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2014年9月4日木曜日

書評 『人を殺してみたかった-17歳の体験殺人!衝撃のルポルタージュ-』(藤井誠二、山田茂=写真、双葉文庫、2003)-科学的探求精神の根底にある「衝動」は「制御」のメカニズムがなければ暴走する


2000年5月、愛知家豊川市で発生した「豊川市主婦殺人事件」という「少年犯罪」のルポルタージュである。

「豊川市主婦殺人事件」とは、17歳の男子高校生が、見ず知らずの家に侵入して高齢の主婦を殺害した事件のことだ。事件の発生当時、なによりも世の中を驚愕させえたのは、加害者の高校生がもらしたという、「人を殺してみたかった」という殺害動機である。

2014年7月、長崎で「同級生殺害事件」が発生した。加害者の女子高生が、同級生の女子を殺害して遺体を解体しようとした事件である。この事件の発生で、わたしがまっさきに想起したのは「豊川市主婦殺人事件」のことであった。

「同級生殺害事件」の報道が過熱するなか、藤井誠二氏による記事に目がいった。「人を殺してみたかった」少年を取材した者として、いま考えていること(BLOGOS、2014年8月1日)である。

やはりおなじように思っている人がいるのだという感想をもった。しかも、記事の執筆者は、「豊川市主婦殺人事件」を取材して記事にし、単行本を執筆した当の本人である。双葉文庫から出版された『人を殺してみたかった-17歳の体験殺人!衝撃のルポルタージュ-』のことは、その記事ではじめてその存在を知った。出版社が大急ぎで増刷中である、と。

ようやく入手できた文庫を読んでみて思ったのは、「豊川市主婦殺人事件」と長崎の「同級生殺害事件」の共通性と違いである。

知的好奇心がきわめて強いが、想像力や共感性をいちじるしく欠いた加害者ということは両者に共通している。長崎の少女の場合は殺害対象が親しい同級生、豊川市の場合は見ず知らずの他人という違いがある。そして計画性の有無。本書によれば、豊川市の少年の場合は、殺害を思い立ったのは前日のことで計画的なものだったとは言い難い。

豊川市の少年の場合は、「人を殺す」という行為を自分が実験し観察したいという動機であった。「体験殺人」あるいは「純粋殺人」といわれるゆえんである。長崎の事件については、いまだ詳細はあきらかにされていない。

善悪の判断とは別に、この事実はしっかりと見つめなくてはならない。


2014年時点で「豊川市主婦殺人事件」を読むことの意味

『人を殺してみたかった』で重要なのは、なによりも事件そのものを再現した第1章と第2章の記述である。第3章で、加害者が語ったコトバをできるかぎり正確に事実として引用していることがきわめて重要だ。解釈抜きの、ナマの発言を知りたいからだ。

さらに重要なのは、精神鑑定の結果にもとづいて、ある特定の病名のもとに事件の決着がつけられてしまっていることへの違和感がにじみ出てくる第5章と第6章の記述だ。この章はやや長いという印象があるが、精神鑑定もまた主観性と恣意性を免れないものであることについての注意喚起として読むべきであろう。

このルポルタージュが単行本として出版された2001年、文庫化された2003年と現在を比べると、少年法が改正され、世の中全般に厳罰化志向がつよくなっていることをあげることができる。またアスペルガー症候群についての理解も深まっているだろう。

だが、依然として事件の本質や加害者の動機は明らかにされないままである。これは単に少年法の壁が厚いから情報開示がなされていないといった理由だけではない。もしかすると、加害者少年自身も、真の動機などわかっていないのではないのかという疑問だ。

加害者の自白と、精神鑑定にたよる検察の手法の限界というべきではないだろうか。

著者の藤井氏はこう書いている。

同日付の中日新聞は、少年の通う私立高校の副校長が記者会見で「これまで力を入れて指導してきた命の大切さ、人に対する思いやりをサイド、見直すように考えていきたい」と話したことを掲載しているが、そんなレベルで「理解」してはならぬ魔物のような何かを加害者少年は内包している。おそらくそれは現代を生きる同世代の子どもたちにも心の奥底で通底しているのではないか・・・・。

学校関係者の発言は、いつも同じ文言が繰り返されるものでしかないが、「魔物のような何か」、という著者の表現に注目したい。デモーニッシュと言い換えてもいいのだが、著者としてもこう書くしかなかったのであろう。

特定の病名をラベリングして一件落着という、いわゆる専門家からは絶対に出てこない表現である。ある意味、専門家ではないからこそ感じる率直な感想ではないだろうか。

さらにさかのぼれば、1997年にはいわゆる「酒鬼薔薇事件」が発生していることを想起すべきだろう。「神戸連続児童殺傷事件」である。この事件では、14歳の少年が二人の小学生を殺害した事件だが、この事件の加害者の少年Aについても、同様の感想を持たざるを得ない。

「本書に対する批評-文庫版あとがきにかえて」は、最後に読むべき章である。わたしは、ここに掲載されている三人の評者のうち、宮崎哲弥氏の発言にもっとも納得感を覚える。


とことん理詰めで考える科学的探求精神。だがそれは・・・

とことん理詰めで突き詰める姿勢、じっさいに自分で体験してみないと納得できないという感覚。これだけ取り出せば、いわゆるロジカルシンキングと五感による体験である。

「いっさいの前提を捨て、ゼロベースで考えよ!」。ビジネス界でも同じような説き続けられてきてひさしい。二次情報や三次情報に依存せず、自分の目で確かめよ、自分の足を使い、自分の手を使って事実そのものを確かめよ一次情報重視のファクトベースの姿勢である。

これらは、現代の世の中でさかんに求められていることではないだろうか? おそらくそう言われ続けているのはビジネスパーソンだけではなく、子どもたちも同様だろう。

だが、冷静に考えてみれば、徹底してものを考える人間がじつは少数派であるからこそ、こういう発言がくどいほど繰り返されるのだろう。

世の中には加害者の少年少女のように、とことん理詰めで考えるという「思考実験」を繰り返し、さらには、なんでも自分で実験して確かめてみないと気が済まないという人間も存在することが、一般人にはイマジネーションできないのも無理はないのかもしれない。

ほんらい科学者というものはそういうものだ。知的衝動ともいうべき「魔物」のに突き動かされる存在が科学者の本質である。それは性欲や食欲などの欲望にも近いものかもしれない。知的衝動とはデモーニッシュな欲望である。

だとすれば、それを抑制するものは、科学的探求精神には内在していないことになる。 

駆動という推進力だけでなく、制御というコントロール機能が機械には不可欠だが、これは機械だけでなく機械を生み出した人間も同様である。機械の場合は、制御はスイッチのオンとオフで行われるが、人間の場合はどうやって衝動を制御するのか。

こういうとおそらく。それは「理性」だという答えが返ってくるだろうが、では「理性」とはなんだ、という議論になってしまう。「理性」というコトバを出してきても、なにも言ったことにならないのではないか。

この件については、マスコミ報道に「腑に落ちない」ものを感じて、 「魂」について考えることが必要なのではないか?-「同級生殺害事件」に思うこと というブログ記事を執筆したので、あえて重複は避けて語らないことにしたいと思う。

加害者の少年や少女が更生可能かどうかは、わたしにはわからない。英米と比較して、児童精神医学の不備であることがそれを困難にしていることもたしかだろう。同じような傾向をもつ少年少女であっても、じっさいに殺人を犯すのは、ほんの一握りであることもまた事実である。

だが、さらなる加害者と被害者を発生させないためには、専門家がけっしてクチにしない、できないいことに一般人が違和感をもとに考えてみる必要があるのではないかと思うのである。事件後の加害者の更正も大事だが、発生を予防することのほうが、はるかに重要である。

その意味でも、狭義の専門家ではないノンフィクション作家が書いたこのルポルタージュは、読む意味があるといってよい。一般人が感じる違和感を出発点にした取材活動の成果だからだ。

マスコミ報道に違和感を感じる人は、ぜひ読むことをすすめたい。



目 次

まえがき

第1章 殺意
 明日、人を殺そう
 おたのしみ袋を持って
 振り下ろされたげんのう
第2章 逃走
 どうして気絶しないんだ
 第二の殺意
 竹藪に戻らなきゃ
 体験は終わった
 出頭
第3章 動機
 少年法の壁
 新聞報道
 作られる「動機」
 少年の言葉
 プラスの体験
第4章 家族
 少年を育んだ人々
 少年の家族観
 親友と呼べるような友人はいなかった
 家族との「距離」
第5章 審判
 検察鑑定
 審判
 加害者少年の保護
 再鑑定
第6章 課題
 アスペルガー症候群
 診断の根拠
 専門的ケアの必要性
 二つの症例
 課題

あとがき
本書に対する批評-文庫版あとがきにかえて
解説 重松清



著者プロフィール

藤井誠二(ふじい・せいじ)
1965年名古屋市生まれ。ノンフィクションライター。高校在学中に「愛知の管理主義教育」を告発する社会運動に参加。その記録を卒業と同時に出版し、地元で大きな反響を呼ぶ。上京後、週刊誌記者などを経てフリーに(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。



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(2015年7月1日 情報追加)




(2012年7月3日発売の拙著です)








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