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2010年7月14日水曜日

成田山新勝寺「断食参籠(さんろう)修行」(三泊四日) (4) 間奏曲-過去の断食参籠修行体験者たち





 書架にあった仏教書を読む。成田山新勝寺は真言宗(密教)のお寺なので密教関連の仏教書が書架には多い。

 自分でも5冊ほど般若心経関連の本をもってきているのだが、せっかくなので「ご当地読書」を実践することにしようと思った。
 旅先でその土地にかんする本を読むというのは実に得難い経験になるのだが、とくに宿泊先に置いてあった本を読むのもまた面白い経験だ。
 旅先で読んだ本は記憶に残りやすいのは、旅という非日常的な経験の記憶が、読書の記憶と結びついているためだろうか。西表島の旅館に置いてあった動物作家・戸川幸夫の『イリオモテヤマネコ発見記』だとか、ネパールのポカラでみつけたチベット語の辞書、タイのチェンマイで読んだ On Bullshit などなど・・・
 はじめてタイにいったときに持参して読んだ、石井米雄の『タイ仏教入門』(めこん)などの本は、旅先の「現地」で読んだからこそ記憶に定着しているのだろう。

 成田山新勝寺が刊行している「成田山選書」というシリーズが、まさに「ご当地読書」の対象になる。せっかくの仏縁なので、書架の本は私が整列して並べ替えておいた。これもおつとめの一つと考えて。


断食参籠修行を行った先人たち

 さて断食初日に、『西式健康法』の次に私が手に取ったのは、『お不動様の話』(宮坂宥勝、成田山選書、1998)という本だった。
 断食参籠修行を行った先人たちのことをもっと知りたい(!)と思っていた私にとって、格好の内容の本であった。当然のことながらコピー機はないので、メモをとりながら読む。このときとったメモを導きにして、過去の断食参籠修行体験者たちの事跡をまとめておこう。

 成田山新勝寺で断食参籠修行を行った著名人は、祐天上人(ゆうてんしょうにん)、市川團十郎丈とくに初代と七代、二宮尊徳(二宮金次郎)、倉田百三、である。
 祐天上人(ゆうてんしょうにん)は浄土宗の僧侶で、のちに芝の増上寺の貫首になった高僧、市川團十郎はいうまでもなく成田屋の屋号でも知られる歌舞伎界のスーパースター、二宮尊徳はいうまでもなく、倉田百三は親鸞を主人公にした『出家とその弟子』で有名な大正時代の作家である。

 子宝に恵まれない初代の市川團十郎(1660–1704)が断食参籠修行をしたら、効験あらたかで二代目に恵まれたということから、市川團十郎丈(・・わたしは知らなかったが「丈」をつけるのが歌舞伎界の常識のようだ)と成田山新勝寺の密接な関係ができあがったらしい。それ以来の「成田屋」なのである。いまから300年前の元禄時代のことである。
 とくに七代目は熱心で、三七二十一、すなわち21日間の断食参籠修行を行っている。境内には、七代目市川團十郎(1791–1859)の石像(写真下)が奉納されているくらいだ。



 またのちに触れるが、ちょうど私が断食参籠修行で滞在していた期間は、「成田祇園会」と重なっており、7月9日(金)には7月末に結婚式を行う市川海老蔵夫妻が、成田山新勝寺の大本堂で不動明王に結婚奉告を行うことになっていた。
 これもまた、市川團十郎宗家と成田山新勝寺との深いかかわりの一環なのである。

 祐天上人(1637~1718)は、生来物覚えが悪くお経も全然覚えられないので、思いあまって成田山新勝寺で断食参籠修行を行うことにしたという。
 断食が満願成就の前夜、夢に不動明王が現れて、不動明王から短剣を呑むか、長剣を呑むかと迫られて、どっちにしろ呑むなら同じだと思い長剣を呑むと、ノドが裂けて気絶し、翌朝に血だらけになって倒れているところを発見された。眼が覚めると理解力バツグン、記憶力が見違えるほど向上していた、というお話。
 ああ、これだったのだ、と思い出したのは、高校時代からときどきパラパラみていた、柳田國男が校訂した『利根川圖誌』(赤松宗旦、岩波文庫、1938)の挿絵であった。なかなか迫力のあるものである。単色刷の木版画のようだが、これが極彩色だったら迫力満点だろう。後光を帯びた不動明王の激しい形相と祐天上人の口から飛び散る鮮血。スプラッターものだな。



 二宮尊徳(1787-1856)については後述する。

 倉田百三(1891-1943)は子供の頃から病弱で40歳過ぎまでに、肺結核、脊椎カリエス、神経症などほとんどありとあらゆる種類の病気を体験した人で、若い頃に西田天香の一燈園に滞在、精神医学の森田正馬、大本教の出口王仁三郎などとも面会している。
 親鸞を主人公とした戯曲『出家とその弟子』を書いたことでもわかるように、もともと浄土系の信仰をもっていたが、「他力」ではだめだ「自力」のパワーがほしいのだと、不動信仰に目覚めたのだという。
 1931年(昭和6年)4月6日から21日間、断食参籠修行に入った。この間、不動明王の真言も唱え、水行も行い満願成就した。
 「不可能を可能とするのが行(ぎょう)」であり、「信(しん)より行(ぎょう)」という信念をもつにいたったという。これはきわめて日本的な仏教認識といえるかもしれない。
 その後の倉田百三は、「成田山願行記」(改造、1931年6月号)など執筆、その後は「日本主義」から「超国家主義」へとエスカレートしていったとのことである。


かつての断食参籠修行はかなりハードなものだった

 三七二十一、すなわち21日間(=3×7日!)だったのである!
 しかも、不動明王の真言を唱え、隣接している水行場で水行も行うといった、きわめてハードなものだったようだ。

 現在は、断食参籠修行が最長でも六泊七日、これ以上の延長は原則認められていない。しかも、あいだに一ヶ月おかなければ断食修行はできないと決められている。
 水行(みずぎょう)もやってはいけない。冬はさておき、夏はやってみたいと思うのだが・・・水行ができるのは、修法師だけである。
 インフォームド・コンセントの時代であるから、たとえ自己責任だとはいえ、成田山新勝寺としても責任とりかねるということであろう。世の中全体がヤワになっているからなあ、などという資格が私にあるかどかわからないが。
 


二宮尊徳の断食参籠修行のことはぜひ知っておきたい

 成田山新勝寺で断食参籠修行を行ったもっとも有名な人は、おそらく二宮尊徳であろう。



 二宮尊徳は、二宮金次郎の名前で知られているが、薪を背負って本を読む銅像あるいは石像だけで二宮尊徳を想像したら大違いである。
 私流に表現すれば、幕末当時は発展途上国であった日本で、主力産業であった農業分野における、農業経営に軸を置いた開発コンサルタントの元祖、というのが正確なところではないか。
 歴史家・奈良本辰也のエッセイ集『歴史エッセイ集 志とは何か』(旺文社文庫、1981)に収録された「二宮尊徳に学べ」からヒントを得た表現だ。
 また、奈良本辰也の『二宮尊徳』(岩波新書特装版、1993 初版 1959)を読むと、二宮尊徳は経営者体験をもつ実践型(=ハンズオン)の開発コンサルタント元祖だったということがいえるだろう。

 何よりもまず一家離散した自分の家を、勤勉と計数の才能で再興し、また奉公先の小田原藩家老の財政を立て直した二宮尊徳が、小田原藩主から本格的な開発案件を依頼されて取り組んだのが、飛び地である桜町領(・・現在の栃木県)の立て直しであった。再建コンサルタントでもあったわけだ。

 これがなかなかの難事業であたらしいのだ。人心が荒廃し、なかなか言うことをきかないし、また足を引っ張る者も少なからずいる。
 こうした状況を打破するため、二宮尊徳は大きな賭けに出たらしい。突然、姿をくらませ、しばらくしてから成田山新勝寺で断食参籠修行をしていることを知らせに使いを出した。
 そして三七二十一の21日間の断食と水行の荒行を満願成就したのち、ちょっと軽く食べただけで、その足でそのまま成田から桜町まで歩いて戻り、翌日からさっそく作業を再開したというのだから、ほとんど超人的な体力である。
 身長六尺(≒180cm)という大柄な体格もあいまって村人を圧倒したようだ。いまふうにいえば「二宮尊徳超人伝説」が生まれ、これを機会に一気に流れが変わり、その後は立て直しは成功にいたったということなのだ。

 こんなこともあって、二宮尊徳の霊験の話がことさら大きく後世にまで伝わっているのであろう。もちろん、大日本報徳社が草の根の活動として、二宮尊徳の思想を農村に広めたことも大きい。
 二宮尊徳の高弟であった富田高慶が記した伝記『報徳記(岩波文庫、1933)には、「先生総州成田山へ祈誓す」(p.40~41)という項目に詳述されている。

 数年前、新渡戸稲造の『武士道』が再ブームになっていたが、内村鑑三の『代表的日本人』もまた、もともと英文で書かれて米国で出版された本である。内村鑑三が代表的日本人(Representative Men of Japan)の一人として二宮尊徳を取り上げているが、断食参籠修行については以下のように書いている。

NINOMIYA SONTOK - A PEASANT SAINT

III-THE TEST OF HIS ABILITY
 より

 Once discontent became general among the villagers, and no "art of love" could subdue it. Our governor thought he himself was to be blamed for all such. ''Heaven punishes thus my lack in sincerity," he said to himself. One day he disappeared suddenly from among his people, and they all became uneasy about his whereabout.
 Some days after it was found that he had resorted to a distant Buddhist temple, there to pray and to meditate, but chiefly to fast for one-and-twenty days, that he might be furnished with more sincerity in leading his people.
 Men were sent thither to entreat him for his speedy return, as his absence meant anarchy among his people, who now had learnt that they could not get along without him. The term of his fasting over, he strengthened himself with a slight meal, and "the day after his three weeks' abstinence from food he walked twenty-five miles to his villages, rejoicing in his heart to hear of the repentance of his people." The man must have had an iron constitution with him.

(英文引用は下記のサイトから行い、誤植を訂正した)
https://openlibrary.org/books/OL22892102M/Representative_men_of_Japan


 内村鑑三の英語は、岡倉天心の英文と比較すると、正直いって名文とは言い難い。まあ、このゴツゴツとした文体は内村鑑三その人を表しているのかもしれないが。米国人が二宮尊徳を知ったのはこの本からである。
 興味のある人は、日本語訳が岩波文庫からでているので参照されたい。

 断食は、英語で fasting (・・動詞の原形は fast)。ネットでみていると、断食のことをカタカナでファスティングと称して、お気楽そうにみせかけている業者もいるが、中身はいかなるものなのであろうか。
 二宮尊徳のファスティングが21日間の絶食であったことを知れば卒倒してしまうだろう。そっとしておいて、あげようか。

 成田山新勝寺の断食参籠修行は Buddhist Fasting Session と表現するのがふさわしい。


 ちょっと寄り道をしてしまったな。
 いよいよ、次回(5)から二日目に突入する。