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2014年10月29日水曜日

マンガ『レッド 1969~1972』(山本直樹、講談社、2007~2014年現在継続中)で読む、挫折期の「運動体組織」における「個と組織」のコンフリクト



『レッド 1969~1972』(山本直樹、講談社、2007~2014年現在継続中)というマンガを知ってますか? 

新左翼による「革命運動」に青春を捧げた大学生たちの生き様を描いたマンガです。単行本で、2014年10月現在で第8巻まで出版されている。

作者の山本直樹は、かつては「有害図書宣告」も受けたことのある「エロマンガ家」というラベリングもされていたが、「家族崩壊」を描いた1994年の 『ありがとう』 (・・まだまだエロの要素が濃厚)などの秀作を描いている、1960年(昭和35年)生まれの現役マンガ家だ。

日本で新左翼による「革命運動」がピークを迎えたのが、日米安保条約改定が焦点となっていた1970年、(昭和45年)。いまから44年前のこの年は、大阪万博が開催された年であり、また三島由紀夫が割腹自殺というセンセーショナルな死にかたをした年でもあった。高度成長期の末期でもある。

1960年生まれの山本直樹は、新左翼による「革命運動」を同時代として体験しているわけではない。1970年にはまだ10歳なので、おそらく小学校四年生だろう。1962年生まれのわたしにとってもまたそれは同じだ。その当時は小学校二年生、「大学というものは、ゲバ棒で殴り合いをする場所」だと思い込んでいた(笑)

その意味では、当事者によるノスタルジーでもなければ悔恨の記録でもない。後続世代による冷めた視線を感じることができるはずだ。思い入れを排した、淡々とした描写がえんえんとつづく。



運動の挫折期には「運動体組織」の問題が集中的に顕在化する

このマンガの設定は、1970年にピークを迎えた新左翼の学生運動が下火になっていった時期遅れて参加してきた大学生たちが、そのためにかえって純粋に「革命運動」にのめり込んでいく悲劇(?)を描いた作品だ。その悲劇的結末は、集団リンチ殺人事件における「総括」というコトバに集約されている。

作中の登場人物にはモデルがあるが、いずれもみな最後は逮捕か死亡という形に至ることが、あらかじめ読者には示されている。その時まで「あと××日」という記述は、物語の語りとしては異例なものだろう。

いかなる組織であれ、組織が形成される初期段階においては、なんらかの理想やミッションをもっているものだ。その段階においては、内容の是非はさておき、理想が高らかに掲げられ、理想実現のために邁進する。企業組織であればベンチャーもまた運動体組織の一種である。

だが、理想実現は並大抵のことではない。運動体組織においては、挫折が重なってくると、高らかに掲げた理想と現実のギャップは増大していく。組織に属する個人と組織とのコンフリクトが顕在化してくる。

このマンガが描いている世界は、そうした運動体組織が形骸化した理想を掲げたまま、現実に破れゆくなかで遭遇する、おぞましいばかりの結末である。開放形の組織とは異なり、閉鎖的組織であるがゆえに離脱が容易ではない状況。そういう状況がもたらすものがなにか、これがこのマンガが描く世界である。

先にも書いたように、作者もわたしも学生運動の世代ではない。あくまでも浅間山荘事件などの陰惨な内部テロ事件を、お茶の間のテレビの前で傍観していた人間だ。しかも京成電鉄沿線の住民であったわたしにとっては、成田闘争という、さらに遅れてきた過激派によるテロ行為には大いに迷惑を被ったという記憶が残る。

しかし、先入観なしで、この時代を描いたこの作品を読んでいると感じるものがある。革命のために身を挺して邁進する過激派学生たちを、真綿のように自縄自縛して締め付けていく「閉鎖的な組織」についてだ。

さらに『レッド』のテーマには、2つの異なる志向性と文化をもった組織が、規模拡大のために合併したときに発生するコンフリクトも登場する。組織どうしのコンフリクト、組織に属する個人のコンフリクト、個人どうしのコンフリクトである。「個と組織」にかかわるテーマとして、一般社会でも経験することがすくなくないはずだ。


山本直樹には『ビリーバーズ』(1999年)というマンガもある。ビリーバーとは、何かを信じこんだ人間のことである。その対象は宗教のこともあるし、あるいは実現すべきと考えている理想社会などもそれに該当する。後者の場合であっても、限りなく宗教に近い。信仰者といってもいいだろう。

『レッド』は、テーマ的には『ビリーバーズ』の延長線上にある。設定を新左翼において、エロな要素をかなり抜いたのが『レッド』だといえるだろう。

「閉鎖系の組織」について考えてみることで、逆説的にあるべき組織形態について考えてみるヒントになるかと思い、あえて誤解をおそれずに取り上げてみた。

ぜひ、このマンガを読んで、「反面教師」として読むなど、さまざまな読みかたをつうじて、いろいろ考えてみてほしいと思う。かなり特異なマンガではあるが・・・。




<関連サイト>

連合赤軍の元活動家は獄中27年で「革命」をどう総括したか 『週刊ダイヤモンド』特別レポート( ダイヤモンド・オンライン、2017年11月18日)
・・「―当時、「総括」を否定する、あるいは加わらないという選択はできなかったのでしょうか。
私自身はその場にいきなり放り込まれちゃったもんで、できるできないという問題じゃなかった。確かに初めは共産主義化というか、自分たちが抱えている問題を考えて、どう乗り越えるかを考える意味での総括なんだけど。それは別に反対するものでもない。ただああいう風な総括に変わっていくのは想定外だった。自己批判、総合批判と展開。組織と個人の問題じゃないかと思っている。 当時はああやって激しく行われたわけですけど、現実の、例えば会社の新入社員研修なんかも似たようなことをやっているんじゃないかと思います。むしろ左翼のやり方が会社に持ち込まれたのかな。いずれにしても個人を鍛えるという意味合いで暴力的なことを持ち込むのはある意味、日本的なスタイルでもあるような感じがしないでもない。」   組織と個人の関係について考える人は、読めば示唆するものが多いインタビュー

(2017年11月18日 項目新設)



<ブログ内関連記事>

「高度成長」関連

沢木耕太郎の傑作ノンフィクション 『テロルの決算』 と 『危機の宰相』 で「1960年」という転換点を読む
・・1960年の社会党委員長を刺殺したテロリストは、「遅れてやってきた右翼少年」であった

書評 『高度成長-日本を変えた6000日-』(吉川洋、中公文庫、2012 初版単行本 1997)-1960年代の「高度成長」を境に日本は根底から変化した

書評 『「鉄学」概論-車窓から眺める日本近現代史-』(原 武史、新潮文庫、2011)-「高度成長期」の 1960年代前後に大きな断絶が生じた


左派による世界的な「革命幻想」の時代

映画 『バーダー・マインホフ-理想の果てに-』を見て考えたこと
・・ドイツ赤軍を描いたドイツ映画

映画 『ハンナ・アーレント』(ドイツ他、2012年)を見て考えたこと-ひさびさに岩波ホールで映画を見た
・・社会心理学者ミルグラムの「アイヒマン実験」についても解説してある

「航空科学博物館」(成田空港)にいってきた(2013年12月)-三里塚という名の土地に刻まれた歴史を知る
・・成田空港闘争の史実や反対派のヘルメットなどを展示した資料館「成田空港 空と大地の歴史館」についても紹介しておいた

書評 『革新幻想の戦後史』(竹内洋、中央公論新社、2011)-教育社会学者が「自分史」として語る「革新幻想」時代の「戦後日本」論

書評 『海洋国家日本の構想』(高坂正堯、中公クラシックス、2008)-国家ビジョンが不透明ないまこそ読むべき「現実主義者」による日本外交論
・・国際政治学者・高坂正堯が原論活動を行った時代は新左翼の全盛期。、『総括せよ!さらば革命的世代-40年前、キャンパスで何があったか』(産経新聞社取材班、2009)から高坂正堯氏にまつわるエピソードを紹介してある

(カバー画は、マンガ家・山本直樹によるもの)

自分のアタマで考え抜いて、自分のコトバで語るということ-『エリック・ホッファー自伝-構想された真実-』(中本義彦訳、作品社、2002)
・・「ホッファーの The True Believer: Thoughts on the Nature of Mass Movements (1951)であった。『大衆行動』というタイトルで翻訳されている」  「ビリーバー」(believer)の本質について

書評 『オウム真理教の精神史-ロマン主義・全体主義・原理主義-』(大田俊寛、春秋社、2011)-「近代の闇」は20世紀末の日本でオウム真理教というカルト集団に流れ込んだ

「ユートピア」は挫折する運命にある-「未来」に魅力なく、「過去」も美化できない時代を生きるということ


閉鎖的組織、閉鎖的人間集団

書評 『ドアの向こうのカルト-九歳から三五歳まで過ごした、エホバの証人の記録-』(佐藤典雅、河出書房新社、2013)-閉鎖的な小集団で過ごした25年の人生とその決別の記録

資本主義のオルタナティブ (1)-集団生活を前提にしたアーミッシュの「シンプルライフ」について

映画 『ハンナ・アーレント』(ドイツ他、2012年)を見て考えたこと-ひさびさに岩波ホールで映画を見た
・・社会心理学者ミルグラムによる「アイヒマン実験」について触れておいた。「アイヒマン実験」を世に知らしめた『服従の心理』(原題は Obedience to Authority : 権威への服従)という本は1974年に出版されている。人間というものは「権威」からの命令にはいとも簡単に従ってしまう

映画 『es(エス)』(ドイツ、2001)をDVDで初めてみた-1971年の「スタンフォード監獄実験」の映画化
・・「この映画のモデルになったのは、1971年にアメリカのスタンフォード大学で実際に行われた「監獄実験」(Stanford prison experiment)という社会心理学の実験だという。通称「アイヒマン実験」として知られる心理実験のバリエーションである」。


日本人がそのなかで生きている人間集団

書評 『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)-日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」。日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?


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2013年11月4日月曜日

映画『es(エス)』(ドイツ、2001)をDVDで初めてみた ー 1971年の「スタンフォード監獄実験」の映画化


映画 『es(エス)』(ドイツ、2001)をはじめてみた。なぜか今年に入るまでこの映画の存在を知らなかったので、もちろんDVD版である。

アメリカのリメイク版が 2010年に製作されているそうだが、このオリジナルのドイツ版のほうがはるかに面白いという評判があるのでドイツ版をみることにした次第だ。ドイツ人ならではの徹底性がみられることを期待してのことだ。

原題はドイツ語で Das Experiment、日本語版の es とは精神分析の世界にくわしい人なら、すぐにあれだなと気づくであろう。「エス」とは「自我」のことだが、ドイツ語では非人称主語である。英語圏では id(イド) とラテン語が使用されている。

「世界を震撼させた心理実験」という紹介文がDVDに書かれている。監視カメラつきの模擬刑務所という設定で、被験者を看守と囚人に区分し、それぞれの役割分担を明確にしたロールプレイングによる実験である。

この映画のモデルになったのは、1971年にアメリカのスタンフォード大学で実際に行われた「監獄実験」(Stanford prison experiment)という社会心理学の実験だという。通称「アイヒマン実験」として知られる心理実験のバリエーションである。


(ドイツ版 映画案内)

被験者がすべて男性で、新聞広告によって募集された。募集条件は以下のとおりである。

●拘束時間: 2週間
●報酬: 4000マルク
●応募資格: 不問
●実施場所: 大学内模擬刑務所

実験にあたって被験者たちが守るべきルールが決められているので、ここに書いておこう。

ルール①: 囚人は番号で呼びあわなければならない
ルール②: 囚人は看守に対して敬語を使わなければならない
ルール③: 囚人は消灯後、会話を一切交わしてはならない
ルール④: 囚人は食事を残してはならない
ルール⑤: 囚人は看守のすべての指示に従わなければならない
ルール⑥: 囚人はルール違反を犯した場合、囚人には罰が与えられる

看守役は看守の制服に警棒と手錠、囚人役はいわゆる囚人服を着せられ、いったん決められた役割の交代はない

時間がたつにつれて看守サイドも囚人サイドも、それらしく振る舞うようになっていく。看守サイドには上位者(・・この実験の場合は心理学者)から発する「権威」があり、囚人サイドには看守の「権威」に従わざるを得ないという非対照的な関係となる。

ささいないざこざから始まった看守サイドにも囚人サイドの対立がじょじょに鬱積しながらエスカレートしていくのだが、双方にいちじるいしい人格変容が発生していくさまを観察することができる。




この実験においては、とくに看守役の「人格変容」が著しいまさに「権威への服従」(obedience to authority)である。

権威を身にまとった看守の監視下で囚人もまたより囚人らしくなっていく。

だが、監視役の看守たちですら、24時間の監視モニターをつうじて監視されているのである。視線が発するとことが、真の意味で「権威」が発生する場である。

看守サイドは、より秩序維持を目的にした権威主義的パーソナリティに人格変容、あるものはサディスティックな本性をよびさまされ秩序維持のために自然にリーダーシップを発揮する者まででてくるのだ。

囚人サイドは、主人公などを除いて、ほぼすべてがあきらめ感に慣れてゆき、従順なパーソナリティへと人格変容していく。

いずれに立場においても、シャバでの職業や学歴など関係なく、割り振られた役割に応じた人格が変容していくのだ。人間集団のもつ相互作用が促進するのであろう。集団同調圧力というやつだ。日本語でいう「空気」が醸成されたような印象も受ける。

「地位は人をつくる」とはよく言われることだが、閉鎖空間のなかではその変化が急速に進行するのである。まさに急速にできあがった「空気」に支配されるのである。

囚人役になかに現役の空軍軍人が入っているのだが、彼が主人公に対して、軍からのカネで行われている実験なのだと漏らしていた。撃墜されてパイロットが敵の捕虜となったときのための心理的な対応方法を研究するためのデータ収集が目的だという。じっさいにベトナム戦争では米軍パイロットが捕虜となって抑留されているのでありうる話だ。

実験期間は2週間とされていたが、7日目で実験は中止を余儀なくされる。そのとき模擬監獄のなかで起こったのは・・・・!?

ここから先は見てのお楽しみだが、想像はつくのではないかと思う。いや想像を超えた事態がもたらされることになるのだ!

もちろん現在では、このような実験は倫理にもとるものだとして禁止されている。これはこの映画を最初から最後まで見たら十二分に納得のいくことだ。実話をもとにしたものだけに、下手なサイコホラーよりはるかに恐ろしい。

社会心理学者スタンリー・ミルグラムによる「アイヒマン実験」もそうであったが、人間というものは「権威」からの命令にはいとも簡単に従ってしまうことがこの映画からも手に取るように実感される。

DVD特典に収録された出演者インタビューによれば、出演者も狭い空間のなかで長時間過ごしているため、だんだんと精神的に追い詰められていったという。そのため迫真ある演技となったのであろう。

これはかならず見るべき映画であると実感した。「世間」と「空気」の形成を考えるための材料となるだろう。この映画の実験においては当初予定の2週間が継続不可能となり、その結果、「空気」が持続的な「世間」に転化するまでは観察できなかったが・・・。

「世間」も「空気」もけっして日本だけの現象ではない





<関連サイト>

「スタンフォード監獄実験」の逆は実行できるか (グレッグ・マキューン、ダイヤモンドハーバードビジネス、 2014年5月14日)
・・「社会心理学者が行った「スタンフォード監獄実験」「ミルグラム実験」は、悪しきシステムが善良な人を変えてしまうという教訓を残した。ではその反対、つまり善意や意欲を生む好循環をつくることは可能だろうか。その事例と実践方法を紹介する」 英語原文は Can We Reverse The Stanford Prison Experiment? 

(2014年5月14日 項目新設)


PS スタンフォード監獄実験の考案者がその詳細を描いた 『ルシファー・エフェクト-ふつうの人が悪魔に変わるとき-』(フィリップ・ジンバルドー、海と月社、2015)という本が出版された。 (2015年8月10日 記す)。



<ブログ内関連記事>

映画 『ハンナ・アーレント』(ドイツ他、2012年)を見て考えたこと-ひさびさに岩波ホールで映画を見た
・・「『イェルサレムのアイヒマン』(1963年)で「組織と個人」の問題を考える」と「社会心理学者ミルグラムによる「アイヒマン実験」の項目を参照してほしい

書評 『サウンド・コントロール-「声」の支配を断ち切って-』(伊東乾、角川学芸出版、2011)-幅広く深い教養とフィールドワークによる「声によるマインドコントロール」をめぐる思考

書評 『ドアの向こうのカルト-九歳から三五歳まで過ごした、エホバの証人の記録-』(佐藤典雅、河出書房新社、2013)-閉鎖的な小集団で過ごした25年の人生とその決別の記録

マンガ 『レッド 1969~1972』(山本直樹、講談社、2007~2014年現在継続中)で読む、挫折期の「運動体組織」における「個と組織」のコンフリクト
・・閉鎖的組織が生み出す悲劇はカルトに共通する

資本主義のオルタナティブ (1)-集団生活を前提にしたアーミッシュの「シンプルライフ」について

映画 『偽りなき者』(2012、デンマーク)を 渋谷の Bunkamura ル・シネマ)で見てきた-映画にみるデンマークの「空気」と「世間」
・・「世間」も「空気」も特殊日本的現象ではない

書評 『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)-日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」。日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?
・・「世間」とは持続性のある相互監視の視線であり、「空気」とは持続性はないが濃度の濃い相互監視の視線の集まりと考えてよいのではないだろうか

映画 『アクト・オブ・キリング』(デンマーク・ノルウェー・英国、2012)をみてきた(2014年4月)-インドネシア現代史の暗部「9・30事件」を「加害者」の側から描くという方法論がもたらした成果に注目!
・・「大義」の存在によって、いとも簡単に悪に荷担してしまう人間という存在について

(2014年5月14日、2015年7月25日 情報追加)


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2013年11月3日日曜日

映画『ハンナ・アーレント』(ドイツ他、2012年)を見て考えたこと ー ひさびさに岩波ホールで映画を見た



映画 『ハンナ・アーレント』(ドイツ他、2012年)を岩波ホールでみてきた。女性哲学者を描いた作品だが、シンプルなタイトルがじつにいい。

この映画は、政治哲学者ハンナ・アーレント(1906~1975)の生涯において、巨大な論争を引き起こした『イェルサレムのアイヒマン』(1963年出版)をめぐる一時期に焦点をあてて描いたものだ。

哲学者が主人公の映画というとそれだけで敬遠してしまうかもしれないが、この映画はヒューマン・ドラマとしても味わい深い。10月26日から東京・神保町の岩波ホールで公開されている。ひきつづき全国の映画館で上映される予定である。

構想から完成まで10年かかったというだけに、映画化するのも大変なことだった思う。その意味では、1963年前後に時代設定を行い、ニューヨーク在住の亡命ドイツ系ユダヤ人知識人たちの狭い世界に限定して描いたのは成功であったといえるだろう。

ハンナ・アーレントという哲学者は、その人生自体が、とくに前半生がじつに劇的であった。第二次大戦期に30歳代を過ごしただけでなく、ドイツでユダヤ人として生きるということがいかなる意味をもったことを知っていれば。


ハンナ・アーレントはドイツ北部ハノファー近郊で生まれた。世俗的なユダヤ人家庭に育った一人娘で、若い頃から聡明で哲学に多大な興味を示していた。18歳で入学したマールブルク大学で出会った哲学者マルティン・ハイデガーからその才能を愛された師弟関係は愛人関係に発展するのだが、これはフラッシュバック的なシーンとして映画の中にも何度か登場する。

この不倫関係は両者の死後明らかになってスキャンダラスな事件として報道されたのだが、アーレントと関係のあったまさにその時期こそ、ハイデッガーは未完成に終わった主著『存在と時間』にかんする思索と執筆のピークを迎えていたのである。創作意欲とはまさに生きるチカラと密接な関係にあることを示したエピソードである。

フライブツク大学総長となったハイデガーが1933年にナチス党に入党(!)したため、ユダヤ人のアーレントはハイデガーとの交友を断っている。しかし戦争をはさんだ17年後、1950年にドイツで再会し交友関係は復活させている。

ナチスにかかわった男とユダヤ人女性という関係は、なんだかイタリアの女性映画監督リリアーナ・カヴァーニによる『愛の嵐』(The Night Porter 1973年)の設定を思い出してしまうのだが、倒錯的なものはではないとはいえ、人間関係、とくに男女関係が一筋縄ではいかないものがあると言わねばなるまい。




ナチスによる政権奪取後、アーレントは秘密警察のゲシュタポに逮捕されるがまもなく出獄、そのままパスポートのないままパリに脱出し、以後アメリカで市民権を獲得するまでの18年のあいだ「無国籍」のまま生きることになる。

その後、ユダヤ人の故郷をパレスチナに建設するというシオニズム運動にもかかわり、1940年にはフランスで収容所に抑留されるが、これもまたうまく脱出し、翌年にはアメリカに渡航してニューヨークに落ち着くことにった。まさに間一髪の連続である。

映画では前半生はほとんど描かれないが、アーレント自身がユダヤ人として「過酷な時代」を生き抜いた人であったことはアタマのなかに入れておきたい。彼女の政治哲学は、そうした過酷な前半生が前提にありながらも個人的な体験そのものは語らないというスタイルに貫かれている。

だからこの映画で主要テーマとなる『イェルサレムノアイヒマン』においても、アイヒマンという「凡庸な人物」がなぜ「ユダヤ人虐殺という絶対悪」にかかわっていたのかという一点に集中して解明が行われることになる。それが「悪の陳腐(凡庸)さ」(the banality of evil)というアーレントの有名なフレーズとして結晶することになる。

絶滅収容所で虐殺された「被害者」の立場に立つ大多数のユダヤ人からは、裏切り者だという轟々たる非難を浴び続けることになっても、アーレントは見解を変えることも妥協することもいっさいなかった。たとえ長年の親友たちから絶交を言い渡されても。

そういう勇気ある発言を行ったアーレントがいかに危機的状況を乗り切ったのか、その時期をヒューマン・ドラマとして描いた映画でもある。



<関連サイト>

映画『ハンナ・アーレント』 公式サイト





ユダヤ人虐殺後も変わることのないドイツ系ユダヤ人のドイツ語へのこだわり

この映画の監督であるマルガレーテ・フォン・トロッタ(Margarethe von Trotta)は、いわゆる「ニュー・ジャーマン・シネマ」の旗手の一人。とくに知的女性を主人公にしたヒューマン・ドラマを数多く製作してきた。

わたしはマルガレーテ・フォン・トロッタ監督の作品は、『ローザ・ルクセンブルク』(1986年)はビデオで、チェーホフ原作のイタリア映画『三人姉妹』(1988年)は岩波ホールで、『ローゼンシュトラッセ』(2003年)はDVDですでに見ている。

ローザ・ルクセンブルクはマルクス主義の理論家として、かつては日本でもよく読まれた人だが、映画では社会正義のために奮闘する女性として描かれている。第一次大戦敗戦後のドイツにおける「スパルタクス団」の反乱に参加し虐殺されている。

ハンナ・アーレントは、その精神においてローザ・ルクセンブルクにつながる人だが、ローザもまたドイツ語で著作活動を行ったポーランド出身のユダヤ人である。

『ローゼンシュトラッセ』では、ユダヤ人男性と結婚した貴族出身の非ユダヤ系ドイツ人女性の苦難を描いた作品。

主人公の非ユダヤ系ドイツ人女性に助けられたユダヤ人少女は、戦後ドイツからニューヨークに移住することになるのだが、アメリカ社会に生きながら、ドイツ語にこだわって生きてきたことが映画で描かれる。

アーレントの二番目の夫は非ユダヤ人であり、『ハンナ・アーレント』と『ローゼンシュトラッセ』では設定が正反対になるが、夫婦ともにドイツ出身であり、アメリカ人としゃべるときは英語だが、夫婦間や親しい友人たちとはドイツ語でしゃべる。

アーレントはアメリカに移住後は英語で著作活動を行っているが、英語を身につけたのはアメリカに移住後の36歳からであり、『イェルサレムのアイヒマン』を掲載する雑誌『ニューヨーカー』の編集部では、英文に誤りがあることが編集者から指摘されるシーンがある。

大学の授業でも一般学生を対象にした授業では英語で語るが、ドイツ文化専攻の週数の学生に対してはすべてドイツ語で講義を行っている。

アーレントにとっても、その他の亡命ドイツ系ユダヤ人についても同様、「母語としてのドイツ語」を捨て去ることはなかったようだ。

たとえナチスドイツによるユダヤ人虐殺を体験しながらも、ドイツ語を捨てなかったドイツ系ユダヤ人たち。ドイツ語はナチスのドイツ語でもあるが、ゲーテのドイツ語でもある。

「アイヒマン裁判」を傍聴するため渡航したエルサレムのシーンでも、旧友のドイツ出身の老シオニストとドイツ語で会話するシーンがある。隣のテーブルから話にわりこんできたドイツ出身の仕立屋が、父親が好んでゲーテのことばを引用したがるクセがあったと語るシーンもある。

人間にとって母語とはそういうものだ。そのなかで生まれ育った言語から切り離されることは、人生そのものが否定されるようなものなのだ。

その意味では、ドイツの女性監督がドイツ人女優を主人公にキャスティングして、セリフの一部を英語にするという設定に意味がある。英語を母語とするアメリカ人にドイツ語をしゃべらせたのではリアリティがなさすぎるからだ。

ラストに近いシーンでハンナ・アーレントが「悪の凡庸さ」について、なんと8分にもわたるスピーチを英語で行うのだが、ドイツ語なまりの英語で熱弁するアーレントがじつによく描かれていた。

イスラエルは建国後、ドイツやオーストリアなど中欧系ユダヤ人の母語であったドイツ語や、おなじく多数派であた東欧系ユダヤ人の母語であったイディッシュ語(・・ドイツ語に近い)でもなく、死語となっていたヘブライ語を復活させ国語とした。

この映画ではドイツ語、英語、ヘブライ語が飛び交うが、こうした言語状況について注意を払ってみるのも、ユダヤ民族が生きてきた現実を考えるうえで重要なことだ。

この点は日本語を固有の民族語とし、日本語と日本人を切っても切り離せないものとしてきた日本人とは大きく異なる点である。


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『イェルサレムのアイヒマン』(1963年)で「組織と個人」の問題を考える

『イェルサレムのアイヒマン-悪の陳腐さについての報告-』(大久保和郎、みすず書房、1969)は、1980年代後半にわたしも読んでいる。

二段組みでびっちり詰まった小さな活字。正直いって読みとおすのには骨が折れたが、「個と組織」の問題について考えるにあたっては必読書というべきだ。




魂なき官僚制は官僚組織だけの問題ではない。アイヒマンもまたナチスという巨大官僚組織のなかで出世を願っていた一人の凡庸な一官吏に過ぎないのである。

チェコ生まれのユダヤ人でドイツ語で著作活動を行っていたフランツ・カフカには『審判』や『城』といった長編小説がある。いずれもカフカを想わせる Kというイニシャルの平凡な勤め人が主人公であるが、組織のなかで不条理に運命にもてあそばれ、つぶされていく姿が描かれている。

アイヒマンの場合は、たとえ組織の命令が不条理であろうとも、積極的に主体的にそのなかに身を投じたのがカフカの小説の主人公とは異なるが、組織なくしては個が生きることのできない現代社会の象徴のような存在だ。

『イェルサレムのアイヒマン』の出版が、ユダヤ人たちのあいだで轟々たる非難を呼び起こしたことはすでに記したが、ユダヤ人のなかにはアーレントを積極的に支持した人もいなかったわけではない。

たとえば精神分析家のブルーノ・ベッテルハイム(1903~1990)である。彼自身がダッハウ強制収容所、そしてブーヘンヴァルト強制収容所に送られたが、戦争勃発前の1939年に解放されるという体験の持ち主だが、アーレントの主張を全面的に支持した結果、これまた大きな非難を浴びることになった。

ベッテルハイムに対して投げつけられた「ユダヤ人によるユダヤ嫌い」であるという非難は、なんだか「自虐史観」を非難する日本人の存在を想起させるものがある。自意識過剰傾向のつよいユダヤ人と日本人が互いに似た存在でもあると思わされる。

『イェルサレムのアイヒマン』(1963年)が出版されたのは1963年、その後の1960年代という時代が「権威」を否定する一大ムーブメントが先進国のなかで巻き起こった時代であったことを考えれば、アーレントの主張が世の中に受け入れられていったのもある意味では当然ではないかと思う。

ドイツ映画 『バーダー・マインホフ-理想の果てに-』に描かれているのは、ナチス世代の親をもつ若者世代が「革命運動」にかかわった1960年代後半を描いた作品だが、ドイツに限らず、イタリアでも日本でも、フランスに端を発した「権威を否定する1968年以後」の社会は、すでにそれ以前の世界とは異なるものとなった。



社会心理学者ミルグラムによる「アイヒマン実験」

現在では「六次のへだたり」というネットワーク理論で知られているアメリカの社会心理学者スタンリー・ミルグラム(1933~1984)だが、かつては「アイヒマン実験」という通称で知られた「服従の心理的メカニズム」を解明した人として知られていた。

わたしはこの2つの理論が同じミルグラムによるものであることに、なかなかアタマのなかで結びつかなかったのだが、それはさておき「アイヒマン実験」が世界に与えたインパクトもきわめて大きなものがあったのである。

「アイヒマン実験」とは、閉鎖的な環境で権威者の指示に対して人間がどう振る舞うかについて行われた実験だが、具体的には被験者に対して電気ショックを与える命令が下されたときの反応をみたものである。

かなりショッキングな内容の実験であり、現在では倫理的な観点から実施することは禁止されているが、その結果のほうがさらにショッキングなものであった。

人間は、権威あるものによって命令されたとき、電気ショックにスイッチを押してしまうのである。それほど人間というものは、普段の環境では理性ではおかしいと思っている行為であっても、いとも簡単に実行してしまうのである、と。

「アイヒマン実験」」についてはじめて知ったのは、日本的経営論の権威であった津田眞澂教授の1980年代に出版された著書であったが(・・タイトルは忘れた)、「組織と個」について考察する文脈のなかであったと記憶している。

『服従の心理』(原題は Obedience to Authority : 権威への服従)という本は1974年に出版されている。「アイヒマン実験」そのものは「アイヒマン裁判」に触発されて行われたものだが、一般向けの書籍として出版されたのは、『イェルサレムのアイヒマン』出版後の11年後にあたる。




ミルグラムもまたユダヤ系であるが、アーレントとは28年と、約一世代違うので親子ほどの関係になる。ニューヨーク生まれなので、直接ヨーロッパで反ユダヤ主義を経験したわけではない。

『服従の心理』のなかでミルグラムは、『イェルサレムのアイヒマン』について以下のように書いている。山形浩生氏による新訳が河出書房から文庫化されているので、そこから引用しておこう。

実はこれは、ハンナ・アーレントの著書『イェルサレムのアイヒマン』に関連して提起された問題を想わせる。アーレントは、アイヒマンをサディスト的な化け物として描きだそうとする検察側の試みが根本的にまちがっていると述べた。アイヒマンはむしろ、机に向かって仕事をするだけの凡庸な官僚に近いも者だというのがその主張だ。・・(中略)・・
われわれ自身の実験で、何百人もの一般人が権威に従うのを目の当たりにして、わたしは「悪の陳腐さ」というアーレントの発想が、想像もつかないほど真実に近いと結論せざるを得ない。被害者に電撃を与えた一般人は、義務感--被験者としての自分の役目についての認識--に従ってそれを行っただけだ。ことさら攻撃的な性向のためにそうしたのではない。
おそらくこれが、われわれの研究の最も根本的な教訓だろう。・・(以下略)・・ (P.21)

新訳版には、ミルグラムの先生であったジェローム・ブラナーによる2004年版序文がついているが、ベトナム戦争だけでなく、つい最近のこととして、米軍兵士ったいがイラクの囚人たちに対して行った虐待について触れている。

「アイヒマン実験」に先だって公表されたアーレントの「悪の陳腐(凡庸)さ」という観点がいかに先駆的なものであったか人間の本質についての哲学者の考察の鋭さ、深さについてあらためて思わざるをえないのである。



「アイヒマン裁判」には日本から傍聴しにいった文芸評論家がいる

大学時代のことだが古本屋で『ナチズムとユダヤ人-アイヒマンの人間像-』(村松剛、角川文庫、1972)という本をみつけて読んだことがある(*注)。




村松剛はすでに亡くなっているが、文芸評論家で三島由紀夫とは親しく交友していたことでも知られる人。日本文学にかんする造詣の深い人であったが、一方では本書以後、ユダヤ人問題や中近東問題についても深い関心をもち、さまざまなノンフィクション作品を発表している。

『ナチズムとユダヤ人-アイヒマンの人間像-』は、初版は1962年の発行だという。まさに同時代としてリアルタイムで「アイヒマン裁判」を傍聴した記録である。

ユダヤ人に対してとくに敵意をもっていたわけでもないアイヒマンという人物。十分な学校教育も受けず、中流階級から転落したこの男は、社会的上昇を願って新興のナチス党という組織に入る。

ナチズムや反ユダヤ主義からではなく、あくまでも出世のためにユダヤ人問題にかかわることになったアイヒマン。

シオニズムの原典となったテオドール・ヘルツルの『ユダヤ問題』を読んで、そのナショナリズムに感激したアイヒマン。これがのちにシオニストと結んだ秘密協定の伏線ともなるのだが、個人的悪意からでもなく、主義主張からでもなく、ユダヤ人虐殺の責任者となったアイヒマンは、まさに組織の一歯車として働いたに過ぎない。

そのような内容が書かれている村松剛のこの報告書は、機会があればぜひ図書館で探してでも読んでほしいものだ。

(*注)村松剛の『ナチズムとユダヤ人』は、2018年11月に『新版 ナチズムとユダヤ人-アイヒマンの人間像』(角川新書)として復刊された。ぜひ一読することを勧めたい(2018年11月11日 第一次世界大戦終結から100年の日に記す)



終わりに-半世紀前の1960年代を振り返る

映画のなかでハンナ・アーレントはひっきりなしにタバコを吸っている。映画をみているときに、なんだかタバコの匂いが漂ってくるような感じがしたのは、岩波ホールが古い劇場だからだろう。

考えてみれば岩波ホールで映画をみるのは20年以上ぶりのようだ。改装も改築もされていない古い映画館には、過去に蓄積された匂いが染みついている。

現在ではヨーロッパですら禁煙エリアが拡大しているが、1960年当時のアメリカでも、授業中に講師がたばこを吸うことが許されていたというのは驚きだ。

おなじくユダヤ系のフランス人セルジュ・ゲンズブールもひっきりなしにタバコを吸っているが、1960年代という時代がそこに現れているようでもある。

半世紀を経て時代は根本的に変わったのだが、さて2010年代の現在、人間の本性は変わったといえるのかどうか。あらためて考えてみる必要がある。



<関連サイト>

映画『ハンナ・アーレント』 公式サイト

映画『ハンナ・アーレント』 Official facebook

民族としてのアイデンティティーとは、いったい何なのか---映画『ハンナ・アーレント』が内包する普遍的なテーマを考える(川口マーン惠美「シュトゥットガルト通信」 現代ビジネス 2013年10月18日)

映画『ハンナ・アーレント』 どこがどう面白いのか 中高年が殺到!(週刊現代 2013年12月9日)




<ブログ内関連記事>

映画 『es(エス)』(ドイツ、2001)をDVDで初めてみた-1971年の「スタンフォード監獄実験」の映画化
・・1971年にアメリカのスタンフォード大学で実際に行われた「監獄実験」(Stanford prison experiment)という社会心理学の実験だという。通称「アイヒマン実験」として知られる心理実験のバリエーションである。

『「経済人」の終わり』(ドラッカー、原著 1939)は、「近代」の行き詰まりが生み出した「全体主義の起源」を「社会生態学」の立場から分析した社会科学の古典
・・ドラッカー(1909~2005)は、ハプスブルク帝国の首都ウィーンに生まれ育ったユダヤ系の「社会生態学者」。アーレントとは異なり社会科学的な観点から「全体主義の起源」について考察した

書評 『プリーモ・レーヴィ-アウシュヴィッツを考えぬいた作家-』(竹山博英、言叢社、2011)-トリーノに生まれ育ち、そこで死んだユダヤ系作家の生涯を日本語訳者がたどった評伝

書評 『忘却に抵抗するドイツ-歴史教育から「記憶の文化」へ-』(岡 裕人、大月書店、2012)-在独22年の日本人歴史教師によるドイツ現代社会論 ・・この本のカバーにはベルリンのブランデンブルク門の近くにある、ホロコーストにおけるユダヤ人犠牲者のメモリアルパークである

映画 『バーダー・マインホフ-理想の果てに-』を見て考えたこと
・・ナチス否定後の戦後ドイツ社会が生み出した極左という鬼子

ドイツ再統一から20年 映画 『グッバイ、レーニン!』(2002) はノスタルジーについての映画?

ベルリンの壁崩壊から20年-ドイツにとってこの20年は何であったのか?
・・ナチズムから目をそらしてきた旧東ドイツ地域

1980年代に出版された、日本女性の手になる二冊の「スイス本」・・・犬養道子の『私のスイス』 と 八木あき子の 『二十世紀の迷信 理想国家スイス』・・・を振り返っておこう ・・ナチズムから目をそらしてきたスイス

オーストリア極右政治家の「国葬」?
・・ナチズムから目をそらしてきたオーストリア

映画 『戦場でワルツを』(2008年、イスラエル)をみた
・・イシラエルのレバノン侵攻と虐殺事件を描いたアニメーション作品

「宗教と経済の関係」についての入門書でもある 『金融恐慌とユダヤ・キリスト教』(島田裕巳、文春新書、2009) を読む
・・第二次大戦後、反ユダヤ主義はアラブ世界に移動する。「イスラームの終末論」については、イスラーム研究の若き俊秀・池内 恵の処女作『現代アラブの社会思想-終末論とイスラーム主義-』(池内 恵、講談社現代新書、2002)が必読書だ。この本をよむと、イスラエル成立後、反ユダヤ主義の中心地が、キリスト教世界からイスラーム世界にシフトしたことが理解できる。」

書評 『サウンド・コントロール-「声」の支配を断ち切って-』(伊東乾、角川学芸出版、2011)-幅広く深い教養とフィールドワークによる「声によるマインドコントロール」をめぐる思考

映画 『ノーコメント by ゲンスブール』(2011年、フランス)をみてきた-ゲンズブールの一生と全体像をみずからが語った記録映画
・・ひっきりなしにタバコを吸い続けるゲンズブール

書評 『対話の哲学-ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜-』(村岡晋一、講談社選書メチエ、2008)-生きることの意味を明らかにする、常識に基づく「対話の哲学」
・・「根強く社会に存在する「反ユダヤ主義」のなか、「同化」によるアイデンティティ喪失の道ではなく、自らの内なるユダヤ性探求の方向に向かい出す・・(中略)・・フランツ・ローゼンツヴァイクによる「対話の哲学」」

ハンガリー難民であった、スイスのフランス語作家アゴタ・クリストフのこと
・・母語であるハンガリー語での著作ができないことの苦しみ

映画 『マーガレット・サッチャー-鉄の女の涙-』(The Iron Lady Never Compromise)を見てきた
・・「妥協しなかった鉄の女」サッチャー

映画 『アクト・オブ・キリング』(デンマーク・ノルウェー・英国、2012)をみてきた(2014年4月)-インドネシア現代史の暗部「9・30事件」を「加害者」の側から描くという方法論がもたらした成果に注目!
・・「大義」の存在によって、いとも簡単に悪に荷担してしまう人間という存在について

(2014年4月25日、5月14日、7月9日 情報追加) 


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2013年3月16日土曜日

書評『ドアの向こうのカルト ー 9歳から35歳まで過ごした、エホバの証人の記録』(佐藤典雅、河出書房新社、2013)ー 閉鎖的な小集団で過ごした25年の人生とその決別の記録



『ドアの向こうのカルト ー 9歳から35歳まで過ごした、エホバの証人の記録』(佐藤典雅、河出書房新社、2013)は、体験者にしか書けないインサイド・レポートである。

東京ガールズコレクションを手掛けたプロデューサーが、入信した母親に引きずられる形で信者となって生きてきた25年間を回想した手記である。一人称の語りによるノンフィクションのような印象をもった。

評論家が書いたものではない、告発するジャーナリストが書いたものではない、研究者が書いたものでもない。そのなかに25年間、すなわち四半世紀もの長きにわたって、しかも人間成長期の9歳から35歳までを過ごした人が書いたものである。ひとつひとつの記述の迫真性、説得力が違う

「エホバの証人」は「ものみの塔」と言われることもある。かれら自身の認識においてはキリスト教のようだが、わたしはキリスト教ではないと思っていた。おそらく大半の人はカルトとみなしていることだろう。

著者はみずから25年間を過ごしたエホバの証人の信者としての人生を否定してしまうわけではない。すでに「解約」した現時点から振り返って、その意味を記憶のなかにある具体的な事実に即して解明しようとしている。

エホバの証人の擁護者からみたら、まさに「サタン」の仕業ということになるだろうし、否定的な人からみたら物足りないかもしれない。

だが、たとえ自分の人生の奥底からほとばしり出てくるものを抑圧してきたのがエホバの証人という教団であるとしても、それを全否定しては、それこそ人格崩壊をもたらしかねないし、賢明な処世とはいえない。著者が「リセット」したうえで、この手記を書くことを決意したのはぞのためだろう。

本書には、エホバの証人とマルチ商法が酷似していることに、当時はまだエホバの証人の信者だった著者が驚愕するシーンがでてくる。なんとなくそう感じている人も少なくないだろうが、さすがにエホバの証人のインサイダーであった人の話だけに説得力がある。

わたしはこのレポートを、閉鎖的な社会集団の事例研究として読んでいた。狭い社会集団は閉鎖的であるがゆえにマイノリティ(少数派)であるが、またそうであるがゆえにネットワークでつながっている同じ世界の住人とはきわめて親密な人間関係を築くことができるという逆説がある。ただし、そのネットワークは外部との接触をもたないネットワークであるのが問題ではあるのだが。

閉鎖的な組織や小集団といえば、まず想起するのはオウム真理教だろう。そして連合赤軍。新左翼の党派性の行き着いた先である。シベリア抑留者がそうであるし、さらにいえば帝国陸軍や旧東ドイツ国民、いまなおつづく北朝鮮もそのカテゴリーに含めていいかもしれない。エホバの証人が「王国」という表現をつかっているのは、ひじょうに示唆的・・・・である。

閉鎖的な社会集団は、「敵」の存在を明確化することによって、内部の結束と正統性をつくりだす。エホバの証人においては、それは「サタン」である。エホバとサタンの二項対立によって、すべて説明する二元論である。これは強弱の違いはあれ、キリスト教のなかにビルトインされたマニ教的世界観である。

世界観とは、ものの見方を規定するフレーム(枠組み)のことだ。エホバの証人ではこのほか、背教者(=アンチ・キリスト)を蛇蝎のごとく嫌い、教団外部の一般人のことを「世の人」と表現しているようだ。笑ってしまうのは、オウム真理教の事件についてのエホバの証人の反応である。カルト的な小集団のなかにいると、自分たち自身のことを相対的に把握することはできなくなってしまうようだ。

①絶対性、②純粋性、③選民性、そして④布教性、この4つを著者はエホバの証人の特性といっているが、最後の布教性がエホバの証人にはきわめてつよくあらわれている。

これに日本人に多くみられるリゴリズム的なまじめさが加わると、きわめて抑圧的に働くようなる。著者の記述によれば、アメリカの会衆(コングレゲーション)においては、日本よりもかなりリラックスしたものであるという。アメリカ人との比較から、日本人の特性が浮かび上がる。

閉鎖的な社会集団の特性としては、思考停止状態、組織への依存症、クリエイティビティ欲求の抑圧、感覚の鈍磨などをあげることもできよう。世界終末の日であるハルマゲドンを待つだけの受動的な生き方になりがちなことも指摘されている。どうせ世界が滅びるのであれば、頑張っても仕方ないではないか」という態度である。

面白いのは、これはとくに日本人の場合なのだろうが、たいていは女性から入信し、その子どもが巻き込まれ、最後に配偶者もというパタンが日本人の場合は多いようだ。著者の場合もそうだが、とくに海外駐在員の妻(・・いわゆる「駐妻」)は現地での就労ビザがないので、することがなく精神的に満たされない。物質的な欲望に飽き足りないと、その一つの方向性として宗教に向かうう傾向もなくはないようだが、それがたまたまカルトであるということなのだ。

わたしはこの本を読んでいて後半になってくると、おなじようにキリスト教系の閉鎖的な社会集団であるアーミッシュを思い出した。資本主義のオルタナティブ (1)-集団生活を前提にしたアーミッシュの「シンプルライフ」についてを参照していただきたい。シンプルな生き方にあこがれる人も少なくないだろうが、ものをあまり考えないシンプルマインド状態となってしまうと、それは無知蒙昧の一歩手前といっても言い過ぎではない。

多かれ少なかれ、どんな人でもある特定の価値観のもとに生きているわけである。生きてきた軌跡そのものであり、それは経験と知識によって形成されているものだ。

その価値観を相対化できるかどうかが、自由にモノを考えることができるかどうかの分かれ道になる。その意味では、自分のアタマで考え、自分で行動するとはどういうことかについても考えさせてくれる本である。

ページ数も多くてやや重い内容であるが、ぜひ読むことをすすめたい。





目 次

はじめに-35年前の8ミリビデオ
第1章 カルト生活の幕開け
第2章 自己アイデンティティの上書
第3章 信者としての自覚の芽生え
第4章 信者としてのアイデンティティ
第5章 激動の活動時代
第6章 芽生える疑問
第7章 アイデンティティとの闘い
第8章 脱宗教洗脳
第9章 ミッション・インポッシブル―親族洗脳解約
第10章 死と再生-人生バージョン2.0
おわりに
推薦図書



著者プロフィール  

佐藤典雅(さとう・のりまさ)
株式会社1400グラム代表取締役。ロス在住。1971年広島県生まれ。少年期の大半をアメリカで過ごし、ハワイの高校を卒業。グラフィックデザイナーとしてキャリアを開始させる。医療業界でのコンサル営業、BSデジタル放送局を経てヤフーに入社。2005年にブランディング社に入り、LAセレブ、東京ガールズコレクション、キットソン等のプロデュースを行う。2010年に独立し事業戦略のコンサルを手掛けて現在に至る(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。




<関連サイト>

『ドアの向こうのカルト』著者インタビュー ベンチャー企業もカルト!? 元「エホバの証人」ビジネスパーソンが語る“社会の中の洗脳”



PS. 文庫化

『カルト脱出記 ー エホバの証人元信者が語る25年間の記録』 (河出文庫)と改題したうえで2017年1月に文庫化された。(2017年2月10日 記す)


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<ブログ内関連記事>

資本主義のオルタナティブ (1)-集団生活を前提にしたアーミッシュの「シンプルライフ」について
・・「Devil's Playground(日本未公開)という映画がある。 http://www.youtube.com/watch?v=n518iLqRekM&feature=fvst  ロバート・レッドフォードが主催するサンダンス映画祭で、オフィシャル・セレクションとなったドキュメンタリー映画である。製作公開は2003年。『目撃者-刑事ジョンブック』とは異なる視角から、アーミシュの若者たちの人生選択の姿を描いた、すぐれたドキュメンタリーとなっている。10代後半の男女は、今後もアーミシュとして生きるか否かという、人生の選択を意志決定する前に、「完全な自由」を与えられることになる。こうして若者たちは連日パーティーにふけり、酒やドラッグに浸り、やりたい放題、好き放題の生活をしばらく送るのだが、大半の者がだんだんと「無制限の自由」に虚しさを感じて、アーミッシュのコミュニティーに戻る道を選択していく・・・。Devil's Playground とはアーミッシュが、彼らのコミュニティのソト側の世界を表現したコトバである」。

エホバの証人の場合は、本書の記述によれば、アーミッシュのような巧みな仕組みはないようだ。教団の歴史の長さも関係するのだろう。もちろん、電気を否定するアーミッシュはインターネットに接触する機会もないのだろうが。

書評 『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)-日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」。日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?

書評 『オウム真理教の精神史-ロマン主義・全体主義・原理主義-』(大田俊寛、春秋社、2011)-「近代の闇」は20世紀末の日本でオウム真理教というカルト集団に流れ込んだ

書評 『現代オカルトの根源-霊性進化論の光と闇-』(大田俊寛、ちくま新書、2013)-宗教と科学とのあいだの亀裂を埋めつづけてきた「妄想の系譜」


マンガ 『レッド 1969~1972』(山本直樹、講談社、2007~2014年現在継続中)で読む、挫折期の「運動体組織」における「個と組織」のコンフリクト
・・閉鎖的組織が生み出す悲劇はカルトに共通する

(2014年1月16日、2015年7月25日 情報追加)


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