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2010年9月25日土曜日

庄内平野と出羽三山への旅 (12) 庄内平野の湯殿山系「即身仏」(ミイラ仏)を見て回る




旅の最終日、残ったミッションは鶴岡駅に戻る途上にあるミイラ仏を見ていくこと

 さて、いよいよ「庄内平野と出羽三山への旅」も最終日を迎えた。 
 またまた、繰り返しになるが、今回の旅のミッションは以下の4つである。

① 「山伏修行体験塾」(二泊三日)に参加すること
② 出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)をすべて歩くこと
③ 即身成仏による「ミイラ仏」を実際に見ること
④ 庄内地方が生んだ 大川周明、石原完爾 ゆかりの地をまわること

 最後に残ったのが、③ 即身成仏による「ミイラ仏」を実際に見ること であった。

 すでに旅の初日(・・正確にいうと夜行高速バスで過ごした翌日)、酒田の海向寺で二体、鶴岡の南岸寺で一体を参拝している。これらについては、すでに (2) 酒田と鶴岡という二つの地方都市の個性 で簡単に触れておいた。

 鶴岡市内で現在一般公開されている「ミイラ仏」はあと二体、これらはいずれも湯殿山麓にある。注連寺と大日坊だ。そこで、最終日に湯殿山から鶴岡への帰途に立ち寄る計画を立てていたのである。

 湯殿山参籠所前からは、公共交通機関であるバスは、調べてみたところ午前11時までない。そもそも、鶴岡方面から早朝やってきて、湯殿山本宮でお参りをすませ、お昼までには鶴岡方面に戻るのが主流であろう。早朝に参籠所前から出るバスはない。 

 これでは午前中の時間を浪費してしまうことになるので、前日にタクシーを呼んでもらういことにした。鶴岡市内までタクシーで約9千円、注連寺と大日坊までなら7千円くらいという話だった。
 けっして安くはないが、ときにはカネで時間を買うことも必要になる。とりあえず。注連寺と大日坊までタクシーでいって、そこから先はバスに乗って鶴岡駅までいくこととした。

 翌朝は、九州に台風接近中のため前線が東北地方にと天気予報でいってたとおり、土砂降りの大雨。この意味でもタクシーを呼んだのは正解だった。
 タクシー運転手との会話から、この地方にかんするさまざまな情報を聞くことができたことも、私の庄内平野と出羽三山理解に大いに役立った。


湯殿山の千人沢は即身仏修行の"メッカ" であったこと

 さて、「ミイラ仏」参拝紀行を再開する前に、湯殿山が「一世行者」あるいは「木食(もくじき)行者」の修行場所であったことの痕跡を示す「千人沢」について語っておかねばなるまい。


 昨日、参籠所に着いたあと、温泉につかって一休みしたわけだが、思い立って周辺を歩いてみた。何ごとも明日でいいやと思うと、朝起きるのが遅れたり、なにかしら予想外の事態が発生して計画が狂うことが生じがちである。前倒しにするにしくはない。

 現在では参籠所前がバスのロータリーになっているが、その一角に行者の修行跡を示す石碑が集中的におかれている一角がある(・・冒頭の写真)。一般人の供養碑(参り墓)にまじって、丸石の石碑が多数建っている。


 「湯殿山」と刻まれた多数の石碑は、即身成仏できた行者以外の、途中で失敗して亡くなった行者のものであるという。満願成就できなかった行者のほうが、数からいったら多かったのだ。


 現在一般公開しているお寺でも、即身仏はすべて写真撮影禁止なので、この地に奉納された模擬像の写真を撮影しておいたので、参考のために掲載しておこう。


 千人沢の石碑群は、翌日が台風の影響で土砂降りの大雨になったので、前倒しで見ておいてよかった。

 「出羽三山の奥の院」と呼ばれてきた湯殿山は、形態としては神仏分離を崩していないものの、実態としては神道と仏教が併存しており、神仏習合よりも、なおいっそう不思議で、奇妙な様相を呈している。これは千人沢も同様である。供養碑のある一角には注連縄(しめなわ)が張られている。


湯殿山参籠所からタクシーで注連寺と大日坊にいく

 土砂降りの雨のなか、タクシーで注連寺と大日坊にいく。タクシーは朝の7時半に来てもらった。

 タクシー運転手の話では、この地域は冬はいまでも豪雪地帯で、高速道路以外は除雪しないので、完全に雪の中に埋もれてしまうという。この旅の前に読んでおいた、森敦(もり・あつし)の『月山』の記述も、雪にかんしては昔も今も変わっていないことがわかる。

 まず注連寺へ。運転手の話では、昨年の集中豪雨で、注連寺の前の集落が土砂崩れで崩壊したという。村人は再建は断念して別の場所に移住したらしい。しかし注連寺はまったくの無傷。最初から地盤の安定した高台に寺を建設しているためだろう。

 タクシーは待っていてもらうことにして注連寺を拝観。私がくる直前にバスの団体観光客が参拝していたようで、私が一人でいくと案内役の中年女性は見るからに面倒くさそうな感じで、通り一遍の説明をする。あまり有り難いという感じはまったく受けなかった。見るからに観光寺に堕しているのだろう。

 即身仏の説明のあと、先ほど運転手から聞いた崖崩れの話を振ってみた。「即身仏の功徳でしょうかねえ?」と私が聞いてみたら、「とにかくみな神様のおかげだといっている」という答えが返ってきた。寺の人間なのにこのざまだ。即身仏は、そもそも客引きの一要素に過ぎないようだ。


 注連寺の境内には、森敦(もり・あつし)文庫が併設されている。放浪時代の森敦はこの注連寺で一冬を過ごし、のちに62歳で芥川賞(!)を受賞した名作『月山』を執筆している。

 『月山』は、この旅を始める前に読んでみた。まさに文学、である。森敦の『星霜移り人は去る-わが青春放浪-』(角川文庫、1981 単行本初版 1974)という回想録は、ずいぶん昔の大学時代に読んで、「10年働いて、10年遊ぶ」という生き方に憧れを抱いたものであったが、小説作品は実はまったく読んでいなかった。『月山』といえば森敦、という連想はいつも働いていたのだが・・・

 注連寺は、なんだか観光寺に堕しているのに対し、次にいった大日坊は大違いだった。再び、先ほどの団体観光客のあとになったが、私一人なのに、お坊さんがちゃんと梵天(・・長い棒の先に房がついたもの)でお祓いしてくれる。

 ロウソクに祈願してお供えもした。もちろん選んだのは「商売繁盛」。


 大日坊では、このあと住職の老僧から「即身仏」についての詳しい説明を受けた。ここに安置されている「即身仏」は死んでから遺体処理を施されたのではないので「ミイラ仏」ではないこと、死後も内蔵は取り出さないので腐敗を防ぐため五穀断ち(・・コメなどの穀物を食べず、木の実や草の根などだけ食べる苦行)をしていたこと、腐敗防止のためさらに漆(うるし)を飲んでいたことが語られた。うるしは手はかぶれるが、クチビルはかぶれないそうだ。

 こういう修行を千日なり二千日行った上で、土中入定(どちゅうにゅうじょう)し、竹筒からの空気と持ち込んだ水だけで過ごし、ひたすらお経を読みながら入滅を待つのである。

 成田山新勝寺で断食参籠修行した際にも聞いたが、人間は水さえ飲んでいれば一ヶ月は生きているらしい。即身仏志願者の場合は、すでに五穀断ちもしているし、土中入定する前から断食行の準備に入っている。

 読経の声が聞こえなくなったら死んだと思って埋めてくれ、三年たったら掘り起こすこと、と。

 こういう説明は、すでに一冊関連本を読んでいたので知っていたが、あらためて肉声で聞かされると、アタマのなかでイメージができあがってくる。説明のあと、心ゆくまでじっくりと即身仏を左右斜めから観察したが、しかしまあ、なんで即身仏なんかになって、また参拝の対象として安置あれているのか、なんともいえない気分になる。

 湯殿山は真言宗系であり、弘法大師空海の「即身成仏」の理論を実際に適用したのが「即身仏」だという説明がされることもあるが、そもそも空海のいう「即身成仏」とは、unio mystica のことであって、物理的な存在であるミイラ仏のことではない。

 江戸時代以降も鶴岡方面から湯殿山に巡礼する人たちは多かったが、注連寺と大日坊は、湯殿山参詣の入り口としての位置づけられていたらしい。
 羽黒山には即身仏がなく、湯殿山麓の大日坊と注連寺にのみ「即身仏」があるのは、羽黒山との参詣者争奪戦が背景にあったのではないかと宗教民俗学者の五来重は推測しているが、この見解はかなりの程度までただしいのではないかという気がする。


「ミイラ仏」を実際にみた正直な感想-カトリックの聖遺物信仰、社会主義諸国の聖遺体信仰との連想から

 これで現在、庄内地方で一般公開されている「ミイラ仏」はすべて拝観することができた。いずれも湯殿山系である。
 
 次の二枚の写真は、酒田の海向寺の「即身仏」入定跡と石碑。湯殿山と書いてある。「即身仏」はみな、生前は湯殿山の千人沢で修行していたのである。



 次の写真は、鶴岡の南岸寺の石碑。湯殿山と書いてある。「即身仏」はみな、生前は湯殿山の千人沢で修行していたのである。


 すべての「即身仏」に共通しているが、12年に一回衣替えをするという。
 ちょうど昨年がその衣替えの年に当たっており、どの寺でも、古い衣を細切れにして、特別なお守りのなかに入れて頒布している。

 この話の説明を受けても、とてもその特別お守りを買いたいという気持ちにはならなかった。なんせ、ミイラ仏が身につけていた衣である。これを間接的にせよ、肌身離さぬお守りとして自分の身につけるのは・・・。よっぽどの信仰がないかぎりその気にはならないだろう。信仰がなければ、たとえ購入したとしても効果も薄いだろう。

 なんだか、グロテスクな感じがして不快感を感じるのは、私に「即身仏」信仰がないためだろう。

 このあまりにも日本的ではない「ミイラ仏」、似たような存在に、カトリック世界には「聖遺物」(relics)信仰がある。聖者信仰の一環である。

 イエズス会の聖ザビエルの右手(=聖腕)は写真で見たことがあるが、五来重は戦後まもなく日本各地でベネディクションを行って巡回した際に見たが、異常な感を受けたことを書いている。
 私も、スペインのアビラの教会では、カルメル会の聖テレサの、瓶に入った手(?)の実物を見た記憶があるが、遺体を切り刻んであがめるという習慣は、一般的な日本人には違和感しか感じないのは不思議ではない。家畜を処理するのが当たり前の欧州では、さほど奇異なことではないのだろうが・・・

 また、カトリック世界では聖者信仰があるが、聖者に認定されることを列聖というが、その認定においては生前に数々の奇蹟を行っただけでなく、死後に遺体が腐敗していないことが条件とされる。現代医学を修めた医者が鑑定を行うことになっており、何年にもわたって厳密な科学的調査が行われるらしい。
 とはいえ、ここらへんの感覚も、アタマではわかっても、なんだかしっくりこないものを感じる。

 社会主義諸国のファウンダーたちが、いまでも廟内で祀られている。私はこれまで、モスクワの赤の広場でレーニン、天安門広場で毛澤東、ベトナムのハノイでは胡志明(ホー・チミン)の「聖遺体」もみたが、ミイラではなくエンバーミングを施した、みな蝋人形みたいな感じで痛々しかった。
 まだ見ていないのは、金日成(キム・イルソン)だけである。その機会があるかどうかわからないが。

 これら社会主義諸国の聖遺体は、間違いなくカトリック世界の聖遺体信仰の延長線上にあるものだろう。まだ、実際に見てはいないが、ルルドの奇跡で有名な聖ベルナデッタの聖遺体も表面を蝋で塗って保存されており、写真でみた限りでも生きた人間のようである。

 なお、「即身仏」の場合は、保存のため表面に漆を塗っているので、燻製みたいな感じに黒光りしている。

 さきに、「即身仏」は内蔵を取り出していないという話を聞いたことを紹介したが、一説によれば、これらのミイラ仏のうちの一部は、死後に臓物を取り除いてから、天上から鈎でつるし、護摩の炎と煙で燻製状態にしてミイラ化されたという。

 この話は、森敦の『月山』にもでてくるが、なんとなく、そうであっても不思議ではないような気がする。


即身仏とは何だったのか

 今回の旅に出る前に、すでに入手していたが読んでいなかったミイラ仏関連本を読み始めることとした。

 準備というわけでもないが、こういう機会を逃すと読む機会を半永久的に逸してしまう恐れがあるからだ。


 まずは、『増補 日本のミイラ仏(臨川選書)』(松本昭、臨川書店、2002、初版は 1993)。旅に出る前に読み終えたのは結局この本だけ。しかしこの本だけでも読んでおいて良かったと思ったのは、まず旅の初日に訪れた酒田で即身仏二体を拝礼する機会を得たからだ。この本で読んでおいた予備知識が役に立ったのは、単なる興味本位からではなく(・・もちろん知的好奇心が初発の動機ではあるが)、お寺さんの説明を聞いて質問もできたからだ。

 この本の著者の松本氏は、毎日新聞の記者として、ミイラ仏の学術調査にマスコミの立場から深く関与した経験をもっている人。それだけに1950年代に行われた学術調査の臨場感迫る記述は貴重である。

 庄内地方の湯殿山系即身仏を中心に書かれているが、冨士講の身禄行者のものや、中国や台湾の禅僧のミイラ仏についても言及されており、これ一冊で「日本のミイラ仏」がわかるハンドブックとなっている。


 『日本のミイラ信仰』(内藤正敏、法蔵館、1999)は、「庄内平野と出羽三山への旅」から戻る、鶴岡駅から新潟行きの特急いなほのなかで読み始め、乗り換えた上越新幹線が東京に着く前に読み終えた。

 読みながら思ったのは、この順番で読んで良かったということだ。

 著者の内藤氏は、写真家で民俗学者というだけでなく、大学では化学を専攻した経験を活かして、金属民俗学という分野を切り開いた人でもある。

 東洋の錬金術である錬丹術、高野山と弘法大師と水銀、これと出羽の湯殿山との関係など独特の視点から、ミイラ仏現象を幅広く統一的に把握、説明しようという試みの決定版となっている点が、知的好奇心をいたく刺激してくれる。

 以上の二冊を読むと、日本の「即身仏」は、厳密にいえば「ミイラ仏」ではない、ということが確認される。ミイラとは古代エジプトのものがその最たるものであるが、死者を永遠に保存するための手法であり、即身仏は生者が生きながらなったものなのでミイラではない。


 最後に、これは旅から戻ってきてから入手した本だが、『日本のミイラ仏をたずねて』(土方正志、酒井 敦=写真、晶文社、1996)。この本は現在品切れ中だが、古本で入手は可能。著者は、庄内地方以外の「ミイラ仏」についても訪れて紀行文を書いている。

 以上の三冊が、現在でも入手可能な一般書である。この三冊を読んで、実際に即身仏を見て回れば、それなりに掴むことができるはずである。私は、知的好奇心に応えてくれるという点では、最初の二冊だけで十分だと思う。

 松本氏がいっているように、ミイラ仏を専門に研究する人は、まだまだ未解明なことが多いのにかかわらず、もはや日本人にはいないらしい。むしろ外国人の研究者が熱心であるそうだ。まあそうであってもいいのではないかという気もする。

 日本人が科学的研究に専念するには、あまりにも多くのタブーが多すぎるような気がするからだ。私自身も含め、多くの日本人は「即身仏」には科学的な関心のほうが強いだろうが、信仰の対象である以上、なかなか即物的に取り扱うことも難しいものがありそうだ。

 学術調査はそれぞれ一回行われたきりである。
 

今回の旅のミッションがすべて完了し、ここから先もひきつづきタクシーで鶴岡駅へ、そして羽越本線特急で新潟まで、上越新幹線を乗り継いで帰京

 タクシー運転手から、「ここから先はメーター倒さないから、全部あわせて9千円で鶴岡までいきますよ」という申し出があったので、渡りに船とばかりに快諾する。注連寺と大日坊だけでもすでに8千円近くなっていたので、これは好都合だった。しかも、台風が九州接近中とのことで山形県も土砂降りの大雨になっていたので、ずぶ濡れになりながらのバス待ちは避けたいところだったのだ。

 運転手と「即身仏」の話をしていると、「行方不明の高齢者がらみで年金詐取事件が続発しているが、その端緒となった事件では当人が即身成仏するといっていた」ことなどが話題になる。やはり、「即身仏」の地に生きる運転手は、同じ関心があるのだなと納得。私も、年金詐取事件に対する怒りよりも、その老人がほんとうに「即身成仏」したのか、即物的な関心がある。メディアはなぜこの話題を掘り下げないのか?

 途中、国道が冠水していたために市内で迂回して鶴岡駅まで。猛暑日の続く関東でも、降ってくれるといいのだが…などと思いつつ。
 駅前のビジネスホテルまでクルマを回して貰い、ここで預けておいた荷物を引き取る。パソコンと本を預けておいたのだ。さすがに重いので、カタツムリのように担ぎ回るわけにはいかない。鶴岡駅前のビジネスホテルは、出羽三山の山行のベースキャンプとして活用できるのだ。

 鶴岡駅からは新潟駅経由で帰宅する。新潟まで在来線の羽越本線の特急列車、新潟からは上越新幹線に乗り継いで帰るのが時間的にも金銭的にも節約できる。高速バスのほうが安いが、さすがにまた夜行でで帰るのはくたびれるからパス。

 鶴岡駅午前11時発の羽越本線の特急は自由席でも十二分に座席はあった。進行方向右手の窓際に陣取り、日本海を車窓の右手に見ながら新潟まで。


 鶴岡と新潟間は、海岸線すれすれを走っており、気象条件によってはときどき不通になるというのもむべなるかな。
 日本海は、かつて福岡から城崎まで、城崎と西舞鶴は何度も、西舞鶴と敦賀は一度、敦賀から金沢までは一度、まだ一度もとおして走ったことはない。

 さて、ようやく15時20分に東京駅に到着。
 「上越新幹線で新潟から東京に戻る。東京駅で下車したとたんに熱風にあてられた。なんだこれは!生き地獄だよ…(posted at 15:23:22)」と twitter に投稿した私である。

 出羽三山で過ごした、比較的涼しい日々から一転、関東ではまだまだ猛暑日が続くのであった。


旅の終わりに

 今回の「庄内平野と出羽三山への旅」、非常に有意義なものであった。1週間と短い旅であったが、実に盛りだくさんの内容の旅であった。

 あまり東北地方には縁のない私にとって、自腹を切ってでもいくのはそう滅多にあることではないし、もしかするとこれが最初で最後だという気持ちで臨んでいる。
 旅から帰ってきてもしばらくの間、この文章を書いてきましたので、一粒で二度おいしい思いを味わうことができました。

 次回の「庄内平野と出羽三山への旅」が、いつになるかわかりませんが、何ごとであれ初体験というのは印象が強いもの。二回目以降の経験は、ほぼ間違いなくここまで詳細に再現して語ることはないと思います。

 その意味では、ブログという発表媒体をもっていることは実にありがたいものだと思う次第です。

 ブログというのは、まあいってみれば「個人雑誌」のようなものですから。編集長で執筆者で原稿打ち込みも校正も写真割り付けもすべて私一人で実行。
 手間がかかるといえばそのとおりですが、何を書こうと私が最終意思決定者。このセルフコントロール感は、何者にも代え難いものがあります。


 この紀行文(?)が、これを読んだ皆様に、何らかの形でお役に立てれば幸いです。長々と書いてきましたが、ご愛読ありがとうございました。 (完)






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書評 『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか』(岡田芳郎、講談社文庫、2010 単行本 2008)

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書評 『猟奇博物館へようこそ-西洋近代の暗部をめぐる旅-』(加賀野井秀一、白水社、2012)-猟奇なオブジェの数々は「近代科学」が切り落としていった痕跡
・・カトリックの聖遺物と腐敗しない聖者の遺体の秘密について書かれている

下総国の二宮神社(千葉県船橋市)に初詣(2015年1月3日)-藤原時平を祀る全国でもめずらしい神社
・・「ところで今回わたしは新京成電鉄の薬園台駅方面から、二宮神社まで歩いたのだが、薬園台駅近くの成田街道沿いでうれしい偶然の発見があった。湯殿山を中心とする出羽三山信仰の石碑である。 (成田街道の薬園台駅近くにある湯殿山信仰の石碑 筆者撮影) 船橋とその周辺は、出羽三山の湯殿山信仰圏のようだが、ここにも木食上人がいたのである。観信という名前だそうだ」

(2014年8月25日、2015年7月28日 情報追加)




(2012年7月3日発売の拙著です)









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