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2011年4月16日土曜日

「歴史の断層」をみてしまったという経験-「3-11」後に歴史が大転換する予兆


 
 「東北関東大震災」発生から 5週間が過ぎた。きょうで 36日目になる。

 いまから振り返ってみると、とくに最初の1週間で、世の中は根本的に変わってしまった。そのときもそう感じていたが、ますますその感を強くしている。

 現時点で世の中で実現している企画は、ほぼすべてが「3-11」以前に企画が完了し、実行に移されるプロセスにあったものだ。だから、実現しても、なにやら正確に表現はできないのだが、違和感が残るのは否めない。たとえ、「犠牲者のみなさんの・・・・」のという、あたかも「免罪符」のような前振りを加えたとしても。

 被災地ではない場所では、関東でも日常性は戻ってきている。しかし、「3-11」以前とはあきらかに異なる日常だ。これは意識のなせるわざかもしれない。

 つまりそういうことだ。意識の問題なのだ。

 「3-11」以前の企画を、企画立案した際の意識を変えることなく、そのまま「3-11」後の世界に登場させても、コトバにならない違和感を生じさせるのもムリはない。「3-11」を境に、まったくことなる世界になっていることに気がつかない企画は、たとえ受け入れる人がいても、少なからぬ数の人間は違和感を感じ続けるだろう。

 「自粛」という名の「空気」を賞賛する気持ちなど私にはまったくない。私からすれば、「自粛」のフリをすることもまた「免罪符」の一種である。「3-11」後の世界で、「日本復興」に向けて動かなければならないという意識の目覚めがあれば、ぜったいに「自粛」の片棒担ぎなどできないはずだからだ。

 「自粛」とは、しょせん処世術の一つに過ぎないのだ。台風や嵐が過ぎ去るのを待って首をすくめているだけ。あたかもダチョウのように。「アタマ隠して・・・」そのものである。


「量質転換の法則」-今回の「東北関東大震災」と「福島第一原発事故」はクリティカルマスを越えた存在だ

 だが、今回の「東北関東大震災」と「福島第一原発事故」は、これまでの災難とはまったく規模が違うだけでなく、性格も大きく異なることに気がつかねばならない。

 「量質転換の法則」というものがあるが、ある一定の閾値(クリティカルマス)を越えると、質も変化するという法則である。今回の巨大な自然災害とそれが引き金となった巨大な人災は、明らかに従来のものとは、量的だけでなく質的にも大きなもので、生き残った人間にも、気がつかない深層領域で大きな変化がもたらされているはずなのだ。

 いまは、まさに The Day After の世界である。

 大津波で流され行く家屋をみたとき、むかし東京都と神奈川県の境を流れる多摩川が大洪水で家が流されていく映像を思い出した人も多いのではないだろうか。『岸辺のアルバム』というTVドラマになったあの事件のことだ。


歴史は連続しているが、ときに断絶をかいま見せることがある

 私は、1995年をつぎの500年の始まりのシンボリックな年であると捉えているが、それから 「9-11」でも「リーマンショック」でも感じなかったような激震を、それこそカラダをつうじて体験した。

 歴史は、一般的には連続性として理解されているが、ときにきわめて大きな断絶が発生することがある。その大きな断絶の一つが「3-11」であったといっても言い過ぎではないだろう。

 断層が見せたのは、プレートの活動という地球の真の姿だけではない。

 断層が見せたのは、きわめて多い。もちろん、すべてをコトバとして表現することは私の能力を越えているし、またムリにコトバにするつもりもないが、人間の本性の一端を見せてしまったとだけは、ここでは書いておきたい。

 この国のエリートたちのほんとうの姿が見えてしまった。もともと知ってはいたが、国民すべてに見えてしまったということが大きい。「この国のかたち」が見えてしまった。それも司馬遼太郎のようなポジティブなものではなく、醜い姿の「国の形」が。

 見えてしまったのはエリート層の姿だけではない。それ以外の多くの人たちの本性も、だ。「3-11」からしばらく「自粛」の名のもとに有効なコトバを発しなかった人たち。コトバを持ち合わせないから発することができなかったのか? しょせんはそのような底の浅い存在なのだろう。

 「3-11」からの1週間でみてしまったことは、生きている限り、一生わすれないだろう。その意味では、「3-11」からの 1週間は、まさに「決定的瞬間」(The moment of truth)であったといえよう。


いわゆる時代区分としての「戦後」は終わったと考えるべきだ

 いまや、もうすでに「3-11」前の世界ではない。いまは「3-11」後の世界である。時代の区切りとしての、いわゆる「戦後」はもう完全に終わったのだ。

 「3-11」で歴史が大転換し始めたことの予兆を感じるべきなのだ。ただし、私が言いたいのはオカルト的な意味ではない。そう受けとりたい人もいるだろうが、それは必ずしも私の意図するところではない。いまこそ、ほんとうの意味で「歴史」に学ぶ必要がある、私が言いたいのはそのことだ。

 「歴史の本質」が見えてしまうと言う経験、これは滅多にあるものでない。

 長いスパンで歴史を研究してこそ、はじめて長期的な先を見るイマジネーションのチカラも養われる。歴史がそのまま繰り返すことがないが、しかしながらある種の似たようなパターンを繰り返していることもまた否定はできない。だからこそ、過去の歴史を比較的長いスパンで顧みる必要がある。

 「復興」は「復旧」ではない。あらたな歴史の担い手として、「新生」こそが必要なのだ。それが、われわれ生き残った者たちの責務ではないだろうか。意思のチカラと勇気をもって。




P.S. ちょうどこの投稿で、今年(2011年)は 100本目 になった。通算 676本目。まだまだつづく(・・はず)。


<関連サイト>

ダチョウ症候群 (きょうのコトバ)
・・姉妹編の「佐藤けんいち@ケン・マネジメント代表  公式ブログ」に掲載


<ブログ内関連記事>

書評 『歴史入門』 (フェルナン・ブローデル、金塚貞文訳、中公文庫、2009)

「500年単位」で歴史を考える-『クアトロ・ラガッツィ』(若桑みどり)を読む

書評 『100年予測-世界最強のインテリジェンス企業が示す未来覇権地図-』(ジョージ・フリードマン、櫻井祐子訳、早川書房、2009)

【緊急提言】 「自粛」という名の「空気」を読むのは止めよう。消費にカネを回して「日本復興」への貢献を!

「想定外」などクチにするな!-こういうときだからこそ、通常より長いスパンでものを考えることが重要だ





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