■原題は「資本主義の力学」-「知の巨人」ブローデルが示した世界の読み方■
本書『歴史入門』 (フェルナン・ブローデル、金塚貞文訳、中公文庫、2009)は、日本語訳ではハードカバーで全6巻に及ぶ大著『物質文明・経済・資本主義』(みすず書房)への著者自身による入門である。
経済を軸に据え、歴史学の立場から行った、壮大な規模と構想をもった15世紀から18世紀までの「世界=経済」(エコノミ・モンド)の解釈を、アナール派を代表する「知の巨人」であった歴史学者ブローデルが、自ら要約して 1976年に米国のジョンズ・ホプキンス大学で講演したものだ。
「歴史入門」というタイトルで本書を手にとった読者は、少しとまどいを感じたのではないだろうか。本書の日本語版は「歴史入門」と題されているが、原題は La Dynamique du capitalisme(1976)、直訳すれば「資本主義の力学」とでもなろうか。単行本出版の際に出版社がつけたタイトルであろうが、きわめてミスリーディングなタイトルである。文庫版刊行にあたって、「ブローデル 歴史学入門」くらいに変更しておくべきだったのではないか。
では、「全体史」を目指した歴史学者フェルナン・ブローデルのものの見方とはいったいどういうものか簡単に見ておこう。
人間の生物学的な生存条件を出発点とし、政治ではなく「経済」を主人公とした歴史解釈であり歴史記述であるが、それは『物質文明・経済・資本主義』というタイトルそのものに表現されているといってよい。
しかしながら、歴史学者ブローデルの主張は、マルクス、ウェーバー、シュンペーターといった社会科学者たちの通説とは大きく異なるものだ。日本の大学で社会科学を勉強して、これらを常識として受け取ってきた者にとっては、やや違和感というか、よくいえば新鮮な印象を受けるのではないだろうか?
マルクスの発展段階説を否定し、奴隷制、農奴制、資本主義は順番に出現したのではなく、同時性と共時性があると強調する(P.117)。マックス・ウェーバーのプロテスタンティズムが資本主義の推進力であるという考えを否定し、「世界=経済」が地中海から北ヨーロッパに移行した結果にすぎないとする(P.88)。シュンペーターのように起業家(アントルプルナー)を資本主義の推進力とはしない(P.85)。
このように、ブローデルの歴史学においては、経済において歴史学と社会科学が結びつく。しかも、首尾一貫して「資本主義」と「市場経済」を区分して考えている。これは著者の主張のキモなのだが、一般の通念とは大きく異なっているので、著者の主張をすんなり理解するには、ためらいを感じるかもしれない。
また、著者自らがいうように、「世界システム論」を説くウォーラースティンとは共通認識をもつが、ヨーロッパ以外でも世界は共存する複数の「世界=経済」に分割されていたと考える点においては異なるともいっている(P.106)。
封建社会がゆっくりと崩壊して資本主義社会が出現した点において、西欧社会と共通しているのは日本だけであるという指摘(P.93)は、先行研究を踏まえたものだが、日本人としてはあらためてその意味を深く考えてみる必要があるだろう。
訳注と解説を除けば、文庫本でたった145ページという小冊子であるが、ブローデルの到達点を語って、語り残すところのない凝縮された一冊である。
簡潔すぎるのが強みでも弱みでもある「ブローデル歴史学入門」であるが、ブローデルについて語るなら、まず最低この本だけでも、腰を据えてじっくり読んでおきたいものだ。
とくに、「資本主義」のまっただなかに生きるビジネスパーソンには、通説と異なる感想をもつとしても、ぜひ読んで欲しい一冊である。もちろん、ビジネスパーソンに限らず、経済という人間の営みを中心に、歴史学の観点からものをみるための、きわめて良質な「入門書」として推奨したい。
いま生きているこの時代が、いったいどういう歴史の流れのなかにあるかを正確に認識するためにも。
<初出情報>
■bk1書評「原題は「資本主義の力学」-「知の巨人」ブローデルが示した世界の読み方」投稿掲載(2010年8月19日)
■amazon書評「原題は「資本主義の力学」-「知の巨人」ブローデルが示した世界の読み方」投稿掲載(2010年8月19日)
* 再録にあたって一部加筆した。
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目 次
著者まえがき
第1章 物質生活と経済生活の再考
1. 歴史の深層
2. 物質生活
3. 経済生活-市と大市と取引所
4. 市、大市、取引所の歴史―ヨーロッパ世界と非ヨーロッパ世界
第2章 市場経済と資本主義
1. 市場経済
2. 資本主義という用語
3. 資本主義の発展
4. 資本主義の発展の社会的条件-国家、宗教、階層
第3章 世界時間
1. 世界=経済(エコノミ・モンド)
2. 世界=経済の歴史-都市国家
3. 世界=経済の歴史-国民市場
4. 産業革命
訳注
解説 金塚貞夫
(*単行本初版:太田出版 1985)
著者プロフィール
フェルナン・ブローデル(Fernand Braudel)
1902年、フランス北東部に生まれる。アンジェリア、パリでリセの教授(歴史学)として勤め、サンパウロ大学で講義と研究を続けた後、パリに戻り高等研究院に勤務。戦争中五年間ドイツの収容所で捕虜生活を送り、その間博士論文を執筆。1946年「アナール」誌編集委員となり、のち編集長を務める。1949年、コレージュ・ド・フランス教授に選ばれる。リュシアン・フェーヴルらとともに高等研究院に第六セクションを創設し、1956年から1972年まで同セクション委員長。1985年没(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものに増補)。
金塚貞文(かねづか・さだふみ)
1947年、東京都に生まれる。早稲田大学第一文学部中退。専攻は、フランス現代哲学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。
<書評への付記>
20世紀の歴史家のなかでは、フェルナン・ブローデル(1902年~1985年)ほど、自らの専門分野で複数の大著を完成させた人はいないのではないかと思われる。
ここにあげた『ブローデル歴史入門』の原本である浩瀚(こうかん)な『物質文明・経済・資本主義』(みすず書房)だけでなく、日本でもタイトルはよく知られている『地中海』(藤原書店)(・・原題は『フェリペ2世時代の地中海と地中海時代』)など、その仕事ぶりはほとんど超人的といてもよい。これらは一般書ではなく、専門書なのだ。しかも一般読者も興味深く読むことができるものだ。といっても、私はまだとても全部読んでいない。
しかも、ブローデルは第二次世界大戦というヨーロッパ激動の時代に前半生を翻弄された人である。フランス軍の将校として出征し、ドイツ軍の捕虜になっている。釈放されたのはフランスが解放された 1945年、そのときすでに 43歳になっていた。
ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌが『マホメットとシャルルマーニュ』(日本語訳タイトル 『ヨーロッパ世界の誕生』)を構想したのが、第一次大戦でドイツ軍の捕虜になった際の捕虜収容所であったように、ブローデルもまた長い捕虜収容所抑留時代に主著である『地中海』の構想を作り上げたという。
この点にかんしては、wikipedia 日本語版に、たいへん興味深い詳細な記述があるので、そのまま引用させていただくこととしたい。ブローデルの歴史観について、非常に重要な指摘もなされている。
「生涯」より一部抜粋
「捕虜生活」
1939年、リュシアン・フェーヴルの別荘で、のちに『フェリペ2世時代の地中海と地中海時代』(邦題『地中海』)として結実することとなる博士論文を書き始めたが、その年すぐに第二次世界大戦が勃発し、ブローデルは砲兵隊中尉としてライン戦線(マジノ線)に動員された。
1940年6月29日にはドイツ軍の捕虜となり、以後戦争の終わる1945年まで収容所で過ごすこととなった。その間、書き続けられた学習用ノートはフェーヴルのもとへ送られている。
1940年6月から1942年春まではマインツの将校捕虜収容所に収容されたが、資料のない状態にもかかわらず記憶だけをたどって博士論文の執筆を継続した。1941年に初稿を受けとったとき、フェーヴルは「とてもいい。じつに秀逸で、独創的で、力強く、生き生きとしている」、「書き直すことなんかありません。早く書き終えなさい」と応えている。
ブローデルは、1941年から収容所内の同輩に対し定期的に講義をおこない、研究指導もしていたために、「捕虜収容所大学学長」に任命されるなど特別待遇を受けることとなった。マインツ大学図書館の古文書館から文献資料を自由に借りることができたため、多くのドイツ語史料を渉猟することができたのである。
ブローデルは初稿を完成させるとすぐに第二草稿に取りかかった。ブローデルの書き直し方は、一部を手直しするというのではなく、章の最初からまるごと書き直すというものであった。
ブローデルはこののち1942年に、リューベックの収容所に移されるが、ここは懲罰目的の収容所であったため、マインツでのような自由や特権はなかった。しかし、手元に資料がない状態でも、自他ともに認める「象の記憶力」によって原稿を書き進めることができた。
ブローデルは、捕虜としてすごしたあいだ、戦争そのもの、あるいは外交や政治の動向は、歴史を考える際、むしろそれほど重要ではないという認識をいだいたものと考えられる。
「解放そして復職」
1945年5月初め、リューベックがイギリス軍の手に陥ち、ブローデルは解放された。この年の下旬にはオランダ経由でフランスに帰国している。・・(後略)・・(*太字ゴチックは引用者(=私)によるもの)
その後の履歴については、wikipediaの該当ページを直接ご覧いただきたい。
ブローデルの議論で興味深いのは、この書評でも取り上げた・・・だけでなく、経済史の分野で議論されてきたコンドラチェフの波に近い議論を行っていることだ。
コンドラチェフの波とは、長期波動、中期波動、短期反動・・・
ブローデルは、本書でも「長期持続」という表現を使っている。「長期持続」の流れのなかでゆっくり変化する鈍重な構造的な歴史」(P.13)である。「長い時間の枠組みのなかでの均衡と不均衡」(P.14)である。いわば非人間的な深層の長期波動を主に取り扱っている。
重視しているのが「日常性」。「人間は腰の上まで日常性のなかに浸かっている」(P.16)。
これらについては、『歴史について』という論文集に収められた論文で扱っている。歴史学と社会科学の接点にいる人なのである。
また、『地中海』では、ある特定の時代に限定しながら、「地中海」世界全体を描くという「全体史」と、ある意味では「構造史」の試みを行っていることだ。地政学的なものの見方にもつながるものがある。人間世界を規定するの、何よりも自然環境である。
ざっとこのように見るだけでも、フェルナン・ブローデルが20世紀を代表する歴史家だといっても言い過ぎではないことがわかるものと思う。「アナール派」という狭い枠組みのなかだけで見ないほうがいい。
まずは、この『ブローデル 歴史入門』をじっくりと読むことから初めてみたいものだ。
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書評 『21世紀の歴史-未来の人類から見た世界-』(ジャック・アタリ、林昌宏訳、作品社、2008)-12世紀からはじまった資本主義の歴史は終わるのか? 歴史を踏まえ未来から洞察する
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「想定外」などクチにするな!-こういうときだからこそ、通常より長いスパンでものを考えることが重要だ
■生態学と地政学-地球儀で考える人類史
梅棹忠夫の『文明の生態史観』は日本人必読の現代の古典である!
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書評 『ヨーロッパとは何か』(増田四郎、岩波新書、1967)-日本人にとって「ヨーロッパとは何か」を根本的に探求した古典的名著
・・西欧封建制の生成と発展、そして崩壊
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