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2026年7月7日火曜日

『荘子 ― 古代中国の実存主義』(福永光司、中公新書、1964)― こんなスゴイ本はめったにあるものではない!

 

 『荘子 古代中国の実存主義』(福永光司、中公新書、1964)という本を読み出して思ったのは、こんなスゴイ本は滅多にあるものではない、という感想だ。  

「老荘思想」というフレーズがあるように、荘子は老子とならび称される古代中国の思想家である。人によって好みの違いがあるだろうが、わたしは深遠すぎる老子より、息づかいまで感じることのできる荘子に惹かれるものがある。 

とはいっても、分量的に多い『荘子』を通読したわけではないし、「胡蝶の夢」などのエピソードや寓話を断片的に知っているだけだ。「道」(タオ)や「真人」など荘子哲学の結論は知っているものの、荘子がどんな人で、どんな環境からその哲学が生み出されてきたのか、正直なところ、それほど関心がなかった。 

そんなわたしだが、本書『荘子 古代中国の実存主義』を読んでいくと、そんな「自由」をめぐる荘子の哲学的考察がなぜ生まれてきたのか、いかに生まれてきたか、臨場感をもって体感できるような気がしてくるのだ。 

「目次」に使用されているフレーズを見たら、ある程度まで実感できるのではないと思う。


序説 
第1章 痛ましいかな現実 ― 荘子の生いたちとその時代 
第2章 危ういかな人間 ― 荘子の人間理解 
第3章 惑える人々 ― 朝三暮四の世界 
第4章 真実性の世界 ―「道」の哲学 
第5章 自由なる人間「真人」「至人」「神人」 
あとがき  『荘子』篇名/荘子時代略年表/参考文献 


前4世紀の「春秋戦国」という過酷な時代を生き抜いた荘子自身の体験と人間観察から生み出されてきた哲学的考察は、が、『荘子』としてまとめられた中国哲学の古典として伝わってきた。 荘子は屈原や孟子、アリストテレスの同時代人である。

2020年代の現在では、かつてほどの人気はない「実存主義」(Existentialism)だが、人間について哲学する際に「実存」(existence)という概念は避けて通ることのできないものだ。 著者は25ページにわたる長い長い「序説」でキルケゴールやハイデガー、サルトルなどの名前を出しているものの、荘子の哲学が実存主義だと言っているわけではない。 

だが、この本を最初から最後まで順を追って読んだあと、ふたたび「序説」に立ち返ってじっくり読み直してみると、荘子を実存哲学として捉えることは、あながち間違ってはいないと実感される。人間とは、誕生以後と死にまでのあいだの存在であるからだ。その「実存」という、個人個人で異なる人生が視野に入ってくるからだ。

人間が人間として生きるなかで、ありのままの現実、矛盾に充ち満ちた混沌とした現実を見つめつづけた荘子の人生と思考は、「自由」の本質とはなにかについての一貫した問いであり、自分が何ものにもとらわれない自分であることが「自由」である、という東洋哲学的な解答、その問いと答えを求める思考の軌跡であった。

 1918年(大正7年)生まれの著者は、京大文学部の支那哲学科を卒業したのち徴兵され、先の大戦では過酷な中国戦線を転戦している。陸軍中尉として敗戦を迎えた著者は、国民党による現地抑留も体験している。著者は、「死を前にした人間」として、戦地で『荘子』を読み込んで苦境を乗り越えてきたのだという。 

本書は、著者自身の実存と密接にかかわる内容であり、『荘子』を「体読」してきた著者が語る荘子は、概説書の域を超えて読む人に迫るものがあるのはそのためだ。著者が荘子になりかわって、荘子自身が語っているのかのような気がしてくる。

あらためて言うが、こんなこんなスゴイ本は滅多にあるものではない。知識を得るための本ではない。人間の「自由」の本質について考える哲学書なのである。 

60年以上も前に出版された本なのに、いまのいままで存在すら知らなかった。だが、いまこの時期にこの本に出会えたことは幸いであった。

機械そのものというべきAIが支配的になり、国際情勢もふたたび厳しい時代に向かっている現在、人間とその自由について深い考察を行った本書のもつ意義は、再浮上してきているのではないだろうか。 


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著者プロフィール
福永光司(ふくなが・みつじ)
日本の中国学者・中国思想史研究者。京都大学名誉教授。老荘思想・道教研究の第一人。『荘子』の邦訳で一般には知られている。また、道教と日本古代史との関わりについても研究し、道教もその重要な構成要素ある中国南部の「船の文化」の文明圏に注目を促した。
1918年、大分県生中津に生まれる。1942年、 京都帝国大学文学部哲学科を卒業。同年10月熊本野砲兵聯隊入営、中国大陸に出征。1944年に陸軍砲兵少尉、1945年に陸軍砲兵中尉。 敗戦を広東省で迎え、1947年、上海から復員。戦争末期の過酷な体験のなか老荘哲学に精神的救いを見出す。東方文化研究所(京都)助手、大阪府立北野高校教諭、 愛知学芸大学助教授、 京都大学人文科学研究所教授を歴任。1974~79年、東京大学文学部教授。1980~82年、京都大学人文科学研究所長。定年退職のあと関西大学文学部教授、 北九州大学外国語学部教授を歴任、引退後は故郷の中津に住み、 執筆・講演学術調査旅行に多忙な日々を送った。老荘思想と道教関連の著書多数。2001年、 逝去(満83歳没)。(*さまざまな情報をもとに加筆修正)。



 













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・・ハイデガーの「世界内存在」は、岡倉天心の『茶の本』(The Book of Tea)の一節である "the art of being in the world" (処世術)からの剽窃であると、哲学者の今道友信が告発している。「処世」は『荘子』に由来するもので、岡倉天心は老荘思想に深く傾倒、また中国南部の文明に注目していた

・・六角堂は、仏教と道教思想にもとづく岡倉天心の瞑想ルーム

・・ともに老荘思想に深く傾倒していた京都出身の科学者2人による対談。湯川秀樹は少年時代から老荘、とくに荘子に深くなじんでいた京都人。京大は東洋学の中心地、なかでも老荘思想とはなじみが深いようだ

・・バレエと合気道、そして太極拳をマスターしていた「西野式呼吸法」の創設者である西野皓三氏は、「真人は踵(かかと)で呼吸する」という荘子のフレーズの意味を深いレベルで体得していた

・・東京商科大学(現在の一橋大学)の卒業生の会を「如水会」と命名したのは渋沢栄一。「如水」は、「君子の交はりは、淡きこと水の如し。小人の交はりは、甘きこと醴(あまざけ)の如し」 (君子之交淡如水 小人之交甘若醴)からきたもので、出典は『荘子 外篇』(山木篇第二十)である。

・・インド発で中央アジアから入ってきた外来宗教としての仏教は、中国で道教と接触することで300年かけて中国化し、とくに浄土教と禅仏教として確立した

・・トルストイは、古今東西の名句のアンソロジー『文読む月日』には老子も荘子も多く引用しているだけでなく、日本人と協力して『老子』のロシア語版を行っている


・・井筒俊彦には『Sufism and Taoism』と題した、イスラーム神秘主義と老荘思想(タオイズム)を詳細に分析した比較哲学の書がある。

・・「一般人が当たり前だと見なして考えもしないことを、驚きの目でもって凝視し、考え抜くのが「哲学者」という存在であり、「哲学」という知の営みだ。(・・・中略・・・)20世紀後半に「ヒューマニズム」(=人間中心主義)という「近代」の行き詰まりが誰の目にも明らかになって以降、かつて隆盛を誇った19世紀以降の哲学者たちの言説が、あまりにも無意味なものに感じられる状況が続いている。それを超えようとしてきた現代思想も、私には同様に映る。そんな状況において、根源(アルケー)にさかのぼってギリシア哲学を再読する意味は大きい。それは非理性の領域に足を踏み込み、心身両面にわたる霊性修行を行い、常識を否定する思考をおこなうことを意味している。」

(2026年7月21日 情報追加)


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2023年12月15日金曜日

『言志四録 心を磨く』(佐藤一斎、佐藤けんいち編訳、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2023)が「ビジネス書」として紹介されました(2023年12月6日)

 


おかげさまで、 amazon では「ベストセラー1位」の風が吹き続けております(2023年12月15日現在)。「瞬間風速」と思った風は、10日以上の連続です。

カテゴリーは、「日本近代史」「日本思想史」「教育者評伝」「諸子百家・儒教・道教」「東洋史」「アジア史」などなど多岐にわたっております。きわめて適切な分類もありますが、よくわかりかねる分類もないわけではありません。

さて、この本は「ビジネス書」として、ビジネスパーソンに推奨される本でもある。そんな評価もいただいております。 


「ビジネスブックマラソン」は、ビジネス書の世界では知らぬ人のいない、ビジネス書評家の土井英司氏によるメルマガです。ありがたいことです。




タイトルは、【身が引き締まる言葉集。】 おお、すばらしい! ジャンルは「自己啓発」。その通り!

末尾を引用させていただくこととしましょう。 

ビジネスブックマラソンで『言志四録』を紹介するのは3度目ですが、読みやすく、またビジネスパーソンやリーダーに響く、良い編集が成されていますね。 
全部で1133条ある文章から、現代人に役立つと思われるものを厳選して147項目にまとめたようですが、言葉のセレクトもバッチリだと思います。 
ぜひ、読んでみてください。


「読みやすく、またビジネスパーソンやリーダーに響く、良い編集」「言葉のセレクトもバッチリ」とは、ありがたい評価ですね。編訳者冥利に尽きるというものです。

しかも、メルマガ配信日の12月6日は、わたしの誕生日でした。うれしい誕生プレゼントでもありました。

はい、ぜひ読んでみてください! 


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目 次
はじめに 佐藤一斎と『言志四録』について 
I 志を高く持つ 
II 視野を広げる 
III 運命を引き受けて人生を楽しむ 
IV 心の持ち方で人生は変わる 
V 欲望に振り回されるな 
VI 人付き合いの秘訣 
VII 仕事をどう進めるか 
VIII リーダーの心得 
IX 生きることは学ぶことだ 
X 真の自己を観る 
佐藤一斎年譜 
佐藤一斎と同時代の人物たち 
参考文献


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2023年9月16日土曜日

書評『西洋人の「無神論」 日本人の「無宗教」』(中村圭司、ディスカヴァー携書、2019)― 「一神教世界」の「無神論」を知れば、日本人の「無宗教」の意味が見えてくる



『西洋人の「無神論」 日本人の「無宗教」』(中村圭司、ディスカヴァー携書、2019)を読むと、日本人が「無神論」なるものをまったく理解していなかった、いやいまでもほとんど理解していないことがわかる。

「無神論」と「無宗教」はまったく異なるものだ。多くの日本人が自分のことをそうであると思い、軽々とクチにする「無宗教」は、じつのところ「無神論」ではない。両者は似て非なるものなのだ。

本書は、宗教学者が「無神論」なるものに本格的に取り組んだめずらしい本である。「無神論」について知り、それについて考えることで、日本人の「無宗教」の意味が浮き彫りになってくる。

出版されてすぐに読んだ本だが、ブログにアップ機会を失していた。4年後のいま、あらためて書き直してアップすることにしたい。


■海外では「無宗教」は禁句という「常識」

1979年は「一神教」のイスラームが前面に登場してきた年として記憶すべきである。

わたし自身は、1979年の「イラン・イスラーム革命」と「メッカのカーバ神殿占拠事件」、そして「無神論」国家・ソ連による「アフガン侵攻」について、あくまでもニュースではあるが高校2年のときにリアルタイムで見てきた。

そういうわけで「一神教」のイスラームだけでなく、「宗教」に対しては先行世代よりも、はるかに深い関心を抱いてきた。

「神は存在するのか?」と疑問に思っていた高校時代のわたしは、神が人間を創ったのではなく、人間が神(という概念)を創ったのであるが、神(=絶対者)という存在を設定すると、説明が可能になることが多い、という結論に達した。拙いながらも自分のアタマで考えた結論である。

とはいえ、間違っても自分のことを「無宗教者」や「無神論者」などと語ったことはいっさいない。自分のことを「無神論者」などと思ったこともない。もちろん普段から神社仏閣をお詣りし、苦しいときには神頼みする、ごくごくふつうの日本人である(笑)

海外生活の「常識」として「無宗教」など絶対にクチにするな、とくにイスラーム圏においては死を招きかねないぞ! そう言いくるめられ、海外に旅立った日本人は少なくないはずだ。自分もまたそうである。

社会人になってから、はじめての海外出張でマレーシアに渡航した際も、KL(=クアラルンプール)空港から乗車したタクシーで、さっそく運転手から宗教を聞かれるという体験をしている。30年以上前のことだ。マレーシアは人口の7割がイスラーム教徒である。現在は国家としてイスラーム化を推進している。

キリスト教国の米国でも平気のように宗教を聞かれたこともある。もちろん間髪を入れずに即座に「ブディスト」(=仏教徒)であると回答している。こう答えておけば、熱心な信者ではなくても、まったく問題はない。安心されるのである。

イスラーム圏でも、キリスト教圏でも、信仰をもたない人間は、まともな人間とみなされないのである。このことは、なんどでも繰り返し強調しておこう。だからこそ、「無神論者」であることは、ある意味では確信犯的なのである。それだけの覚悟が求められるのだ。

とはいえ、日本仏教と神道の関係などめんどうくさいので、そこまで詳細な説明はしない。「比較宗教学」を学んだことのない一般人には、なにをどう説明しようが、どうせ理解できるはずがないからだ。

ちなみに、この点にかんしては、タイやミャンマーにおいても日本と似たような状況であることを、実際に住んでみて確認した。これらの上座仏教圏においても、仏教と土着の信仰が共存、あるいは融合しているのである。


■米国では「無神論」が増大中!?

本書によれば急速に「無神論」が増大中だという。これは驚きだ。

「エヴァンジェリカル」と総称される「キリスト教原理主義」(=ファンダメンタリズム)の存在が大きい米国という認識をもっていたからだ。

ところが本書では、代表的な「無神論者」(atheist)として、キリスト教世界からクリストファー・ヒチンズ、さらにはイスラーム国家のイランから脱出してカナダに移住した元ムスリムのアーミン・ナヴァビが紹介されている。

前者については、まあそういう人は、ホーキンス博士を始めとした知識人を中心に、いてもおかしくはないだろうと思うが、かつてイスラーム教徒だった人間が「無神論者」になった例など聞いたこともなかった。自分のなかに固定観念があったのだろう。

しかし、いずれにせよ「無神論」は基本的に「一神教世界」の話であることが、本書で確認することができる。キリスト教もイスラームもともに一神教である。

宗教学者である著者は、「第4章 無神論のロジック」で、多神教世界から生まれた一神教の「ヤハウェの3つの性格」を、「創造の神」「奇跡の神」「規律の神」に分解して、それぞれ「無神論」との関係を考察している。「無神論」は「一神教」の神のもつそれぞれの要素の否定という形で表現される。

「無神論」自体がひとつの「宗教」になっているという揶揄や批判もあるそうだが、たしかにそうだろう。「無神論者」の一神教の神を否定するロジックとパッションは、正直いって多神教世界の住人であるわたしには、アタマでは理解できても、心情的に共感は感じないのが正直なところだ。

著者によれば、無神論者は、現在のところ、「多神教世界」の神否定にはあまり関心がないようだ。もしそのような批判をしたところで、のれんに腕押しといったところだろう。そうである以上、無神論が日本の知的風土のなかで話題になることもあるまい。

共産主義という宗教体制における「無神論」をかかげたソ連についての言及がないのが不思議だが(・・ソ連のアフガン侵攻がイスラーム世界で激しい反発を招いたのはそのためだ)、西の一神教世界の「無神論」と東の多神教世界の「無宗教」について考えるために大いに参考になる議論である。


■日本人の「無宗教」とは?

これまでも「日本人は無宗教か?」という問いは、それこそ腐るほどされてきた。

統計データでは「無宗教」とアンケートに回答した結果がでるにもかかわらず、お守りをみにつけたり、年始には初詣、お盆や春分や秋分には墓参りする日本人。日本人にとっても、それは大いなる「謎」であったのだ。

ただ単に宗教に「無関心」であるか、あるいは「スピリチュアル」であっても、特定の「宗教」や「宗派」に所属していないだけのことなのだ。慣習としてやっていることであり、逆にいうと、やらないとなんだか気持ちが悪いというとらえ方だろう。

まあ、わたしなら山本七平にならって、それが「日本教」なんだよと言ってしまえばいいのではないか、と思ってしまうが。あるいは経済思想研究者で民俗学者の住谷一彦のように  》Das Japantum《 と社会科学風に決めてみるか。

まあ、そういう話は別にして、そんな日本人としての生き方について考えるためにも、「一神教世界における無神論」についてくわしく考察した本書は有益である。本書は「無神論」について論じながら、「宗教」現象そのものの解説にもなっている。


   
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目 次
はじめに
第1章 無神論-世界の新たなトレンド?
 1. 「宗教なし」「神なし」が世界で急伸!
 2. 『ダ・ヴィンチ・コード』騒動に見る現代欧米の宗教事情
 3. 宗教家による情報汚染-ファンダメンタリスト VS ドーキンス
 4. クリストファー・ヒチンズとアーミン・ナヴァビ
第2章 盛り上がる無神論ツイッター
 1. 神様って変?
 2. 信仰は不道徳?
 3. 議論を起こせ!
第3章 無神論と無宗教を理解するための宗教史
 1. 多神教から一神教へ
 2. 仏教-神頼みから悟りの修行へ
第4章 無神論のロジック
 1. ヤハウェの三つの性格
 2. “創造の神”
 3. “奇跡の神”
 4. “規律の神”
 5. 究極のロジック
第5章 西洋人の無神論 日本人の無宗教


著者プロフィール
中村圭志(なかむら・けいし)
1958年北海道小樽市生まれ。北海道大学文学部卒業、東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学(宗教学・宗教史学)。宗教学者、昭和女子大学非常勤講師。 著書は『図解 世界5大宗教全史』(ディスカヴァー・トエンティワン)、『教養としての宗教入門』『聖書、コーラン、仏典』(中公新書)ほか多数。 (本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)

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2023年9月14日木曜日

『井筒俊彦とイスラーム 回想と書評』(坂本勉/松原秀一編、慶應義塾大学出版会、2012)を通読すると、タイトルからは想像できない重要な文章が収録されていることに気づいた




出版後すぐに入手して一部を読んだままになっていたこの本を、出版から10年たったいま、あらためて通読してみて思うのは、その内容がタイトルから受けるよりも、はるかに充実したものであることだ。

そもそもイスラームの研究者でもなんでもない、わたしのような一般読者が読む本であるかどうか、タイトルからはうかがい知ることはできない。その意味では、タイトルづけとしてはちょっと損しているのではないか。

まず「序 イスラーム事始めの頃の井筒俊彦」(坂本勉)がかなり有益だ。シンポジウム発表をベースにしているので「ですます調」で語られているが、「若き日の井筒俊彦」と言い換えてもいい内容である。近代トルコ史の専門家としての知見が大いに活かされている。

1 二人のタタール人との出会い
2 イスラーム改革思想家としてのムーサー・ジャールッラー
3 ムーサー・ジャールッラーの来日
4 事始めの頃の研究成果
5 戦後の本格的研究への歩み
6 イスラーム神秘哲学への途
7 革命前夜におけるイランの神秘哲学者との交流

重要なことは、戦前来日したタタール人たちは、ロシア帝国の臣民であったことだ。露西亜革命以前の話である。

かれらはムスリム学者としてアラビア語の経典とその注釈をすべてアタマのなかに入れていただけでなく、日常的にはロシア語を話す話者でもあった。井筒俊彦とロシア語の関係についての推測も、なるほどと思わされる。

『ロシア的人間』という、ロシア語で文学作品を読み込み、ドストエフスキーを中心としたロシア文学にあらわれたロシア神秘主義を熱く語った著書もある井筒俊彦だが、まずはムーサーとの実際上のコミュニケーションの必要が先にあったのであはないか、と。

********

「第一部 回想の井筒俊彦」は、イスラーム研究関係の弟子たちや同僚、そして言語学者の弟子の回想をあつめたもので、それぞれ多面的な井筒俊彦像を描いている。

多元的文化への偏見のない関心――井筒俊彦を引き継ぐために(黒田壽郎、インタビュアー:湯川武)
鎌倉、軽井沢、テヘラン(岩見隆、インタビュアー:高田康一+尾崎貴久子)
共生の思想を模索する(松本耿郎、インタビュアー:野元晋)
井筒俊彦の知を求める旅――モントリオール、エラノス会議、そしてテヘラン(ヘルマン・ランドルト、インタビュアー・翻訳:野元晋)
井筒俊彦の本質直観(鈴木孝夫、インタビュアー:松原秀一)

イスラーム関係では黒田氏と松本氏のものが読みでがある。師としての井筒俊彦を語ることは、弟子としての自分の研究との共通性と違いを語ることでもあるからだ。

それぞれ個性の強い師と、個性の強い弟子の関係は、まさに昔ながらの「師弟関係」そのものというのがふさわしい。

そのカリスマ的な魔力に吸い寄せられ、飲み込まれてつぶされてしまう危険と戦いながら、厳しい師にくらいついていくガッツが必要だ。しかしながら、最終的に師を超える観点を打ち出さなければ、研究者として独り立ちできず、ものになれないという厳しい関係であることも示している。

イランに本拠地を移すまでは、「来る者は拒まず、去る者は追わず」だったようだ。魅力に惹かれて集まってくるが、あまりの厳しさにほとんどが脱落しているのである。

その意味では、言語学者の鈴木孝夫氏の10年におよぶ同居研学生活と、劇的な決別が興味深い。これは社会言語学者の田中克彦との『対論 言語学が輝いていた時代』(岩波書店、2008)でも語られていたが、こちらはより詳細に述べられている。象徴的な「父親殺し」というべきものか。あるいは意図せざる「守・破・離」の実践というべきか。

鈴木孝夫氏が弟子であった時代、井筒俊彦は「イスラームのイの字」も口にしていないといいう。敗戦後どっと入ってきた欧米の言語学や人類学その他の学問の吸収に専念しており、それが独自の言語意味論的方法論、言語哲学の基盤となったらしい。

その方法論を駆使したのがコーラン(=クルアーン)にかんする意味論的分析の英文著作三部作であり、岩波文庫から出版された『コーラン』(初版1957年)翻訳の際に作製した綿密なノートが素材となっているらしい。これは他の方のインタビューで語られていた。

これらのインタビューは、たんなる「回想」というよりも、多く考えさせる内容を含んだものとなっている。

********

「第二部 私の一冊」は、編者がわりあてて依頼し、執筆されたものである。

思い入れのある本であるものもあり、綿密な注をつけてその著書の意味を語ったものもあり、著書だけの関係によるものなど、執筆者によって異なる取り上げ方をしているのが読んでいて面白い。

井筒俊彦の多面的な像がそのまま反映しており、直接にはイスラームとは関係のないように見えるロシア文学(と神秘主義)、ユダヤ神秘主義などの著書も取り上げられている。


『アラビア語入門』― 「井筒言語学」の曙光(大河原知樹)
『イスラーム生誕』― ムハンマド伝をめぐって(後藤明)
『コーラン』と『コーランを読む』― コトバの深奥へ(大川玲子)
『意味の構造』― 意味論的分析によるクルアーン読解(牧野信也)
『イスラーム文化』― 雄弁な啓蒙と呑み込まれた言葉(長谷部史彦)
『イスラーム思想史』― 沙漠の思想か共生の思想か(塩尻和子)
『イスラーム哲学の原像』― 神秘主義と哲学の融合、そして「東洋」をめぐって(野元晋)
『存在認識の道』― 井筒東洋哲学を支えるもの(鎌田繁)
『ルーミー語録』― その意義をめぐって(藤井守男) 
        *** 
『ロシア的人間』― 全一的双面性の洞見者(谷寿美)
『超越のことば』― 自我滅却の哲学のゆくえ(市川裕)
『神秘哲学』と『意識と本質』― 二つの主著(若松英輔)


とりわけ、『神秘哲学』と『意識と本質』について書かれた若松英輔氏の文章は、大いに読ませるものであり、さすがに『井筒俊彦-叡知の哲学-』(若松英輔、慶應義塾大学出版会、2011) 井筒俊彦の全体像に迫る本格的評伝を書き上げた人だけの深い読みが示されている。わたしもこの2冊をなんども繰り返し読んできた。

『意識と本質』は主著である。それは英文著作を含めても変わらない。主著とは、作者の他の著述を読まずとも、その中核的思想に出会うことができる作品の謂である。

そして、その読み方の示唆も大いにうなづかせるものがある。

『意識と本質』は、必ずしも通読する必要はない。読者は好きなところから好き読み方にみ、自由に解釈を楽しむことができる。この著作の価値が読み方によって減ぜられることはない。部分的に繙く、といった読み手の気まぐれにもまったく動じない。それが恣意的な、ときに独断に満ちた「誤読」であったとしても。
「『誤読』のプロセスを経ることによってこそ、過去の思想家たちは現在に生き返」る、と井筒俊彦は、空海を論じた作品に書いている。『意識と本質』は、彼のいう「誤読」の歴程にほかならない。だが、それゆえに作者の主体的体験に満ちている。


まさに意を得たり、と膝を打ちたくなる。わたしもそんな読み方を、単行本の初版を入手してから40年近く断続的につづけてきた。わたしの場合もまた、クリエイティブな「誤読」であると思いたい。

つい先日も、いままでまったく読んでいなかった箇所があることを発見して、大いに驚くとともに、大いに裨益されるものを感じたばかりである。井筒俊彦は、朱子学にまで探求を向けていたのか、と。老荘思想だけではなかったのである。回想によれば、日頃から漢文も読み込んでいたらしい。

直接イスラーム哲学を扱ったのではない著書の紹介が面白い。これらはみな、本書のタイトルからは想像できない、想像を裏切るすばらしい内容なのであった。



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