出を行った過去をもつ日本人にはなかなか理解しにくい」

書評 『西欧の植民地喪失と日本-オランダ領東インドの消滅と日本軍抑留所-』(ルディ・カウスブルック、近藤紀子訳、草思社、1998)-オランダ人にとって東インド(=インドネシア)喪失とは何であったのか

書評 『五十年ぶりの日本軍抑留所-バンドンへの旅-』(F・スプリンガー、近藤紀子訳、草思社、2000 原著出版 1993)-現代オランダ人にとってのインドネシア、そして植民地時代のオランダ領東インド


方法論としてのフィールドワーク

書評 『ヤシガラ椀の外へ』(ベネディクト・アンダーセン、加藤剛訳、NTT出版、2009)-日本限定の自叙伝で名著 『想像の共同体』が生まれた背景を知る

『東南アジア紀行 上下』(梅棹忠夫、中公文庫、1979 単行本初版 1964) は、"移動図書館" 実行の成果!-梅棹式 "アタマの引き出し" の作り方の実践でもある

梅棹忠夫の『文明の生態史観』は日本人必読の現代の古典である!

書評 『現代世界と人類学-第三のユマニスムを求めて-』(レヴィ=ストロース、川田順造・渡辺公三訳、サイマル出版会、1986)-人類学的思考に現代がかかえる問題を解決するヒントを探る

書評 『村から工場へ-東南アジア女性の近代化経験-』(平井京之介、NTT出版、2011)-タイ北部の工業団地でのフィールドワークの記録が面白い


スキャンダルですべてを失った学者の人生

NHK連続ドラマ「坂の上の雲」・・・坂を上った先にあったのは「下り坂」だったんじゃないのかね?
・・「オウム事件」がらみで大学でのポジションも名誉もすべて失った宗教学者・島田裕巳の人生。の『下り坂社会を生きる』(島田裕巳/小幡 績、宝島社新書、2009)を紹介したが、しぶとく生き抜くということが必要な時代になった

(2018年1月17日 情報追加)


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