『世界史とつなげて学ぶ中国全史』(岡本隆司、東洋経済新報社、2019)は、今年(2020年)の初めに読んだ本だ。バタバタしていて書評を書くヒマがなかったので、今回自分にとって意味のある部分を中心にまとめておきたいと思う。
あくまでも自分用のメモとしての位置づけなので、かなり長くなっている。
まずは、多産型の気鋭の中国史研究者である岡本隆司氏によるベストセラーを見る前に、「中国史」というものについて、簡単に振り返っておく。
■中国史を一気通貫に把握するという試みの最新成果
1冊で中国史を通観するという趣旨の本は、これまで日本では無数といっていいほど出版されてきた。
岡本氏は、「(中国の)地理的孤絶性」という概念に疑問を呈するために、あえて本書のなかで貝塚氏の著書に言及している。この点も、貝塚氏の本が旧式の中国理解に基づく通史だと言えるのかもしれない。
■『世界史とつなげて学ぶ中国全史』の特徴は「ユーラシア大陸における中国」
前置きが長くなってしまった。まずは、目次を通観してみるのが早道だろう。
だが、より正確にいえば、「ユーラシア大陸における中国」という視点といっていいだろう。この視点で、一気通貫に古代から現代まで語り尽くすのが特徴だ。「ユーラシア史としての中国史」である。
中国大陸はユーラシア大陸の東に位置しており、しかも南に位置していること、つまりユーラシア大陸の東南部に位置しているのが中国大陸である(・・ユーラシア北部はロシアとモンゴルである)。
地球環境の影響で考える議論の前提にあるのが、梅棹忠夫が『文明の生態史観』で図式化したものである。歴史で梅棹理論を援用する人はあまり多くない。地球環境を考えるにあたって、梅棹理論をつかっている点も、本書の大きな特徴だといえよう。
上記の図で(Ⅰ)に位置するのが中国大陸である。著者の岡本氏は、さらにこの図に加工している。
■中国のイノベーションは宋朝で終わり、元朝時代にモンゴルがユーラシア全体を1つにした
宋朝に続くのが「転換期」のモンゴル時代である。この時代の中国王朝は元朝だが、あくまでもモンゴル帝国の一部であったことは、すでに述べたとおりだ。中国は、北方の遊牧民の脅威にさらされつづけたのであり、なんども支配されてきた。
■現代につながる「明清時代」をしっかり見ておくことが重要だ
著者プロフィール
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梅棹忠夫の『文明の生態史観』は日本人必読の現代の古典である!
書評 『「東洋的専制主義」論の今日性-還ってきたウィットフォーゲル-』(湯浅赳男、新評論、2007)-奇しくも同じ1957年に梅棹忠夫とほぼ同じ結論に達したウィットフォーゲルの理論が重要だ
書評 『封建制の文明史観-近代化をもたらした歴史の遺産-』(今谷明、PHP新書、2008)-「封建制」があったからこそ日本は近代化した!
書評 『日本文明圏の覚醒』(古田博司、筑摩書房、2010)-「日本文明」は「中華文明」とは根本的に異なる文明である
書評 『海洋国家日本の構想』(高坂正堯、中公クラシックス、2008)-国家ビジョンが不透明ないまこそ読むべき「現実主義者」による日本外交論
書評 『米中戦争前夜-新旧両大国を衝突させる歴史の法則と回避のシナリオ-』(グレアム・アリソン、藤原朝子訳、ダイヤモンド社、2017)-「応用歴史学」で覇権交代の過去500年の事例に探った「トゥキディデスの罠」
書評 『習近平と永楽帝-中華帝国皇帝の野望』(山本秀也、新潮新書、2017)-歴史をさかのぼると現在が見えてくる
まずは、多産型の気鋭の中国史研究者である岡本隆司氏によるベストセラーを見る前に、「中国史」というものについて、簡単に振り返っておく。
■中国史を一気通貫に把握するという試みの最新成果
1冊で中国史を通観するという趣旨の本は、これまで日本では無数といっていいほど出版されてきた。
角川文庫版は1960年に出版されているが、初版の1951年版では「支那小史」となっているようだ。本文には「ニコヨン」だか「ニコポン」なるコトバが登場していた記憶があるが(・・この本ではじめて知った日本語)、すでに死語ではないかな。この本を通読して、なんとなく中国史がわかったような気になった。
いまはもう読まれることもほとんどないが、岩波新書から出ていた貝塚茂樹の『中国の歴史』など、上中下の3冊本で1冊本ではないが、かってはよく読まれたものだ。
貝塚茂樹氏は、ノーベル物理学賞の湯川秀樹博士の兄。湯川博士の実弟の中国文学者・小川環樹氏とともに天才兄弟といわれていた(姓が異なるのは、小川環樹氏以外は養子に出たため)。
この岩波新書本が読まれなくなったのは、1964年という出版年が何よりも雄弁に物語る。「文化大革命」(1966~1976)以前の出版であり、私もその昔に読んでいるが、毛沢東評価が異様に高いように感じられたものだ。
この岩波新書本が読まれなくなったのは、1964年という出版年が何よりも雄弁に物語る。「文化大革命」(1966~1976)以前の出版であり、私もその昔に読んでいるが、毛沢東評価が異様に高いように感じられたものだ。
「(腐敗していたた国民党時代とは違って中国人民共和国は清潔であり)中国にはハエなどいない!」と強調する学者もいたくらい、いまでは誰も信じないだろうが、1970年代にはこの国ではそれほど中国共産党が無邪気にも礼賛されていたのだ。隔世の感がある。
岡本氏は、「(中国の)地理的孤絶性」という概念に疑問を呈するために、あえて本書のなかで貝塚氏の著書に言及している。この点も、貝塚氏の本が旧式の中国理解に基づく通史だと言えるのかもしれない。
中国は孤絶どころか西でユーラシア全体とつながっているのであり、古代中国文明は西から入ってきた古代オリエント文明の影響下にある。このポイントの強調は、岡本氏の本書をユニークなものにしている。
現代でも流通しているのは、中国史を中心にしたアジア史の大家であった宮崎市定氏による『中国史』(岩波全書、1977 現在は岩波文庫に収録)であろう。
岡本氏によれば、宮崎氏は中国史の「時代区分」を西洋のそれを基準にした点が明解で理解しやすいので、多くの読者を引きつけているのだという。日本の中国史研究を飛躍的に高度化した内藤湖南につらなる京都学派である。江戸時代以来親しまれてきた『史記』や『十八史略』などの、旧来型の王朝交替史観とは性格を異にするというわけだ。
さらにいえば、「中国史」という概念は中国では生まれたものではないようだ。日本で出版された宮崎市定氏の中国史が逆輸入されて、中国史という歴史叙述が中国で受け入れられるようになったという話をどこかで読んだ記憶がある。岡本氏の田の著書かもしれない。
中国には新しく興った王朝が、滅亡した先の王朝の正史を編纂するという伝統がある。したがって、中国には王朝交替史という形の歴史記述しかなかったので、「時代区分」という概念が新鮮に映ったようなのだ。
■『世界史とつなげて学ぶ中国全史』の特徴は「ユーラシア大陸における中国」
前置きが長くなってしまった。まずは、目次を通観してみるのが早道だろう。
まえがき-中国をとらえなおす
第1章 黄河文明から「中華」の誕生まで
第2章 寒冷化の衝撃-民族大移動と混迷の三〇〇年
第3章 隋・唐の興亡-「一つの中国」のモデル
第4章 唐から宋へ-対外共存と経済成長の時代
第5章 モンゴル帝国の興亡-世界史の分岐点
第6章 現代中国の原点としての明朝
第7章 清朝時代の地域分立と官民乖離
第8章 革命の二〇世紀-国民国家への闘い
結 現代中国と歴史
あとがき
文献リスト
だが、より正確にいえば、「ユーラシア大陸における中国」という視点といっていいだろう。この視点で、一気通貫に古代から現代まで語り尽くすのが特徴だ。「ユーラシア史としての中国史」である。
中国大陸はユーラシア大陸の東に位置しており、しかも南に位置していること、つまりユーラシア大陸の東南部に位置しているのが中国大陸である(・・ユーラシア北部はロシアとモンゴルである)。
ユーラシア大陸が陸でつながっている以上、中国がユーラシア全体の動きに影響をうけるのは当然であり、同時にユーラシア全体に影響を及ぼすのも当然だ。
これは13世紀にユーラシア大陸をほぼ制覇したモンゴル帝国のことを想起するだけでも、すぐに理解できる話だろう。元朝と同様に「異民族」が支配した清朝はいうまでもなく(・・それにしても、日本人の立場からすると「異民族」というのは違和感の残る表現だ)、ローマ帝国と通商のあった漢代も、ウイグル族などさまざまな異民族の存在の大きかった唐代もしかり、である。
■地球環境全体のなかで中国を捉える
さらにいえば、「地球環境全体のなかで中国を捉えた」ことが、本書の大きな意味があるといえよう。端的にいえば、気候である。そのなかでも「地球寒冷化」が大きな衝撃をもたらしたことが強調される。
さらにいえば、「地球環境全体のなかで中国を捉えた」ことが、本書の大きな意味があるといえよう。端的にいえば、気候である。そのなかでも「地球寒冷化」が大きな衝撃をもたらしたことが強調される。
寒冷化すると、まずはもっとも重要な生命維持装置である食糧の調達が困難となるだけでなく、それにともなって経済活動も停滞し、社会問題に十分に対応がとれない統治者に対して不満が蓄積し、反乱が頻発するようになる。その結果、新興勢力が台頭し、既存の王朝を倒して、天命を得たとしてあらたな王朝を建てる。中国史でいう、いわゆる「易姓革命」である。
中国史に限らないが、このパタンがなんども繰り返されてきたのが実態だ。歴史上もっとも有名な寒冷化は17世紀と14世紀のものである。もちろん、それ以前も地球は温暖化と寒冷化を繰り返してきた。太陽黒点の影響であるとされる。
寒冷化の影響がもっとも大きかったのが、13世紀のモンゴル帝国だろう。モンゴル帝国はユーラシア全域に版図を拡大したが、その一部の中国を元朝として支配していた。モンゴル帝国がわずか1世紀で崩壊したのは、地球寒冷化が主たる原因である。
14世紀の「地球寒冷化」の影響を受け経済が衰退、しかも中国で発生した感染症の黒死病(ペスト)によって、西欧と地中海世界にいたるまで大きな人的被害と経済破壊をもたらした。ユーラシア大陸が陸路でつながっていたから起きたのである(*)。
(*)なぜか、日本列島と朝鮮半島は14世紀のペストから逃れている。したがって17世紀にもペストの被害はなかった。大陸から離れた島国の日本はさておき、大陸とは地続きの朝鮮半島がペストから逃れたのは、ペスト移動の方向が西向きだったからだろうか?)。
グローバリゼーションは経済過熱化をもたらし、大戦争やパンデミックで終わるのがパタンといえようか。
地球環境の影響で考える議論の前提にあるのが、梅棹忠夫が『文明の生態史観』で図式化したものである。歴史で梅棹理論を援用する人はあまり多くない。地球環境を考えるにあたって、梅棹理論をつかっている点も、本書の大きな特徴だといえよう。
上記の図で(Ⅰ)に位置するのが中国大陸である。著者の岡本氏は、さらにこの図に加工している。
(本書 P.25 所載の図)
以下、簡単に中国史の流れを整理した上で、個人的に関心の高い「明清時代」については、やや詳しく書いておきたいと思う。
■中国のイノベーションは宋朝で終わり、元朝時代にモンゴルがユーラシア全体を1つにした
中国史全体を通観すると、宋の時代に「中国文明」がピークを迎えていることが確認される。
つまり、宋の時代にあらたな発展要素はほぼ出尽くしているのであり、その後の中国史は基本的になんらあたらしいものは生み出していないのだ。
宋代の成果としては朱子学をあげるべきだろう。日本では儒学というと「朱子」学ということになるが、それは儒者の朱子(=朱熹)が創始者だからだ。
だが、この朱子学は日本以外では、より広い概念として「新儒教」とすることが多い。英語だと Neo- Confucianismである。宋の時代には中国に浸透していた大乗仏教の影響を受けて、理気説に基づいて体系化された思想なのである。これが、朝鮮半島を中心に普及し、さらには江戸幕府の正学となる。
宋朝に続くのが「転換期」のモンゴル時代である。この時代の中国王朝は元朝だが、あくまでもモンゴル帝国の一部であったことは、すでに述べたとおりだ。中国は、北方の遊牧民の脅威にさらされつづけたのであり、なんども支配されてきた。
モンゴルは「世界史の分岐点」と岡本氏は本書で述べている。
だがむしろ、モンゴルが「世界史の始まり」だと『世界史の誕生』で述べた岡田英弘氏の史観のほうが正確ではなかろうか。なぜなら、モンゴル帝国以前は東洋世界と西洋世界は、各地の経済圏をつなぐ形で互いに通商は行われていたとはいえ、直接つながることはなかったからだ。
先に見たように、14世紀の地球寒冷化によってモンゴル帝国は崩壊、モンゴル人は北に去って、中国はふたたび漢民族の王朝となる。
元の時代が国際商業が活発化さいた時代であったのに対し、漢民族の王朝となった明朝は、きわけて排他的で閉鎖的な「鎖国」ともいうべき体制を採用したのである。経済そのものの否定といったニュアンスさえ感じられる。
明朝の時代には、「朝貢体制」に基づく、中国的国際関係システムというべき「華夷秩序」が完成している。「海禁」政策に基づく「鎖国」政策である。17世紀日本の「鎖国」は、日本発のオリジナルというよりも、明朝の影響を受けたものと考えるべきであろう。
ただし、日本の「鎖国」は、朝貢を前提としない管理貿易であった。「海禁」的要素が強かった。
■現代につながる「明清時代」をしっかり見ておくことが重要だ
明清時代は現代中国につながる時代なので、やや詳しい小見出しを見ておこう。小見出しの文言を読めば、なんとなく時代がイメージされてくるだろう。
第6章 現代中国の原点としての明朝
漢民族だけの王朝を目指した明朝
「朝貢一元体制」を築く
貨幣と商業の排除
貨幣経済を否定した明朝
南北格差解消のために江南を弾圧
靖難の変が起こる
首都を南京から北京に移す
南北関係と鄭和の遠征
江南デルタが綿花・生糸の一大産地に変化
「湖広熟すれば天下足る」
非公式通貨として銀が流通し始める
世界中の銀が中国へ向かった
朝貢よりも民間の経済活動が活発に
鎖国体制は事実上の崩壊へ
民間のヘゲモニーと庶民文化
陽明学の位相
官民乖離が始まった
都市化の差異に見る官民の乖離
「鎖国」政策を行った明朝だが、その後期には、いわゆる「北虜南倭」状態となっている。
「北虜」とは、北方の満洲の女真族などの諸民族の脅威のことだ。
女真族は、毛皮と朝鮮人参の交易で財をなし、ヌルハチに率いられた女真族は国名を後金とし、さらに清と改めたのち、ヌルハチの孫の時代に最終的に明朝を滅亡させ王朝交替を実現している。中国はふたたび「異民族王朝」となった。
「南倭」とは、読んで字の如く、南方海域で荒らし回った倭寇のことである。
14世紀の「前期倭寇」は主として瀬戸内海・北九州を本拠とした日本人が中心で一部が高麗人だったが、15世紀以降の「後期倭寇」は中国人主体になっている。前期倭寇は、朝鮮半島南部の沿海部を中心に中国沿海部まで活動していたが、元朝から明朝に移って以降、足利義満が明朝に朝貢した勘合貿易の発展によって、日本人が主体の倭寇は消滅した。
「後期倭寇」は、私貿易を行う中国人が中心となったが、名称はそのまま倭寇が使い続けられた。日本人の格好を偽装し、活動を行っていたからだ。
明朝の「海禁政策」を回避するためマラッカ、シャム、パタニなど南洋に移住した浙江省と福建省出身の華人が中心であった。一部には九州沿岸部の日本人も含まれていたようだ。
後期倭寇は、東シナ海の海域を舞台に掠奪と交易を行った集団だが、中心は密貿易にあった。「鎖国」体制をとる明朝が、「朝貢貿易」と「海禁政策」という管理貿易にこだわったため、自由貿易を求めた勢力が武力に訴えたのである。
16世紀から17世紀にかけての後期倭寇は、石見銀山などで豊富に産出された「日本銀」を手に、中国の物産の「押し買い」を求める武装集団であった。聞き入れられないと掠奪に走るのであり、貿易商人と海賊は、裏表の関係にあった。最初は日本銀、その後は「新大陸」の銀がスペイン経由で中国に流入することになる。
倭寇の頭目としては王直(おうちょく)が有名である。倭寇に加わった新興勢力のポルトガル商人が王直の手引きで1543年に種子島に来島し、鉄炮を伝来したとされる。
倭寇の脅威にさらされつづけたのが明朝末期と清朝初期であった。明清交代後に明朝復興を掲げて台湾をベースに抵抗を続けた鄭成功らのグループもまた、倭寇のような存在であったといえよう。貿易によって軍資金をつくり、抵抗活動を続けていたのである。
鄭成功の死後、後継者が抵抗を続けたものの、1661年から清朝によって開始された「遷界令」(せんかいれい)によって抵抗活動は終息に向かう。中国の沿海部との貿易をさせない政策であった。遷界令は1684年に廃止され、以後は中国船は「鎖国」時代の長崎に殺到することになった。
清朝になってからの中国は、基本的に明朝の延長線上にある。漢民族にも弁髪を強いたなどの理由で、明朝と清朝は異なる性格をもっていたというイメージがあるが、経済発展をベースに人口が急増した18世紀以降の中国社会は、明清時代として一括したほうが理解しやすい。
■「人口が急増」し「官民乖離」が進展した清朝以降の近現代
キーワードは「官民乖離」である。明朝の時代の構造的問題が、清朝の時代にはさらに
量的に拡大したのである。
官民乖離とは、官と民のあいだが乖離したというのが文字通りの意味だが、より詳しくいえば、明朝末期から清朝にかけて人口が急増し、民間人に対する公共サービスが、行き届かなくなったことを意味している。官僚不在の集落が増え、行政に対する不満が下から上に吸い上げられることなくたまっていくことになる。
目次の小見出しを見ておこう。清朝前期と清朝後期で中国社会の性格が変わってくるので、便宜的に区分してみた。
清朝後期には、「官民乖離」の結果として、民衆による反乱が頻発するようになる。問題は先送りされるばかりで、結局は清朝は滅亡することになったのである。
第7章 清朝時代の地域分立と官民乖離
明から清へ-清代の意味
満洲人が打ち立てた清朝
「華夷殊別」から「華夷一家」へ
「因俗而治」の清朝
雍正帝の改革の対象は官僚機構だけ
朝貢国を実態に合わせて大幅に削減
銀不足によるデフレを、イギリスの茶需要が救う
究極の「小さな政府」としての清朝
***(清朝後期)***
民衆による反乱が頻発
経済的に各地域が分立状態に
「瓜分」の危機
国民国家「中国」の誕生
「華夷一家」とは、明朝のように「華」(=漢民族)と「夷」(=異民族)を区別する「華夷殊別」ではなく、「三族」(=満洲人、漢人、モンゴル人)を一体にした運営を行おうとしたことである。そのスローガンが「華夷一家」であった。
「因俗而治」は、「俗に因りて治む」と読む。「華夷一家」を構成する漢人、満洲人、モンゴル人、チベット人、ムスリム(=イスラーム教徒)を、それぞれの「俗」すなわち在地の統治システムをそのまま活かして、皇帝のもとに統治するというスタイルのことだ。
少数民族の女真族が、圧倒的多数の漢民族を統治する難しさを反映した策である。
清朝が目指した統治方法と、現在の中国共産党の目指す方向性とは真逆であることがわかる。版図の大きさはそのまま清朝を引き継いだ中華人民共和国だが、統治のあり方は漢民族中心主義であることは明朝とおなじで、としかも同化主義によって少数民族を中国化してナショナリズムをつくりあげようとしている点は「近代化日本」の影響だ。はたしてこれが成功するかどうか。ムリとしか思えないのだが。
清朝は明朝とは違って、朝貢国を実態に合わせて大幅に削減している。この点は大いに強調しておくべきだろう。華夷秩序や朝貢体制というと、どうしても中国史を一貫して変化がなかったような錯覚をもちがちだが、けっしてそうではなく歴史的な変遷を経ているということなのだ。
江戸幕府の日本が清朝とのあいだで朝貢国とならずに貿易関係だけを続けることになった。これを中国史では「互市」(ごし)という。このような関係が維持されたのは、日本側の事情だけでなく、中国側の事情もあったのである。
できるだけやっかい事にはかかわらないという姿勢が、幕府と清朝の双方に存在したわけだ。ある意味では、「内政不干渉」を前提とした、経済文化関係のみの関係であった。日本は、足利義政の数年間をのぞいて、一貫して中国文明と経済には強い関心(憧れの時期が長い)をもちながら、政治と軍事にかんしては距離を保とうとし続けてきた。
しかしながら、明朝時代に朝貢国であった朝鮮と琉球、ベトナムなどは、清朝においても朝貢国となっている。清朝になってからも朝貢国であり続けた朝鮮と、けっしてそうならなかった日本の違いはきわめて大きいのである。朝鮮は中国とは、あまりにも距離が近すぎるため、適度なスタンスを保つのはきわめて困難なのである。
現在でも韓国から中国に対する属国意識が消えないのは、そういった歴史的経験によるものだ。
■終わりに
著者の専門は中国近現代史なので、もっと詳しい叙述を行いたかったのではないかと思うが、時間の流れに沿って歴史を書くとどうしても現代史を簡単に済ませてしまうことになりがちだ。本書も場合も、その例外ではいようだ。
著者には、ぜひ現代から過去にさかのぼる「逆回しの中国史」をお願いしたいものである。
また、著者のことば遣いについて言わせていただく。「つとに」という日本語が多用されるのが、たいへんうっとおしい。
口癖、書き癖だから仕方ないのだろうが、日常用語ではないので、あまりにも多用するのは好ましくない。「すでに」あるいは「以前から」と言い換えるべきだろう。
編集者は、こういう点にかんして著者に注意を促すべきではないか? 一般読者の感想を著者にフィードバックすべきだろう。
著者プロフィール
岡本隆司(おかもと・たかし)
1965年、京都市生まれ。現在、京都府立大学教授。京都大学大学院文学研究科東洋史学博士後期課程満期退学。博士(文学)。宮崎大学助教授を経て、現職。専攻は東洋史・近代アジア史。著書に『近代中国と海関』(名古屋大学出版会・大平正芳記念賞受賞)、『属国と自主のあいだ』(名古屋大学出版会・サントリー学芸賞受賞)、『中国の誕生』(名古屋大学出版会・樫山純三賞、アジア太平洋賞特別賞受賞)など多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの
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end