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2011年1月7日金曜日

いかにして異なる業種業界や職種間、また組織内の異なる機能間で「共通言語」と「コンテクスト共有」によるコミュニケーションを可能とするか



 専門家としての能力と周辺分野とのコラボレーションが必要な時代だ。同じ組織のなかだけで過ごしてこられた時代はすでに終わっている。

 自らが属する組織から一歩出たとき、まったく話が通じない、同じ日本語をしゃべっているのになぜ意思疎通ができないのだ、という思いを抱いた経験は誰にでもあることだろう。

 最近は、いやがおうでもコミュニケーションの必要性に迫られる環境にある。突然、会社が買収された。合弁会社を作ることになったので転籍含みの出向を命じられた、外部の専門家を一緒に新しい事業を立ち上げろ、などなど。
 いや、まさか自分が、と思っていたがリストラを宣告されたことすらある。

 そうなったとき、いままでぬるま湯のなかで気楽に過ごしていた人にとって、突然コミュニケーションが成り立たないという現実に直面することになる。ゆで蛙状態になるのはコミュニケーションも同じである。

 コミュニケーションがディスコミュニケーション(コミュニケーション不全)になってしまうのだ。

 これは世代間でも同じだ。同じ日本語ではないのか?
 若者が使う略語は、いつの時代でもジャーゴン(隠語)であるので、その世代や小集団を離れては通じないのは同じだ。

 やっかいなのは、世代が同じだとしても、同じような属性をもつビジネスパーソンどうしでも話が通じないことが多々あることだ。
 話が通じていると思ってお互い会話をしていながら、実は話がまったく通じていなかった、なんとなくわかったつもりになって会話を続けていたが、さてミーティングの議事録のドラフトを作成してみたら、こんなことは言ってないとクレームをつけられた、などなど。
 
 なぜ同じコトバを使っていても話が通じない? 一生懸命コミュニケーションつもりなのに、なぜ結果としてディスコミュニケーションになってしまうのか。

 もちろん「うるわしき誤解」がコミュニケーションをスムーズに進展させることも、ときにはあるのだが、実際問題その真逆であることが圧倒的に多い。


ビジネス界とは違う世界との会合での経験

 業界によって特殊なコトバが使用されることが多いが、これはビジネス界にとっての異世界との遭遇で経験したことだ。一年くらい前のことだが、こんな経験をした。

 「じゅぎょうしゃ」は、「じゅぎょうしゃ」は・・・
 はあ? 「じゅぎょうしゃ」て何のこと? もしかして「授業者」??  
  
 私が委員をやっている私立学園の諮問委員会でのこと、委員の一人の教育学部に属するある教授の発表を聞きながら、アタマを猛烈に高速回転させて、話の内容を理解しようと努めていた。  

 質問してみてわかったのだが、やはり「授業者」であった。

 「授業者」とは、一貫してビジネスの世界に生きてきた私には、まったくもって、生まれて初めて聞いたコトバだ。そのときまで、まったく聞いたことすらなかった。  

 「授業者も事業者も、どちらもマネジメントにかかわっている、授業者は1クラス40人の生徒たちのマネジメントしますからね」・・というのが、その教授の発言を受けた私の話のオチだが、まことにもって専門分野を異にする人のあいだでのコミュニケーションは難しいものだと痛感した。  
 
 このように似たような音のコトバは、自分のいる世界で知っている音で類推するしかないのだが、対面の会話の場面では類推を確かめることができるので実害はミニマムにできるが、そうでない場合は・・・

 会合のあと、別の委員の方としゃべっていて話題になったのは、ビジネス界では Best practice というが、教育界では Good Practice というから始まって、最近は学生のコンピテンシーを測定しようという動きがあるらしいということだった。
 コンピテンシーは食傷気味のビジネス界から見ると、なんともいえない気分ではある。これは話が少しそれてしまったが。


経済用語と心理学用語の混乱、その他の専門分野の用語

 ところが、ビジネス界ではないが、心理療法の世界ではクライエントというカタカナ日本語を使っている。英語では client とまったく同じつづりで同じ意味なのに、日本語では違うコトバにしてしまっている。なんたるコミュニケーション不全の要因たることよ。

 「コア・コンピタンス」と「コンピテンシー」も、何がどう違うのかさっぱりわからない。前者は企業経営の世界、後者は心理学の世界での専門用語。日本での担い手が違うだけで、英語としてはほとんど意味は同じだ。

 英語でも意味の違いがあるが、それがそのままカタカナ日本語に持ち込まれて、互いにコミュニケーション不全をもたらしているケースにはまだまだ例がある。専門のたこつぼ性のもつ弊害である。

 モラトリアム(moratorium)というコトバもそもそもは金融用語で、大震災などの不可抗力によって金融に混乱が発生した際に出される「債務の支払い猶予」のことだが、これが心理学の世界に転用されて、「大人になるまでの猶予期間」の意味で使われている。日本では「モラトリアム人間」というキャッチフレーズで、後者の意味のほうが有名なのではないだろうか。

 ディプレッション(depression)も心理学用語で抑鬱(よくうつ)のことだが、経済学では恐慌のことを指している。

 医者の世界で使うカンファレンス(conference)、これはビジネスの世界で使うコンファレンスと英語にしたら同じである。

 こんな例は、まだまだ無数にあるはずだ。



一般世界でも人によって意味の異なるものを指していることが多い

 たとえば、「ゴッド・ハンド」という表現が日本では使われている。

 文字通りの意味は「神の手」ということだろうが、「ゴッド・ハンド」を聞いたとき、サッカーファンならまず現役時代のマラドーナの話を想起するだろうし、空手なら極真空手の大山倍達のことを、考古学ファンなら旧石器遺跡の捏造事件の張本人の話を、マッサージ好きなら名人の手技のことを、それぞれ想起することだろう。

 同じコトバを使っても、人それぞれで想起している内容が違うことはままあるものだ。
 日常生活では、通常わかったふりをしてやり過ごすことも多いが、同じコトバを使っていても、異なる意味で使っていることもままある。それでも、なんとなくコミュニケーションが成り立っていると言うのも、また不思議な話ではある。
 
 神の話がでたから、ついでにキリスト教特有の用語についても書いておこう。

 Passion は、普通名詞では「情熱」を意味するが、キリスト教では大文字で「受難」を意味する。
 Assumption は、普通名詞では「仮定」を意味するが、キリスト教では「聖母被昇天」を意味する。

 こういった用法は、キリスト教世界の外にいる人にはまったく想像もつかない用法としかいいようがない。


ビジネス界における「業界によって意味の異なるコトバ」

 話はビジネスの世界に限ってみても、業界によって意味の異なるコトバは意外と多い。とくに英語をそのままカタカタで表記した日本語に多いようだ。

 たとえば「デフォルト」というコトバがある。英語だと default とつづる。
 コンピュータ用語では「初期設定」のことだが、金融経済用語では「支払い停止」のことだ。

 双方の世界に足を突っ込んでいる人間には、一瞬のうちにアタアを切り替えることも可能だろうが、それぞれが異なる意味のまま会話し続ける、ということもありうる。
 銀行のなかでも、システム部門の人間とそれ以外の部門でのコミュニケーション不全の一つの要因になりうるかもしれない。

 「ポートフォリオ」(portfolio)も 金融界では、金融商品の組み合わせのことをポートフォリオといい、精緻な理論がポートフォリオ理論として構築され、MBAコースのファイナンスの授業で勉強することになる。
 ところがデザインの業界では、ポートフォリオとは、デザイナーの作品集のことをさしていう。

 私は、たまたま金融系のコンサルティング会社と広告代理店系のコンサルティング会社の両方を経験したので、金融と広告代理店という水と油のような業界では、コトバが通じないだけでなく、ものの考え方も、会議を含めた仕事のやり方もすべてが異なることを身を通じて体験した。

 米国でも、金融と広告代理店は同じニューヨークにあっても、それぞれウォール・ストリートろマディソン・アヴェニューとまったく違う世界に属している。

 ついでだから、この「水と油」の業界についてもう少し書いておきたい。
 
 はじめて米国にわたってUCバークレーのビジネス英語のコースに通っていたときのことだが、熱心な先生でさまざまなゲストスピーカーを教室に呼んで話をしてもらったが、その一人がシティバンクのサンフランシスコ支店のマーケティング担当だった。銀行でマーケティング(!)というのが驚きに感じたくらい、日本の銀行にはマーケティングという考えが 1990年時点には存在しなかったが、もちろん現在は状況は変わっているだろう。

 そもそもいまだにマーケティングというコトバと概念については、MBAコースやコンサルティング会社でいうマーケティングと、広告代理店がいうマーケティングはイコールではないような気がする。広告代理店系コンサルティング会社で感じた違和感だが、私がもともと金融系コンサルティング会社にいたことが原因かもしれない。

 ただし、コンサルティングの世界でも、広告代理店の世界でも顧客のことをクライアントということにかんしては共通している。


「コンテクスト共有」という考えから、企業内や組織内のコミュニケーション不全状態解消策を考える

 企業経営の世界では、よく「共通言語」という表現を使う。英語の common language を直訳した、日本語としてはちょっとかたい表現だ。

 M.B.A.ホールダーがよくクチにするが、彼らが意味しているのは、共通のビジネス用語とその意味を正確に把握して使用すれば、業種業界や個別企業のワクを超えて、共通のコミュニケーションが可能になるということだ。

 私はもっと現場に則して、M.B.A.ホールダーが皆無であるような会社や組織について考えてみたいと思う。

 「共通言語」は、とくに異なる文化をもつ合併企業や合弁企業では大いにを意識すべきものである。

 また、急成長業界で、異なるバックグラウンドをもった中途採用出身者が大半を占めるような会社でも、「共通言語」を作るべく努力すべきだろう。

 こんなことを書くのは、私自身が新卒で設立二年目の会社に入社した経験をもっているからだ。
 銀行の審査部門を中核に設立されたコンサルティング会社だったが、企業向けのコンサルティング部門と官公庁向けのリサーチ部門がそもそも文化として違うだけでなく、銀行出身者、コンサルティングファーム出身者、シンクタンク出身者、一般企業からの転身者、業界団体出身者、マスコミ出身者、などなどまったく異なるバックグラウンドの持ち主の寄せ集めのような状態だった。

 よく言えば多士済々、悪く言えば混乱の極み、そんな状態の会社に何も考えずに飛び込んだわけだが、最後の最後まで、会社全体としての「共通言語」はできなかったのではないかと思う。
 「共通言語」がなくても、日本語で会話しているのでコミュニケーションは成り立つわけだが、自分のアタマのなかで通訳しながら会話をしていたわけで、私はキャリアの第一歩から異文化体験をしていたことになる。
 新卒入社の人間が増えるにつれて、少なくとも新卒入社の人間のあいだでは「共通言語」でしゃべれる状態になっていたようだ。

 こうした状況でのコミュニケーションについては、米国の文化人類学者エドワード・ホールが打ち出した概念である、「ハイコンテクスト文化」と「ローコンテクスト文化」が役にたつ。

 この概念は、とくに日米経済摩擦の激しかった頃に日本語に翻訳されて一世を風靡したものだが、日本のように凝縮性の強い文化はコミュニケーションにおいていわゆる「あうんの呼吸」が通じるので、これをコンテクスト(文脈)を共有する度合いの強い文化として「ハイコンテクスト文化」(high context culture)とし、米国のように雑多な異文化状況ではコンテクスト(文脈)の共有度合いが低いので「ローコンテクスト文化」(low context culture)と命名された。

 「ローコンテクスト」状態でコミュニケーション不全状態を解消するかについては、単にコミュニケーション・スキルの向上だけでは問題解決はできない。

 組織内に委員会などを設定して、組織内で使用されているコトバを収集分析したうえで「辞書」をつくるという試みが必要だろう。
 その際に、それぞれの構成員がもつコンテクストの違いを明確に認識し、あらたなコンテストを作っていくという姿勢が必要だ。
 これはある意味では、あたらしい組織文化を創っていくということにも等しい。

 このためには、ミッション・ビジョン・バリューで表現される企業理念の構築ないしは再構築が必要になってくる。これについて書いているとキリがないので、これは後日に期したい。


企業や組織の枠組みを超えて出会う個人と個人が「コンテクスト共有」でコミュニケーションを成立させるには

 同じ組織に属しないビジネスパーソンどうしが「共通言語」で話をするには、バクグラウンドが違う以上なかなか難しい。

 このためには、そもそもコミュニケーションはディスコミュニケーションになってしまうのだということを最初から意識しておくに越したことはない。
 つまり、話が通じないことを前提に話をするべきなのだ。

 マイドセットはそうだとしても、実際にはさまざまなテクニックは駆使したほうがいい。

 一つは、会話が始まる前、あるいは始まったらすぐに、共通の話題や、共通のバックグラウンドを探すことだ。
 共通性があれば人間というのものは不思議なことに共感を覚えて、気持ちがリラックスしやすい。これはよく知られている心理学上の知見だが、私がここでいたいのは、できるだけ早く共通のコンテクストを形成するためにコンテクストのすりあわせをするべきだということなのだ。

 「ああ、この人はこういう意味で、このコトバを使っているのだな」とアタマのなかで考えてみる。
 そのうえで、「私がこのコトバで言ってるのは、こういう意味で言ってるのですが・・」、「あなたの話は、私はこういう風に受け取りましたが、間違ってませんか?」、「ああ、つまりこういうことなんですね」・・といったことを実際に会話の場でクチに出すことによって、コンテクスト共有を進めてゆく。

 出来る限りコトバを厳密に定義して「共通言語」を使うことは重要だが、法律家ではないので、契約書のような厳密なことをいっていては、コンテクスト共有どころか浮いてしまうだろう。
 むりに「共通言語」化を進めることなしに、こういったワザでコンテクスト共有化は可能だ。

 ロジカル・シンキングなどとクチにする前に、すべきことは多いのではないかと思うのだが・・・


<ブログ内関連記事>

"try to know something about everything, everything about something" に学ぶべきこと
・・「いわゆるコラボレーション型の仕事である。 細分化された狭い専門に閉じこもっているということ、あるいは自社内に閉じこもっているということは、自分の専門内でしか、また自社特有のコトバでしか語れないということである」





   


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