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2014年9月1日月曜日

書評 『唯脳論』(養老孟司、青土社、1989)-「構造」と「機能」という対比関係にある二つの側面から脳と人間について考える「心身一元論」


『唯脳論』と書いて「ゆいのうろん」と読む。養老孟司氏の「脳化社会論」関連の各種エッセイ的な作品のエッセンスともいうべき原典である。まさに思想の根幹(・・いや脳幹というべきか)にあたるものだ。

この本は、すでに1990年代のはじめに購入して読んでいたのだが、いかんせん自分が読みたいところだけを拾い読みする「つまみ食い」にとどまっていた。

単行本出版から25年たったいま、あらためて最初のページから最後のページまで腰を据えてじっくりと通読してみると、きわめて刺激的な内容でありながら、細部まで読み込もうとすると、じつはなかなかの難物であることがわかる。著者自身が書いているが、雑誌連載後に一年間をかけて推敲に推敲を重ねた、文字通りのエッセンスだからである。

『唯脳論』(青土社、1989)は、養老孟司氏の思想の原点である 『形を読むー生物の形態をめぐって-』(培風館、1986)の続編に位置している。『形を読む』の末尾の文章はこうなっている。

生物の示す形は、一つのものである。それを見る味方は、最終的に統一されなくてはならない。そう考える人も、あるかもしれない。それなら、ぜひそうしてくださればいい。
ただ、私の答えもはっきりしている。そうした統一は、もっはや形の意味という場面には、見られはしないであろう。それは、すでに述べたように、もし統一されることがあるとすれば、おそらく脳の機能形式という観点から、やがて統一されるはずなのである。(P.225)(*太字ゴチックは引用者=さとう)

「脳の機能」から統一してものを見る見方なのである。だから『唯脳論』なのである。基礎医学としての解剖学の立場に身を置き、臓器としての脳の形、すなわち「形態」を考える形態学から出発した養老氏は、脳の形態である「構造」だけではなく、脳の「機能」に着目するのである。

あくまでも解剖学者による脳についての論考である。科学者の立場からのものであっても、脳神経学者や生理学者によるものではない。腸や肝臓などのその他の臓器と同様に、脳を、あくまでも身体の一部として見るのである。

だから、養老氏の「唯脳論」は、脳に発生する「意識」と「身体」を二分して考える「二元論」の立場はとらない。「身体」としての脳は形態としての「構造」をもち、「意識」は脳の「機能」である。「構造」と「機能」は、同じ脳についての二つの異なる側面である。

腸の「構造」と消化という「機能」、肝臓の「構造」とさまざまな「機能」が、臓器として不可分の一体となっているように、臓器としての脳の「構造」と意識という「機能」は不可分の一体と見るのである。

あるいは、「構造」と「機能」は「対応関係」にあるという言い方も可能だ。因果関係は前後関係という「時間」を含む概念だが、「対応関係」には時間は含まれない。形態としての「構造」は視覚で捉えることができる「見えるもの」だが、「機能」は「見えないもの」である。


「思う」イコール「あり(=存在する)」という脳の「心身一元論」

「心身二元論」を主張したとされるデカルトのとらえ方も、養老氏の理解が通俗的な理解とは大きく異なるのはそのためだ。デカルトもまた、解剖をみずからおこなって観察を行っていた人だ。

フランス語で je pense, donc je suis (=「われ思う、ゆえにわれあり」)という有名なフレーズも、ラテン語では cogito, ergo sum となる。後者では、je(=われ)という「主語」は消し去ることができる。「われ」は、ラテン語では ego というのだが、めったに使われることはない。動詞の語尾でわかるからだ(補注)。

「われ思う、ゆえにわれあり」から「われ」を取り去ってしまえば、「思う」と「あり」となる。「思う」とは脳の「機能」である「意識」のことであり、「あり」とは「存在」すなわち脳が臓器として形態をもって存在することを示している。脳を中心にすえると、脳の形態としての「構造」と、意識という脳の「機能」という二つの側面したものが、「思う」と「あり」なのである、と。

思考とは存在であり、存在は思考である。言い換えれば、意識という「機能」は脳という「存在」そのものであり、「われ思う、ゆえにわれあり」というフレーズは、ひっくり返しても同じことを意味しているのである。臓器としての脳が意識をもって考えるという、脳を中心に据えた思想なのである、と。

つまり「心身一元論」であり、心(=マインド)と身体(=ボディ)に区分したのは、「身体=形態=構造」、「心=意識=機能」と区分したことであって、二つがバラバラの存在と見ているのではない。同じものを別の切り口で見ているのである。

これは誰の脳であってもかまわない。脳を主体にして語ると、こうなるということだ。このように考えることができるのは、日本語が「主語」を必要としないからでもあろう。


人間の脳(=大脳新皮質)は視覚と聴覚から「言語」を作り出した

だが、脳自身が語るわけにはいかない。肝臓はしばしば「沈黙の臓器」といわれるが、程度の差はあれ、臓器じたいが語るわけではない。

だから、動物が高等化するにつれ、脳は「意識を」を発達させ、さらには人間に特有の脳、すなわち大脳新皮質は、「言語」を作り出し、言語によって表現することを可能にした。人間を人間たらしめているものは、まさに「言語」の存在なのである。言語によるシンボル操作である。

「構造」と「機能」という二つの側面によるとらえ方はについて、養老氏は、「構造では時間が量子化、機能では時間が流れる」と説明している。構造と機能の違いは、時間の有無として捉えることも可能である。構造は瞬間的な静止状態であり、機能は運動体のはたらきであるから動態である。したがって機能そののものに時間が含まれる

この対比は、知覚のなかでも人間にとってもっとも大きな意味をもつ視覚と聴覚の関係にもあてはまる。視覚は瞬間的には静止状態であり、聴覚は連続した状態であり時間を含む。

視覚と聴覚というまったく異なる知覚器官が統合されたところに「言語」が発生したのではないか、というのが養老氏の見立てである。養老氏は、「聴覚と視覚を「無理に」つなぐ」と書いているが、「無理に」という文言が重要だ。そもそも視覚と聴覚は、まったく別個に発達したものである。視覚と聴覚はまったく異なる知覚であり、脳においても処理する場所が異なるのである。

言語学では、一般的に聴覚言語のほうが根源的で、視覚言語である文字はあとから発達したとしている。だが、養老氏の「仮説」もなかなか説得力があり魅力的だ。なるほど、と思わされる。たしかに、オウムは聴覚で人間の音声を処理し、クチバシで人間の音声をそっくりそのまま再現することができる。だが、オウムのおしゃべりを言語とはいわないだろう。

視覚と聴覚からのインプット(=入力)情報を脳で処理し、目を動かし、クチを開き、手で書くという筋肉の運動を脳が指示することによってアウトプット(=出力)が行われる。これが言語である。

もちろん、もともと動物である人間にとって、より根源的なのは聴覚であるから、みずから発した音声をみずから聞き、それを繰り返すことで脳内に回路ができあがるわけだ。だから赤ちゃんは、なんども同じコトバを繰り返し、コトバを覚えていく。

そして言語を使用することによって、人間は感じるだけでなく、考えることができるようになる。ものを考え、自分の考えを表現できるようになっていく。文化や伝統、やさまざまな社会制度などをつくりあげてきたのである。

この認識にいたって、「脳化社会論」が生まれてくるのである。これは養老氏の脳内での構築である。かつてひじょうに流行した精神分析学者・岸田秀氏の『唯幻論』も、『唯脳論』のバリエーションだと養老氏はみなしている。幻想であろうがなかろうが、脳が考えたものであるから同じなのだ、と。


すべては「脳内」にある?

上座仏教(=テーラワーダ仏教)のスマナサーラ長老との初顔合わせの対談である『希望のしくみ』(2004年)の「はじめに」で養老氏はこう書いている。『唯脳論』出版から15年後にあたる。

私は近代科学を学んで、いまに至ります。
ですから、中村元(なかむら・はじめ)先生がお書きになった原始仏教経典の解説を読んだときには、びっくりしました。
「なんだ、俺の考えていたことは、お経じゃないか」
そう思ったのです。近代科学の方法を使って自分の頭で考えたら、2500年前にお釈迦さんが同じようなことを言っていた。私が驚くのも当然でしょう。
それは 『唯脳論』 を書き終えてしばらくしてからのことだったのですが、書名を付けてくれた担当氏は、私の言っていることが仏教思想に近いと、わかっていたに違いありません。「唯脳」という造語は、仏教用語の「唯識」が背景にあってのことですからね。

唯(た)だ「脳」だけが存在するという「唯脳論」は、唯(た)だ「意識」だけが存在する「唯識論」と、似通った思想である。出発点とアプローチはまったく違うものの、きわめてよく似た認識に到達していたというのが面白い。

もちろん、大乗仏教の「唯識論」においては、脳を臓器として解剖したのではなく、あくまでも観察と思弁から理論を構築したのであろう。脳の「構造」に着目したのではなく、あくまでも脳の「機能」である「意識」に着目したものだ。その意味では両者は似ているが同じではない。

養老氏の基本的立場は、すべては脳で考えられたものだ、というものである。

科学的発見に限らずあらたな考えは、もともとそう考える当の本人の脳内にあったものであり、それを「見えるもの」として表出したものである、ということだ。その考えを当人以外も理解できるのは、理解する側の脳内に、もともとそれに対応するものがあるからだという説である。だから、われわれ一般読者も、養老氏が提示した「唯脳論」という考えも、ある程度までは理解することができるのである。

これは「発見」のメカニズムそのものではないが、「発見」後の思考の展開について語ったものと捉えていいいだろう。「発見」は「直観」として突然やってくるのだが、それは外部から降ってくるように思えることもあるし、内部からわき上がってくるように思えることもある。すべてが脳内にもともとあったとはさすがに思わないが、いずれにせよ、発見そのものは、ほかのどこでもない脳内の出来事である。そして、それを言語その他をつうじて外部に表現するのである。


徹底的に身体としての脳にこだわる形態学者としての「ものの見方」である。基礎医学の一分野である形態学の立場から自分のアタマ(=脳)で思考した「唯脳論」は、その後さまざまなエッセイとして展開されているが、原典となる本書を読むと、より理解が深まるはずだ。

実用目的が全面に出すぎている脳科学関連の本に飽き足りない人にとって、この『唯脳論』は、「メタ脳科学」の本として読むことができるのではないだろうか。

通俗的な体裁だがきわめて過激な主張を行っている『バカの壁』で養老氏の本に触れた人は、ぜひ『唯脳論』にもチャレンジしてほしいと思う。



(補注) ラテン語で一人称単数現在の場合 cogito, (ergo) sum となる。語尾変化のきわめて複雑なラテン語は、主語を明示しないのがふつうだが(・・ロシア語も同様である)、いずれも一人称単数形現在の変化形の「考える」(cogito < 不定形 cogitare)「存在する」(sum < 不定形 esse)である。一人称単数の主語 ego は強調する場合を除いて使用されない。この点は日本語と似ている。







目 次

 はじめに
 唯脳論とはなにか
 心身論と唯脳論
 「もの」としての脳
 計算機という脳の進化
 位置を知る
 脳は脳のことしか知らない
 デカルト・意識・睡眠
 意識の役割
 言語の発生
 言語の周辺
 時間
 運動と目的論
 脳と身体
 引用文献
 おわりに


著者プロフィール
養老孟司(ようろう・たけし)
1937(昭和12)年、鎌倉生れ。解剖学者。東京大学医学部卒。東京大学名誉教授。心の問題や社会現象を、脳科学や解剖学などの知識を交えながら解説し、多くの読者を得た。1989(平成元)年『からだの見方』でサントリー学芸賞受賞。新潮新書『バカの壁』は大ヒットし2003年のベストセラー第1位、また新語・流行語大賞、毎日出版文化賞特別賞を受賞した。大の虫好きとして知られ、現在も昆虫採集・標本作成を続けている。『唯脳論』『かけがえのないもの』『身体の文学史』『手入れという思想』『バカの壁のそのまた向こう』など著書多数。(最新著書の書籍案内より)。

<ブログ内関連記事>

養老孟司氏関連

『形を読む-生物の形態をめぐって-』(養老孟司、培風館、1986)は、「見える形」から「見えないもの」をあぶり出す解剖学者・養老孟司の思想の原点 ・・あわせて読んでいただきたい原点

書評 『身体巡礼-[ドイツ・オーストリア・チェコ編]-』(養老孟司、新潮社、2014)-西欧人の無意識が反映した「文化」をさぐる解剖学者の知的な旅の記録

書評 『見える日本 見えない日本-養老孟司対談集-』(養老孟司、清流出版、2003)- 「世間」 という日本人を縛っている人間関係もまた「見えない日本」の一つである

書評 『希望のしくみ』(アルボムッレ・スマナサーラ/養老孟司、宝島社新書、2006)-近代科学のアプローチで考えた内容が、ブッダが2500年前に説いていた「真理」とほぼ同じ地点に到達

「釈尊成道2600年記念 ウェーサーカ法要 仏陀の徳を遍く」 に参加してきた(2011年5月14日)
・・養老孟司氏とスマナサーラ長老という、ビッグな対談者の存在と発言。 「養老孟司氏の深くて低いトーンの語り口を心地よく聞いていた。脳死問題にかんして、日本で脳死議論が諸外国に比べて10年以上も遅れた理由を「世間」から解き明かしたのは実に明快であった。日本では死ねば「世間」から外に出される。一方、妊娠中絶がまったくといっていいほど問題にならないのは、「世間」に入っていない状態だから」


脳科学関連

ここに列挙した脳科学関連の著作をみると、養老氏の『唯脳論』がいかに異質のバックグラウンドと思想の広がりをもっているかが一目瞭然だ。ある意味では養老孟司氏の「唯脳論」は、「メタ脳科学」的な思考であることがわかる。

書評 『脳を知りたい!』(野村 進、講談社文庫、2010 単行本初版 2000)-この本を越える水準の一般書がなぜ現れないのか?
・・脳科学の専門家ではないジャーナリストが脳科学者たちに徹底的にインタニューシテまとめた脳科学の入門。トピックで語る脳科学

書評 『脳の可塑性と記憶』(塚原仲晃、岩波現代文庫、2010 単行本初版 1985)-短いが簡潔にまとめられた「記憶と学習」にかんする平易な解説
・・記憶研究を学問的水準を落とすことなく一般人向けに解説

脳科学を応用した健康維持法、とは

書評 『受験脳の作り方-脳科学で考える効率的学習法-』(池谷裕二、新潮文庫、2011)記憶のメカニズムを知れば社会人にも十分に応用可能だ!

書評 『ネット・バカ-インターネットがわたしたちの脳にしていること-』(ニコラス・カー、篠儀直子訳、青土社、2010)
・・コンピュータの記憶(メモリー)と人間の記憶(メモリー)は似て非なるものだ。何がどう違うのか西洋文明史の枠組みのなかで考える

書評 『脳を創る読書-なぜ「紙の本」が人にとって必要なのか-』(酒井邦嘉、実業之日本社、2011)-「紙の本」と「電子書籍」については、うまい使い分けを考えたい

書評 『脳と日本人』(茂木健一郎/ 松岡正剛、文春文庫、2010 単行本初版 2007)



書評 『「大発見」の思考法-iPS細胞 vs. 素粒子-』(山中伸弥 / 益川敏英、文春新書、2011)-人生には何一つムダなことなどない!

企画展「ウメサオタダオ展-未来を探検する知の道具-」(東京会場)にいってきた-日本科学未来館で 「地球時代の知の巨人」を身近に感じてみよう!
・・「「発見」というものは、たいていまったく突然にやってくるのである」(梅棹忠夫)


人間と動物とロボット

書評 『ロボットとは何か-人の心を写す鏡-』(石黒浩、講談社現代新書、2009)-「人間とは何か」、「自分とは何か」という哲学的な問いを考える手引き ・・ロボットに魂をもちうるのか? ロボットもその一つであるコンピュータという機械(=計算機)は、脳の一部の機能を取り出して強化したものである

書評 『動物に魂はあるのか-生命を見つめる哲学-』(金森修、中公新書、2012)-日本人にとっては自明なこの命題は、西欧人にとってはかならずしもそうではない
・・デカルトの「動物機械論」の波紋とその攻防の西欧近代思想史





(2012年7月3日発売の拙著です)










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