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2023年11月16日木曜日

書評『ユダヤ人の起源』(シュロモー・サンド、高橋武智監訳、佐々木之/木村高子訳、ちくま学芸文庫、2017)― 「ユダヤ人という発明」がいかに行われてきたか、批判を恐れぬユダヤ系イスラエル人の歴史家が挑んだ「イスラエル神話解体全書」

 

2023年10月7日の 「10・7」が起きなかったら、おそらく『ユダヤ人の起源』(シュロモー・サンド、高橋武智監訳、佐々木之/木村高子訳、ちくま学芸文庫、2017)は積ん読のまま、さらに何年も過ぎ去ることになっていただろう。

ガザのパレスチナ自治区から越境し、イスラエルに仕掛けてきた武装組織ハマスの凄惨なテロ事件。このテロ攻撃でイスラエル側には1,400人の死者、そして詳細はあからないが多数の負傷者が発生しただけでなく、拉致されていまだに人質になっている240名がいる。そのなかには外国人も含まれる。

最初は、無条件でイスラエルを支持する声が世界中で上がっていた。このテロ攻撃の衝撃の大きさを考えれば当然だろう。

だが、「ハマスを殲滅する」という声高な叫びのもと、ガザ側の巻き添え被害の民間人の死者はすでに1万人を超え、地上作戦も開始され、ハマスの地下トンネルに対する攻撃も行われている。

ガザ側の死者が増大し1万人を超え、イスラエル側の死者をはるかに超えただけでなく、戦争がさらにエスカレートするにつれ、パレスチナ支持のデモが世界各地で拡大している。当然といえば当然だろう。

米国ではユダヤ系の若者でさえ、イスラエル批判のデモを行っている人たちもいる。"Not in Our Name": 400 Arrested at Jewish-Led Sit-in at NYC's Grand Central Demanding Gaza Ceasefire(YouTube 2023年10月31日)などの動画を見るとよい。その事実を知ったとき、わたしのなかでもなにかが変わり始めた。

現在のイスラエルのやっていることはおかしいのではないかイスラエルとユダヤ人は不可分の存在ではなくなっている、いやそもそもユダヤ人が無条件でイスラエルを支持しているわけではないのではないか、と。そんな疑問がわいてきたのだ。

時代は変化しているのである。人びとの考えに変化がでてきても当然ではないか、と。

となると、イスラエルという「国家の起源」について考えなくてはならなくなる。「民族国家」(ネーション・ステート)であるイスラエルが規定しているユダヤ人とはそもそもいかなる存在かについて考えなくてはならなくなる。

さまざまな疑問があらためて湧き出てくるのを感じてきたのである。


■「ユダヤ人」は「発明」された概念である

ユダヤ人の起源が、パレスチナの地だけではないことは、すでに「常識」だといっていいだろう。

なぜなら、ユダヤ人として十把一絡げにくくることが不可能なほど、出身地の地域性を反映して大きく異なっている人たちの集団であることは自明だからだ。テュルク系の「ハザール王国」の話など、聞いたことのある人も少なくないはずだ。ユダヤ人は人種概念ではない。

というわけで、この機会を利用して、積ん読になって5年以上もたっていた『ユダヤ人の起源』(シュロモー・サンド、高橋武智監訳、佐々木之/木村高子訳、ちくま学芸文庫、2017)を読むことにした。なにごともタイミングというものが重要だ。どの本には、読むのに適した時期というものがある。

批判を恐れぬユダヤ系イスラエル人で、テルアビブ大学の歴史学の教授が挑んだ力作である。日本語版は文庫版で600ページを超える大冊なので、さすがに一気読みというわけにはいかない。

日本語版は「ユダヤ人の起源」となっているが、英語版のタイトル The Invention of the Jewish People にしたがえば、「ユダヤ人という発明」とするべきだろう。それは過去のある時点から始まった「発明」であるからだ。

この本はわたしなりに言い換えれば、「イスラエル神話解体全書」とでもいうべき内容の本である。もともとヘブライ語で書かれ、2008年にイスラエルで出版されたのだという。


(イスラエルで出版されたヘブライ語版 Wikipediaより


著者自身が2010年の単行本出版時に寄せた「日本語版への序文」によれば、イスラエルで出版された当時、電波メディアでも活字メディアでも積極的に取り上げられ、一般読者層からは強い関心をもって受け止められたという。

この事実から、ほかならぬユダヤ系イスラエル人自身が強い関心をもっているテーマだということがわかる。

ところが、専門家である歴史家たちからは、過剰なまでにネガティブな反応や著者に対する攻撃を引き起こしたのだという。「建国神話」という神聖なるタブー領域を侵犯しているからだ。

「ユダヤ人の起源は聖書の地」であるという前提が崩れると、民族離散(ディアスポラ)から2000年後に「父祖の地」に「帰還」したという「神話」が崩壊してしまう。「ユダヤ人国家」であるイスラエルの存立基盤が崩壊しかねないのだ。

リアクションの大きさから、この「歴史家」の立ち位置がわかる。あえて分類すれば「左派」というこのになるのだろう。神話を歴史とみなす「右派」と比較すれば、立ち位置はおのずから明らかである。

わたし自身は左派ではなく、政治的なリベラル派ではないが、著者のような歴史家こそ、本来の意味の歴史家だと思うのである。とはいえ、イスラエルもまた「御用学者」が幅をきかせているのだろう。過去を異なる視点で読み変えることこそ、歴史学の本来のミッションであるはずなのだが・・。

日本語版はフランス語版からの翻訳だが、著者自身フランスで学んだ歴史学者でフランス語にも堪能なことからフランス語版も監修しているはうだ。英語版よりフランス語版のほうが、論理展開が緻密だと監訳者が書いている。


(フランス語版 Comment le peuple juif fut invente


■ロシアで生まれた「シオニズム」というイデオロギー

そもそもユダヤ人は歴史的思考が希薄であった。この点はインド人とおなじである。旧約聖書のヘブルびとは古代文明の担い手であったが、ヘロトドスを生み出した古代ギリシア人や司馬遷を生み出した古代中国人とは違う。

そんなユダヤ人だが、知識階層が「ユダヤ人の歴史」に取り組みはじめたのは「近代」になってからのことだ。その動きは、まずドイツから始まり、その流れはロシアに拡がっていった。ここ2世紀の話に過ぎない。

中東欧からロシアにかけて居住していた、いわゆるアシュケナージ系のユダヤ人のなかから生まれてきたのが「シオニズム」という思想である。

ロシア帝国はユダヤ人に居住地域を定め、移動に制限をかけていた。英語では "Pale" という。アシュケナージ系ユダヤ人は限定された領域で人口爆発状態となっており、反ユダヤ主義が「ポグロム」という暴力的な形で激化したのがこの地域のことであった。現在のロシアやウクライナである。

中欧のハプスブルク帝国、すなわちオーストリア・ハンガリー帝国のブダペストで生まれたユダヤ系のジャーナリストのテオドール・ヘルツルが提唱したのが「シオニズム」の始まりだ。ヘルツルの夢は、「ユダヤ人国家」の樹立であった。

「シオニズム」は、「ユダヤ人国家」(Jewish state)という「ユートピア」を実現するために生み出されたイデオロギーである。

父祖の地である「シオン」(Zion)への帰還がその主張の根本にあるので、最終的に「シオニズム」と命名されたわけだ。そんなシオニストの夢が実現したのがイスラエルである。イスラエルが「イデオロギー国家」であるとは、そういうことだ。

ところが、その「シオニズム」は、「キャピタリズム」(=資本主義)や「コミュニズム」(=共産主義)と同様に、あくまでも「イズム」としての「主義」であり「イデオロギー」であって、ユダヤ人なら自動的に支持するイデオロギーではない

よくよく考えてみれば、これは当然の話である。おそらく、現在イスラエルに居住する一般のユダヤ系イスラエル人であっても状況はおなじだろう。「イズム」というものは、意識的に選択するものであって、生まれながらに身につけているものではない。教育を受けても主義者になるとは限らない

現在の日本に住む「日系日本人」の多くが、神社では柏手を打ち、皇室はリスペクトしながらも「天皇主義者」ではないのとおなじことだ。ビジネスパーソンだからといって「キャピタリスト」というわけではない。

つまり、日常生活に忙しい世俗的な一般人にとっては、「イズム」や「イデオロギー」にこだわる理由などまったくない。なんらかのイデオロギーを主張する右派も左派も、日本人のマジョリティではない。

ただし、シオニズムの担い手は、建国後から「労働シオニスト」とよばれた社会主義の左派であったが、オスロ合意に反発する右派によってラビン首相が暗殺された1995年以降は、「宗教シオニスト」とよばれる右派に移行している

現在のネタニヤフ首相の祖父は、当時はロシア帝国に属していたリトアニア生まれで、1920年代にパレスチナに移民してきた人である。ヘルツルの思想に共鳴した筋金入りのシオニストであった。


■「神話」を歴史とみなすことの問題性

日本で出版されている「ユダヤ史」にかんする本は、そのほぼすべてが絵に描いたようなナラティブで構成されている。

「旧約聖書」の時代から始まって、「ディアスポラ」という「民族離散」後の2000年を経て、イスラエル建国によって父祖の地に戻ったというストーリーが骨格になっている。

極端な場合は、ディアスポラ以降の歴史がまったく言及されないまま、旧約聖書時代からいきなり20世紀のナチスドイツによる絶滅収容所の話が登場し、ホロコーストから生き延びたユダヤ人たちは「民族として生き残るためには自分たちの国を持たねばならない」として、イスラエル建国に至ったというストーリー展開となる。

もちろん、これはあまりにも単純化されたナラティブであり、しかも正確さを欠いている。間違いも含んでいる。

もしかすると、旧約聖書とイスラエルがダイレクトに結びつけるのは、なにか意図的な仕掛けがあるのではないか? そういう疑問をもつことは重要だ。

だからこそ、「イスラエル建国」の「前史」を知らなくてはならないのだ。

「シオニズム」というイデオロギーが生まれてきた背景と、「民族」(=ネーション)としての「ユダヤ民族」という概念と「ユダヤ史」が生まれてきた経緯、そして「聖書の地」以外で生きてきたユダヤ人の実態とその歴史を知らなくてはいけないのである。


英語版


本書は、まず「はじめに」で、著者自身とその親族、関係者の多様で複雑なアイデンティティが事例として紹介される。一口に「ユダヤ人」といっても、いかに多様なバックグランドをもった人たちあるか、具体的に理解されることになる。

本書で精緻に検証される前提して、「第1章 ネイションをつくりあげる ー 主権と平等」では、「ネーション」と「ナショナリズム」についての理論的考察が行われる。これについては後述の「補論」を参考にされたい。

「第2章 「神話=史」ー はじめに、神がその民を創った」では、旧約聖書の「神話」が歴史とされてきた背景について、「第3章 追放の発明 ー 熱心な布教と改宗」と「第4章 沈黙の地 ー 失われた(ユダヤの)時を求めて」では、知られざるユダヤ史の実相についての解明が行われる。

最終章の「第5章 区別 ー イスラエルにおけるアイデンティティ政策」では、「ユダヤ人国家」としての「イスラエル建国」に先立って行われた、「ユダヤ人」の定義をめぐって行われた、ナチスドイツの人種理論を想起させるような「生物学的」、つまり「遺伝学的」な論争について検証が行われる。

この精緻な検証作業によって明らかにされたのが、ユダヤ民族の神話と起源は「近代」の創作物であるということだ。「ユダヤ人」という概念は、ここ2世紀の産物に過ぎないのである。「神話」といっても差し支えないだろう。

「第2章 「神話=史」ー はじめに、神がその民を創った」で重要なのは、「第3次中東戦争」(1967年)の結果、東エルサレムを領有するに至ったイスラエルだが、その後行われた考古学の調査によって「意図せざる結果」が生み出されてしまったことだ。

つまり、エルサレム周辺には、ユダヤ人が集住していたような痕跡、物的証拠は発見されなかったのである。「神話」は考古学によって否定されたのである。旧約聖書の神話を根拠としていたイスラエルの根拠が崩れ去ったのである。

「聖地」はあくまでも「聖地」であって、信者が尊崇する地であり巡礼の目的地ではあっても、集住する地域ではないのである。

これは考えてみれば当然のことだろう。キリスト教徒にとっても、イスラーム信者にとっても、聖地としてのエルサレムは、あくまでも巡礼地である。

このように考えていくと、「ガザに原爆を投下せよ」などという勇ましく響くが、非現実的で言語道断な放言をする国会議員の存在に端的に現れているように、「極右派」が必要以上に過激な主張をする理由もわかってくる。

「聖地」にユダヤ人が集住していたという「神話」が、考古学を初めとする学術研究によって史実ではないと否定されているからこそ、その主張にはムリがあるとうすうすと感じながらも「イデオロギー」にしがみつかざるを得ないのだ。「極右派」は、心理的に追い詰められているのである。

どうしても「アパルトヘイト」にしがみついていた、南アフリカの「白人至上主義」のことを想起してしまう。


■ユダヤ教はかつて熱心な「布教活動」を行っていた!

おそらく「ユダヤ人の起源」というテーマで関心が集中するのは、「第3章 追放の発明 ー 熱心な布教と改宗」と「第4章 沈黙の地 ー 失われた(ユダヤの)時を求めて」で詳細に検証されている事実についてであろう。

現在は「民族宗教」として積極的な布教活動など行わないユダヤ教だが、かつては熱心な「布教活動」が行われていたのだ。ユダヤ教から分離し、それを否定することで誕生したキリスト教に対抗して布教活動が行われたのである。

驚きの事実である。布教活動によって改宗した人たちの子孫が現在のユダヤ人の大半を占めているのであって、ディアスポラによって離散した人たちの子孫ではないのだ。これもまた「ユダヤ民族神話」の破壊以外のなにものでもない。

アーサ-・ケストラーの著作で有名になった「ハザール王国」だけではないのだ。アラビア半島南端のイエメンでも、紅海を挟んで対岸にあるエチオピアでも、アフリカ北部マグリブのベルベル人もみな、布教活動によって改宗してユダヤ教徒になったのである。

パレスチナの地を含むレバント(=東地中海)の周辺についても、移住者だけでなく改宗者も少なくないと考えるべきであろう。

7世紀のイスラームの誕生後には、中東を発信源にアフリカ北部、さらにはイベリア半島までイスラーム化されていったが、その地域にはユダヤ教の信仰を守り続けた人たちもいたわけだ。

それが「セファルディム」とは異なる、「ミズラヒ」とよばれるユダヤ教徒である。

1492年のイベリア半島から追放され、アフリカ北部やオスマン帝国に難民として移住したユダヤ人教徒がセファルディムとされるが、かれらと関係なく、そのはるか以前から中東からアフリカ北部に居住していたユダヤ教徒もいたのである。

セファルディムはラディーノとよばれるスペイン語系のことばを母語とししゃべり、ミズラヒは出身地の言語であるアラビア語やペルシア語を母語としてきた人たちだ。ア

ラビア語をつかって生きてきたミズラヒは、むしろアラブ系ユダヤ人、あるいはユダヤ系アラブ人というべきなのかもしれない。


■パレスチナ人も聖書時代のユダヤ人の末裔?

つまるところ、おなじユダヤ系イスラエル人といっても、肌の色も容貌も大きく異なるだけでなく、ユダヤ教を信仰してきたという1点を除けば、生活習慣もまったく異なる存在なのである。

もちろん、信仰の濃淡にも違いがあるだけでなく、信仰は形だけでまったく世俗的な生き方をしている人も多い。

さらにいえば、父祖の地とされる「シオン」は、ユダヤ教徒の専有物ではない。

パレスチナの地が7世紀以降にイスラーム化され、ユダヤ教からイスラームに改宗したのが現在のパレスチナ人である。その考え方にたつと、ユダヤ人とパレスチナ人は、宗教が異なるだけで祖先が共通ということになる。

イスラエル建国の父であるベン・グリオンなども、最初はそう考えていたようだ。だが、パレスチナの入植地で勃発した「アラブ人蜂起」(1929年)を機にその考えは放棄したらしい。ユダヤ人とパレスチナ人が共存する国家像は、イスラエル建国前に消滅してしまったのである。


■日本の先例を踏まえれば「神話」解体後の国家像再建は可能だ

本書は600ページを超える大冊であり、取り上げられた事項と文献はきわめて多岐にわたっている。

ある程度までユダヤ史につうじている人なら目にしたことも、耳にしたこともある固有名詞であっても、ユダヤ史の知識を欠いている大半の読者にとっては、読んでもまったく頭に残らないかもしれない。

この本に書いてあることがすべてただしいかどうかについては、部分的に揚げ足をとったり、否定することはそれほどむずかしいことではないだろう。だが、全編について再検証する作業は、けっして容易なことではない

とはいえ、全体としてみれば、大筋ではそのとおりだろうと納得するものがある。「ユダヤ民族」という概念は、近代に生み出されたものであり、旧約聖書の時代からつづいているものではないということだ。

日本だってその事情はおなじである。日本人という概念は、江戸時代中期以降の記紀神話の解読作業をつうじて国学を中心に形成されてきたものだ。

「平田国学」がその一端となって、天皇を統合のシンボルとした万世一系の天皇という「統合のシンボル」をもつ「建国神話」が作り上げられたわけだが、日本人が「ネーション」として確立されたのは、あくまでも日清戦争と日露戦争をつうじてのことであった。「外敵」の存在が「求心力」を生み出したわけである。

島国とはいえ、きわめて多様な自然環境によって育まれた、大いに異なる地域特性をもつ人びとが、共通語としての近代日本語、義務教育と徴兵制を体験することで、はじめてネーションとしての日本国民(あるいは日本民族)がつくりだされたのである。

「建国神話」もさることながら、具体的な制度と仕組みがそれを可能としたのである。

イスラエルにおいても、旧約聖書にもとづく「建国神話」がもちだされたが、中東欧をはじめ世界各地から集まってきた雑多なバックグランドをもつ人びとをまとめるための「統合のシンボル」が必要だったことは、明治維新時点の日本とおなじであった。

「外敵」の存在がイスラエルにおいて求心力を生み出したことは言うまでもない。4次にわたる中東戦争である。

共通語としての近代ヘブライ語と義務教育、徴兵制といった具体的な制度と仕組みをつうじて「イスラエル人としてのアイデンティティ」が形成されてきた。「建国神話」じたい色あせてきた現在でも、イスラエル国民はすでに確立したものとなっている。

******

問題は、「ユダヤ人国家」という理念が強調されて、少数派のパレスチナ人の存在が二等市民扱いとなっていることである。

『イスラエル神話解体全書』ともいうべき本書だが、2008年の出版から15年たって現在にいたるまで、イスラエルの国家像を見直す機運にまでは至っていないようだ。

状況としてはむしろユダヤ系の右傾化が進行している状況だが、「神話解体後」もイスラエルが国家として存続しつづけるためには、「神話抜きの国家像」を模索すべきであろう。今回の「2023年イスラエル・ハマス戦争」がそのきっかけとなることを願う。

日本人もまた、大東亜戦争の敗戦後に歴史から「神話」を追放することによって再生したのである。きわめて大きな代償を払うことになったが、明治維新から70年後のことであった。


『ユダヤ人の起源』のような本が発禁とならないだけ、イスラエル社会にはまだ自由が存在する余地があると言っていいのかもしれない。少なくとも占領地、すなわち植民地を除いた地域では。


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目 次 
日本語版への序文
監訳者まえがき
文庫版への訳者まえがき
はじめに ー 記憶の堆積と向かい合って
 変動さなかのアイデンティティと約束の地
 受け継がれてきた記憶と「対抗歴史」 
第1章 ネイションをつくりあげる ー 主権と平等
 「用語の検討」ー プープル(民族)とエトニー(種族) 
 ネイション ー 閉じ込め、境界を定める
 イデオロギーからアイデンティティへ
 種族的な神話から市民的な想像域(イマジネール)へ
 ネイションの「君主」としての知識人 
第2章 「神話=史」ー はじめに、神がその民を創った
 ユダヤ人の時間の素描
 「神話=史」としての旧約聖書
 人種とネイション
 歴史学者間の論争
 原ネイション的な視線 ー「東洋」の見方
 種族主義的な段階 ー「西洋」の見方
 『シオン』誌における歴史記述のはじまり
 政治と考古学
 大地は反逆する
 隠喩としての聖書 
第3章 追放の発明 ー 熱心な布教と改宗
 紀元七〇年
 追放なき離郷 ー 不分明な地域における歴史
 わが意に反して移住した「ユダの民」
 「国の民のうち多くの人がユダヤ人になった」
 ハスモン朝は隣人たちにユダヤ教を押しつけた
 ヘレニズム世界からメソポタミアへ
 ローマ帝国におけるユダヤ教の布教活動
 "ラビのユダヤ教" の世界における改宗
 ユダの住民の「悲しき」運命について
 「その国の民」の記憶と忘却 
第4章 沈黙の地 ー 失われた(ユダヤの)時を求めて
 「幸福のアラビア」ー ヒムヤル王国のユダヤ教への改宗
 フェニキア人とベルベル人 ー 謎の女王カーヒナ
 ユダヤ教のカガンか? 奇妙な帝国が東方に興った
 ハザール人とユダヤ教 ー 一つの愛の物語 
 ハザール人の過去をめぐる近代の研究
 謎 ー 東欧のユダヤ人の起源
第5章 区別 ー イスラエルにおけるアイデンティティ政策
 シオニズムと遺伝
 「科学的な」あやつり人形と人種差別的な人形つかい
 「種族」国家の建設
 「ユダヤ人の民主主義国家」ー 撞着誤報か?
  グローバル化時代の種族主義
謝辞
原著注

著者プロフィール
シュロモー・サンド(Shlomo Sand)
1946年にオーストリアのリンツで生まれる。その後、両親とともにイスラエルに移住。テルアビブ大学とパリの社会科学高等研究院で歴史を学ぶ。1984年よりテルアビブ大学にて現代ヨーロッパ史を教える。現在、テルアビブ大学名誉教授。専門領域は、フランスのインテレクチュアル・ヒストリー、20世紀の政治史、映画と歴史、ネイションとナショナリズムなど。フランス語・英語・ヘブライ語で多数の著書と論文を発表している。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)

監訳者プロフィール
高橋武智(たかはし・たけとも)
1957年東京大学文学部仏文科卒。同大学院で18世紀フランスの啓蒙文学・思想を専攻。1965~67年、フランス政府給費留学生として、パリ大学(ソルボンヌ)に留学。大学闘争さなかの1970年に、立教大学助教授を依願退職。(本データはこの書籍の単行本が刊行された当時に掲載されていたもの)

訳者プロフィール
佐々木康之(ささき・やすゆき)
1935年生まれ。元立命館大学文学部教授、フランス語担当
(本データはこの書籍の単行本が刊行された当時に掲載されていたもの)

木村高子(きむら・たかこ)
仏語・英語翻訳家。フランス国ストラスブール大学歴史学部卒業。早稲田大学大学院文学研究科考古学専攻修士課程修了。(本データはこの書籍の単行本が刊行された当時に掲載されていたもの)



■補論 「ユダヤ民族」(ネーション)という「発明」

「ネーション・ステート」(nation state)という概念がある。英国やフランスを筆頭に、その後に誕生したドイツやイタリア、そして米国や日本もみな「ネーション・ステート」であるとされている。

このあとにつづいて生まれてきた韓国やベトナムも「ネーション・ステート」であるといっていいだろう。

「ネーション・ステート」は、一般的に「国民国家」と日本語訳されている。日本語では「国民」と「民族」は別のことばで表現された異なる概念だと理解されているが、英語でもフランス語でも nation は、国民と民族の両方の意味をもっており、ことさら区別されることはない。

イスラエルもまた「ネーション・ステート」として建国された国だ。実際は、イスラエルに国民はユダヤ系だけの国でないが、理念としては「ユダヤ人国家」なのである。その点は先住民や帰化した人たちを抱えている日本も、程度の違いはあってもおなじである。

イスラエルに即して考えてみると、「ネーション・ステート」を「国民国家」と訳すことに疑問がわいてくる。なぜななら、イスラエルはシオニズムというイデオロギーにもとづいて、「ユダヤ民族」の国家として建国されたからだ。つまり、国家が成立してはじめて「国民」が誕生するわけだが、イスラエルの場合は国民が成立する前に「民族」が前提とされていたのである。

したがって、「ネーション・ステート」は「民族国家」と訳したほうが適切ではないだろうか。「ネーション」(nation)の派生形が「ナショナリズム」(nationalism)である。ナショナリズムもまたイデオロギーである。

日本語版でも、この「ネーション」の取り扱いには苦慮したようで、「国民」とも「民族」ともせず、「ネーション」のまま通すことにしたとしている。本書を読んでいて違和感を感じるかもしれないが、その理由をしっておくべきだろう。

この「ネーション」と「ナショナリズム」についての理論的な考察が「第1章 ネイションをつくりあげる ー 主権と平等」で詳細に行われている。

「ネーションとナショナリズム」(Nations and Nationalism)というタイトルが代表作の文化人類学者アーネスト・ゲルナー(・・日本語訳のタイトルは『民族とナショナリズム』)や、「ネーション」とは「想像の共同体」(Imagined Community)であると喝破した政治学者のベネディクト・アンダーソンや、日本ではあまり知られていないが重要なリア・グリーンフェルトなどの議論を踏まえたものだ。

「ユダヤ人の起源」を早く知りたいと焦っている人は読まなくても問題はないが、読めば得るものは多いだろう。取り上げられている著者は、いずれもナショナリズムを論じるに当たっての「常識」とされているものである。 


<関連サイト>

・・Arab Jews (Arabic: اليهود العرب al-Yahūd al-ʿArab; Hebrew: יהודים ערבים Yehudim `Aravim) is a term for Jews living in or originating from the Arab world. The term is politically contested, often by Zionists or by Jews with roots in the Arab world who prefer to be identified as Mizrahi Jews. Many left or were expelled from Arab countries in the decades following the founding of Israel in 1948, and took up residence in Israel, Western Europe, the United States and Latin America.

・・Mizrahi Jews (Hebrew: יהודי המִזְרָח), also known as Mizrahim (מִזְרָחִים) or Mizrachi (מִזְרָחִי) and alternatively referred to as Oriental Jews or Edot HaMizrach (עֲדוֹת-הַמִּזְרָח, lit. 'Communities of the East'), are a grouping of Jewish communities comprising those who remained in the Land of Israel and those who existed in diaspora throughout and around the Middle East and North Africa (MENA) from biblical times into the modern era.



・・「私は歴史学者なので知っているが、困ったことに歴史は過去を変えたいという思いを掻き立てる。だが、それはしょせんかなわぬ夢だ。過去は救いようがない。未来に焦点を合わせよう。古傷は癒やし、新たな傷害の原因にさせてはならない」(ユヴァル・ノア・ハラリ)

ヨーロッパのユダヤ人は古代イスラエル人の子孫ではなく、トルコ系ハザール人?「ハザール人」とはいったい何者なのか?(橘玲、ダイヤモンド・オンライン、2023年12月14日)

(2023年11月21日、12月14日 情報追加)


<ブログ内関連記事>



・・未来社会にかんする想像力を鍛えるためにSFを読む必要がある


■ロシア帝国とアシュケナージ系ユダヤ人



・・帝政ロシア時代の末期の革命運動には、サヴィンコフの同志として多数のユダヤ人が男女を問わず積極的に参加していた。


■「ネーション」と「ナショナリズム」

・・ナショナリズムの起源について


・・●戦前・戦中:「神の国」そして「聖戦」、●戦後:(「戦前・戦中」を密教化した)「密教体制」としてとらえる歴史観。とはいえ、対外的な拡張主義を放棄した「戦後」は、「戦前・戦中」と異なるのもまた事実。歴史を連続と捉えるか、断絶と捉えるか議論がわかれるところ



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2019年12月21日土曜日

美術展「ゴシック写本の小宇宙 ー 内藤コレクション展 文字に棲まう絵、言葉を越えてゆく絵」(国立西洋美術館)に行ってきた(2019年12月20日)ー 新たに加わった西洋中世美術のコレクションが美しい


美術展「ゴシック写本の小宇宙-内藤コレクション展 文字に棲まう絵、言葉を越えてゆく絵」(国立西洋美術館)に行ってきた(2019年12月20日)。国立西洋美術館に新たに加わった西洋中世美術のコレクションは必見だ。

現在、国立西洋美術館で開催されている企画展「ハプスブルク展-600年にわたる帝国コレクションの歴史」のついでに見てきたが、むしろこれを見るためにだけでも価値ある展示だといっていい。常設展の入場券で来場可能。新館2階の版画素描展示室にて。

羊皮紙(=パーチメント。この展示会では「獣皮紙」となっている)に手書きで制作され、カラフルな装飾が施された中世カトリックの聖書や祈禱書手写本(hand manuscript)として書籍形式でして制作されたが、なんらかの理由でバラバラにされて流通している「零葉」(れいよう)のコレクションである。


(パンフレットより)

長年にわたって収集してきた医学者・内藤裕史氏の個人コレクションが、一括して国立西洋美術館に寄贈されたものだ。これだけまとまったものが、実物として日本国内で鑑賞できる機会はこれまでなかった。その意味だけでも貴重だが、それだけではない。本来の制作目的を離れても、美術品としての価値も高いのだ。

もともと大学学部時代に西洋中世史を専攻したこともあって、私自身はこのテーマには大いに関心があるが、そうでない人にとっても、紙が普及する以前の羊皮紙(獣皮紙)そのものを見る機会でもある。


(「ラテン語聖書零葉:ヨシュア記・本文第1章(イニシャルE/ヨシュアに語りかける父な神)、ロレーヌ地方、1310~20年頃、インク・金・彩色/獣皮紙」 筆者撮影 )


書籍の装飾の動植物が、文字のあいだに入り込んだりするのは、手書きならではのものだ。もちろん動物や魚や植物には、キリスト教的な意味もあるのだが、そういった背景をはずしても、ビジュアル的に美しい13世紀以降のゴチック時代のものであるが、ロマネスク的な要素が入り込んでいるということか。日本人の感性にフィットしている。だから、勝手な推測だが、内藤氏も個人的に収集してきたのだろう。

今回はじめて知ったのは、通常のサイズのものだけではなく、ポケットサイズの書籍もあったことだ。文字も装飾も小さい。印刷ならまだしも、手書きでよくそんな小さな文字を書き込めたものだなと感心してしまう。


(パンフレットより)

個人コレクションを寄贈した内藤氏が、そのいきさつについて綴った「コレクションへの道のり」(2019年10月、国立西洋美術館)という会場内で配布されているパンフレットによれば、篤志家の資金援助も得てコレクションを充実した上で寄贈したのだという。詳しくは内藤氏の著書『ザ・コレクター :中世彩飾写本蒐集物語り』(新潮社、2017)に記されている。

もともと個人的な楽しんだあとはオークションで売却して老後の資金にあてる予定だったのだが、一括して寄贈することにしたのは、またバラバラになって散逸してしまうのがもったいないこと、国立西洋美術館の弱点を補うコレクションになると考えたからだという。

こういう志の高い個人コレクターのおかげで、日本国内で鑑賞できることになったことはまことにもって喜ばしい。この場を借りて感謝の気持ちを内藤裕史氏に伝えたいと思う。


画像をクリック!



PS 『内藤コレクション 写本 — いとも優雅なる中世の小宇宙』が国立西洋美術館で開催(2024年6月11日〜8月25日)

公式サイトに掲載されている展覧会の解説文は以下のとおり。

印刷技術のなかった中世ヨーロッパにおいて、写本は人々の信仰を支え、知の伝達を担う主要な媒体でした。羊や子牛などの動物の皮を薄く加工して作った紙に人の手でテキストを筆写し、膨大な時間と労力をかけて制作される写本は、ときに非常な贅沢品となりました。またなかには、華やかな彩飾が施され、一級の美術作品へと昇華を遂げている例もしばしば見られます。
当館では2015年度に、筑波大学・茨城県立医療大学名誉教授の内藤裕史氏より、写本零葉(本から切り離された一枚一枚の紙葉)を中心とするコレクションを一括でご寄贈いただきました。その後も2020年にかけて、内藤氏ご友人の長沼昭夫氏からも支援を賜りつつ、新たに26点の写本リーフを所蔵品に加えています。



 
当館では2019-20年度に三期にわたり開催した小企画展で、内藤コレクションを紹介してまいりました。しかし、コロナ禍のさなかでもあったため、それらは小規模なものにとどまったと言わざるを得ません。こうした事情をふまえて、改めて内藤コレクションの作品の大多数を一堂に展示し、皆様にご覧いただくべく企画されたのが本展です。また当館はコレクションの寄贈を受けて以来、国内外の専門家の協力を仰いで個々の作品の調査を進めてきました。本展はその成果をお披露目する機会ともなります。
本展は、内藤コレクションを中心に、国内の大学図書館のご所蔵品若干数や、内藤氏がいまでも手元に残した1点を加えた約150点より構成され、聖書や詩編集、時祷書、聖歌集など中世に広く普及した写本の役割や装飾の特徴を見ていきます。書物の機能と結びつき、文字と絵が一体となった彩飾芸術の美、「中世の小宇宙」をご堪能いただければ幸いです。


(2024年7月30日 記す)



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2015年1月10日土曜日

西欧文明の根幹をなすキリスト教とヒツジの関係を考えるには、まずは『コンコルダンス』を開いてみることだ



西欧文明の根幹をなすキリスト教とヒツジの関係を知るには、なによりもまず『コンコルダンス』を開いてみる。これは基本中の基本である。

『コンコルダンス』(concordance)とは、『聖書』すなわちバイブルに登場する語句のインデックス(=索引)でありレファレンス(=参照)である。

世界中でもっとも販売されているという『聖書』は、旧約聖書の原文はヘブライ語で新約聖書の原文はコイネーとよばれるギリシア語だが、翻訳されることによって世界中に普及していったことは周知の事実である。だが、翻訳された時期によって各種のバージョンがあり、日本語訳聖書もまた例外ではない
  
わたしが所有しているのは、『口語訳聖書コンコルダンス-聖書語句索引-』(新教出版社編集部、新教出版社、1978)大学学部時代に購入したものだ。キリスト教徒ではなくても、西洋文明の研究には不可欠なのがキリスト教の知識だからである。

「国際ビジネスマンを目指すなら聖書くらい読みなさい」と、大学時代にある先生から言われたが、『聖書』は現代人にとっての「常識」というべきだろう。日本文明も西欧文明の圧倒的影響を受けて「近代化」した以上、避けて通ることはできないのである。たとえキリスト教徒ではなくても。

日本語訳聖書は、現在では「新共同訳聖書」が一般的だろう。とはいえ、あらたな翻訳版がでる度に買い換えるのも面倒なので、このまま使用している。この『口語訳聖書コンコルダンス』は、「新教」すなわちプロテスタント版であるので、カトリックで使用される『旧約聖書外典』(アポクリファ)に登場する語句は含まれない。これらは、『新共同訳』では続編として収録されている。

(筆者所蔵の『コンコルダンス』)


羊メタファーに満ちあふれた『聖書』へのアプローチ

では、本題に入って、「聖書に登場するヒツジ」について調べてみよう。「コンコルダンス」には、「ひつじ(羊)」、「ひつじかい(羊飼い)」、「こひつじ(子羊)」、「おひつじ」(雄羊)、「ひつじのもん(羊の門)」の5項目が掲載されている(上掲の写真を参照)。

「ひつじ」の項目には以下の語句が掲載されている。「~」で示された部分は「ひつじ」で、「ひつじ」を含むフレーズと、そのフレーズが登場する箇所が略語で示されている。たとえば「創」は『創世記』の略で、「4:2」は「第4章第2節」の略である。この情報をたよりに、『聖書』の該当箇所を開いてみるのである。

「ひつじ」にかんしては登場回数が多いので、旧約聖書と新約聖書を区分して置いたが、メタファーとしてのヒツジのイメージは共通するものがあることがわかるはずだ。


●「ひつじ」(羊) 
<旧約聖書>
アベルは~を飼う者となり   4:2
この者らは~を飼う者   46:32
らくだ、牛、~の上に臨む   9:3
主の会衆を牧者のない~の   27:17
陰府に定められた~のよう   49:14
あなたの牧の~に怒りを  詩 74:1
牧の民、そのみ手の~で   95:7
われらは・・・その牧の~である   100:3
失われた~のように迷い出   119:176
みな~のように迷って  イザ 53:6
わが~は地の前面に散らされ  エゼ 34:6
あなたがたはわが~  エゼ 34:31
民は~のようにさまよい  ゼカ 10:2
<新約聖書>
彼らは、~の衣を着て  マタ 7:15
飼う者のない~のように弱  マタ 9:36
イスラエルの家の失われた~以外  マタ 10:6
~をおおかみの中に送るよう マタ 10:16
イスラエルの家の失われた~以外  マタ 15:24
ある人に百匹の~がああり マタ 18:12
飼う者のない~のような  マコ 6:34
百匹の~を持っている者が  ルカ 15:4
彼は自分の~の名をよんで  ヨハ 10:3
~はその声を知っているので  ヨハ 10:4
~が自分のものでもない雇人  ヨハ 10:12
この囲いにいない他の~が  ヨハ 10:16
「わたしの~を飼いなさい」  ヨハ 21:16
「わたしの~を養いなさい」  ヨハ 21:17
ほふり場に引かれて行く~  使 8:32
ほふられる~のように見  ロマ 8:36
永遠の契約の血による~の大牧者  ヘブ 13:20
~のようにさ迷っていた  Ⅰペテ 2:25


●「こひつじ」(子羊)
燔祭(はんさい)の~はどこにあります   22:7
~二頭を毎日絶やすことなく   29:38
小山は~のように踊った   114:4
おおかみは~と共にやどり  イザ 11:6
そのかいなに~をいだき  イザ 40:11
ほふり場に引かれて行くからのように  イザ 53:7
過越(すぎこし)の~をほふる日  マコ 14:12
~を狼の中に送る  ルカ 10:3
世の罪を取り除く神の~  ヨハ 1:29
「見よ、神の~」  ヨハ 1:36
「わたしの~を養いなさい」  ヨハ 21:15
毛を刈る者の前に立つ~のように  使 8:32
過越(すぎこし)の~であるキリストは  Ⅰコリ 5:7
しみもない~のような  Ⅰペテ 1:19
ほふられたとみえる~が立  黙 5:6
「ほふられた~こそは、力と  黙 5:12
その衣を~の血で洗い  黙 7:14
ほふられた~のいのちの書  黙 13:8
~の行く所は、どこへでも  黙 14:4
~の婚姻の時がきて  黙 19:7

●おひつじ(雄羊)
三歳の~と、山ばとと   15:9
あかね染めの~の皮のおおい   39:34
~の燔祭(はんさい)と、肥えた獣の脂肪  イザ 1:11
選び分けられた~のように  エレ 25:34
群れの中の無傷の~とを  エセ 43:28
川の岸に一匹の~が立って  ダニ 8:3
二つの角のある~は  ダニ 8:3
数千の~、万流の油  ミカ 6:7

●「ひつじかい」(羊飼)

~たちはわれわれと一緒  Ⅰサム 25:7
~たちが夜、野宿しんがら  ルカ 2:8
~たちは、見聞きしたこと  ルカ 2:20
門からはいる者は、羊の~  ヨハ 10:2
よい~は、羊のために命を捨て  ヨハ 10:11
わたしはよい~であって  ヨハ 10:14
ひとりの~となるであろう  ヨハ 10:16

●「ひつじのもん」(羊の門)

祭司たちと共に・・・~を建て  ネヘ 3:1
二階のへやと~の間は  ネヘ 3:32
望楼を過ぎて、~に至り  ネヘ 12:39
エルサレムにある~のそば  ヨハ 5:2


以上、『聖書』に登場する「ひつじ」関連の項目を見てきたわけだが、この一覧をみるだけでもザックリとしたものが把握できると思う。「迷える羊」や「百匹の羊」など、キリスト教徒ではなくても耳にすることの多いフレーズの出典がわかるだろう。

まず、旧約聖書と新約聖書に共通する「ヒツジのメタファー」が、「ユダヤ・キリスト教」という把握をもたらしていることに注目しておきたい。「ユダヤ・キリスト教」はキリスト教の側の見方だが、「迷える羊」という旧約聖書で使用された「羊メタファー」が新約聖書でもおなじように使用されているのは、新約聖書が旧約聖書のベースを前提にしているためだ。

新旧の違いは、「羊と羊飼い」はキリスト教で強調されたものであることだ。羊飼い=牧者=キリストといった連想が生まれている。また羊メタファーと子羊メタファーの違いについても注意を払う必要がある。子羊は基本的に供犠として屠られるが、それを踏まえると『ヨハネ黙示録』の意味もわかってくるだろう。英語ではヒツジ(sheep)と子ヒツジ(lamb)は異なる単語である。

ユダヤ教における「ヒツジ」については、Jewish Encyclopaedia.com などで検索してみるといいだろう。sheep という項目がある。『旧約聖書』以外に『タルムード』や『ミシュナー』など、ユダヤ教のみで使用される教典があるので、「ユダヤ・キリスト教」という把握は、かならずしも正確ではない。

さらにいえば、ユダヤ教とキリスト教を受けて最後に登場した一神教のイスラームにも「羊メタファー」が使用されている。イスラームについては、『岩波イスラーム辞典』『平凡社イスラム辞典』など日本語で読める辞典が完備しているので、参照してほしい。ユダヤ教もキリスト教もイスラームも、みなほぼ同じ生態系のなかで生まれてきたものであり、遊牧という要素と密接なかかわりがある。

ざっとこんな感じである。ザッックリとした感じが掴めたのではないかと思う。あとは、『コンコルダンス』で検索したフレーズをじっさいに『聖書』にあたって確認する作業を行えばいいわけだ。

『コンコルダンス』には英語版もある。その他の言語によるものもある。また当然のことながら、本の形ではなくてもネットでも検索はできる。すべてを完全に網羅して調べるなら、『新共同訳聖書』と『口語訳聖書』の双方の日本語訳を別個に検索できる「聖書本文検索」(日本聖書協会)があるのでたいへん便利だ。『コンコルダンス』に掲載されているよりも、はるかに膨大な量のフレーズがたちどころに検索されてくる。

ところが、「ひつじ」では1件も検索されず、「羊」で検索すると「羊」という漢字を含んだ「山羊」(やぎ)などの別物も検索に引っかかってしまう。羊と山羊は近い存在だが、区別して考えることは必要である。痛し痒しとはこういうことか。検索の限界である。
  
だからこそ、こういう基本的なレファレンス本は、本の形として座右に置いておくべきだとも思う。全体を把握するのは、一覧性のある本の形になっているほうが便利であることも否定できないからだ。多すぎる情報の海に溺れてしまわないためにも。






<関連サイト>
 
・・『新共同訳聖書』でも『口語訳聖書』でも語句検索が可能


<ブログ内関連記事>

書評 『聖書の日本語-翻訳の歴史-』(鈴木範久、岩波書店、2006)-新しい考え方を普及させるためには必要なことは何だろうか

書評 『思想としての動物と植物』(山下正男、八坂書房、1994 原著 1974・1976)-具体的な動植物イメージに即して「西欧文明」と「西欧文化」の違いに注目する「教養」読み物
・・西欧文明におけるヒツジのイメージについて。家畜化された動物の代表として羊。群れとしての存在の羊と羊飼いのイメージが、キリスト教のもとにおいては聖界と俗界の両面にわたっての支配のメタファーとして機能


ヒツジ関連

フランスの童謡 「雨が降ってるよ、羊飼いさん!」(Il pleut, Il pleut, bergère)を知ってますか?

サッポロビール園の「ジンギスカン」を船橋で堪能する-ジンギスカンの起源は中国回族の清真料理!?

書評 『食べてはいけない!(地球のカタチ)』(森枝卓士、白水社、2007)-「食文化」の観点からみた「食べてはいけない!」
・・羊と羊肉についての記述がこの本にはある


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2013年10月16日水曜日

夢野久作の傑作伝記集『近世怪人伝』(1935年)に登場する奈良原到(ならはら・いたる)と聖書の話がめっぽう面白い



夢野久作の快作 『近世怪人伝』(1935年)に登場する奈良原到(ならはら・いたる)と聖書の話がめっぽう面白い。

前半生を悔い改めた元暴力団員たちのキリスト教伝道団(!)が自らの反省を語った刺青クリスチャン 親分はイエス様』(ミッション・バラバ、講談社プラスアルファ文庫、2001)という抱腹絶倒だがえらくまじめな自伝集があるが、それよりもはるかに面白いのが『近世怪人伝』に登場する元福岡藩士の奈良原到(ならはら・いたる)という無名人の語りである。

「青空文庫」に全文がアップされているので、ぜひ読んでいただきたいが、「まえがき」と聖書にまつわる語りだけでも紹介しておこう。

夢野久作は、主人公による語りが特徴の独特な文体をもった作家であった。読みやすくするため改行を増やしておいた。かなり長い引用になるが、夢野久作については後述する。まずは引用文を読んでいただきたい。

まえがき

筆者の記憶に残っている変った人物を挙げよ……という当代一流の尖端雑誌新青年子の註文である。もちろん新青年の事だから、郵便切手に残るような英傑の立志談でもあるまいし、神経衰弱式な忠臣孝子の列伝でもあるまいと思って、なるべく若い人達のお手本になりそうにない、処世方針の参考になんか絶対になりっこない奇人快人の露店を披(ひら)く事にした。

とはいえ、何しろ相手が了簡(りょうけん)のわからない奇人快人揃いの事だからウッカリした事を発表したら何をされるかわからない。新青年子もコッチがなぐられるような事は書かないでくれという但書(ただしがき)を附けたものであるが、これは但書を附ける方が無理だ。奇行が相手の天性なら、それを書きたいのがこっちの生れ付きだから是非もない。サイドカーと広告球(アドバルン)を衝突させたがる人間の多い世の中である。お互いに運の尽きと諦めるさ。

・・(中略)・・

奈良原到

前掲の頭山、杉山両氏が、あまりにも有名なのに反して、両氏の親友で両氏以上の快人であった故奈良原到(ならはら・いたる)翁があまりにも有名でないのは悲しい事実である。のみならず同翁の死後と雖(いえど)も、同翁の生涯を誹謗(ひぼう)し、侮蔑(ぶべつ)する人々が尠(すくな)くないのは、更に更に情ない事実である。

奈良原到翁はその極端な清廉潔白と、過激に近い直情径行が世に容(い)れられず、明治以後の現金主義な社会の生存競争場裡に忘却されて、窮死(きゅうし)した志士である。つまり戦国時代と同様に滅亡した英雄の歴史は悪態(あしざま)に書かれる。劣敗者の死屍(しかばね)は土足にかけられ、唾(つばき)せられても致方(いたしかた)がないように考えられているようであるが、しかし斯様(かよう)な人情の反覆の流行している現代は恥ずべき現代ではあるまいか。

・・(中略)・・

国府津(こうづ)に着いてから正宗の瓶と、弁当を一個買って翁に献上すると、流石(さすが)に翁の機嫌が上等になって来た。同時に翁の地声がダンダン潤おいを帯びて来て、眼の光りが次第に爛々炯々(らんらんけいけい)と輝き出したので、向い合って坐っていた二人が気味が悪くなったらしい。箱根を越えない中(うち)にソコソコと荷物を片付けて、前部の車へ引移ってしまったので、翁は悠々と足を伸ばした。世の中は何が倖(しあわせ)になるかわからない。筆者もノウノウと両脚を踏伸ばして居ねむりの準備を整える事が出来た。その二人の脚の間へ翁が又、弁当箱の蓋にオッ立てた蝋燭(ろうそく)の火を置いたので、筆者は又、油断が出来なくなった。

翁は一服すると飯を喰い喰い語り出した。

「北海道の山の中では冬になると仕様がないけに毎日毎日聖書を読んだものじゃが、良(え)え本じゃのう聖書は …… アンタは読んだ事があるかの ……」

「あります …… 馬太(マタイ)伝と約翰(ヨハネ)伝の初めの方ぐらいのものです」

「わしは全部、数十回読んだのう。今の若い者は皆、聖書を読むがええ。あれ位、面白い本はない」

「第一高等学校では百人居る中で恋愛小説を読む者が五十人、聖書を読む者が五人、仏教の本を読む者が二人、論語を読む者が一人居ればいい方だそうです」

「恋愛小説を読む奴は直ぐに実行するじゃろう。ところが聖書を読む奴で断食をする奴は一匹も居るまい」

「アハハ。それあそうです。ナカナカ貴方(あなた)は通人ですなあ」

「ワシは通人じゃない。頭山や杉山はワシよりも遥かに通人じゃ。恋愛小説なぞいうものは見向きもせぬのに読んだ奴等が足下にも及ばぬ大通人じゃよ」

「アハハ。これあ驚いた」

「キリストは豪(えら)い奴じゃのう。あの腐敗、堕落したユダヤ人の中で、あれだけの思い切った事をズバリズバリ云いよったところが豪(えら)い。人触(ふ)るれば人を斬り、馬触(ふ)るれば馬を斬るじゃ、日本に生れても高山彦九郎ぐらいのネウチはある男じゃ」

「イエス様と彦九郎を一所(いっしょ)にしちゃ耶蘇(やそ)教信者が憤(おこ)りやしませんか」

「ナアニ。ソレ位のところじゃよ。彦九郎ぐらいの気概を持った奴が、猶太(ユダヤ)のような下等な国に生れれば基督(キリスト)以上に高潔な修業が出来るかも知れん。日本は国体が立派じゃけに、よほど豪い奴でないと光らん」

「そんなもんですかねえ」

「そうとも …… 日本の基督教は皆(みな)間違うとる。どんな宗教でも日本の国体に捲込まれると去勢されるらしい。愛とか何とか云うて睾丸(きんたま)の無いような奴が大勢寄集まって、涙をボロボロこぼしおるが、本家の耶蘇はチャンと睾丸(きんたま)を持っておった。猶太(ユダヤ)でも羅馬(ロウマ)でも屁とも思わぬ爆弾演説を平気で遣(や)りつづけて来たのじゃから恐らく世界一、喧嘩腰の強い男じゃろう。日本の耶蘇教信者は殴られても泣笑いをしてペコペコしている。まるで宿引きか男めかけのような奴ばっかりじゃ。耶蘇教は日本まで渡って来るうちに印度洋かどこかで睾丸(きんたま)を落いて来たらしいな」

「アハハハハ。基督の十字架像に大きな睾丸(きんたま)を書添えておく必要がありますな」

「その通りじゃ。元来、西洋人が日本へ耶蘇教を持込んだのは日本人を去勢する目的じゃった。それじゃけに本家本元の耶蘇からして去勢して来たものじゃ。徳川初期の耶蘇教禁止令は、日本人の睾丸(きんたま)、保存令じゃという事を忘れちゃイカン」

筆者はイヨイヨ驚いた。下等列車の中(うち)で殺人英傑、奈良原到翁から基督教と睾丸(きんたま)の講釈を聞くという事は、一生の思い出と気が付いたのでスッカリ眼が冴えてしまった。

奈良原到翁の逸話はまだイクラでもある。筆者自身が酔うた翁に抜刀で追っかけられた話。その刀をアトで翁から拝領した話など数限りもないが、右の通(とおり)、翁の性格を最適切にあらわしているものだけを挙げてアトは略する。

因(ちなみ)に奈良原翁は嘗(かつ)て明治流血史というものを書いて出版した事があるという。これはこの頃聞いた初耳の話であるが、一度見たいものである。


どうだ、まいったか!?(笑) 

野卑で下品でグロテスクなまでの表現に満ち満ちていますが、それは奈良原翁本人の語りであるので悪しからずご了承いただきたく。

ちなみに上記の文章に登場する高山彦九郎(1747~1793)とは、江戸時代中期の熱烈な尊王思想家。戦前の修身の教科書に登場していた人物だそうですが、現在ではまったく知名度がありません。京都の三条大橋のそばに、ひざまずいて御所を望拝する銅像があります。

しかしまあ、イエス・キリストを「奇人」として知られていた高山彦九郎になぞらえるとは・・・

(京都の三条大橋そばの高山彦九郎像 筆者撮影)


奈良原翁の述懐は、幕末維新の白刃のもとを駆け抜けた武士のキリスト教と聖書との出会いの一例でありますね。

旧士族、とくに負け組となった旧士族のなかにはキリスト教徒になった者が多々ありますが、いずれもまじめくさったものが多いなか、新撰組出身の結城無二三(ゆうき・むにぞう)や、この奈良原到のようなテロリストのなれの果てのような例もあったことは記憶の片隅にでもおいておきたいものではありませんか?(・・ただし、奈良原到がキリスト教徒になったかどうかは、わたしにはわかりません)。

イエス・キリストを、「キリストは豪(えら)い奴じゃのう。あの腐敗、堕落したユダヤ人の中で、あれだけの思い切った事をズバリズバリ云いよったところが豪い」。また、「猶太でも羅馬(ロウマ)でも屁とも思わぬ爆弾演説を平気で遣やりつづけて来たのじゃから恐らく世界一、喧嘩腰の強い男じゃろう」と、心の奥底から共感しているのは、みずからも前半生を重ね合わせているのでしょうか。

なぜ武士が明治になってからキリスト教に出会って惚れこんだのか、その一つの解答にはなっているのではありますまいか?



「クリスチャン」という表現にまとりつくステレオタイプなイメージを壊すべき

この文章をあえて長々と引用したのは、わたしは「クリスチャン」という日本語が嫌いだからです。

英語の christian をそのままカタカナにしたのがクリスチャンですが、英語の christian とは違い、日本語でクリスチャンというと、どうしてもまじめだが融通の利かない人というイメージが固定化しているように思えてなりません。

わたし自身はキリスト教徒ではありませんが、わたしの知っているキリスト教徒の日本人は、かならずしもステレオタイプな「クリスチャン」ばかりではありません。いや、むしろそうでない人のほうが多いでしょう。

だからわたしは、「クリスチャン」ではなく「キリスト教徒」とという表現をいつもつかっているのです。仏教徒といえば千差万別であることはこの日本では自明なのに、クリスチャンというとイメージが固定していしまうのは避けるべきではないか、と。

カトリックには作家の遠藤周作のようにシリアスな純文学を書く一方で、ユーモア小説を量産していた人もいますが、それは個人的特性だと言って片づけられてしまう恐れがあるのではないでしょうか。

どう捉えるもその人の自由。わたしも奈良原翁と同様、イエス・キリストはかなり暴力的な人であったという印象をもっております。



夢野久作について

この文章が江戸川乱歩も連載をもっていた探偵小説の雑誌『新青年』に発表されたのは1935年(昭和10年)、その時代もまた幕末と同様にテロが横行した時代でありました。

翌年の1936年2月26日には日本を震撼させた二二六事件が勃発していますが、その直後の3月11日に夢野久作は急逝しています。享年48歳でした。


(夢野久作 wikipedia より)


「この本を書くために生きてきた」という述懐の 『ドグラマグラ』(1936年)という巨編を残して世を去った夢野久作は、右翼の巨頭であった杉山茂丸(すぎやま・しげまる)の長男でありました。

杉山茂丸や、その盟友で右翼結社・玄洋社の社長であった頭山満については、このブログでも 『大アジア燃ゆるまなざし 頭山満と玄洋社』 (読売新聞西部本社編、海鳥社、2001) で、オルタナティブな日本近現代史を知るべし! で取り上げてあります。いずれも明治維新に際して藩主の優柔不断のために苦杯をなめることになった旧福岡藩士です。

 『近世怪人伝』(1935年)は上掲の奈良原到は言うまでもなく、頭山満と杉山茂丸といた両巨頭から無名人に至るまで、最初から最後までとおして読んでいただきたい傑作なのであります。

冒頭に掲載したのは福岡の葦書房が創業25年記念として非売品として配ったものを古書店で購入したもの。わたしが読んできたのは、『夢野久作全集11』(ちくま文庫、1992)です。いずれも入手困難ですが、さいわいにもネット上の「青空文庫」で無料で読むことができます。

わたしは、この本を手にとってしまったが最後、そのたびについつい読みふけってしまうのであります。それほど面白いのです。抱腹絶倒しながら読めば、なぜか不思議な元気がでてくる内容です。

ぜひこの文章の前もふくめた全文をお読みいただきたいと思う次第です。




PS 2015年6月19日に文春学藝ライブラリーより、『近世怪人伝』が久々に復刊されます。青空文庫でも無料で読めますが、書籍の形で読みたい人はぜひ! (2015年6月17日 記す)



<ブログ内関連記事>

『大アジア燃ゆるまなざし 頭山満と玄洋社』 (読売新聞西部本社編、海鳥社、2001) で、オルタナティブな日本近現代史を知るべし!
・・「夢野久作といえば『ドグラマグラ』という小説で知られているが、その父は杉山茂丸という右翼の巨頭であった。茂丸の交友関係のなかに登場する最重要人物が頭山満であり、その姿は『百魔』(講談社学術文庫、)に活写されているだけでなく、息子の夢野久作(・・本名・杉山泰道)の『近世怪人伝』(昭和10年)に愛情をこめて描かれていることは知る人ぞ知ることだ。わたしの愛読書の一冊でもある。現在は、ちくま文庫に収録されているので、興味のある方はぜひお読みいただきたい」(・・ちくま文庫版は現在は入手困難。本文中に書いたように青空文庫で)

書評 『霊園から見た近代日本』(浦辺登、弦書房、2011)-「近代日本」の裏面史がそこにある

書評 『ナショナリズム-名著でたどる日本思想入門-』(浅羽通明、ちくま文庫、2013 新書版初版 2004)-バランスのとれた「日本ナショナリズム」入門 ・・まずはこの一冊というべきナショナリズム入門


■武士と聖書とキリスト教

書評 『聖書を読んだサムライたち-もうひとつの幕末維新史-』(守部喜雄、いのちのことば社、2010)-精神のよりどころを求めていた旧武士階級にとってキリスト教は「干天の慈雨」であった

書評 『武士道とキリスト教』(笹森建美、新潮新書、2013)-じつはこの両者には深く共通するものがある

書評 『聖書の日本語-翻訳の歴史-』(鈴木範久、岩波書店、2006)
・・まず日本に入ってきたのは漢訳聖書であった

書評 『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』(マーク・マリンズ、高崎恵訳、トランスビュー、2005)-日本への宣教(=キリスト教布教)を「異文化マーケティング」を考えるヒントに

「旧江戸川乱歩邸」にいってみた(2013年6月12日)-「幻影城」という名の「土蔵=書庫」という小宇宙

「自分のなかに歴史を読む」(阿部謹也)-「自分発見」のために「自分史」に取り組む意味とは
・・夢野久作の傑作『ドグラ・マグラ』などについて触れてある




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