『ドアの向こうのカルト ー 9歳から35歳まで過ごした、エホバの証人の記録』(佐藤典雅、河出書房新社、2013)は、体験者にしか書けないインサイド・レポートである。
東京ガールズコレクションを手掛けたプロデューサーが、入信した母親に引きずられる形で信者となって生きてきた25年間を回想した手記である。一人称の語りによるノンフィクションのような印象をもった。
評論家が書いたものではない、告発するジャーナリストが書いたものではない、研究者が書いたものでもない。そのなかに25年間、すなわち四半世紀もの長きにわたって、しかも人間成長期の9歳から35歳までを過ごした人が書いたものである。ひとつひとつの記述の迫真性、説得力が違う。
「エホバの証人」は「ものみの塔」と言われることもある。かれら自身の認識においてはキリスト教のようだが、わたしはキリスト教ではないと思っていた。おそらく大半の人はカルトとみなしていることだろう。
著者はみずから25年間を過ごしたエホバの証人の信者としての人生を否定してしまうわけではない。すでに「解約」した現時点から振り返って、その意味を記憶のなかにある具体的な事実に即して解明しようとしている。
エホバの証人の擁護者からみたら、まさに「サタン」の仕業ということになるだろうし、否定的な人からみたら物足りないかもしれない。
だが、たとえ自分の人生の奥底からほとばしり出てくるものを抑圧してきたのがエホバの証人という教団であるとしても、それを全否定しては、それこそ人格崩壊をもたらしかねないし、賢明な処世とはいえない。著者が「リセット」したうえで、この手記を書くことを決意したのはぞのためだろう。
本書には、エホバの証人とマルチ商法が酷似していることに、当時はまだエホバの証人の信者だった著者が驚愕するシーンがでてくる。なんとなくそう感じている人も少なくないだろうが、さすがにエホバの証人のインサイダーであった人の話だけに説得力がある。
わたしはこのレポートを、閉鎖的な社会集団の事例研究として読んでいた。狭い社会集団は閉鎖的であるがゆえにマイノリティ(少数派)であるが、またそうであるがゆえにネットワークでつながっている同じ世界の住人とはきわめて親密な人間関係を築くことができるという逆説がある。ただし、そのネットワークは外部との接触をもたないネットワークであるのが問題ではあるのだが。
閉鎖的な組織や小集団といえば、まず想起するのはオウム真理教だろう。そして連合赤軍。新左翼の党派性の行き着いた先である。シベリア抑留者がそうであるし、さらにいえば帝国陸軍や旧東ドイツ国民、いまなおつづく北朝鮮もそのカテゴリーに含めていいかもしれない。エホバの証人が「王国」という表現をつかっているのは、ひじょうに示唆的・・・・である。
閉鎖的な社会集団は、「敵」の存在を明確化することによって、内部の結束と正統性をつくりだす。エホバの証人においては、それは「サタン」である。エホバとサタンの二項対立によって、すべて説明する二元論である。これは強弱の違いはあれ、キリスト教のなかにビルトインされたマニ教的世界観である。
世界観とは、ものの見方を規定するフレーム(枠組み)のことだ。エホバの証人ではこのほか、背教者(=アンチ・キリスト)を蛇蝎のごとく嫌い、教団外部の一般人のことを「世の人」と表現しているようだ。笑ってしまうのは、オウム真理教の事件についてのエホバの証人の反応である。カルト的な小集団のなかにいると、自分たち自身のことを相対的に把握することはできなくなってしまうようだ。
①絶対性、②純粋性、③選民性、そして④布教性、この4つを著者はエホバの証人の特性といっているが、最後の布教性がエホバの証人にはきわめてつよくあらわれている。
これに日本人に多くみられるリゴリズム的なまじめさが加わると、きわめて抑圧的に働くようになる。著者の記述によれば、アメリカの会衆(コングレゲーション)においては、日本よりもかなりリラックスしたものであるという。アメリカ人との比較から、日本人の特性が浮かび上がる。
閉鎖的な社会集団の特性としては、思考停止状態、組織への依存症、クリエイティビティ欲求の抑圧、感覚の鈍磨などをあげることもできよう。世界終末の日であるハルマゲドンを待つだけの受動的な生き方になりがちなことも指摘されている。どうせ世界が滅びるのであれば、頑張っても仕方ないではないか」という態度である。
面白いのは、これはとくに日本人の場合なのだろうが、たいていは女性から入信し、その子どもが巻き込まれ、最後に配偶者もというパタンが日本人の場合は多いようだ。著者の場合もそうだが、とくに海外駐在員の妻(・・いわゆる「駐妻」)は現地での就労ビザがないので、することがなく精神的に満たされない。物質的な欲望に飽き足りないと、その一つの方向性として宗教に向かうう傾向もなくはないようだが、それがたまたまカルトであるということなのだ。
わたしはこの本を読んでいて後半になってくると、おなじようにキリスト教系の閉鎖的な社会集団であるアーミッシュを思い出した。資本主義のオルタナティブ (1)-集団生活を前提にしたアーミッシュの「シンプルライフ」についてを参照していただきたい。シンプルな生き方にあこがれる人も少なくないだろうが、ものをあまり考えないシンプルマインド状態となってしまうと、それは無知蒙昧の一歩手前といっても言い過ぎではない。
多かれ少なかれ、どんな人でもある特定の価値観のもとに生きているわけである。生きてきた軌跡そのものであり、それは経験と知識によって形成されているものだ。
その価値観を相対化できるかどうかが、自由にモノを考えることができるかどうかの分かれ道になる。その意味では、自分のアタマで考え、自分で行動するとはどういうことかについても考えさせてくれる本である。
ページ数も多くてやや重い内容であるが、ぜひ読むことをすすめたい。
<関連サイト>
『ドアの向こうのカルト』著者インタビュー ベンチャー企業もカルト!? 元「エホバの証人」ビジネスパーソンが語る“社会の中の洗脳”
PS. 文庫化
『カルト脱出記 ー エホバの証人元信者が語る25年間の記録』 (河出文庫)と改題したうえで2017年1月に文庫化された。(2017年2月10日 記す)
評論家が書いたものではない、告発するジャーナリストが書いたものではない、研究者が書いたものでもない。そのなかに25年間、すなわち四半世紀もの長きにわたって、しかも人間成長期の9歳から35歳までを過ごした人が書いたものである。ひとつひとつの記述の迫真性、説得力が違う。
「エホバの証人」は「ものみの塔」と言われることもある。かれら自身の認識においてはキリスト教のようだが、わたしはキリスト教ではないと思っていた。おそらく大半の人はカルトとみなしていることだろう。
著者はみずから25年間を過ごしたエホバの証人の信者としての人生を否定してしまうわけではない。すでに「解約」した現時点から振り返って、その意味を記憶のなかにある具体的な事実に即して解明しようとしている。
エホバの証人の擁護者からみたら、まさに「サタン」の仕業ということになるだろうし、否定的な人からみたら物足りないかもしれない。
だが、たとえ自分の人生の奥底からほとばしり出てくるものを抑圧してきたのがエホバの証人という教団であるとしても、それを全否定しては、それこそ人格崩壊をもたらしかねないし、賢明な処世とはいえない。著者が「リセット」したうえで、この手記を書くことを決意したのはぞのためだろう。
本書には、エホバの証人とマルチ商法が酷似していることに、当時はまだエホバの証人の信者だった著者が驚愕するシーンがでてくる。なんとなくそう感じている人も少なくないだろうが、さすがにエホバの証人のインサイダーであった人の話だけに説得力がある。
わたしはこのレポートを、閉鎖的な社会集団の事例研究として読んでいた。狭い社会集団は閉鎖的であるがゆえにマイノリティ(少数派)であるが、またそうであるがゆえにネットワークでつながっている同じ世界の住人とはきわめて親密な人間関係を築くことができるという逆説がある。ただし、そのネットワークは外部との接触をもたないネットワークであるのが問題ではあるのだが。
閉鎖的な組織や小集団といえば、まず想起するのはオウム真理教だろう。そして連合赤軍。新左翼の党派性の行き着いた先である。シベリア抑留者がそうであるし、さらにいえば帝国陸軍や旧東ドイツ国民、いまなおつづく北朝鮮もそのカテゴリーに含めていいかもしれない。エホバの証人が「王国」という表現をつかっているのは、ひじょうに示唆的・・・・である。
閉鎖的な社会集団は、「敵」の存在を明確化することによって、内部の結束と正統性をつくりだす。エホバの証人においては、それは「サタン」である。エホバとサタンの二項対立によって、すべて説明する二元論である。これは強弱の違いはあれ、キリスト教のなかにビルトインされたマニ教的世界観である。
世界観とは、ものの見方を規定するフレーム(枠組み)のことだ。エホバの証人ではこのほか、背教者(=アンチ・キリスト)を蛇蝎のごとく嫌い、教団外部の一般人のことを「世の人」と表現しているようだ。笑ってしまうのは、オウム真理教の事件についてのエホバの証人の反応である。カルト的な小集団のなかにいると、自分たち自身のことを相対的に把握することはできなくなってしまうようだ。
①絶対性、②純粋性、③選民性、そして④布教性、この4つを著者はエホバの証人の特性といっているが、最後の布教性がエホバの証人にはきわめてつよくあらわれている。
これに日本人に多くみられるリゴリズム的なまじめさが加わると、きわめて抑圧的に働くようになる。著者の記述によれば、アメリカの会衆(コングレゲーション)においては、日本よりもかなりリラックスしたものであるという。アメリカ人との比較から、日本人の特性が浮かび上がる。
閉鎖的な社会集団の特性としては、思考停止状態、組織への依存症、クリエイティビティ欲求の抑圧、感覚の鈍磨などをあげることもできよう。世界終末の日であるハルマゲドンを待つだけの受動的な生き方になりがちなことも指摘されている。どうせ世界が滅びるのであれば、頑張っても仕方ないではないか」という態度である。
面白いのは、これはとくに日本人の場合なのだろうが、たいていは女性から入信し、その子どもが巻き込まれ、最後に配偶者もというパタンが日本人の場合は多いようだ。著者の場合もそうだが、とくに海外駐在員の妻(・・いわゆる「駐妻」)は現地での就労ビザがないので、することがなく精神的に満たされない。物質的な欲望に飽き足りないと、その一つの方向性として宗教に向かうう傾向もなくはないようだが、それがたまたまカルトであるということなのだ。
わたしはこの本を読んでいて後半になってくると、おなじようにキリスト教系の閉鎖的な社会集団であるアーミッシュを思い出した。資本主義のオルタナティブ (1)-集団生活を前提にしたアーミッシュの「シンプルライフ」についてを参照していただきたい。シンプルな生き方にあこがれる人も少なくないだろうが、ものをあまり考えないシンプルマインド状態となってしまうと、それは無知蒙昧の一歩手前といっても言い過ぎではない。
多かれ少なかれ、どんな人でもある特定の価値観のもとに生きているわけである。生きてきた軌跡そのものであり、それは経験と知識によって形成されているものだ。
その価値観を相対化できるかどうかが、自由にモノを考えることができるかどうかの分かれ道になる。その意味では、自分のアタマで考え、自分で行動するとはどういうことかについても考えさせてくれる本である。
ページ数も多くてやや重い内容であるが、ぜひ読むことをすすめたい。
目 次
はじめに-35年前の8ミリビデオ
第1章 カルト生活の幕開け
第2章 自己アイデンティティの上書
第3章 信者としての自覚の芽生え
第4章 信者としてのアイデンティティ
第5章 激動の活動時代
第6章 芽生える疑問
第7章 アイデンティティとの闘い
第8章 脱宗教洗脳
第9章 ミッション・インポッシブル―親族洗脳解約
第10章 死と再生-人生バージョン2.0
おわりに
推薦図書
著者プロフィール
佐藤典雅(さとう・のりまさ)
株式会社1400グラム代表取締役。ロス在住。1971年広島県生まれ。少年期の大半をアメリカで過ごし、ハワイの高校を卒業。グラフィックデザイナーとしてキャリアを開始させる。医療業界でのコンサル営業、BSデジタル放送局を経てヤフーに入社。2005年にブランディング社に入り、LAセレブ、東京ガールズコレクション、キットソン等のプロデュースを行う。2010年に独立し事業戦略のコンサルを手掛けて現在に至る(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。
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『ドアの向こうのカルト』著者インタビュー ベンチャー企業もカルト!? 元「エホバの証人」ビジネスパーソンが語る“社会の中の洗脳”
PS. 文庫化
『カルト脱出記 ー エホバの証人元信者が語る25年間の記録』 (河出文庫)と改題したうえで2017年1月に文庫化された。(2017年2月10日 記す)
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<ブログ内関連記事>
資本主義のオルタナティブ (1)-集団生活を前提にしたアーミッシュの「シンプルライフ」について
・・「Devil's Playground(日本未公開)という映画がある。 http://www.youtube.com/watch?v=n518iLqRekM&feature=fvst ロバート・レッドフォードが主催するサンダンス映画祭で、オフィシャル・セレクションとなったドキュメンタリー映画である。製作公開は2003年。『目撃者-刑事ジョンブック』とは異なる視角から、アーミシュの若者たちの人生選択の姿を描いた、すぐれたドキュメンタリーとなっている。10代後半の男女は、今後もアーミシュとして生きるか否かという、人生の選択を意志決定する前に、「完全な自由」を与えられることになる。こうして若者たちは連日パーティーにふけり、酒やドラッグに浸り、やりたい放題、好き放題の生活をしばらく送るのだが、大半の者がだんだんと「無制限の自由」に虚しさを感じて、アーミッシュのコミュニティーに戻る道を選択していく・・・。Devil's Playground とはアーミッシュが、彼らのコミュニティのソト側の世界を表現したコトバである」。
エホバの証人の場合は、本書の記述によれば、アーミッシュのような巧みな仕組みはないようだ。教団の歴史の長さも関係するのだろう。もちろん、電気を否定するアーミッシュはインターネットに接触する機会もないのだろうが。
書評 『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)-日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」。日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?
書評 『オウム真理教の精神史-ロマン主義・全体主義・原理主義-』(大田俊寛、春秋社、2011)-「近代の闇」は20世紀末の日本でオウム真理教というカルト集団に流れ込んだ
書評 『現代オカルトの根源-霊性進化論の光と闇-』(大田俊寛、ちくま新書、2013)-宗教と科学とのあいだの亀裂を埋めつづけてきた「妄想の系譜」
マンガ 『レッド 1969~1972』(山本直樹、講談社、2007~2014年現在継続中)で読む、挫折期の「運動体組織」における「個と組織」のコンフリクト
・・閉鎖的組織が生み出す悲劇はカルトに共通する
(2014年1月16日、2015年7月25日 情報追加)
(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!)
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end