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2009年8月14日金曜日

映画 『加藤隼戦闘隊』(1944年)にみる現場リーダーとチームワーク、そして糸川英夫博士


 「零式艦上戦闘機」、通称「ゼロ戦」は海軍航空隊、三菱重工業の開発設計、真珠湾攻撃の映画化である 『トラ・トラ・トラ』は、深作欣二監督によるゼロ戦の栄光の歴史を描いた日米合作、太平洋戦線での海上作戦を空から支援し、米国海軍との死闘を繰り広げた(米国版 Tora! Tora! Tora! - Movie Trailer はここ。音声注意!)。そして、よく知られた「神風特攻隊」は海軍航空隊である。

 「一式戦闘機」である「隼(はやぶさ)」は陸軍航空隊、中島飛行機の開発設計、中国大陸から南方(=東南アジア)への作戦展開にしたがって転戦した陸軍を空から援護したのが陸軍航空隊。鹿児島の知覧から飛び立っていったのは陸軍航空隊だ。

 海軍航空隊とよく混同されがちな陸軍航空隊は、戦前は非常によく日本国民のあいだで知られていた。

 すなわち通称「加藤隼(はやぶさ)戦闘隊」、正式には大日本帝国陸軍飛行第64戦隊である。
 
 海軍航空隊の軍歌「同期の桜」(作詞:西条八十、作曲:大村能章)がやや悲壮感を漂わせた passionate な作品であるのに対し、隊歌である「加藤隼戦闘隊」は、ポジティブな姿勢に充ち満ちた、高揚感のある、聞いていて思わず口ずさみたくなる名歌である。正式名称は「飛行第六十四戦隊歌」。作詞は加藤部隊の隊員によるもの。

「加藤隼戦闘隊」 昭和16年(1941)
 作詞:飛行第64戦隊所属 田中林平准尉 作曲:南支派遣軍楽隊所属 原田喜一軍曹、岡野正幸軍曹(4番の旋律のみ)

エンジンの音 轟々と 
隼は征く 雲の果て
翼(よく)に輝く 日の丸と 
胸に描きし 赤鷲の
印(しるし)はわれらが 戦闘機

寒風酷暑 ものかわと 
艱難辛苦(かんなんしんく) 打ち耐えて
整備に当る強兵(つわもの)が 
しっかりやって 来てくれと
愛機に祈る 親ごころ

過ぎし幾多の 空中戦 
銃弾うなる その中で
必ず勝つの 信念と 
死なば共にと 団結の
心で握る 操縦桿

 干戈(かんか)交ゆる 幾星霜 
 七度(ななたび)重なる 感状の
 勲(いさお)の陰に涙あり 
 ああ今は亡き武士(もののふ)の
 笑って散った その心

世界に誇る 荒鷲の 
翼伸ばせし 幾千里
輝く伝統 受けつぎて 
新たに興(おこ)す 大アジア
われらは皇軍戦闘隊

 YouTubeに投稿された映像は実によく編集されているので、ぜひご覧になっていただきたい(・・もちろん音声注意!)。

 歌詞にあわせて映画の映像を編集して貼り付けたものだが、つなぎ方が実にうまい。実際に映画をみなくても、この映像を見るだけでも十分なくらいだ。



 私などは、トム・クルーズ主演のハリウッド映画『トップガン』(1986年公開 YouTubeに trailer あり、音声注意!)に興奮した世代である(・・この映画は米国海軍航空隊パイロット naval aviator を描いたもの。名作『愛と青春旅立ち』 An Officer and a Gentleman も同じく海軍パイロット訓練生が主人公。Trailer あり音声注意!・・空軍はドラマになりにくいのだろうか?)。

 しかし、映画『加藤隼戦闘隊』はそれ以上に素晴らしい作品である。なぜなら、撮影のためにホンモノの隼を飛ばせているのである!こんなぜいたくなことは、もちろん戦後の現在ではまったくもって不可能だ。

 CG(コンピュータ・グラフィックス)のなかった時代、実写と特撮で構成されているが、特撮は戦後コゴジラ、ウルトラマン・シリーズで特撮の父といわれた円谷英二によるものである。まさに日本人の職人技がさえる。上記のYouTube映像の最後から二番目は英領ビルマのラングーン(現在 ヤンゴン)の英軍基地空爆シーンだが、ミニチュアモデルに逃げる兵隊の映像をはめ込んだものであって、臨場感にみちみちている。

 最後にでてくるの落下傘降下のシーンは、「空の神兵」で有名なオランダ領インドネシア・スマトラ島のパレンバン降下作戦で、実際に再現して撮影したというのもまたすごいことだ。リアル感が半端じゃない。


 個人名をつけた部隊は陸海軍でほかにあったのかどうか知らないが、「加藤隼戦闘隊」という愛称は、70年以上たった今日でも、実にいい響きをもっている。

 チームとしての団結力をこの愛称が示しているからだ。


 戦闘機パイロットというものは、個人的なスキルの巧拙が戦闘能力を左右する、いわば「個人技」の世界であり、どうしても自分が撃墜した敵機の数を誇るという習性がつきものである。しかし、戦闘機は操縦士だけでなく、整備を行うものも含めたチームとして存在する。F1のチームと同じである。

 また、パイロットの個人技が前面に出すぎて個人プレーに走りすぎると、チームに課された作戦目的(ミッッション)を十分に達成できないことにもなりかねない。

 加藤隊長は自らが優秀な個人技の持ち主であったが、つねに個人プレーに走ることを諫め、チームとしてのパフォーマンスが最高になるようにつとめていた。スポーツでいえばサッカーのようなものだと考えればいいだろう。

 「・・必ず勝つの 信念と / 死なば共にと 団結の / 心で握る 操縦桿」という隊員が作詞した歌詞が、それを的確に表現している。

 もっとも、フェミニズム以降の社会学の表現を使えば、男だけの団結という、きわめてホモ・ソーシャルな関係ではあるが・・・

 しかしながら、この人にならついていきます、という気持ちにさせるリーダーシップであることは間違いない。とくに戦場においては死活的条件だろう。

 平時の文民組織に応用可能かどうかはわからないが、現代ならいかに男女混合チームのベクトルを合わせて、同じゴールに向けてチームを引っ張っていくかという課題になる。

 MVV(Mission Vision Values)がチームで共有できれば、それは可能なはずだ。

 
 加藤隊長は、つねに作戦目的は何か、をきちんと把握し、単独での爆撃が目的の場合と、爆撃機の援護が目的の場合と、降下作戦の援護が目的の場合と、作戦の定義をそれぞれ明確にし、それに応じて展開方法もそのつど変化させていた、という。

 空中戦に熱中しすぎて、味方爆撃機の援護という作戦の目的ををおろそかにしたために爆撃機に犠牲を出したことに対して、ラングーン爆撃作戦のあと加藤隊長が部隊全体を叱るシーンがある。


 陸軍士官学校を卒業後、歩兵から出発したが、途中から航空機パイロットに転じた経歴の持ち主だが、航空戦にかんするエキスパートだっただけでなく、陸軍大学校をでた知的レベルも高いエリートであった。

 寺内大将の欧州視察にも随行したスタッフとしての軍歴ももつが、開戦前に加藤少佐を実戦部隊に異動させたのは、陸軍としてはきわめて適切な人事であったといえる。


 加藤隊長は、つねに率先垂範を旨とした現場リーダー、現代風にいえばプレーイング・マネージャーであった。

 戦闘機パイロットは、その時代の最先端テクノロジーの塊である戦闘機を操縦するのだが、人間が戦闘機というマシンに乗り込み一体化するまでに乗りこなさなければならない(・・・いやロボットアニメの話をしているのではないが、マン=マシン・システムの原型ではあるといえる)。

 加藤隊長自ら隼(はやぶさ)を乗りこなし、マシンの性能からくる限界を十分にわきまえた上で航空作戦を練り、チーム編成も考えていたという。また設計者にもフィードバックを行い、それによってかなりの設計変更もされた、という。

 映画で見る限り、武人としての厳しさは当然のことながら、茶目っ気とユーモア精神にあふれ、部下思いの強いリーダーであったことがわかる。昭和18年製作の映画だが、うまく描かれていると思う。

 ときには思わず「チャーンス」と"敵性語"であった英語をくちばしったり、人間らしさあふれるリーダーであり、それぞれが一騎当千の戦闘機パイロットたちにとっても、この人にならついてゆきたいという気持ちにさせたようだ。つねに笑いの絶えないチームというのは実にいいものだ。確かな信頼感がそこにはある。


 それにしても日本は「現場」はしっかりしているが、上層部のエリート層が倫理観に欠け、多くの将兵を死に至らしめてきたことは、何度も何度も繰り返し想起しなくてはならない。現場経験から離れると急速にリアルに対する想像力を喪失するというのは、なぜなのだろうか?現場により沿って思考するという想像力が欠如しているのだろか?観念論が先行してしまう愚かさ。

 今に至るまでこの日本の悪弊は宿痾としてつきまとう。これは海軍だけでなく陸軍も同様であり、「省益あって国家なし」といわれる現代日本の省庁だけでなく、大企業組織にも共通する官僚制度の欠点が集中的に現れている。本部スタッフがよかれと作成した作戦に現場が翻弄され、目的に反した結果がもたらされるが、つねに本部は逃げ切り、現場が叱責され処分されるという不条理。

 国民性とはいいたくはない。教育制度に問題があるのだろうか。
 「空気」が問題だといってしまうと、もうそれ以上何もいえなくなってしまう。


 

南方作戦を航空戦の観点からみることも重要である。

 加藤隊長の撃墜死までの、加藤隼戦闘隊が転戦した拠点をトレースしてみる。作成にあたっては、加藤隼戦闘隊においてエースパイロットだった、安田義人氏の回想録 『栄光 加藤隼戦闘隊-飛行第64戦隊エースパイロットの回想-』(学研M文庫、2008、原本1967)を参照した。「日本陸軍南進作戦飛行場配置略図」(写真)は同書所収のものである。

1941年(昭和16年)
  ●南支広東航空基地にて隼(はやぶさ)にて97式戦闘機から、一式戦闘機隼に機種変更
1941年12月7日!
  ●仏領インドシナ(ベトナム)フーコク島航空基地より、山下先遣兵団、船団援護
   ペナン島、ケダー地区飛行場攻撃、輸送船団攻撃
  ●英領マレー コタバルより、クアンタン攻撃、クアラルンプール攻撃、ラングーン(英領ビルマ)攻撃
1942年(昭和17年)1月
  ●英領マレー イポーより、シンガポール地区航空撃滅戦
   スマトラ・パカンバル攻撃
  ●カハンより、南部スマトラ作戦 パレンバン攻撃 L挺進作戦協同(落下傘)
1942年2月~3月
  ●蘭領インドネシア パレンバン航空基地より、西部ジャワ地区航空撃滅戦
1942年3月~4月
  ●同盟国タイのチェンマイ航空基地より、第二次ビルマ周辺地区航空撃滅戦
1942年4月 
  ●英領ビルマ トングー航空基地より、マンダレー作戦ロイウィン攻撃
  ●英領ビルマ マグウェー
  ●15軍艦上(?)作戦 ラシオ降下作戦援護
1942年5月 
  ●英領ビルマ トングー航空基地より、ビルマ周辺地区航空撃滅戦
  ●チッタゴン攻撃、アキャブ防空戦 ⇒5月22日、加藤隊長、ベンガル湾上にて乗機に被弾、もはや帰還は不可能と判断し、海上に突っ込み自爆死を遂げる。
 その後も数々の航空戦に参加、功績をあげるも、1945年8月22日、敗戦にともない戦闘行動停止、英軍によって武装解除。
 最終的な戦果は、撃墜258機、不確実25機、炎上49機、大破95機。


 どうも日本人は米国にのみ敗れ去ったのような感覚があるが、実は連合国に敗れたのであって、連合国相手に戦争したことを忘れがちのようだ。陸軍は主に南方で(・・東南アジア South-East Asia という表現は、戦争中に英軍が軍事作戦の関係上作ったコトバである)英軍と戦ったのである。フィリピンでは米軍と戦った。

 1945年12月8日、海軍航空隊による真珠湾攻撃の数時間まえに、陸海軍合同によるマレー・シンガポール攻略作戦は始まっていた。タイのチュンポンに上陸、タイ軍と数時間にわたって交戦が行われた事実はあまり知られていない。タイが日本の同盟国となることを余儀なくされた数時間前の出来事である。

 おそらく「太平洋戦争」というネーミングに引っぱられてしまうためだろう、近年は英語の Asia Pacific War を直訳した「アジア太平洋戦争」という用語が歴史学者のあいだで使われているが、それならいっそのこと「大東亜戦争」といえばいいのではないか、とも思う。

 戦争に負けたら、歴史的な名称も書き換えてしまうのは、何か腑に落ちないものを感じる。





 さて、戦闘機隼(はやぶさ)といえば、中島航空機で隼の設計を行ったエンジニアこそ、かの糸川英夫博士である。

 糸川英夫もすでに亡くなってから10年、名前さえ知らない世代がでてきても不思議ではないが、名著 『逆転の発想』(プレジデント社、1981)は、PHP文庫から『新・逆転の発想』(1991年)として出版された際に熟読したものである。もちろん内容は今となってはだいぶ古いのであるが、なによりも「逆転の発想」というフレーズは永久に消えることはあるまい。

 糸川英夫は、東京帝大工学部を卒業後、中島飛行機に入社し、戦闘機の設計を担当した。

 とくに有名なのが一式戦闘機「隼」の開発であり、『新・逆転の発想(下)』に所収の「カンを鈍らせる現代の教育」で、中島飛行機時代のエピソードを紹介している。


 戦闘機設計の極意は、パイロットと仲良くすることである、なぜなら飛行機を設計しても、飛行機を飛ばすのは設計者ではなくパイロットであり、設計者はパイロットとの対話をつうじて設計を修正し、よりよい飛行機をつくっていくのであると。そのため設計者は徹底的にパイロットとつきあえ、と東大工学部に招かれたときに行った講義でぶったところ、学生が一人も来なくなってしまったという。
 仕方ないので、理論的な講義を再開したが、動物的なカンを失った学生にはほとほと愛想を尽かし、以後はリサーチ・プロフェッサーとしてロケット開発に専念たとのことだ。
 糸川博士が実行したのは、「現場」との絶えざる対話、シミュレーションではなくリアルな世界との格闘である。

 敗戦後、日本が航空機の製造を禁止されてからは、医療機器の開発、ロケット開発、東大を退官してからは組織工学研究所を設立して未来予測などを行った「独創の人」糸川博士は、先にも触れた「カンを鈍らせた現代の教育」のなかで次のようにいっている。

「・・能力は落ちない、死ぬ瞬間まで上昇する・・・どうして年をとると能力が低下するという通説が世間にあるのか、私は次のように考える。・・・中高年は年齢の故に能力が落ちるのではない、年齢の上にあぐらをかくから、生活が安定するから、性能が低下すると思うのである。
 私は死ぬ瞬間まで能力を低下させない方針であるから、それで10年に一度ずつ商売を変えるわけである。面白がって変えるわけではない。・・・(中略)・・・
 私は安定したら駄目だと思う。戦後、飛行機屋を辞めた時に、自動車会社へ行けば、かなりよい給料をもらえると思った。しかし給料をもらったら頭がぼけると思ったので、ジャングルで戦うべきであると、病院勤めをしたのである。・・・そういう時に何を考えるか。食べるものはほとんどなく、お金もなくなって、私はこれで食べなければならない。・・・・いまに彼らの考えない医学の原理を発見してやる、と毎日そう思うので、先が見えてくるのである。
 中高年の問題も、中高年になりつつある人が、年とともにどうしても社会的に安全な環境に入ってしまうことに根本の問題がある。これに対抗して、安全保障分だけ、危険なファクターを自分でデザインして生活の中に置いた方がよい。危ないという状態をつくっておけば、死ぬ瞬間まで能力は上昇する。年をとったからといって、能力が落ちることはないと思うのである。危ないと思えばカンが鋭くなる。・・・(中略)・・・
 それでも、不幸にして大学を出てしまった人はどうしたらいいかというと、これを打ち消すような研修計画がどうしても必要になる。一番いい研修所は、前にも書いたように失業だと思う。会社で安穏と何十年勤務してもいいが、一年や二年失業したって死にやしない。その間に勉強するというのは、再就職してからまるで違う。・・・(中略)・・・
 多少の危険を冒さなくてはカンは出ない。生きるか死ぬかという瀬戸際のところで、シャープに研ぎすまされるのであり、安穏なところに置いておいたら、鈍化するだけなのである」(p.167~173)。

 こういうことを人生で何度も実行した糸川英夫博士という人は、実にすごい人だったのだなあと思う。

 とかく弱くなりがちな自分を鞭打つコトバとして引用しておいた。


 晩年はイスラエルに強く共鳴され、77歳のとき『荒野(あらの)に挑む』(ミルトス、1989)という本を書いている。

 自らがかかわったテクニオンと、イスラエルのベングリオン大学物語である。

 これは、「逆境は進歩と創造性の原点である」を証明した一人の偉大なる先覚者と、その先見に同調して、砂漠と荒野に挑戦を続けている人々の感動的な記録である・・・と、このように扉には書かれている。

<目次>
1. 新しいテーマ-現代イスラエルの創造力と科学技術
2. 砂漠の中の奇跡-砂漠の町ベエルシェバの大学
3. 逆境の力-砂漠の中に生きてゆける研究
4. 偉大なる先覚者-ダビッド・ベングリオンという人物
5. 出会いの不思議さ-人間の心の同調現象
6. ビジョンの実現-ベングリオン大学とは何か
7. 献身という価値-ベングリオン大学のユニークさ
8. 使命は世界の砂漠へ-第3世界への支援活動の実例
9. 荒野への挑戦-もう1度、ベングリオン

 重要なのは、ビジョン(Vision)をもち、使命(Mission)のために、献身(Dedication)する、愛国者(Patriot)、これが糸川博士がイスラエルから受け取り、本書の核としてわれわれに示したメッセージである。

 「逆境は進歩と創造性の原点である」、あらためて噛みしめたい。肥料をやり過ぎると野菜も肥料焼けして枯れてしまう。自ら逆境に追い込むことも人生においてはときに必要だ。


 おそらくこの『荒野に挑む』は文庫になることも、再刊されることもないだろう。

 この本が出版された当時、まだ建国40年だったイスラエルもこの20年で大きく変貌しているようだ。私自身、1992年に訪れて以来、なかなか再訪の機会がない。

 イスラエルについては、正面から肯定的に取り上げた本が日本ではきわめて少ないので、あえて内容を紹介しておいた。

 親イスラエル=反アラブ、親アラブ=反イスラエル、というお粗末なクリシェがいまだに支配する日本の風土にはまったくもってうんざりするが(・・9.11以降さらに増幅されているような気もする・・・)、私自身は親イスラエルであり、かつ親アラブである。親ユダヤであり、親イスラームである。どちらか一方に過度な肩入れをするつもりはない。

 実際に行ってみれば、イスラエルは実に美しい国である。空気が乾燥しすぎていることさえ除けば。

 イスラエルでテロに遭遇して死ぬ確率は、日本で地震に巻き込まれて死ぬ確率と大して違わない、というアネクドートがあるが、まあそんなもんだろう。過剰に心配したところで意味はない、人間は死ぬときは死ぬのである。


  この文章は、生前「加藤隼戦闘隊」の歌をよく口ずさんでいた、今は亡き盟友、唯一の親友であったHSの魂に捧げたい。取り組み始めてから、ずいぶんかかったが、いまやっと書き終えて、肩の荷がおりた気持ちである。
 前にも書いたが、私の世代は、まだ多少は軍歌を歌える人間が少なからずいる世代である。本日このブログにアップした文章を一番読ませたかった友は突然死して、幽明異にすることすでに数年。今生において対話できないのは誠にもって残念である。
 いつかまた会おう。まだまだ先になるだろうが、その時は「加藤隼戦闘隊」をともに合唱しよう。 合掌




<追記>
 スーパーレーシングカーものアニメ『マシン・ハヤブサ』(1976年)の歌詞が昔から好きだったのだが、YouTube で久々に視聴してたいへん懐かしく思った)、そうか、原作者の意識のなかで、このハヤブサは間違いなく戦闘機隼(はやぶさ)なのだな、と気がついた。
 「♪マシンは僕だ~ 僕がマシンだ~」という歌詞は、まさにマン=マシン・システムの極限状態を表現しているのだ。いまさら何をいってるのだ、といわれそうだが・・・(2009年8月16日)

 ハイテク・ベンチャー立国イスラエルのたいへん興味深いビデオ・リポートがJETROのサイトでみることができるので紹介しておく。10月24日配信の9分30秒のかなり内容の濃いリポートである。(2009年11月2日)

 日経BPのオンライン版で面白い連載がある。
イスラエル成長の啓示」・・ハイテク技術開発立国イスラエルのインサイド・リポートで必読。(2009年11月記)



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