きょうは、明治時代の文学者でジャーナリストであった国木田独歩(くにきだ・どっぽ 1871~1908)の生誕140年の日である。千葉県銚子に生まれ、広島と山口で育った人。
国木田独歩といえば『武蔵野』という小説。おそらくこの連想だけが現在でも生き残っているだろう。この一作で文学史に名を残している。
「武蔵野」で少年時代を過ごしたわたしは、それだけでただ、国木田独歩には親しみさえ感じていた。
きょうは、国木田独歩の詩を一篇、紹介しておきたい。
独歩という号じたいが、独り歩くという意味。その独歩にもっともふさわしい内容とスタイルの詩であるかもしれない。
山林に自由存す(国木田独歩)
山林に自由存す
われ此(こ)の句を吟じて血のわくを覚ゆ
嗚呼(ああ)山林に自由存す
いかなればわれ山林を見すてし
あくがれて虚栄の途にのぼりしより
十年の月日 塵のうちに過ぎぬ
ふりさけ見れば自由の里は
すでに雲山千里の外にある心地す
眦(まなじり)を決して天外をのぞめば
をちかたの高峰の雪の朝日影
嗚呼(ああ)山林に自由存す
われ此の句を吟じて血のわくを覚ゆ
なつかしきわが故郷は何処(いずこ)ぞや
彼處(かしこ)にわれは山林の児なりき
顧みれば千里江山
自由の郷は雲底に没せんとす
「山林に自由存す われ此の句を吟じて血のわくを覚ゆ」。じつにリズミカルな詩句ではないか。わたしもまた「この句を吟じて血のわくを覚ゆ」るのである。
漢文調の文語体のこの詩は、リズム感があって、まさに「吟じる」に適したものである。
この詩を見つけたのは、『山と高原と湖の詩集』(新川和江編、集英社コバルト文庫、1977)である。高校時代ワンゲルで山登りしていたから購入したのであろう。
出会いというのは、どこでどのような形で訪れるかわからない。それは人も、モノも、文章も、詩もまた同じだ。
日常生活から飛び出て、魂は山林に・・・。
7月も半ば、すでに夏山シーズンが始まっている。
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