突然、脳梗塞のためすべてを失ってしまった世界的な免疫学者。
その直前まで国内海外を精力的に異動し、友人とは酒を酌み交わす日々を送っていたのに・・・。
「医者の不養生」といってしまえばそのものだが、突然すべを失った人の身の上は、家族や知人友人ではないにもかかわらず、他人事とは思えない。
この本『寡黙なる巨人』(多田富雄、集英社文庫、2010)は、「人間の尊厳」を回復するための「闘いの記録」である。
リハビリの作業療法で、生まれてはじめて習い覚えたパソコンに向かって、左手だけで書いた文章がまとまってこの一冊になった。文章で表現したい、文章を書く事で社会に参加したい、社会とつながっていたい、という心の底からの叫び。
記憶が失われていなかったので「自分」であることは確認できた、しかし人の声は聞こえるが自分はしゃべれない、三度の食事も、嚥下(えんげ)するのがきわめて苦痛。リハビリを重ねるなかで、著者は自分のなかに「新しい人」が目覚めてきたことを感じる。そして、他人から見たら物言わぬ「寡黙な巨人」が、著者をして左手でキーボードを打ち続けさせたのである。
いったん死んだ人間でなければ書けない内容の本である。
著者が学生時代以来慣れ親しんでいたお能の世界は、幽明の境のはっきししない世界である。著者の描く世界もまた幽玄能そのもののような印象を受ける。死線をさまよった際の体験談は、臨死体験そのものだろう。色のない世界、自分を引っ張る手の存在・・・。
右半身不随となってしまった著者であるが、「二本足で歩くことは、人間のみに許された基本的人権」という発言は心に響くものがある。そしてまた、都立病院のお粗末な現状は、高齢化社会を迎えた日本で、いかに福祉がないがしろにされているかの告発である。
著者はすでに亡くなっているが、研究者としての研究業績に勝るとも劣らない、生きるということの意味の一書を遺してくれた。免疫学者としての業績は知らなくても、読むべき本である。
<初出情報>
■bk1書評「脳梗塞に倒れた免疫学者の内部に生まれた「巨人」が語らせた「人間の尊厳」回復の記録」投稿掲載(2011年2月13日)
■amazon書評「脳梗塞に倒れた免疫学者の内部に生まれた「巨人」が語らせた「人間の尊厳」回復の記録」投稿掲載(2011年2月13日)
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■目 次
1. 寡黙なる巨人
2. 新しい人の目覚め
-生きる
-考える
-暮らす
-楽しむ
憂しと見し世ぞ-跋に代えて
■著者プロフィール
多田富雄(ただ・とみお)
1934年生まれ。東京大学名誉教授。免疫学者。1995年、国際免疫学会連合会長。抑制T細胞を発見。野口英世記念医学賞等内外多数の賞を受賞。2001年、脳梗塞で倒れ声を失い、右半身不随となるが、リハビリを行いながら著作活動を続ける。能楽にも造詣が深く「望恨歌」など新作能の作者としても知られる。『寡黙なる巨人』で 2009年第7回小林秀雄賞受賞。2010年4月没(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。
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