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2012年5月27日日曜日

市川文学散歩 ③ ー 国府台(こうのだい)城跡から江戸川の対岸を見る


八幡の葛飾八幡宮からはじめた「市川文学散歩」、荷風ゆかりの地を散策したあとは、京成電車で市川真間駅まで移動し、真間の手児奈を偲んで万葉に遊んだあとは、ひたすら江戸川にむけて西に歩きつづける。


国府台はひときわ高い、江戸川に面した崖のうえにある高台

葛飾から真間の一帯が、もともと入江で葦(あし)や菅(すげ)が生い茂る湿地帯であったことは、さきにみたとおりだが、その湿地帯を見下ろす台地は国府台(こうのだい)と呼ばれている。

国府台は、ここに下総の国の国府(こくふ)が置かれていたためだという。おそらく古代においては、国府台は湿地帯のなかに浮かぶ岬のようなものだったのであろう。つまり、埋め立てや開拓によって生まれた土地ではなく、もとからあった土地だということだ。


そういう岬の突端のような場所に神社仏閣が建っているという指摘を行ったのは、東京について「アースダイバー」を行った宗教学者の中沢新一だが、江戸川の東岸についても、それはあてはまるといってよいだろう。書評 『アースダイバー』(中沢新一、講談社、2005)-東京という土地の歴史を縄文時代からの堆積として重層的に読み解く試み を参照されたい。

市川文学散歩 ②-真間手児奈(ままのてこな)ゆかりのを歩く で触れたように、真間(まま)というのは、「崖の裁り落した処を言ふ地名」だと折口信夫は書いていることから考えると、国府台の台地もまた、国府台と呼ばれる以前は、一般的に真間と言われていたのだろう。たしかに切り通しの崖のような地形である。

手児奈霊堂から、真間山弘法寺の急な石段を登るとそこは国府台である。いまそこには千葉商科大学のキャンパスがあるが、そこにははみでるかのような巨樹がある。すごいパワー! 巨象が、、コンクリートをぶちこわして出てくるような迫力。日本人が古代以来、巨樹に神を見てきたが、神とは自然の生命力そのものだとあらためて実感する。



その台地を西にむかってしばらく歩いて行くと、国府台城跡という崖にいたるのである。

真間の手児奈が身を投げたのがどこかはわからないが、国府台城跡の崖から飛び降りたと考えるのが自然かもしれない。


この写真は江戸川から上流にむけて撮影したものだが、古墳のようにこんもりと茂った台地が国府台である。ここに国府台城跡がある。古戦場でもあった。



『江戸名所図絵』の最後、巻の七は江戸川の対岸にも及んでおり、船橋までカバーされているのだが、その途中の市川についてもくわしく触れられている。江戸の庶民にとっても、ちょっと足を伸ばせば訪れることのできる土地であるからだろう。

『江戸名所図絵』には「国府台断崖之図」という挿絵が挿入されている。これは崖のうえから下流ん向きに描かれた絵図だ。現代人と同じように、江戸時代の人も似たようなもので、崖から下をのぞいている。



歌川広重もまた、『名所江戸百景』のなかで同じ場所を描いている。構図は基本的に同じである、


絵だからかなり誇張しているが、それでも国府台が切り立った崖であることは確かだ。むかしから名所だったのである。

ただし、現在ではこんもろと茂った森となっているので、江戸時代のように崖の上から見下ろすという楽しみはないのが残念だ。もっと整備して展望台をつくると面白いと思うのだが。


国府台城跡の上流に矢切の渡しがある

江戸川の西岸は東京都で、かなり広い河川敷となっており、野球や各種のスポーツが楽しまれる場所となっているが、江戸川の東岸は崖がそのまま川に面したような地形で西岸とはまったく異なる景観となっている。


国府台城跡から2kmほど上流には、かの有名な「矢切の渡し」がある。文学好きなら、伊藤左千夫の『野菊の墓』の舞台となった土地だというべきだろう。だが、それほど川幅が広くはないので、泳いで渡れないわけでもなさそうな気がするのだが・・。

今回は、ここに到達するまで2万歩近く歩いていたので、水際で一息いれると癒される思いがした。水のもつチカラはきわめて大きい。

国府台城跡は現在は里見公園となっているが、この矢印の方向をすこし上がったところに「羅漢井」という井戸がある。


この「羅漢井」もまた『江戸名所図絵』には挿絵が挿入されてることからみると、かなり有名なものだったようだ。



葛飾、真間、国府台と歩いてきたが、この一帯はよほど水に縁のある土地柄のようである。



国府台からは東京の下町が見下ろせる

江戸幕府を開いてから、徳川氏はここに立っていた城をわざわざ壊させ、国府台には城を造らせなかったという。その理由は、国府台城址に立ってみればよくわかる。


標高海抜30mと決して断崖絶壁というわけでもないのだが、東京の下町がゼロメートル地帯も含んだ低地であるため、国府台からは見下ろせてしまうわけだ。




国府台からみると江戸川対岸の東京下町は丸見え。スカイツリーがそびえ立っているのは当然ですが、それ以外の建築物も丸見えだ。




なるほど、国府台は戦略的要衝であったか、と納得した次第。現在、この地には和洋女子大学や千葉商科大学が立地している。

国府台城跡は現在は里見公園となっており、北原白秋の旧宅である「紫煙草舎」も移築され再現されている。文学散歩の最後にはふさわしい地であるといえよう。



このあとは、京成線の国府台駅まで歩き、電車にのって帰宅した。国府台駅と江戸川駅を結ぶ鉄橋は見事な眺めである。この鉄橋は、東京に住んでいた頃、海外出張で成田空港に移動するスカイライナーでなんども通った鉄橋である。



むかしは川をつかった水運が中心であったが、現代は鉄道やクルマが中心だ。鉄橋で結ばれているいまは、矢切の渡しは観光資源以外の何物でもない。江戸川では、モータースキーを楽しみながら水しぶきをあげている人もいる。


さて、以上で「市川文学散歩」を終わりにしたいと思う。かなり独断と偏見に満ちたわたくし流の散歩ではあるが、荷風散人の散歩をたどったものでもあり、万葉の古代から現代まで、わずかな時間でたどった小旅行でもある。

いまは、ようやく長年の懸案事項を達成できた思いで一杯だ。再訪がいつになるかはわからないが。  (終わり)




<関連サイト>

江戸川の絵葉書 主に鴻之台(国府台)の風景
・・レトロな絵はがきで国府台近辺の江戸川をみるサイト


<ブログ内関連記事>

市川文学散歩 ①-葛飾八幡宮と千本いちょう、そして晩年の永井荷風

市川文学散歩 ②-真間手児奈(ままのてこな)ゆかりのを歩く

市川文学散歩 ③-国府台(こうのだい)城跡から江戸川の対岸を見る


書評 『アースダイバー』(中沢新一、講談社、2005)-東京という土地の歴史を縄文時代からの堆積として重層的に読み解く試み

地層は土地の歴史を「見える化」する-現在はつねに直近の過去の上にある


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市川文学散歩 ② ー 真間手児奈(ままのてこな)ゆかりの地を歩く



八幡の葛飾八幡宮からはじめた「市川文学散歩」、荷風ゆかりの地を散策したあとは、京成電車で市川真間駅まで移動し、そこからふたたび歩き始めることとする。


真間手児奈(ままのてこな)伝説の市川真間に移動する

小学校5年生のときに千葉県に引っ越して、京成電鉄沿線に住んでいたので「市川真間」という駅名にはなじみがあった。

「市川真間」は、ひらかなで書くと「いちかわ・まま」である。

市川ママ? 市川パパ?・・などという言語連想が思い浮かぶが、子どもならみな似たようなものあろう。ネコ舌に対してイヌ舌とか、ネコばばに対してイヌじじとか(笑)

高校時代に古文の授業で、「真間手児奈」(ままのてこな)伝説というのを聞いた。万葉時代の伝説という。

「手児奈」(てこな)という名の美少女が、多くの男性から言い寄られたのですが、一人を選ぶとその他大勢の男たちを切り捨てなければならないというので悩みに悩み、自分が消えてしまえばいいのだと思いつめて、水に身投げして死んだという悲しい伝説だ。

高橋虫麻呂(・・これもまた不思議な名前だ)などの高名な歌人が詠んだ和歌が『万葉集』に収録されているという話であった。「真間手児奈」の「真間」が、地名として20世紀(・・高校時代はまだ20世紀だった)にも残っている、この事実にたいへん興奮したのはいつまでたっても忘れない。

だが、じっさいに真間手児奈の市川真間駅では下車したことはただの一度もなかった。

いつまでも千葉県に住んでいるかわからないし、「思い立ったら吉日」と出かけようとしてからまたさらに一年、二年。暑い時期や寒い時期はいやだな、なら春と秋しかないかと思っているうちにはや秋も晩秋に近づいている。

というわけで、思い切って「真間手児奈」探訪の散歩にでかけてみることにした。「いまでなければいつ?」という思いからだ。


もともと海に面していた湿地帯であった

市川真間に行く前に、京成八幡駅のちかくでめずらしい碑をみつけた。

「改耕碑」という名前の碑で、市川市教育委員会による説明書がある、それによれば、真間川にも近いこの一帯はもともと入江で、葦(あし)や菅(すげ)が生い茂る、水はけの悪い湿地帯であったようだ。雨が降り続くとすぐに浸水する低地なのであったのだ。

そうか、この一帯は、もともと海がすぐそこまで迫ってきていた土地だったわけなのだ。一面に広がる葦原(あしはら)。葦原といえば、古事記や日本書紀すら想起する。つい明治時代の終わりまで古代が残っていたというわけなのだ。




真間手児奈が入水したというのも池や川ではなく、海に身を投げたということのようだ。どうも、自分が抱いていたイメージとはやや違うようだ。修正しておかねば。

このことを押さえたうえで、『万葉集』に収録された手児奈関連の歌をみておこう。高橋虫麻呂のほか、山部赤人、そして無名歌人が手児奈について歌っている。



■山辺赤人(やまべ・あかひと)と高橋虫麻呂(たかはし・むしまろ)が歌った真間手児奈

ではまず、山辺赤人(やまべ・あかひと)の歌を引いておこう。

勝鹿(かつしか)の真間娘子(ままをとめ)が墓を過(とほ)れる時、山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌
0431 
古(いにしえ)に ありけむ人の 
倭文幡(しつはた)の 帯解き交へて
臥屋(ふせや)建て 妻問(つまどひ)しけむ
勝鹿の 真間の手兒名(てこな)が
奥津城(おくつき)を
 こことは聞けど
真木の葉や 茂みたるらむ
松が根や 遠く久しき
言のみも 名のみも我は 忘らえなくに

反し歌

0432 
我も見つ 人にも告げむ
勝鹿の真間の手兒名が
奥津城ところ

0433 
勝鹿の真間の入江
打ち靡く玉藻苅りけむ
手兒名し思ほゆ

奥津城とは墓のこと。山部赤人がこれらの歌を詠んだ時点で、すでに真間手児奈伝説ができあがっていたことがわかる。彼は、真間手児奈の墓のありかを人にたずねているのである。


万葉集巻十四の東歌(あづまうた)にも、それに触れた作品がある。いずれも読み人知らずである。

3384 
葛飾の 真間の手兒名を
まことかも 我に寄すとふ 
真間の手兒名を

3385 
葛飾の 真間の手兒名が 
ありしかば 真間の磯辺(おすひ)に
波もとどろに

さて、高橋虫麻呂だ。長歌と反歌で対になっているのは、山部赤人と同じである。

勝鹿(かづしか)の真間娘子(ままをとめ)を詠める歌一首、また短歌
1807 
鶏が鳴く 東の国に 
古に ありけることと
今までに 絶えず言ひ来る 
勝鹿の 真間の手兒名(てこな)が麻衣(あさきぬ)に 青衿(あをえり)着け 
直(ひた)さ麻を 裳には織り着て
髪だにも 掻きは梳らず 
履(くつ)をだに はかず歩けど
錦綾(にしきあや)の 中に包(くく)める 
斎(いは)ひ子も 妹にしかめや
望月の 足れる面(おも)わに
花のごと 笑みて立てれば
夏虫の 火に入るがごと 
水門(みなと)入りに 舟榜ぐごとく
行きかがひ 人の言ふ時 
幾許(いくばく)も 生けらじものを
何すとか 身をたな知りて
波の音(と)の 騒く湊の
奥城に 妹が臥(こ)やせる
遠き代に ありけることを
昨日しも 見けむがごとも 思ほゆるかも

反し歌

1808 
勝鹿の真間の井
見れば立ち平し
水汲ましけむ
手兒名し思ほゆ


手児奈ゆかりの地を歩く

さきに引いた山部赤人と高橋虫麻呂、そして無名の歌人が詠んだ東歌にみられる手児奈の奥津城は、手児奈霊堂となっている。



縁結びや安産子育て祈願の場として、現在でも厚く信仰されている。



これは、境内を歩けば一目瞭然だ。投身自殺した手児奈の霊を慰め、そして御利益を願う場となっているのである。いつの時代もかわらぬ一般庶民の切実な願いである。



「勝鹿の真間の井 見れば立ち平し 水汲ましけむ 手兒名し思ほゆ 真間の井」と高橋虫麻呂が詠んだ真間の井は、現在も涸れることなく水を出し続けている。現在は亀井院というお寺のなかにある。



真間(まま)とママ、語呂合わせというわけでもないでしょうが、現代のママさんたちにも人気の霊場であります。ちかくには真間山弘法寺(ままさん・ぐほうじ)というお寺もあります。こんなこともあって、現代の「ママさん」たちにも人気の高い場所となっているわけです。


弘法寺は、真間ぜんたいを見下ろす高台のうえにあり、周囲を一望することができる。すでに国府台の台地となっている。


上田秋成の『雨月物語』を代表する「浅茅が宿」は市川真間が舞台

真間手児奈を踏まえた物語にとどまらず、日本という空間においては、物語は重層的に積み上げられてゆくものである。

大坂に生まれた国学者で小説家上田秋成もまた、そのうえにひとつの物語を積み重ねた一人である。

古典を読みこなし、古文だけでなく漢文もよく読んでいた秋成の代表作は、『雨月物語』という怪奇小説集であるが、最初から三番目に置かれているのが「浅茅が宿」(あさぢがやど)という一篇。

「浅茅が宿」は『雨月物語』のなかでも、もっとも有名な一篇であるので、知っている人も多いと思うが、金儲けだけでアタマが一杯になった男が美貌の妻を故郷を捨て京に上るが、かなりの年月がたってから妻と故郷のことを思い出し、戻ってきてようやくのことで家を探し出し・・・・という物語である。

その舞台は、市川の真間。真間手児奈伝説を踏まえて創作されたものだ。

主人公が物語で最後に詠んだ歌が、

いにしへの 真間の手児奈を 
かくばかり 恋てしあらん 真間のてごなを

このように、真間という地名が喚起するものは、時代を超えて重層的に堆積してゆくのである。

だからこそ、地名は安易に変えるべきではないのである。地名という土地の名前が喚起するもの、これは計り知れないものがあるといっていいからだ。

土地の歴史は地層と同じく、過去のうえに堆積し、さらにそのうえに堆積したものに他ならないのである。


万葉といえば折口信夫、またの名を歌人・釋超空

国文学者で民俗学者であった折口信夫は、『万葉集』の4,500首がすべてアタマのなかに入っていて暗唱できたという。

その折口信夫には『萬葉集辞典』(大正8年、1919年)という著書がある。折口信夫32歳のときの著作である。【真間】と【真間手児奈】という項目があるので、引用しておこう。 

パソコンもない時代に、友人たちの助けを借りたとはいえ、一人で辞典をまるごと一冊執筆してしまうというのだから驚くべきことである。( )内のカタカナは原著に付されていたルビ、ひらかなはわたしがつけた読みである。(出典:『折口信夫全集 第六巻 萬葉集辞典』(中公文庫、1976) P.331 ただし、漢字は新字に直した)。

まゝ【眞間】下総國葛飾郡。此地、昔は海に面してゐた。此地に手児奈(テコナ)と言ふ女があつた(次條を見よ)。又、相模國足柄上郡。所在未詳。
まゝ-の-てこな【眞間ノ手児奈】競婚伝説の中、競争者を特定の人とせずに、多数の男とした点、注意すべきである。下総の国府に近い所にゐた女だけに、東国官人等の注意に上がってゐた為、都迄も伝つたと思はれる。巻十四「足の音せず行かむ馬もが(三三八七)と言うたのは、恐らく其等の都人だらう。鄙処女の美しいのが、時々出て水を汲むと言ふ場合に、衆人の注目する処となつて、求婚者の多いのに堪へず、水に投じたのである。此は恐らく、孤立古塚伝説の一つだつたのであらう。現在では、江戸期式の臭双紙化を受けて、烈女の一人とせられてゐる。
(補)崖の裁り落した処を言ふ地名で、相模國足柄上郡には ○(注:土偏に盡)下と言ふ処がある。巻十四「あしがりのままの小菅(三三六九)のまゝはこれで、岨(ソヒ)などに似た地形を言ふ方言であるのだらう。即、足柄地方にまゝとといはれた大きな崖の、半固有地名であつたものと思はれる。下総國の眞間も、国府台高地の崖の上にあつたからの名であらう。伊豆國田方郡には、○(注:土偏に盡)ノ上をまゝのうへと読む地名のあるのも、やはり崖の上の義で、下野國の間々田・下総國の缺眞間(カケママ)、皆、此種の地形を持つた土地だからであらう。 

「てこ」というコトバも一緒に引いておこう。

てこ【手児】嬰児にも、娘にも言ふ。前者はと濁り、後者はと清むのが常である。石井の手児などと言ふ。娘をてこと言ふのは、当時から、東語であらう。
てこな【手古奈】てこに親しみのをつけたのであらう。眞間の手古奈は著名なものである。

真間(まま)というのは、「崖の裁り落した処を言ふ地名」だと折口信夫は書いている。まさに、真間山弘法寺のある国府台は台地であり、その台地を西にむかってしばらく歩いて行くと、国府台城跡という崖にいたるのである。

真間の手児奈が身を投げたのがどこかはわからないが、国府台城跡の崖から飛び降りたと考えるのが自然かもしれない。


万葉学者・中西進博士の真間の手児奈論

現代を代表する万葉学者の一人である中西進博士に『旅に棲む-高橋虫麻呂論-』(中西進、中公文庫、1993 初版 1985)という著書がある。そのなかに「入水する女」という章があり、真間手児奈について・・されている。入水と書いて、じゅすいと読むか、にゅうすいと読むかは、読者次第であろう。

中西氏の緒論を簡単に要約すれば、手児奈とは、国府近くの作業場で働いていた縫製に従事する女性集団の総称と考えるのが自然なようだ。

高橋虫麻呂自身も、上総から下総にかけての東国の土着の出身ではなかったか、と。官位の低い挫折した貧しい官吏であったがゆえに、夢想する歌人であったと。

「入水する女」というと、森鴎外の『山椒大夫』に登場する安寿と厨子王のうち姉にあたる安寿を思い浮かべる人も少なくないだろう。万葉にも兎原処女(うはらのおとめ、うないおとめ)など数多く、源氏物語にもつながるテーマ「入水する女」。

入水する女はまた、折口信夫のテーマである「水の女」でもある。シェイクスピアのハムレットに登場するオフィーリアもまた「水の女」である。


郭沫若なる「政治的文学者」の記念館

ついでなので郭沫若記念館まで足を伸ばす。郭沫若(かく・まつじゃく 1892~1978)とは中華人民共和国で毛澤東のもと副総理までつとめた要人だが、日本で20年間過ぎしていた、いわゆる「知日派」とされる人物である。

郭沫若は、市川に居住していたのであった。

むかし、『創造十年・続創造十年』という半自叙伝と岩波文庫で読んだことがあるので、郭沫若については知っているが、正直いって好きな人物ではない。

文化大革命を生き延びて、周恩来や毛澤東よりも2年長生きをして天寿を全うした人物といえば、何をいいたいかがわかるだろう。もちろん、中国においては文学も政治である以上、みずからのサバイバルのために、郭沫若が政治的人物を貫いたことが悪いというつもりはない。

しかし、日本女性と結婚し子どももいながら、妻子を捨てて中国の革命運動に身を投じたのいうことが、はたして美談であるかどうか。しかも、中国に渡ってすぐに中国女性と結婚し、子どもをもうけている節操のなさをどう評価するのか。

当時は日中間で法的拘束力があったかどうかは知らないが、あきらかに重婚である。郭沫若に対してわたしが快く思っていない理由が、わかっていただけるであろう。「日中友好」という美名に隠してはならない事実である。これは強調しなくてはならない。

ただし、記念館じたいは大正時代の日本家屋をよく再現しており、訪れる価値はある。それと郭沫若の評価とは別物であるとは、はっきり書いておく。しかも入場無料である。

さて、やや後味のあまりよくない郭沫若記念館を足早に去ったあと、ひたすら西に向けて国府台に向けて歩き続けることとする。


市川文学散歩 ③-国府台(こううのだい)城跡から江戸川の対岸を見る につづく




<関連サイト>


伝説のヒロイン“真間の手児奈”(千葉県市川市 文化・観光・国際情報)
・・リンク多数。文芸作品もたくさん製作されてきたことがわかる

手児奈霊神堂(公式ウェブサイト)



<ブログ内関連記事>

市川文学散歩 ①-葛飾八幡宮と千本いちょう、そして晩年の永井荷風

市川文学散歩 ②-真間手児奈(ままのてこな)ゆかりのを歩く

市川文学散歩 ③-国府台(こうのだい)城跡から江戸川の対岸を見る


書評 『アースダイバー』(中沢新一、講談社、2005)-東京という土地の歴史を縄文時代からの堆積として重層的に読み解く試み
・・「第2章 湿った土地と乾いた土地 新宿~四谷」が参考になる

地層は土地の歴史を「見える化」する-現在はつねに直近の過去の上にある

「理科のリテラシー」はサバイバルツール-まずは高校の「地学」からはじめよう!

書評 『土の科学-いのちを育むパワーの秘密-』(久馬一剛、PHPサイエンス・ワールド新書、2010)


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