西欧文明の根幹をなすキリスト教とヒツジの関係を知るには、なによりもまず『コンコルダンス』を開いてみる。これは基本中の基本である。
『コンコルダンス』(concordance)とは、『聖書』すなわちバイブルに登場する語句のインデックス(=索引)でありレファレンス(=参照)である。
世界中でもっとも販売されているという『聖書』は、旧約聖書の原文はヘブライ語で新約聖書の原文はコイネーとよばれるギリシア語だが、翻訳されることによって世界中に普及していったことは周知の事実である。だが、翻訳された時期によって各種のバージョンがあり、日本語訳聖書もまた例外ではない。
わたしが所有しているのは、『口語訳聖書コンコルダンス-聖書語句索引-』(新教出版社編集部、新教出版社、1978)。大学学部時代に購入したものだ。キリスト教徒ではなくても、西洋文明の研究には不可欠なのがキリスト教の知識だからである。
「国際ビジネスマンを目指すなら聖書くらい読みなさい」と、大学時代にある先生から言われたが、『聖書』は現代人にとっての「常識」というべきだろう。日本文明も西欧文明の圧倒的影響を受けて「近代化」した以上、避けて通ることはできないのである。たとえキリスト教徒ではなくても。
日本語訳聖書は、現在では「新共同訳聖書」が一般的だろう。とはいえ、あらたな翻訳版がでる度に買い換えるのも面倒なので、このまま使用している。この『口語訳聖書コンコルダンス』は、「新教」すなわちプロテスタント版であるので、カトリックで使用される『旧約聖書外典』(アポクリファ)に登場する語句は含まれない。これらは、『新共同訳』では続編として収録されている。
(筆者所蔵の『コンコルダンス』)
■羊メタファーに満ちあふれた『聖書』へのアプローチ
では、本題に入って、「聖書に登場するヒツジ」について調べてみよう。「コンコルダンス」には、「ひつじ(羊)」、「ひつじかい(羊飼い)」、「こひつじ(子羊)」、「おひつじ」(雄羊)、「ひつじのもん(羊の門)」の5項目が掲載されている(上掲の写真を参照)。
「ひつじ」の項目には以下の語句が掲載されている。「~」で示された部分は「ひつじ」で、「ひつじ」を含むフレーズと、そのフレーズが登場する箇所が略語で示されている。たとえば「創」は『創世記』の略で、「4:2」は「第4章第2節」の略である。この情報をたよりに、『聖書』の該当箇所を開いてみるのである。
●「ひつじ」(羊)
<旧約聖書>
アベルは~を飼う者となり 創 4:2
この者らは~を飼う者 創 46:32
らくだ、牛、~の上に臨む 出 9:3
主の会衆を牧者のない~の 民 27:17
陰府に定められた~のよう 詩 49:14
あなたの牧の~に怒りを 詩 74:1
牧の民、そのみ手の~で 詩 95:7
われらは・・・その牧の~である 詩 100:3
失われた~のように迷い出 詩 119:176
みな~のように迷って イザ 53:6
わが~は地の前面に散らされ エゼ 34:6
あなたがたはわが~ エゼ 34:31
民は~のようにさまよい ゼカ 10:2
<新約聖書>
彼らは、~の衣を着て マタ 7:15
飼う者のない~のように弱 マタ 9:36
イスラエルの家の失われた~以外 マタ 10:6
~をおおかみの中に送るよう マタ 10:16
イスラエルの家の失われた~以外 マタ 15:24
ある人に百匹の~がああり マタ 18:12
飼う者のない~のような マコ 6:34
百匹の~を持っている者が ルカ 15:4
彼は自分の~の名をよんで ヨハ 10:3
~はその声を知っているので ヨハ 10:4
~が自分のものでもない雇人 ヨハ 10:12
この囲いにいない他の~が ヨハ 10:16
「わたしの~を飼いなさい」 ヨハ 21:16
「わたしの~を養いなさい」 ヨハ 21:17
ほふり場に引かれて行く~ 使 8:32
ほふられる~のように見 ロマ 8:36
永遠の契約の血による~の大牧者 ヘブ 13:20
~のようにさ迷っていた Ⅰペテ 2:25
●「こひつじ」(子羊)
燔祭(はんさい)の~はどこにあります 創 22:7
~二頭を毎日絶やすことなく 出 29:38
小山は~のように踊った 詩 114:4
おおかみは~と共にやどり イザ 11:6
そのかいなに~をいだき イザ 40:11
ほふり場に引かれて行くからのように イザ 53:7
過越(すぎこし)の~をほふる日 マコ 14:12
~を狼の中に送る ルカ 10:3
世の罪を取り除く神の~ ヨハ 1:29
「見よ、神の~」 ヨハ 1:36
「わたしの~を養いなさい」 ヨハ 21:15
毛を刈る者の前に立つ~のように 使 8:32
過越(すぎこし)の~であるキリストは Ⅰコリ 5:7
しみもない~のような Ⅰペテ 1:19
ほふられたとみえる~が立 黙 5:6
「ほふられた~こそは、力と 黙 5:12
その衣を~の血で洗い 黙 7:14
ほふられた~のいのちの書 黙 13:8
~の行く所は、どこへでも 黙 14:4
~の婚姻の時がきて 黙 19:7
●おひつじ(雄羊)
三歳の~と、山ばとと 創 15:9
あかね染めの~の皮のおおい 出 39:34
~の燔祭(はんさい)と、肥えた獣の脂肪 イザ 1:11
選び分けられた~のように エレ 25:34
群れの中の無傷の~とを エセ 43:28
川の岸に一匹の~が立って ダニ 8:3
二つの角のある~は ダニ 8:3
数千の~、万流の油 ミカ 6:7
●「ひつじかい」(羊飼)
~たちはわれわれと一緒 Ⅰサム 25:7
~たちが夜、野宿しんがら ルカ 2:8
~たちは、見聞きしたこと ルカ 2:20
門からはいる者は、羊の~ ヨハ 10:2
よい~は、羊のために命を捨て ヨハ 10:11
わたしはよい~であって ヨハ 10:14
ひとりの~となるであろう ヨハ 10:16
●「ひつじのもん」(羊の門)
祭司たちと共に・・・~を建て ネヘ 3:1
二階のへやと~の間は ネヘ 3:32
望楼を過ぎて、~に至り ネヘ 12:39
エルサレムにある~のそば ヨハ 5:2
以上、『聖書』に登場する「ひつじ」関連の項目を見てきたわけだが、この一覧をみるだけでもザックリとしたものが把握できると思う。「迷える羊」や「百匹の羊」など、キリスト教徒ではなくても耳にすることの多いフレーズの出典がわかるだろう。
まず、旧約聖書と新約聖書に共通する「ヒツジのメタファー」が、「ユダヤ・キリスト教」という把握をもたらしていることに注目しておきたい。「ユダヤ・キリスト教」はキリスト教の側の見方だが、「迷える羊」という旧約聖書で使用された「羊メタファー」が新約聖書でもおなじように使用されているのは、新約聖書が旧約聖書のベースを前提にしているためだ。
新旧の違いは、「羊と羊飼い」はキリスト教で強調されたものであることだ。羊飼い=牧者=キリストといった連想が生まれている。また羊メタファーと子羊メタファーの違いについても注意を払う必要がある。子羊は基本的に供犠として屠られるが、それを踏まえると『ヨハネ黙示録』の意味もわかってくるだろう。英語ではヒツジ(sheep)と子ヒツジ(lamb)は異なる単語である。
ユダヤ教における「ヒツジ」については、Jewish Encyclopaedia.com などで検索してみるといいだろう。sheep という項目がある。『旧約聖書』以外に『タルムード』や『ミシュナー』など、ユダヤ教のみで使用される教典があるので、「ユダヤ・キリスト教」という把握は、かならずしも正確ではない。
さらにいえば、ユダヤ教とキリスト教を受けて最後に登場した一神教のイスラームにも「羊メタファー」が使用されている。イスラームについては、『岩波イスラーム辞典』や『平凡社イスラム辞典』など日本語で読める辞典が完備しているので、参照してほしい。ユダヤ教もキリスト教もイスラームも、みなほぼ同じ生態系のなかで生まれてきたものであり、遊牧という要素と密接なかかわりがある。
ざっとこんな感じである。ザッックリとした感じが掴めたのではないかと思う。あとは、『コンコルダンス』で検索したフレーズをじっさいに『聖書』にあたって確認する作業を行えばいいわけだ。
『コンコルダンス』には英語版もある。その他の言語によるものもある。また当然のことながら、本の形ではなくてもネットでも検索はできる。すべてを完全に網羅して調べるなら、『新共同訳聖書』と『口語訳聖書』の双方の日本語訳を別個に検索できる「聖書本文検索」(日本聖書協会)があるのでたいへん便利だ。『コンコルダンス』に掲載されているよりも、はるかに膨大な量のフレーズがたちどころに検索されてくる。
ところが、「ひつじ」では1件も検索されず、「羊」で検索すると「羊」という漢字を含んだ「山羊」(やぎ)などの別物も検索に引っかかってしまう。羊と山羊は近い存在だが、区別して考えることは必要である。痛し痒しとはこういうことか。検索の限界である。
だからこそ、こういう基本的なレファレンス本は、本の形として座右に置いておくべきだとも思う。全体を把握するのは、一覧性のある本の形になっているほうが便利であることも否定できないからだ。多すぎる情報の海に溺れてしまわないためにも。
<関連サイト>
・・『新共同訳聖書』でも『口語訳聖書』でも語句検索が可能
書評 『聖書の日本語-翻訳の歴史-』(鈴木範久、岩波書店、2006)-新しい考え方を普及させるためには必要なことは何だろうか
書評 『思想としての動物と植物』(山下正男、八坂書房、1994 原著 1974・1976)-具体的な動植物イメージに即して「西欧文明」と「西欧文化」の違いに注目する「教養」読み物
・・西欧文明におけるヒツジのイメージについて。家畜化された動物の代表として羊。群れとしての存在の羊と羊飼いのイメージが、キリスト教のもとにおいては聖界と俗界の両面にわたっての支配のメタファーとして機能
■ヒツジ関連フランスの童謡 「雨が降ってるよ、羊飼いさん!」(Il pleut, Il pleut, bergère)を知ってますか?
サッポロビール園の「ジンギスカン」を船橋で堪能する-ジンギスカンの起源は中国回族の清真料理!?
書評 『食べてはいけない!(地球のカタチ)』(森枝卓士、白水社、2007)-「食文化」の観点からみた「食べてはいけない!」
・・羊と羊肉についての記述がこの本にはある
(2012年7月3日発売の拙著です)
ツイート
ケン・マネジメントのウェブサイトは
http://kensatoken.com です。
ご意見・ご感想・ご質問は ken@kensatoken.com にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。
禁無断転載!
end