先日のことだが、石原慎太郎が実の弟である石原裕次郎を回想的に描いた『弟』幻冬舎、1996)が面白かったので、ついでに『「私」という男の生涯』(幻冬舎、2022)も読んでみることにした。
自分の死後、そして妻の死後に出版することを条件に書かれた自伝的回想録である。64歳で書き始めて断続的に執筆し、最終的には80歳をはるかに過ぎてから完成したものだとある。この間には東京都知事を務めていた。
この本が2022年に出版されたとき、丸善丸の内本店で平積みになっているのを見て手にとってはみたが、あえて読むことはあるまいと思った。
この本で初めてあきらかにされた、スキャンダル的ともいうべき愛人たちとの関係に注目が集まっていたが、そんなことはどうでもいいような気がしたからだ。
■全体をとおして流れる主旋律は「老い」と「死」と「スピリチュアル」
たしかに、実際に読んでみると、他人の秘密事をのぞき見るような関心をそそるものではある。
だが、全体をとおして流れている主旋律は、肉体主義者であった作家の衰えゆく肉体と精神、そして未知なる「死」への強い関心と恐れが入り交じった感情の揺れであった。
身体的な老いと死に抗いながらも受け入れ、受け入れながらも抗いつづけるという、揺れ動く心のあり方が正直に吐露されている。現世へのこだわり。精神的な成熟、あるいは精神的な完成がほど遠い状態であることを隠さない。
人間だれしも免れ得ない「老い」、そして「死」という、間違いなくやってくる現実。そして、80歳を過ぎての脳梗塞によって失ったもの。だが、このような形で言語化できるのは、文学者ならではといえるだろう。圧倒的大多数の人間は、老いや死について考えることがあっても、文字として残すことはない。
そんな石原慎太郎という「私」を形づくっていたのが、青年時代に読みふけったという、フランス文学や、演劇や絵画を中心にしたフランスの諸芸術であったことは、あらためて強い印象をもつ。石原慎太郎を形作ったのはドイツ的なものはなく、フランス的なものなのである。
その点、母校の先輩でもあり、作家としての先輩であった伊藤整もまた、在学中はフランス文学の内藤濯のゼミに所属していたことを想起させるものがある。わたしも大学時代の第二外国語はフランス語を選択した人間なので、この傾向には親近感を感じるものがある。
人生観に影響をあたえている思想家も、日本のものをのぞけば哲学者ベルクソンの著作であることも、注目に値することだろう。本書でもたびたび言及されるのは、不可知世界を語るベルクソンであり、『死』の著者であるフランスの哲学者ジャンケレヴィチである。
石原慎太郎自身も、もともと母親が浄霊をやっていたこと、妻が世界救世教関係者の娘であり気学に凝っていたこと、そしてはじめて選挙にでた際に紹介された霊友会から始まった法華経世界への親しんでいる。
ベルクソンへの傾倒は、スピリチュアル時代の先取りといってもいいかもしれない。そのベルクソンを紹介してくれたのは、文芸評論家の小林秀雄だったとある。
人間の生涯は、その人自身のものであるが、他者とのかかわりによって形成されるものだ。その意味でも、この自伝的回想録は交遊録もである。
政治家で言及される人は多くはないが、印象に残るのは、フィリピンの政治家ベニグノ・アキノとの交流である。その暗殺直前までつづいた熱い交流は、記録として価値のあるものだ。
■東大でも京大でもなく、一橋大学出身であることの意味
石原慎太郎といえば、率直な物言いで物議をかもすことの多い右派的な政治家であった、これが一般的な理解であろう。わたしもその例外ではない。
国会議員であった頃も都知事だった頃も、アメリカに対しての、中国に対しての、そして日本の現状に対して発せられる暴言とも、大言壮語ともいうべき発言には、大いに喝采を送りたい気持ちを抱き、大いに溜飲を下げたものだ。もちろん毀誉褒貶相半ばする存在ではあったが。
しかも、亡父とは世代的にも近い「戦中派」であり、母校である一橋大学の大先輩でもある。しかしながら、卒業生の大多数がビジネス界に進むなかで、文学や芸術畑に進み、しかも成功した数少ない例外的な人でもあった。
当然のことながら、わたしの強い関心は、石原慎太郎が1950年代に大学時代を過ごした回想と、その後の卒業生たちとの交流にある。
それは、しかしそれでもなお東大や京大ならぬ、同じ国大ながらも他の二つとは全く気風の違う一橋という学校が、さまざま私にもたらしてくれた、あの学校ならではの有形無形の恩恵のおかげだった(P.76)
石原慎太郎という個性は一橋大学なくしてあり得なかったわけだし、しかもまた石原慎太郎という存在がその後の一橋大学の特性を作り出していることも事実である。
石原慎太郎もまた、裕福ならざる寮生活を送っていたということは、大いに親近感を感じるものがある。わたしのときもそうだったが、当時の寮生活は4人部屋だったようだ。
その意味では、もっと一橋大学の学生時代について、一冊分になるくらいの回想を書いて欲しかった。
■文学者と政治家は両立しうるのか?
政治家で作家、いや作家から政治家になった人物は、石原慎太郎だけでなく、おなじ一橋大学出身の田中康夫もいる。英国の首相であったチャーチルやディスレイリなども想起される。
作家という、きわめて属人的な職業は、きわめてつよいセルフコントロールが求められるだけでなく、自分が作り出す世界の創造者でもある。自分の思うように政治を設計し実行したい、そんな思いに駆られやすいのだろうか。
政治も文学も、ともにことばの力で人を動かす点は共通している。作家として勝ち得た名声を、そのまま選挙戦につかえるというセルフブランディング上のメリットもある。
とはいえ、政治家になったがゆえに文学者としてはいまひとつぱっととしたものがない、そんな印象をもつのはわたしだけではないのではないか。
政治家に転身すると、政治家としてのイメージが大きくなりするぎることもあるだろう。政治家として全身的なコミットメントが求められるので、まとまった時間が取りにくいということもあるだろう。
経営者で詩人、作家でもあった堤清二は、経営者としては西武セゾングループの総帥であったが、詩人・作家としては辻井喬というペンネームを使用していた。事業への全身的なコミットメントが求められる点において、経営者は政治家とおなじである。
経営と文学という、一般的には交わることのない世界に生きていた堤清二/辻井喬であったが、経営者と文学者で人格を分離することで精神的バランスを保っていたのだろう。どちらの名前が後世に残るかは定かではないが。
それにくらべて、作家としても政治家としてもおなじ名前を使いつづけたのが石原慎太郎である。政治家としての側面がつよい印象を残すために、その書き物もそのイメージから逃れることができないという弱みがある。
国会議員としての25年間にはネガティブな感想しか記していないが、都知事としての13年間は思うことができたと回想している石原慎太郎。できれば首相になってほしかったが、都知事として記憶に残る仕事を残したことは、大いに評価されるべきだろう。
ただし、都知事時代の「新銀行東京」の件は、当時東京都民であったわたしは、当初から違和感をもっていたことは記しておく。
最終的に失敗に終わったこのプロジェクトは、責任者としてトヨタから招いた人物が人選ミスであったことに帰しているが、一橋人脈への依存が、政治上の意思決定のミスを招いたことも無視できない事実である。いや、そもそもこの構想じたいが間違いだったのではないか。
また、東京オリンピック誘致にかんしても、税金の無駄遣いになるから。わたしは反対だった。東京都を去って千葉県に移住したのは、自分が払う税金がそのようなことにつかわれるのがイヤだったからでもある。
石原慎太郎は、文学者としては全うできなかったかもしれないが、その人生が文学的であったとはいえるのかもしれない。政治家として成功者だったのかどうか、その点にかんしても後世の評価がどうなるかはわからない。政治家の評価はリアルタイムと後世とでは異なるものだ。
もしかすると、後世の評価は政治家としてよりも、文学者としてのものとなるかもしれない。そんな気もしている。もちろん、わたし自身にその文学的価値を論じる資格はないが。
政治家としての側面ばかりが注目されてきた石原慎太郎だが、文学者としての石原慎太郎にも関心が生まれつつある今日この頃である。
(画像をクリック!)
PS1 石原慎太郎の「虚実」を知る ー 回想録における主観的記述からは知ることができないこと
石原慎太郎の死後のことになるが、かれをよく知るジャーナリストの大下英治氏による『石原慎太郎伝』(MdN新書、2022)が出版されている。
著者が過去に執筆した文章を再構成した内容が中心になっているが、今後でてくるはずの石原慎太郎評伝の先駆けともいうべきものだ。
慎太郎自身が回想録ではあまり語っていない、政治家時代の話や、政治家引退後に都知事選にでて当選するまでの話が詳しく書かれているのが特徴だ。そうでなくても、話を盛る傾向の強い石原慎太郎だけに、回想録における主観的な記述との違いは興味深い。
この本を読むと、要所要所で先輩後輩を含めた「一橋人脈」が大きな意味をもっていることがわかる。東大や京大ではなく一橋出身の強みは、実業界に張り巡らされた人脈であったことは確かなことだ。役人的発想ではないということである。本書の強みは、大学の同級生で生涯にわたる盟友だった高橋氏へのインタビューが大きな意味がある。
ただし、一橋大学出身であっても、その当人を好きかどうかが是々非々であったことは、後輩にあたる竹中平蔵を嫌っていたことからわかるだろう。慎太郎は、好き嫌いのはっきりしている人であった。
また、親しい存在であった三島由紀夫とのあいだでは、まったく相反する立場にあったのが天皇をめぐる見解である。「国家なる幻想」について語った石原慎太郎は、「国体なる幻想」についても、当然のことながら自覚的であったということだろう。
その意味では、ナショナリスト的言動の多い慎太郎であるが、本質は別のところに求める必要がありそうだ。
目 次はじめに第1章 『太陽の季節』と石原慎太郎第2章 石原裕次郎 ― 昭和の大スター兄弟第3章 「天皇陛下、敗戦の日に自決すべし」発言と三島由紀夫の天皇観第4章 「青嵐会」血判事件と美濃部革新都政への挑戦第5章 石原裕次郎死す第6章 「私が尖閣諸島に灯台を建設した」に日本青年社が激怒第7章 総裁選出馬と最下位得票48票第8章 1995年、なぜ石原慎太郎は永田町を去ったのか?第9章 ノーベル賞作家より東京都知事の座第10章 会見でペットボトルに入った煤を撒く第11章 外形標準課税導入と「三国人」発言の波紋第12章 銀座に装甲車と羽田空港再拡張第13章 東京都「尖閣諸島購入計画」の頓挫第14章 橋下徹との合流 ― 最後の野望第15章 小池百合子一族と石原家 ― 半世紀にわたる恩讐第16章 田中角栄批判の急先鋒から180度転換終章 我が友・石原慎太郎へ 亀井静香おわりに
PS2 1960年代の石原慎太郎と文学から政治家への転回点に至るプロセス
さらに『石原慎太郎 作家はなぜ政治家になったか(シリーズ・戦後思想のエッセンス)』(中島岳志、NHK出版、2019)は、慎太郎の存命中にでたものだが、「リベラル保守」なる摩訶不思議な立ち位置を自称する、1975年生まれの思想史家によるものだ。
「戦後派」の石原慎太郎が、なぜ作家から政治家になったのか、そのプロセスを1960年代の状況と重ねあわせながら考察している。芥川賞を受賞し『太陽の季節』でデビューしたのは、「もはや戦後ではない」というキャッチフレーズが流行した1956年のことである。
先行する世代を徹底的に批判してデビューするのは、いつの時代でも常套手段であるが、そんな「戦後派」で、軍国主義的な「戦前」を否定する慎太郎がなぜウルトラ・ナショナリストになったのか?
著者は、その理由を慎太郎が時代に対して抱いていた「違和感」と、自分自身に対する「危機感」、そして「焦燥感」に求めている。「挫折」を含めた試行錯誤のプロセスのなかで最終的に見つけたのが、ナショナリズムという「着地点」であったわけだ。当時主流だった左派リベラル系の知識人とは異なり、高度成長時代の一般大衆の気分とも合致していたのである。
だから、それは著者がいうように「再帰的ナショナリズム」であって、原初的な土地に根ざした土の香りのするナショナリズムではなく、あくまでも観念論を経由したものなのである。一般大衆の気分と合致したとはいえ、あくまでも都会人であり、知的エリートであった慎太郎の限界というべきか。
そして、1968年のベトナム戦争取材後の病中の思索が、文学者への踏み台となったのであった。自意識においては、政治は文学の延長線上なのだ、と。
目 次はじめに 「戦後と寝た」男Ⅰ『太陽の季節』と虚脱感Ⅱ「若い日本の会」と60年安保闘争Ⅲ ベトナム戦争と政界進出Ⅳ『「NO」と言える日本』とその後石原慎太郎年譜
(以上、2025年4月1日 記す)
<ブログ内関連記事>
・・村上一郎氏は東京商大(現在の一橋大学)卒で海軍士官を体験。日本刀で自刃するといいう劇的な最期を遂げた
(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!)
end