日本語を英語に訳したとき発生するズレがある。その反対に英語を日本語に訳したときにもズレが発生する。
話が通じない、こちらが意図する通りに受け取ってもらえない。ときに「うるわしき誤解」が双方にとってポジティブな結果を生み出すこともあるが、そのまったく真逆の結果をもたらすことも多々ある。いや、むしろそのほうが多いだろう。
ズレが発生する原因は、日本語の単語と英語のそれが一対一で対応しているわけではないからだ。しかも、日本語と英語が根本的に異なる言語だからだ。
だが、ズレが発生するのは語学上の問題だけが原因ではない。日本語によって表現される文化と英語文化の違いでもある。たとえおなじ内容の表現が可能だとしても、それぞれの文化で受け取り方に違いが生じる。それぞれの文化に内在的な「常識」の違いである。
■日本の小説の原作と英語版のズレを考える
そんな問題を考えたい人にとって、『日本の小説の翻訳にまつわる特異な問題 ― 文化の架橋者たちがみた「あいだ」』(片岡真伊、中公選書、2024)という本が面白い。
米国の出版社クノップフ(Knopf)で1950年代に始まり1970年代までつづいた、日本文学を英語に翻訳して出版するプロジェクトについて、アーカイブに残された資料を徹底分析した成果である。博士論文を一般読者向けに再構成して加筆修正したものだ。
具体的に検討材料として取り上げられた日本小説は、大佛次郎の『帰郷』、谷崎潤一郎の『蓼食ふ虫』と『細雪』、大岡昇平の『野火』、三島由紀夫の『金閣寺』、川端康成の『千羽鶴』と『名人』など。
これらの小説の日本語原文と英語版とのズレがさまざまな角度から分析され、その意味について考察される。
このプロジェクトにかかわってくるのは、原作者である日本の小説家、サイデンステッカーなど英語訳の翻訳者、そして出版社でプロジェクトを主導した日本語に精通した編集者と、そのアドバイザーたちである。
語学上の問題は、翻訳者の日本語解釈だけでなく、どこまで文脈(コンテクスト)を読み込んでいるかという問題もかかわってくる。 日本語の文脈を、どう英語の文脈に写し換えるかという問題だ。
日本語特有の融通無碍ともいえる自由な視点の移動(・・英語では視点を固定しないと文が成り立たない)、主語を明確にする必要のない日本語による会話(・・発言者の主語を明らかにしないと英語にならない)、「比喩」のなかでも解釈のむずかしい「隠喩」(メタファー)をどう扱うかなど、文学作品ならではの翻訳のむずかしさがある。
だが、それだけではない。商業出版物である場合、語学や文化の問題だけでなく、マーケティングという要素もからんでくる。ビジネスである以上、売れなくては意味がない。すくなくとも固定費が回収されなくてはビジネスとして成り立たない。
英語圏の文化において、日本文学がもつ「異質な要素」が、どこまで「許容可能」であるか、その「許容限界」が問われるのである。
異質な要素がないと目新しさがないし、異質が過ぎると受け入れられない。つまり商業的に失敗となる。
英語圏で読者に受け入れられるため、『細雪』が『The Makioka Sisters』とタイトルの変更が行われ(・・ハリウッド映画の日本版でのタイトル変更は以前は当たり前のように行われていたな)、カバーのイラストが日本版とは大きく異なるものとなり(・・日本人からすればステレオタイプのオリエンタリズム全開で違和感が強い)、『野火』のように内容と結末の書き替えすら行われているのである!(・・ハッピーエンドしかありえないハリウッド映画を想起するといい) 。
こういったさまざまな角度から、「日本の小説の英語訳にまつわる特異な問題」があきらかにされ、その意味について考察されている本書は、索引や注をふくめると400ページ近いが、興味深く読み進めることができる。
■語学上のズレ、文化のズレ、マーケティング上の要請
英国の大学に進学して英文学を専攻し、比較文学を専攻した大学院では日本の小説を英語訳で読みまくったという著者が、原作と英語訳でズレがあると知ったときの衝撃が、この研究の出発点になっているという。
日本の小説の英語訳のズレの存在については、日本人はもっと知っておいたほうがいいだろう。日本語と英語の語学上のズレだけでなく、文化にかかわるズレがあるだけでな、マーケティング上の要請もかかわってくるのである。
さて近年は村上春樹だけでなく、日本の女性作家たちの作品が英語圏で大いに受け入れられている。原作と英語版とのズレがどれほどのものとなっているのか、どのように処理されているのか読み比べてみるのも面白いかもしれない。
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目 次はじめに序章 日本文学翻訳プログラムの始まり ― ハロルド・シュトラウスとクノップフ社第1章 日本文学の異質性とは何か ― 大佛次郎『帰郷』第2章 それは「誰が」話したのか ― 谷崎潤一郎『蓼喰ふ虫』第3章 結末はなぜ書き換えられたのか ― 大岡昇平『野火』第4章 入り乱れる時間軸 ― 谷崎潤一郎『細雪』第5章 比喩という落とし穴 ― 三島由紀夫『金閣寺』第6章 三つのメタモルフォーゼ ―『細雪』、「千羽鶴」、川端康成第7章 囲碁という神秘 ― 川端康成『名人』終章 日本文学は世界文学に何をもたらしたのか ―『細雪』の最後の二行あとがき注/出典・主要参考文献/事項索引/人名索引著者プロフィール片岡真伊(かたおか・まい)国際日本文化研究センター准教授、総合研究大学院大学准教授(併任)。1987年栃木県生まれ。ロンドン大学ロイヤルホロウェイ(英文学)卒業、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン修士課程(比較文学)修了。総合研究大学院大学(国際日本研究)博士後期課程修了。博士(学術)。ロンドン大学東洋アフリカ研究学院シニア・ティーチング・フェロー、東京大学東アジア藝文書院(EAA)特任研究員を経て、2023年より現職。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)
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・・「振り返ってみれば、村上春樹の初期3部作の掉尾を飾る『羊をめぐる冒険』(原著82年)のアルフレッド・バーンバウムによる英訳が出て国際的評価を得たのも、89年のことである。そして、当時の英訳者は、現代日本文学を英語圏文学市場にのせることを意識するあまり、英米文学の約束事に倣い、創造的改変を試みる傾向があった。
バーンバウムが言うように「英語圏読者をして、いかにも翻訳を読んでいるという気にさせない」ことが最優先だったのである。まずは日本文学に「英語文学」としての市場価値を持たせねばならなかったのだ。
バーンバウムが言うように「英語圏読者をして、いかにも翻訳を読んでいるという気にさせない」ことが最優先だったのである。まずは日本文学に「英語文学」としての市場価値を持たせねばならなかったのだ。
バーンバウムが村上春樹のヴォネガット的文体を誇張したように、シャイナーの荒巻訳が究極目的としたのも、日本小説の英訳というよりは、アメリカ的受容が保証される最先端サイバーパンク風文体空間へ落とし込むこと、すなわちアメリカ市場における文学商品化を施すことにほかならない。
このあたり、20世紀末の現代日本文学ブームにおいて、初期の英訳者が示したそれぞれ異なるさじ加減については、青山南が90年代初頭より盛り上がり始めた日本文学英訳の品質を真っ向から批評し、英訳者の功罪を列挙した『英語になったニッポン小説』の分析が参考になるだろう。
しかし新世紀に入って、卓越した日本語能力を備えた英語圏翻訳者が幾何級数的に増大すると、事情は一変する。前掲『OUT』を翻訳したスティーブン・スナイダーのように、原作小説に忠実でありながら、その魅力を倍増させる技法が磨かれるようになったのである。
(・・・後略・・・)
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