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2012年3月7日水曜日

Παθηματα, Μαθηματα (パテマータ・マテマータ)-人は手痛い失敗経験をつうじて初めて学ぶ


人間が人間であるということは、いったいどういうことなのだろうか?

といっても、べつに深い哲学的な話をしようというわけではない。

脳科学の研究が進み、iPS細胞の研究が進んでいる現在、科学技術という観点から、技術によって人間能力が強化されることになるというウェルカムという姿勢の議論がある一方、実質的な「人間改造」によって、人間から人間的な要素がどんどんなくなっていくのではないかという、不安感からくるネガティブな受け取り方もある。

わたしは、個人的には、すくなくとも今世紀中は、人間はあいかわらず人間のままでありつづけると考えている。人間とほぼ能力的にかわらないロボットや改造人間は、まだまだSFやアニメの世界だけの存在であろう。

というのは、脳科学については21世紀中にすべてが解明されるにはほど遠いと言われているし、iPS細胞についても悪用される事態が発生すれば、技術開発にストップがかけられて後退することもありえるからだ。

長いスパンをとって人類史を眺めてみると、技術史にかんしてもけっして右肩上がりの直線ではないのだ。

どうも、日本人をふくめて現代人は、歴史というものが直線的に進むという、いわゆる「進歩史観」から自由になっていないようだ。じっさいは、歴史というものは一進一退のジグザグコースを描きながら進むものである。科学史も、技術史もまた同じである。

むしろ、こういう時代だからこそ、生身の肉体をもった存在としての人間がクローズアップされてくるのではないかと思われる。五感をそなえた動物としての人間だ。しかもコトバをつかうことのできる動物としての人間。


「人は、手痛い失敗経験を通じて初めて学ぶ」

古代ギリシアのコトワザに、Παθηματα, Μαθηματα(パテマータ・マテマータ)というものがある。韻を踏んでいるので覚えやすい。

医療の世界では比較的よく知られている格言であるらしい。日本語訳に「受苦せし者は学びたり」とあるが、これはあまりいい訳とはいえない。

ギリシア語の辞書をみると、アリストテレスやヘロドトスにも用例があるようだが、英語では The suffered is the learned. あるいは Sufferings are lessons. という訳がつけられている。ひらたくいえば、「苦しんだ人は、(十分に)学んだ人」、「苦しみはレッスン」ということになるのだろうか。

「人は、手痛い失敗経験をつうじて初めて学ぶ」、ということを意味したものと考えればいい。

自分で腕をつねれば痛いし、足指を机の角にぶつけたりすると耐えがたい痛みを感じる。指を切ったりすると、痛みだけでなく、血が出るのでビジュアル的にも痛みが増幅される。

物理的に怪我をしたり、比喩的な意味でも怪我をすると、人間は同じ失敗をしないように学ぶものだ。ノラネコのしっぽを踏んだら膝をかまれて痛い思いをしたことがあるが、さすがにこういう体験をすると二度と虎の尾ならぬネコの尾を踏もうという気にはならないものだ。

痛みを知覚して、それをコトバとして認識するということこそ、じつは人間を人間たらしめているのではないかと思うのである。

ネコは痛くても声に出して泣かないが、痛みそのものは感じているようだ。しかし、いかんせんコトバをもたないので、痛みを知覚器官をつうじて感じるだけで、それを「痛い」とコトバをつうじて認識できないのである。


人間が人間であるとは?

人間は、生身の肉体をもった存在として、痛みをつうじてその感覚と痛みの原因となった行為をコトバを介して結びつけ、その行為をなるべく繰り返すべきではないという「学び」をコトバとして認識し、実行する。

痛みをつうじた学びそのものはネコにも存在するが、ネコなど人間以外の動物と人間を区別するのはコトバの有無である。

しかも、そのコトバじたい、コンピューターによる機械言語はさておき、人間があやつる自然言語については、まだまだ解明されていないのが実態である。

「生身の肉体+コトバ(=自然言語)」、この条件を満たすものは現在のところ人間しかない。

人工心臓など人工臓器を埋め込んでいる人は、すでに部分的な改造人間になっているというのも不可能ではないが、あくまでも人工心臓は従であり、それ以外の部分は人間のままだ。

肉体をもたないロボットが自然言語をあやつることは、初音ミクのような合成音声はすでに技術的に実現しているとはいえ、それは音声を再生するだけで、その音声言語でもって思考する道具とはほど遠い。

自然言語をあやつる脳内メカニズムも、いまだにたしかなことはわかっていないようだ。脳科学を過信するのはやめたほうがいい。科学的探求に対しては、もっと謙虚にならなくてはならない。自然科学で説明できることは、この世に存在することのまだごく一部に過ぎない。

脳科学という自然科学の研究においては、ある意味では唯物的なアプローチによるしかないのだが、ココロ、すなわち意識の問題がでてくると、とたんにわからなくなってしまうのである。意識については、むしろ哲学や宗教のアプローチのほうが進んでいる。

「人間が人間であるとは?」という問いは、結局のところ哲学にもどってしまう。

哲学の話をしていては切りがないので、この問いは問いとしてそのままにしておくしかない。

とりあえずは、生身の肉体をもちコトバ(=自然言語)をあやつることができることが、人間を人間たらしめていると考えておくにとどめておくしかない。

その際のキーワードは「痛み」である。そんな言い方も可能だろう、と考えている。





(2012年7月3日発売の拙著です)








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