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2011年4月23日土曜日

永井荷風の 『断腸亭日乗』 で関東大震災についての記述を読む


 ここ数年、永井荷風(1879年~1959年)の人気が、じわじわ上がってきているという。

 独身できままに、かつ毅然とした独立自尊の人生をまっとうした荷風が、生き方のロールモデルとして男女を問わず脚光を浴びているらしいのだ。リタイア後の男性だけでなく、若い世代の男女にも。

 高校時代、千葉県船橋市の学校に通っていた私にとって、終の住処(ついのすみか)を千葉県市川市に定めて、京成電鉄をつかって浅草通いをしていたという永井荷風には、大いに親しみを感じていたものだ。

 岩波文庫や新潮文庫に収録されていた作品はあらかた読んでいる。永井荷風とも親交の深かった谷崎潤一郎ともに私の好みの作家だが、高校生にしては変わった読書傾向であったかもしれないとは、当時でも感じてはいた。だからこそ、若い人のあいだで荷風の生き方に関心が強まっているというのはうれしいのだ。作品そのものではなく、生き方そのものであるにしても。

 このブログでも何回か書いている、岡本太郎、折口信夫、白洲次郎、岡倉天心などと並んで、近代日本の個人主義者の系譜のなかでも特筆すべき人物であるといってよい。永井荷風もまた「プリンシプル」を貫いた人生を送った人である。

 都内の麻布町(・・現在の港区六本木一丁目)にたてた洋館を、偏屈で奇人が住む館(やかた)という意味で「偏奇館」と名付けるネーミング感覚は、白洲次郎が疎開先の日本屋敷を「武相荘」(=無愛想)と名付けたセンスに共通するものがある。

 親の財産も相続し、著者印税の収入もあった永井荷風が、株式投資によって財産をつくっていたことは比較的知られている。たしか、いま話題の東京電力株も、長期安定投資として保有していたようだ。

 その「偏奇館」が焼失して、疎開先を転々とした記録のことは、高校時代の現国の授業で受けたことを、ガリ版刷りの教材とともにに記憶している。
 
 その教材は、永井荷風が 38歳から死ぬ直前の 79歳まで42年間にわたって書き続けた『断腸亭日乗』(だんちょうてい・にちじょう)からとられたものであることは、大学時代にあらためて再確認した。膨大な『荷風全集』(岩波書店)の存在を知ったのは、大学図書館に入り浸っていた頃である。なお、下に掲げた肖像写真は、永井荷風49歳(1927年)の頃のもの。


 大学時代でも、周辺に永井荷風を読んでいるような人間は、ごく少数を除いて、ほとんどいなかったように思う。『あめりか物語』『ふらんす物語』は大学時代に読んだ。『すみだ川』『墨東奇譚』、訳詩集の『珊瑚集-仏蘭西近代抒情詩選-』などは高校時代に読んでいる。

 西洋文明を実地に住んで極めてこその日本美再発見、これはハイスクール時代の 3年間を米国で過ごした白州正子にもつうじるものがある。なお、荷風は横浜正金銀行(・・のちの東京銀行、いまは吸収されて現在の三菱UFJ銀行)の行員として米国に 4年間、フランスには 1年弱滞在している。

 さて、『断腸亭日乗』だが、関東大震災の際の記述を読んでいると、なかなか興味深い。手元には、もちろん『荷風全風』などないので、岩波文庫の磯田光一による「摘録」から、さらに震災と余震関連、破壊された東京とその後の復興にかんする記事をピクアップしておこう。

 テキストは『摘録 断腸亭日乗 上』(永井荷風、磯田光一編、岩波文庫、1987)

 幸いなことに、昭和20年(1945年)に焼失することとなる「偏奇館」は、関東大震災(1923年)の際には、焼失を免れたのであった。


大正12年(1923年)荷風年四十五

 九月朔。曶爽(こつそう)雨歇(や)みしが風なほ烈し。空折々掻(かき)曇りて細雨烟(けぶり)の来るが如し。日まさに午(ひる)ならむとする時天地忽(たちまち)鳴動す。 
 予書架の下に坐し『嚶鳴館遺草』を読みゐたりしが、架上の書帙(しょちつ)頭上に落来るに驚き、立つて窗(まど)を開く。門外塵烟(じんえん)濛々殆(ほとんど)咫尺(しせき)を弁ぜず。児女雞犬の声頻(しきり)なり。塵烟は門外人家の瓦の雨下したるがためなり。
 予もまた徐(おもむろ)に逃走の準備をなす。時に大地再び震動す。書巻を手にせしまゝ表の戸を排(おしひら)いて庭に出でたり。数分間にしてまた震動す。身体の動揺さながら船上に立つが如し。門に椅りておそるおそるわが家を顧るに、屋瓦少しく滑りしのみにて窗の扉も落ちず。やや安堵の思をなす。
 昼餉(ふるげ)をなさむとて表通なる山形ホテルに至るに、食堂の壁落ちたりとて食卓を道路の上に移し二、三の外客椅子に坐したり。
 食後家に帰りしが震動歇(や)まざるを以て内に入ること能はず。庭上に坐して唯戦々兢々たるのみ。物凄く曇りたる空は夕に至り次第に晴れ、半輪の月出でたり。
 ホテルにて夕餉(ゆうげ)をなし、愛宕山(あたごやま)に登り市中 の火を観望す。十時過江戸見阪を上り家に帰らむとするに、赤阪溜池の火は既に葵橋に及べり。河原崎長十郎一家来りて予の家に露宿す。葵橋の火は霊南阪を上り、大村伯爵家の鄰地にて熄(や)む。わが廬を去ること僅に一町ほどなり。

 九月二日。昨夜は長十郎と庭上に月を眺め暁の来るを待ちたり。長十郎は老母を扶け赤阪一木(ひとつぎ)なる権十郎の家に行きぬ。予は一睡の後氷川を過ぎ権十郎を訪ひ、夕餉の馳走になり、九時頃家に帰り樹下に露宿す。地震ふこと幾回なるを知らず。

 九月三日。微雨。白昼処々に放火するものありとて人心恟々(きようきよう)たり。各戸人を出し交代して警備をなす。梨尾君来りて安否を問はる。

 九月四日。曶爽家を出で青山権田原を過ぎ西大久保に母上を訪ふ。近巷平安無事常日の如し・・(後略)・・

 九月十八日。災後心何となくおちつかず、庭を歩むこともなかりしが、今朝始めて箒を取りて雨後の落ち葉を掃ふ。郁子(むべ)からみたる窗(まど)の下を見るに、毛虫の糞おびたゞしく落ちたり。郁子(むべ)には毛虫のつくこと稀なるに今年はいかなる故にや怪しむべき事なり。正午再び今村令嬢と谷町の銭湯に徃く。

 九月十九日。旦暮新寒脉々(みゃくみゃく)たり。萩の花咲きこぼれ、紅蜀葵(こうしょくき)の花漸く尽きむとす。虫声喞々(しよくしよょく)。閑庭既に災後凄惨の気味なし。『湖山楼詩鈔』を読む。

 十月三日。快晴始めて百舌(もず)の鳴くを聞く。午後丸の内三菱銀行に赴かむて日比谷公園を過ぐ。  
 林間に仮小屋建ち連り、糞尿の臭気堪ふべからず。公園を出るに爆裂弾にて警視庁及近傍焼残の建物を取壊中徃来留(とめ)となれり。数寄屋橋に出で濠に沿ふて鍛冶橋を渡る。到る処糞尿の臭気甚しく支那街の如し。
 帰途銀座に出で烏森を過ぎ、愛宕下より江戸見阪を登る。阪上に立つて来路を顧れば一望唯渺々たる焦土にして、房総の山影遮るものなければ近く手に取るが如し。帝都荒廃の光景哀れといふも愚なり。されどつらつら明治以降大正現代の帝都を見れば、所謂山師の玄関に異ならず。愚民を欺くいかさま物に過ぎざれば、灰燼になりしとてさして惜しむには及ばず。近年世間一般奢侈驕慢、貪欲飽くことを知らざりし有様を顧れば、この度の災禍は実に天罰なりと謂ふべし。何ぞ深く悲しむに及ばむや。民は既に家を失ひ国帑(こくど)亦空しからむとす。外観をのみ修飾して百年の計をなさゞる国家の末路は即此の如し。自業自得天罰覿面といふべきのみ。

 十月四日。快晴。平沢生と丸の内東洋軒にて昼餉(ひるげ)を食す。初更強震あり。

 十月八日。雨纔(わずか)に歇(や)む。午後下六番町楠氏方に養はるゝ大沼嘉年刀自を訪ひ、災前借来りし大沼家過去帳写を返璧す。刀自は枕山先生の女、芳樹と号し詩を善くす。年六十 三になられし由。この度の震災にも別条なく平生の如く立働きて居られたり。旧時の教育を受けたる婦人の性行は到底当今新婦人の及ぶべき所にあらず。日暮 雨。夜に入つて風声淅々(せきせき)たり。

 十月十六日。災後市中の光景を見むとて日比谷より乗合自働車に乗り、銀座日本橋の大通を過ぎ、上野広小路に至る。浅草観音堂の屋根広小路より見ゆ。銀座京橋辺より鉄砲 洲泊舩の帆柱もよく見えたり。・・(後略)・・

 十一月朔。・・(略)・・深夜強震あり。

 十一月五日。払暁強震。午後丹波谷の中村を訪ふ。震災後私娼大繁昌の由。 (以下省略)


*( )内のルビ、太字ゴチックは引用者(=私)によるもの。読みやすくするために、適宜開業も行った


 この岩波文庫版はそうとう省略しているので、実際はまだまだ余震にかんする記述が、日記のつれづれにある。『摘々録 断腸亭日乗』を参照されたい。

 それにしても震災当日のすさまじさは、ディテールの記述が具体的であざやかである。ロジカルで、かつリズミカルで読みやすい文章だ。漢詩を好んでいた荷風らしく、じつに漢字の多い文章ではあることを除けば。

 荷風の発言は、あくまでも日記のなかであるので、リアルアイムで対外的になされたものではないが、随所にみられる、文明批評的発言には、やはり注目すべきものがあるというべきだろう。

 ときに大震災から約一ヶ月後の 10月3日には、かなり強い語調での発言がなされている。この発言にははり驚かざるをえないものがある。

 阪上に立つて来路を顧れば一望唯渺々たる焦土にして、房総の山影遮るものなければ近く手に取るが如し。帝都荒廃の光景哀れといふも愚なり。されどつらつら明治以降大正現代の帝都を見れば、所謂山師の玄関に異ならず。愚民を欺くいかさま物に過ぎざれば、灰燼になりしとてさして惜しむには及ばず。近年世間一般奢侈驕慢、貪欲飽くことを知らざりし有様を顧れば、この度の災禍は実に天罰なりと謂ふべし。何ぞ深く悲しむに及ばむや。民は既に家を失ひ国帑(こくど)亦空しからむとす。外観をのみ修飾して百年の計をなさゞる国家の末路は即此の如し。自業自得天罰覿面といふべきのみ。

 現代語訳しておこう。

 坂の上に立って、いま来た道を顧みれば、一望すると遠く一面にわたって焦土と化しており、房総の山影はさえぎるものもないので、手に取るように近くに見える。帝都(・・かつては首都のことを帝都といっていた)東京の光景は哀れというのも愚かなことだ。だが、つらつら明治時代以降いま大正時代の帝都東京を見ると、いわゆる山師の玄関に異ならない。愚民(・・愚かな民衆)をあざむくいかさまモノに過ぎないのであって、灰となってしまったと言っても、たいして惜しいと思うには及ばない。ここ近年、世間一般では、ぜいたくにおごり高ぶり、欲望のおもむくままに飽くことを知らない状況であったことから考えると、このたびの災難はじつに天罰だと言うべきだ。深く悲しむべきであろうか、いやそんなことはない。民衆はすでに住む家を失い、国家の財産もまたカラになってしまった。外観のみ飾って「国家百年の計」をなさなかった国家の末路は、すなわちこのようなものなのだろう。自業自得で天罰はてきめんというべきのみだ。


 文学者の発言で、しかもエリート的な「上から目線」を非常につよく感じる発言である。対外的になされた公的な発言ではないとはいえ、穏当を欠くものではあることは否定できない

 とはいえ、永井荷風と同じコトバを感じる人は、もしかすると少なくないのではないだろうか? さきに大震災と大津波を指して、「天罰」発言でバッシングを受けた東京都知事の発言も、あながち的外れとはいえないのではないだろうか?

 だが、「近年世間一般奢侈(しゃし)驕慢(きょうまん)、貪欲飽くことを知らざりし有様」だったか、と言われれば、それはすでに1990年段階で崩壊しており、2011年にはあてはまらないし、都知事の発言も文学者のものとしてはさておき、公人としては穏当を欠くものだと批判されても仕方ない。都知事が天罰のあとに付け加えた「死んだ人たちはかわいそうだけどね」というのも、あからさまな「上から目線」である。

 とはいえ、都市計画のないまま迎えた大震災の被害状況に対する批判としては、そのままあたっているのではないだろうか? 帝都東京の復興にあたって、復興院総裁の後藤新平が、「大風呂敷」とまで批判されながらも、壮大な都市計画でもって再建にあたろうとしたことは、文学者と実務家の違いはあれ、問題意識を共有していたことがうかがうことができる。

 永井荷風の日記に記した感想は、寺田寅彦の科学的視点からみた文章「天災と国防」と比較して読んでみるのもよいだろう。

 さあ、雨もあがって晴れたことだし、散歩にでかけるとするか。『日和下駄』(ひよりげた)にならって。さすがに荷風ではないから、蝙蝠傘を手にぶらさげてスーツに下駄履き(!)ということはありえないが(笑)







<関連サイト>

『摘々録 断腸亭日乗』
・・大震災後の余震関連の記事は、こちらを参照するとよくわかる。なお、岩波文庫版とは表記が異なる。

著作権は切れているが、「青空文庫」がまだアップしていないのが残念


<ブログ内関連記事>

関東大震災の関連

「天災は忘れた頃にやってくる」で有名な寺田寅彦が書いた随筆 「天災と国防」(1934年)を読んでみる

石川啄木 『時代閉塞の現状』(1910)から100年たったいま、再び「閉塞状況」に陥ったままの日本に生きることとは・・・ 

渋沢栄一翁はこの震災を、国民がおごりたかぶるのを天が見かねてこらしめるために下した天譴(てんけん)だといいました。なにしろああいう大金持ちのいうことですから、一も二もなく信用されて、たちまち天譴説がはやりました。が、天はほんとうにそう思っていたかどうか・・。」


永井荷風関連

詩人・佐藤春夫が、おなじく詩人・永井荷風を描いた評伝  『小説 永井荷風伝』(佐藤春夫、岩波文庫、2009 初版 1960)を読む

市川文学散歩 ①-葛飾八幡宮と千本いちょう、そして晩年の永井荷風
・・永井荷風ゆかりのカツ丼


永井荷風と同じ精神の持ち主たちのこと

「プリンシプルは何と訳してよいか知らない。原則とでもいうのか」-白洲次郎の「プリンシプル」について

「武相荘」(ぶあいそう)にはじめていってきた(2014年9月6日)-東京にいまでも残る茅葺き屋根の古民家
・・白洲次郎の「終の棲家」

岡倉天心の世界的影響力-人を動かすコトバのチカラについて-
・・Asia is One (アジアは一つなり)というコトバについて

書評 『日本人は爆発しなければならない-復刻増補 日本列島文化論-』(対話 岡本太郎・泉 靖一、ミュゼ、2000)
書評 『ピカソ [ピカソ講義]』(岡本太郎/宗 左近、ちくま学芸文庫、2009 原著 1980)
・・岡本太郎について

書評 『折口信夫―-いきどほる心- (再発見 日本の哲学)』(木村純二、講談社、2008)
・・永井荷風について触れている。留学経験がなく、西洋的個人主義者ではなかった折口信夫もまた、「世間の外」に居続けた個人主義者であった

書評 『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)
・・歴史学者・阿部謹也による「世間論」について

(2014年6月16日、9月11日、2023年9月4日 情報追加)


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