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2021年5月16日日曜日

書評『土偶を読む ― 130年間解かれなかった縄文神話の謎』(竹倉史人、晶文社、2021)― ついに謎が解けた土偶の秘密。その解明プロセスが面白い!


 

言われてみれば当然だなと思うが、はじめてそれを言い出すのは勇気がいることだ。 

そして、それをそうだと納得がいくように立証するのは、さらに大きな困難が待ち構えている。 

「常識」をくつがえす研究というものは、自然科学に限らずみなそんなものだ。

 『土偶を読む-130年間解かれなかった縄文神話の謎』(竹倉史人、晶文社、2021)「独立研究者」の竹倉史人氏がなしとげたのも、その1つであるといっていい。 

縄文時代の土偶(どぐう)は、いったいなにを意味しているのか? 

神話研究を行う人類学者の著者は、文字化された記紀神話以前の、無文字社会であった縄文時代の神話を解明するために、まずは土偶を読む必要を感じたのである。そこからすべてが始まった。 

いままで130年にもわたって「常識」とされてきた「妊娠女性説」や「地母神」とは違うのではないか? 

考古学を専門としない著者の違和感は、ただしかったのである。シトウトゆえの強みが発揮されたわけである。

結論から先に言ってしまおう。帯にも書いてあるように、「土偶とは、日本最古の神話を刻み込んだ<植物像>だった!」のである。土偶は、大地からのいただきものに感謝するための呪術として使用されていたのである。 

表紙カバーにあるように、土偶の頭部とクリの実の形がきわめて酷似している。先端のトンガリ部分も含めてだ。日本に自生しているシバグリの実なのである。 


(カバー表紙の裏)


帯の裏には、ハート型の土偶の顔とオニグルミを割った形、そして宇宙人のような土偶の頭部とハマグリ

ハマグリは貝類だが、クリと同様に落下している実を拾って、殻を割って食用とすることはおなじである。しかも、海浜で採取するハマグリとは「浜」の「栗」、すなわち「浜栗」ではないか!

縄文人は、現代人と違って、植物と動物の区別はしていなかったのであろう。現代人の「常識」をそっくりそのままあてはめても、縄文人の精神世界はわかるはずがないのである。 

土偶は、海のものとも山のものともつかぬではない。土偶は、海のものであり、山のものであったのだ。




こんな結論だけ書き出せば、「たしかにそう言われてみれば、そうとしか言いようがないよなあ。ほかにどう見ろというのだろう」と思うことだろう。

ここまでは、形の類似性に着目したイコノロジー(図像解釈学)によるものだ。

だが、ひらめきで思いつくだけでもたいしたものだが、そこで終わりにはならないのは、考古学の専門外であるとはいえ、著者が「研究者」であるからだ。形が似ているのは偶然ではない(!)ことの立証責任を果たさなくてはならないのだ。 

研究者としての著者は、「縄文脳インストール」と称して五感をフルに活用したフィールドワークを山で海で行い、さらに考古学の研究蓄積を中心に、環境文化史や民族植物学など、関連するあらゆる学問で得られた実証データをフルに活用する。 

それが、本書で述べられている研究を貫くイコノロジー × 考古学」という方法論である。直観と推論。感性と論理。その相反する知性の組み合わせだ。この方法論は、土偶研究だけでなく、幅広く汎用性のあるものだといえよう。いくらでも応用可能だ。 

この本の存在は、じつはネット上のコラム記事で知った。その記事にも結論は書かれているが、結論そのものもさることながら、結論にいたるプロセスが、またさらに面白いのだ。130年間におよぶ「常識」をくつがえす研究など、めったにないことだからだ。 

しかも、竹倉史人氏の前著が『輪廻転生-<私>をつなぐ生まれ変わりの物語-』(講談社現代新書、2015)であることを途中で知った。なんだ、そうだったのか、と。土偶研究と輪廻転生の研究は、じつはおなじ著者によるものなのだ。『輪廻転生』もすばらしい内容の本だ。 

「脱魔術化」をはかった「近代主義」がすでに破綻しているのにもかかわらず、いまだに狭い実証主義に凝り固まったアカデミズムの世界

推論と論理だけではダメなのだ。五感をフルに解放して、直観と感性を活かすことが大事なのだ。 

著者は、すでに縄文人の精神世界の研究に着手しているという。今後の展開が大いに楽しみだ。 


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<関連サイト>

竹倉土偶研究所(著者のウェブサイト)





トチノミ(google検索による画像集)

(2021年7月9日 情報追加)


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・・著者の前著




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2014年9月1日月曜日

書評『唯脳論』(養老孟司、青土社、1989)―「構造」と「機能」という対比関係にある二つの側面から脳と人間について考える「心身一元論」



『唯脳論』と書いて「ゆいのうろん」
と読む。養老孟司氏の「脳化社会論」関連の各種エッセイ的な作品のエッセンスともいうべき原典である。まさに思想の根幹(・・いや脳幹というべきか)にあたるものだ。

この本は、すでに1990年代のはじめに購入して読んでいたのだが、いかんせん自分が読みたいところだけを拾い読みする「つまみ食い」にとどまっていた。

単行本出版から25年たったいま、あらためて最初のページから最後のページまで腰を据えてじっくりと通読してみると、きわめて刺激的な内容でありながら、細部まで読み込もうとすると、じつはなかなかの難物であることがわかる。著者自身が書いているが、雑誌連載後に一年間をかけて推敲に推敲を重ねた、文字通りのエッセンスだからである。

『唯脳論』(青土社、1989)は、養老孟司氏の思想の原点である 『形を読む  ―  生物の形態をめぐって』(培風館、1986)の続編に位置している。『形を読む』の末尾の文章はこうなっている。


生物の示す形は、一つのものである。それを見る味方は、最終的に統一されなくてはならない。そう考える人も、あるかもしれない。それなら、ぜひそうしてくださればいい。
ただ、私の答えもはっきりしている。そうした統一は、もっはや形の意味という場面には、見られはしないであろう。それは、すでに述べたように、もし統一されることがあるとすれば、おそらく脳の機能形式という観点から、やがて統一されるはずなのである。(P.225)(*太字ゴチックは引用者=さとう)


「脳の機能」から統一してものを見る見方なのである。だから『唯脳論』なのである。基礎医学としての解剖学の立場に身を置き、臓器としての脳の形、すなわち「形態」を考える形態学から出発した養老氏は、脳の形態である「構造」だけではなく、脳の「機能」に着目するのである。

あくまでも解剖学者による脳についての論考である。科学者の立場からのものであっても、脳神経学者や生理学者によるものではない。腸や肝臓などのその他の臓器と同様に、脳を、あくまでも身体の一部として見るのである。

だから、養老氏の「唯脳論」は、脳に発生する「意識」と「身体」を二分して考える「二元論」の立場はとらない。「身体」としての脳は形態としての「構造」をもち、「意識」は脳の「機能」である。「構造」と「機能」は、同じ脳についての二つの異なる側面である。

腸の「構造」と消化という「機能」、肝臓の「構造」とさまざまな「機能」が、臓器として不可分の一体となっているように、臓器としての脳の「構造」と意識という「機能」は不可分の一体と見るのである。

あるいは、「構造」と「機能」は「対応関係」にあるという言い方も可能だ。因果関係は前後関係という「時間」を含む概念だが、「対応関係」には時間は含まれない。形態としての「構造」は視覚で捉えることができる「見えるもの」だが、「機能」は「見えないもの」である。



「思う」イコール「あり(=存在する)」という脳の「心身一元論」

「心身二元論」を主張したとされるデカルトのとらえ方も、養老氏の理解が通俗的な理解とは大きく異なるのはそのためだ。デカルトもまた、解剖をみずからおこなって観察を行っていた人だ。

フランス語で je pense, donc je suis (=「われ思う、ゆえにわれあり」)という有名なフレーズも、ラテン語では cogito, ergo sum となる。後者では、je(=われ)という「主語」は消し去ることができる。「われ」は、ラテン語では ego というのだが、めったに使われることはない。動詞の語尾でわかるからだ(補注)。

「われ思う、ゆえにわれあり」から「われ」を取り去ってしまえば、「思う」と「あり」となる。「思う」とは脳の「機能」である「意識」のことであり、「あり」とは「存在」すなわち脳が臓器として形態をもって存在することを示している。脳を中心にすえると、脳の形態としての「構造」と、意識という脳の「機能」という二つの側面したものが、「思う」と「あり」なのである、と。

思考とは存在であり、存在は思考である。言い換えれば、意識という「機能」は脳という「存在」そのものであり、「われ思う、ゆえにわれあり」というフレーズは、ひっくり返しても同じことを意味しているのである。臓器としての脳が意識をもって考えるという、脳を中心に据えた思想なのである、と。

つまり「心身一元論」であり、心(=マインド)と身体(=ボディ)に区分したのは、「身体=形態=構造」、「心=意識=機能」と区分したことであって、二つがバラバラの存在と見ているのではない。同じものを別の切り口で見ているのである。

これは誰の脳であってもかまわない。脳を主体にして語ると、こうなるということだ。このように考えることができるのは、日本語が「主語」を必要としないからでもあろう。



人間の脳(=大脳新皮質)は視覚と聴覚から「言語」を作り出した

だが、脳自身が語るわけにはいかない。肝臓はしばしば「沈黙の臓器」といわれるが、程度の差はあれ、臓器じたいが語るわけではない。

だから、動物が高等化するにつれ、脳は「意識を」を発達させ、さらには人間に特有の脳、すなわち大脳新皮質は、「言語」を作り出し、言語によって表現することを可能にした。人間を人間たらしめているものは、まさに「言語」の存在なのである。言語によるシンボル操作である。

「構造」と「機能」という二つの側面によるとらえ方はについて、養老氏は、「構造では時間が量子化、機能では時間が流れる」と説明している。構造と機能の違いは、時間の有無として捉えることも可能である。構造は瞬間的な静止状態であり、機能は運動体のはたらきであるから動態である。したがって機能そののものに時間が含まれる

この対比は、知覚のなかでも人間にとってもっとも大きな意味をもつ視覚と聴覚の関係にもあてはまる。視覚は瞬間的には静止状態であり、聴覚は連続した状態であり時間を含む。

視覚と聴覚というまったく異なる知覚器官が統合されたところに「言語」が発生したのではないか、というのが養老氏の見立てである。養老氏は、「聴覚と視覚を「無理に」つなぐ」と書いているが、「無理に」という文言が重要だ。そもそも視覚と聴覚は、まったく別個に発達したものである。視覚と聴覚はまったく異なる知覚であり、脳においても処理する場所が異なるのである。

言語学では、一般的に聴覚言語のほうが根源的で、視覚言語である文字はあとから発達したとしている。だが、養老氏の「仮説」もなかなか説得力があり魅力的だ。なるほど、と思わされる。たしかに、オウムは聴覚で人間の音声を処理し、クチバシで人間の音声をそっくりそのまま再現することができる。だが、オウムのおしゃべりを言語とはいわないだろう。

視覚と聴覚からのインプット(=入力)情報を脳で処理し、目を動かし、クチを開き、手で書くという筋肉の運動を脳が指示することによってアウトプット(=出力)が行われる。これが言語である。

もちろん、もともと動物である人間にとって、より根源的なのは聴覚であるから、みずから発した音声をみずから聞き、それを繰り返すことで脳内に回路ができあがるわけだ。だから赤ちゃんは、なんども同じコトバを繰り返し、コトバを覚えていく。

そして言語を使用することによって、人間は感じるだけでなく、考えることができるようになる。ものを考え、自分の考えを表現できるようになっていく。文化や伝統、やさまざまな社会制度などをつくりあげてきたのである。

この認識にいたって、「脳化社会論」が生まれてくるのである。これは養老氏の脳内での構築である。かつてひじょうに流行した精神分析学者・岸田秀氏の『唯幻論』も、『唯脳論』のバリエーションだと養老氏はみなしている。幻想であろうがなかろうが、脳が考えたものであるから同じなのだ、と。



すべては「脳内」にある?

上座仏教(=テーラワーダ仏教)のスマナサーラ長老との初顔合わせの対談である『希望のしくみ』(2004年)の「はじめに」で養老氏はこう書いている。『唯脳論』出版から15年後にあたる。

私は近代科学を学んで、いまに至ります。
ですから、中村元(なかむら・はじめ)先生がお書きになった原始仏教経典の解説を読んだときには、びっくりしました。
「なんだ、俺の考えていたことは、お経じゃないか」
そう思ったのです。近代科学の方法を使って自分の頭で考えたら、2500年前にお釈迦さんが同じようなことを言っていた。私が驚くのも当然でしょう。
それは 『唯脳論』 を書き終えてしばらくしてからのことだったのですが、書名を付けてくれた担当氏は、私の言っていることが仏教思想に近いと、わかっていたに違いありません。「唯脳」という造語は、仏教用語の「唯識」が背景にあってのことですからね。


唯(た)だ「脳」だけが存在するという「唯脳論」は、唯(た)だ「意識」だけが存在する「唯識論」と、似通った思想である。出発点とアプローチはまったく違うものの、きわめてよく似た認識に到達していたというのが面白い。

もちろん、大乗仏教の「唯識論」においては、脳を臓器として解剖したのではなく、あくまでも観察と思弁から理論を構築したのであろう。脳の「構造」に着目したのではなく、あくまでも脳の「機能」である「意識」に着目したものだ。その意味では両者は似ているが同じではない。

養老氏の基本的立場は、すべては脳で考えられたものだ、というものである。

科学的発見に限らずあらたな考えは、もともとそう考える当の本人の脳内にあったものであり、それを「見えるもの」として表出したものである、ということだ。その考えを当人以外も理解できるのは、理解する側の脳内に、もともとそれに対応するものがあるからだという説である。だから、われわれ一般読者も、養老氏が提示した「唯脳論」という考えも、ある程度までは理解することができるのである。

これは「発見」のメカニズムそのものではないが、「発見」後の思考の展開について語ったものと捉えていいいだろう。「発見」は「直観」として突然やってくるのだが、それは外部から降ってくるように思えることもあるし、内部からわき上がってくるように思えることもある。すべてが脳内にもともとあったとはさすがに思わないが、いずれにせよ、発見そのものは、ほかのどこでもない脳内の出来事である。そして、それを言語その他をつうじて外部に表現するのである。


徹底的に身体としての脳にこだわる形態学者としての「ものの見方」である。基礎医学の一分野である形態学の立場から自分のアタマ(=脳)で思考した「唯脳論」は、その後さまざまなエッセイとして展開されているが、原典となる本書を読むと、より理解が深まるはずだ。

実用目的が全面に出すぎている脳科学関連の本に飽き足りない人にとって、この『唯脳論』は、「メタ脳科学」の本として読むことができるのではないだろうか。

通俗的な体裁だがきわめて過激な主張を行っている『バカの壁』で養老氏の本に触れた人は、ぜひ『唯脳論』にもチャレンジしてほしいと思う。



(補注) ラテン語で一人称単数現在の場合 cogito, (ergo) sum となる。語尾変化のきわめて複雑なラテン語は、主語を明示しないのがふつうだが(・・ロシア語も同様である)、いずれも一人称単数形現在の変化形の「考える」(cogito < 不定形 cogitare)「存在する」(sum < 不定形 esse)である。一人称単数の主語 ego は強調する場合を除いて使用されない。この点は日本語と似ている。


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目 次

 はじめに
 唯脳論とはなにか
 心身論と唯脳論
 「もの」としての脳
 計算機という脳の進化
 位置を知る
 脳は脳のことしか知らない
 デカルト・意識・睡眠
 意識の役割
 言語の発生
 言語の周辺
 時間
 運動と目的論
 脳と身体
 引用文献
 おわりに


著者プロフィール
養老孟司(ようろう・たけし)
1937(昭和12)年、鎌倉生れ。解剖学者。東京大学医学部卒。東京大学名誉教授。心の問題や社会現象を、脳科学や解剖学などの知識を交えながら解説し、多くの読者を得た。1989(平成元)年『からだの見方』でサントリー学芸賞受賞。新潮新書『バカの壁』は大ヒットし2003年のベストセラー第1位、また新語・流行語大賞、毎日出版文化賞特別賞を受賞した。大の虫好きとして知られ、現在も昆虫採集・標本作成を続けている。『唯脳論』『かけがえのないもの』『身体の文学史』『手入れという思想』『バカの壁のそのまた向こう』など著書多数。(最新著書の書籍案内より)。

<ブログ内関連記事>

養老孟司氏関連

『形を読む-生物の形態をめぐって-』(養老孟司、培風館、1986)は、「見える形」から「見えないもの」をあぶり出す解剖学者・養老孟司の思想の原点 ・・あわせて読んでいただきたい原点

書評 『身体巡礼-[ドイツ・オーストリア・チェコ編]-』(養老孟司、新潮社、2014)-西欧人の無意識が反映した「文化」をさぐる解剖学者の知的な旅の記録

書評 『見える日本 見えない日本-養老孟司対談集-』(養老孟司、清流出版、2003)- 「世間」 という日本人を縛っている人間関係もまた「見えない日本」の一つである

書評 『希望のしくみ』(アルボムッレ・スマナサーラ/養老孟司、宝島社新書、2006)-近代科学のアプローチで考えた内容が、ブッダが2500年前に説いていた「真理」とほぼ同じ地点に到達

「釈尊成道2600年記念 ウェーサーカ法要 仏陀の徳を遍く」 に参加してきた(2011年5月14日)
・・養老孟司氏とスマナサーラ長老という、ビッグな対談者の存在と発言。 「養老孟司氏の深くて低いトーンの語り口を心地よく聞いていた。脳死問題にかんして、日本で脳死議論が諸外国に比べて10年以上も遅れた理由を「世間」から解き明かしたのは実に明快であった。日本では死ねば「世間」から外に出される。一方、妊娠中絶がまったくといっていいほど問題にならないのは、「世間」に入っていない状態だから」


脳科学関連

ここに列挙した脳科学関連の著作をみると、養老氏の『唯脳論』がいかに異質のバックグラウンドと思想の広がりをもっているかが一目瞭然だ。ある意味では養老孟司氏の「唯脳論」は、「メタ脳科学」的な思考であることがわかる。

書評 『脳を知りたい!』(野村 進、講談社文庫、2010 単行本初版 2000)-この本を越える水準の一般書がなぜ現れないのか?
・・脳科学の専門家ではないジャーナリストが脳科学者たちに徹底的にインタニューシテまとめた脳科学の入門。トピックで語る脳科学

書評 『脳の可塑性と記憶』(塚原仲晃、岩波現代文庫、2010 単行本初版 1985)-短いが簡潔にまとめられた「記憶と学習」にかんする平易な解説
・・記憶研究を学問的水準を落とすことなく一般人向けに解説

脳科学を応用した健康維持法、とは

書評 『受験脳の作り方-脳科学で考える効率的学習法-』(池谷裕二、新潮文庫、2011)記憶のメカニズムを知れば社会人にも十分に応用可能だ!

書評 『ネット・バカ-インターネットがわたしたちの脳にしていること-』(ニコラス・カー、篠儀直子訳、青土社、2010)
・・コンピュータの記憶(メモリー)と人間の記憶(メモリー)は似て非なるものだ。何がどう違うのか西洋文明史の枠組みのなかで考える

書評 『脳を創る読書-なぜ「紙の本」が人にとって必要なのか-』(酒井邦嘉、実業之日本社、2011)-「紙の本」と「電子書籍」については、うまい使い分けを考えたい

書評 『脳と日本人』(茂木健一郎/ 松岡正剛、文春文庫、2010 単行本初版 2007)



書評 『「大発見」の思考法-iPS細胞 vs. 素粒子-』(山中伸弥 / 益川敏英、文春新書、2011)-人生には何一つムダなことなどない!

企画展「ウメサオタダオ展-未来を探検する知の道具-」(東京会場)にいってきた-日本科学未来館で 「地球時代の知の巨人」を身近に感じてみよう!
・・「「発見」というものは、たいていまったく突然にやってくるのである」(梅棹忠夫)


人間と動物とロボット

書評 『ロボットとは何か-人の心を写す鏡-』(石黒浩、講談社現代新書、2009)-「人間とは何か」、「自分とは何か」という哲学的な問いを考える手引き ・・ロボットに魂をもちうるのか? ロボットもその一つであるコンピュータという機械(=計算機)は、脳の一部の機能を取り出して強化したものである

書評 『動物に魂はあるのか-生命を見つめる哲学-』(金森修、中公新書、2012)-日本人にとっては自明なこの命題は、西欧人にとってはかならずしもそうではない
・・デカルトの「動物機械論」の波紋とその攻防の西欧近代思想史


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2014年8月13日水曜日

『形を読む ― 生物の形態をめぐって』(養老孟司、培風館、1986)は、「見える形」から「見えないもの」をあぶり出す解剖学者・養老孟司の思想の原点



養老孟司氏といえば、口述筆記を活字化した新書本 『バカの壁』(2003年)ですっかり国民的有名人になってしまったが、そのはるか以前の1986年に、一般書ではないが洞察にとんだ本書のような著作を出していることをご存じだろうか。

『形を読む ー 生物の形態をめぐって』(養老孟司、培風館、1986)は、著者みずからが「原点」だとしている本である。いまから28年前のものであるが、幸いなことに現在でも入手可能である。

わたしがこの本と出会ったのは、当時住んでいた場所に近かった書原・杉並本店(南阿佐ヶ谷駅前)である。いまから十数年前のことだ。

書原は、じつに不思議な本屋で、専門書から実用書やマンガまで、じつにさまざまなジャンルの本をジャンル横断型で並べている。かつて丸善本店の一角に実験的店舗として存在した松丸本舗のようなものであった。

当時すでに解剖学の知見をベースにした数々の著書がちくま文庫を中心に文庫化されており、わたしも愛読して大いに影響を受けていたが、本来は専門書の棚にあってしかるべき 『形を読む ー 生物の形態をめぐって』を知ったのも、解剖学では養老氏の先行者にあたる、『胎児の世界』の著者で解剖学者・三木成夫氏の一連の著作と出会ったのも、みなこの書店であった。

たしか平積みになっていたのではないかと記憶している。わたしにとって書原は、ある意味では、図書館以上に「知の発信地」的な存在であった。

この本は、かなりクセのある個性的な内容の本である。「生物の形」の意味について、「形態学という学問」について、「自然科学というもの」について、著者がつねづね疑問に思っていたことを、自分のアタマで考えた内容を独特の文体つづったものだ。

だから、もちろん教科書的な記述ではない。したがって、無味乾燥な内容ではない。哲学や思想までカバーした膨大な読書をもとにした引用も多い。自分の専門に即して、そもそも論を考え抜いた思索の跡を言語化したものだから、いわゆる哲学的な考察にもなっているのだろう。

解剖学も形態学もわたしの専門ではないので、正直いって全部を理解したとは言い難い。だが、ひじょうに刺激的な内容である。通説に反した見解もあえて提示しているからだ。

購入してから部分的につまみ食いしただけだったが、今回あらためて最初から最後までとおして読んでみて、いろいろ思うことがあった。その一端をここに記しておきたいと思う。


人間は視覚をつうじて形(かたち)を認識する

人間はいわゆる五感をつうじて知覚しているわけだが、とりわけ視覚とつうじて「ものの形」を認識している。人間の知覚における視覚のウェイトは、その他の動物と比較して突出して高いこともその理由の一つであろう。

著者は「はじめに」でこう書いている。

「ヒトが見る」世界には、視覚の特質が、強く反映するにちがいない。そこから、形態学の、認識論的性質が生まれる。・・(中略)・・私が形態の意味や解釈をあつかう理由は一つである。それは、そうしたものが、けっきょく、自分の頭の中の現象だと考えるからである。自然科学の各分野は、しばしば対象のみを純粋に取り扱うという「ふり」をしてきた。そうすれば、自分の頭の方は、無視できるからである。形態学も、その典型であろう。((P.iii~P.iv *太字ゴチックは引用者=さとう)

自然科学に限らず、学問研究というものは「自分と対象との関係」がつねに存在するにもかかわらず、「自分」という存在をカッコのなかに入れて、客観的に対象を扱っているという「ふり」をしてきたことに対する痛烈な批判である。

実験し観察する主体である「自分」。この存在を抜きに考えることができないだけでなく、観察対象である事物や現象そのものが、「自分」というフィルターがそれを選択し、自分の脳内で解釈しているという事実。解剖学者がなぜ「唯脳論」などというタイトルの本を出すことになるのか、ここに言い表されている。

かの有名な「バカの壁」というフレーズが、すでに「馬鹿の壁」という表記で、1986年時点で本人が使用していたこともわかる。

自然科学のいわゆる客観性、つまり、いつどこでも同じ結論に達する、という性質は、一種の「強制伝達可能性」である。あるいは、自然科学とは、無限に多用な現実から、そうした部分のみを、情報として切り出してくる作業である。
情報の伝達という面から、自然科学で起こる最大の問題は、じつは情報の受け手が、馬鹿だったらどうするか、というものである。相手が馬鹿だと、本来伝達可能であるはずの情報が、伝達不能になる。これを、とりあえず「馬鹿の壁」と表現しよう
たとえば、そうした相手が、科学の結論を信じこんだとき、科学が宗教と同じ機能をはたす、という現象を生じるだから、科学と宗教は、ときどき仲が悪い。
結論が導かれる過程を重視せず、一方その結論のみを信じるという意味で、宗教の結論も、科学の結論も、御託宣にほかならない。・・(中略)・・ 相手がほんとうに馬鹿なら、科学の結論をみちびく過程、およびその結論が伝達不能だということは、歴然としている。
・・(中略)・・
「文学がわからない」という台辞は、伝達可能性における受け手の問題、つまり自然科学ではふつう隠されている「馬鹿の壁」が、文学ではタブーではなく、前提としてはじめから許されていることを示す。(P.50~53 太字ゴチックは引用者=さとう)


専門分化がさらに進行する現在、専門が狭くなればなるほど「バカの壁」が高くなることがわかる。「バカの壁」とは「専門」と言い換えていい。細分化された、その狭い専門の範囲内では、その分野の特殊な専門用語でコミュニケーションを行うので、きわめて「強制伝達可能性」が高いのであり、つまりポジティブな側面だけを見れば、効率がきわめて良いということを意味している。

いわば青果市場のセリの符丁のようなものだが、魚市場とは符丁が異なるので、当然のことながら同じ日本人であっても、青果市場と魚市場とでは符丁によるコミュニケーションは不可能である。これとおなじことが、細分化された「学会」どうしでは発生するわけだ。

なるほど、こういうことをつねづね考えていた人だからこそ、歴史学者・阿部謹也の「世間論」(1995年)にいちはやく反応し、現在でも「世間」をキータームで社会の諸現象に評論を行っているのだと理解できる。「世間」の内部ではツーカーで話が通じるが、「世間」の外とは前提条件を共有しないので話が通じないことが多い。「バカの壁」とは「専門用語の壁」である。

「学会は世間だ」というフレーズにつよく反応したことは、養老氏は別の著書のなかで語っている。養老氏の阿部謹也部謹也先生との対談もぜひ目を通していただきたいと思う。学会とは細分化された専門を守る外壁であり、その本質が 「専門=学会=世間」 であることがわかるのである。

その意味では、「会社もまた世間」である。ある種の共同体(コミュニティ)なのである。コミュニティと考えれば、「世間」が日本特有の現象ではなく、程度の違いはあれ普遍的な現象であるといっていいかもしれない。



日本語で科学を記述できるか、という問い

日本語は論理的ではあるのだが、どうも情緒的な側面がつよく、事実関係をそのまま記述すると、どうしても無味乾燥なものになってしまいがちだ。

日本人が一般的に、事実と感想を区別しないで語る傾向があるのは日本語にその原因があるのではないか、もしかしたら同じ言語とはいっても、英語と日本語の違いは想像以上に大きいのではないか。

言語学の専門家はけっして語らない、このような疑問に対する考察も、解剖学者ならではのものであるといっていい。

日本語でいちばん忘れられているのは、伝達のみでなく、現実を表象し、その代替物として利用できる、そういう言語の機能であろう。西欧語には、解剖学用語のように、言語と現実のあいだに、抜き差しならぬ関係がある。それでは言い過ぎだというなら、ことばと現実のあいだの関節が固い。そんな気がする。
言語と現実のあいだに堅い紐帯があれば、証言は重要である。証言の立証、反証が可能だからである。日本語はむしろ、使用者、つまりわれわれの感情世界との結びつきがより強く、したがって、「語るに落ちる」。
証人が、その事態について、感情の上で同意か不同意かを、日本語は見事に表現してしまう。そうしないためには、日本語ならざる日本語、つまり官庁式答弁をするほかはない。他方、現実のその事態がどんなものかについては、ややいい加減で済む。だから、われわれは伝統的に自白を重視する。これは言語の特性だから、しかたがない。日本語は、使用者の心理状態と、ことばとの間の関節が固いのである。
・・(中略)・・
こうした日本語を用いて、自然科学を表現しようというのは、本来かなりの難事である。自然科学のための日本語はまだ完成していない。そう私は考える。おそらく、そした日本語の完成が、ある意味での、我が国の科学の自立と完成を導くであろう。 (P.48~50 `太字ゴチックは引用者=さとう)


残念なことではあるが、現在でも「自然科学のための日本語はまだ完成していない」ようだ。ビジネス文書を含めた報告書の日本語文体もまた、まだまだ改善の余地が大きい。

自然科学の研究者が、もっぱら米英の専門雑誌に英語で専門論文を発表するのは、実質的に専門コミュニティが英語圏に偏っているからであるが、かならずしもそれだけではないのかもしれない。そんなことを考えさせられる。

一般読者向けに科学を解説したポピュラーサイエンスの読み物が、いまだに英米の翻訳物が圧倒的多数を占めているのが現状だが、こういった科学ノンフィクションの読書に慣れた世代から「自然科学のための日本語」が育っていくと期待したいものだ。



階層構造という西欧思考が生み出す還元論と全体論の対立

「第3章 形態とはなにか」で、作家で思想家のアーサー・ケストラーの「ホロン」(=全体子)を取り上げている。部分と全体にかんする議論である。

かつて「ホロン的経営」(あるいは「ホロニックマネジメント」)なるコンセプトが1980年代後半の日本で話題になったことを知っているわたしには、購入時点でいちばん関心をもった箇所だ。

養老氏は、ケストラーが描く「ホロン」を紹介しているが、というコメントを付している。

ケストラーが描くホロン。 典型的に階層構造を示している。むしろ、階層しか示していないことに留意せよ。それがなぜ「全体子」か。(P.65)

 


(ケストラーの「ホロン」の階層性の図 P.65より)


ケストラー(1905~1983)はハンガリーのブダペスト生まれのユダヤ人だが、ハプスブルク帝国という西欧世界で知的形成を行った知識人だ。中退したもののウィーン工科大学で工学を専攻したケストラーは、無意識レベルまで西欧思想が浸透しているのだろうか。

階層性という考えは、どこから生じたのか。次章にも述べるように、これはおそらく、ギリシャ以来の伝統ではないかと思う。・・(中略)・・プラトン自身が世界の階層性をどう考えていたか知らないが、すくなくともアリストテレス以来、生物界の階層性というものは、西欧思考の前提だったらしい。(P.67)

アメリカの哲学者ラブジョイの『存在の大いなる連鎖』を引きながら論じているのは、日本語訳が1984年に出版されて話題になっていたからだろうが、「階層構造」は世界最古でかつ最強の組織であるカトリック教会の根幹にあるものと考えれば、プラトンとアリストテレスの影響がきわめて強いのは明白である。

生物の構造は、全体を構成する部分がまた下位レベルの全体であり、その部分がまた全体であるという性格をもっている。だが、養老氏は以下のように書いている。

私は、階層性の存在を仮定することが、誤りだとはいわない。しかし、西欧思想のように、それにとわられる必要はないと考える。たしかに、階層性はたいへん便利な観念であるが、おかげで、現実的には、還元論と全体論の対立のような不便もまた、そこから生じる。
階層性ではないとしたら、私の考える構造の特性とはなにか。
それは「輪」である。あるいは、輪廻である。
べつにキリスト教神学の向こうをはって、仏さまを持ち出したわけではない。「輪」のやや具体的な像として、私が頭に描いているのは、たとえば、クレプス回路である。(P.68~69)

クレプス回路とは、クエン酸回路のことである。酸素呼吸を行う生物すべてのみられるものだ。TCA回路、TCAサイクルとも呼ばれる。光合成反応における炭酸固定反応を示したカルビン回路とともに、高校生物学で学習することになっている。いわゆる「動的平衡」である。

ここで大切なのは、クレプス回路自体は、現実の構造ではない、ということである。しかし、その中に、構造がもつ性質がよく表現されている。本の中の図に描き出されたクレプス回路は、じつは現実に存在する生体の構造の、きわめてよく出来たマンガになっている。(P.71)

生物モデルでものを考える際に重要な概念である。モデルは現実に説明を容易にするためにあるが、現実そのものではなく、人間がアタマのなかで描き出して「見える化」したものだ。モデルというのはそういうものである。


(クレプス回路=クエン酸回路 wikipediaより)



「生物は機械である」 & 「「ロボットはヒトの擬態である」

養老氏の「形態」の取り扱い方は、以下の4つの観点によるものだ。これが第6章から第10章まで展開されている。

① 数学的・機械的
② 機能的観点
③ 発生的観点(時間的観点1:個体レベル)
④ 進化的観点(時間的観点2:系統レベル)

わたしがとくに面白いと思ったのは「第7章 機械としての構造」である。生物と機械、人間と機械、人間とロボットの関係についての考察が興味深い。

生物が機械だ、という考えには、いろいろな違いがありうる。こうした言い方は、すでに何度か出てきたが、けっきょく、ことばの定義の問題に過ぎない。
このばあい、私は、機械は人間の一部だと考える。機械は元来、ヒトが作り出したものであり、その意味では道具である。道具は人体の一部だという考えは、古くからあった。ヒトが作り出した道具が、人間の属性を帯びることに、じつは何の不思議もない。そうならなかったら、そのほうが不思議である。その意味でいえば、機械はもともと生物の一部であり、それを生き物と錯覚しても、考えようによってはあたりまえである。
・・(中略)・・
こうして機械を考える際にも、意識的にか無意識的にか知らないが、ヒトはヒトの身体を模倣する。だからやはり、機械はヒトの一部であって、それ以上のものではない。その一部が人間以上の能力を持ちだしたといって、驚くこともない。もともと人間以上の能力を発揮させるために、ヒトは機械を造った。(P.152~153)

こういう冷めた見方を、しれっと語る姿勢がじつにいい。「なんでこんな簡単なことがわからないのか?」という著者の内心の声が聞こえてくるようだ。冷静に考えれば十分に納得する内容だろう。

素材にこだわると、かえってわからなくなることは多い。形態学者もまた、その穴に落ちる。後に述べる擬態は典型的な例である。擬態は機械とおなじように、同じ生物が、違う素材で作られた、と考えてもいい。ふつうは、違う生物が同じ形をとる、と考えるが、それでいけないわけではない。しかし、ときには逆に考えてよいであろう。(P.154)

形と素材を区別せよ、という議論もきわめて重要だ。機械はもっぱら金属製であることが多いが、素材がプラスティックでも、セラミックスでも、木材であっても、同じ形に作ることは可能である。素材主義への注意を促している。

ロボットはその意味では、ヒトの擬態である。擬態である証拠に、かつてのあるいはマンガのロボットは、しばしばヒトそっくりにできている。その必要性は、いわゆる機能からすれば、明らかではない。現実のロボットは、形の上で、かならずしもヒトに似ていない。アンドロイドを作ろうとする理由は、通常きわめて行動学的なものである。ひと目でヒトに見えないというのは、社会行動にはいささか具合が悪い。だから、ヒトそっくりのアンドロイドを考えるのである。(P.154)

擬態とは、生物が攻撃から身を避けるために、周からだの色や形などを周囲の植物・動物に似せたり、その他の生物に似せたりすうことを意味しているが、「ロボットはヒトの擬態である」とまで言い切ることに、ある種のすがしがしさを感じるのは、わたしだけではないだろう。

こう考えることで、生物と人間、そしてロボットを同じ土俵で論じることが可能になる。


(紀伊國屋書店のサイトに掲載 画像をクリック!



「見える形」を論じて、「見えないもの」をあぶり出す

以上見てきたように、本書は原液のような濃いエッセンスに充ち満ちた本である。

その後の著作では、本書で展開された思索が希釈化され、飲みやすく(=読みやすく)なっているが、原液そのものはかならずしもすんなりと飲み干せないものを感じることだろう。

だが、それでいいのである。「原点」としての「原典」を読むことの重要性は、あらためて強調するまでもない。

「見える形」を論じて、「見えないもの」をあぶり出す思考法は、その後の「唯脳論」などで本格的に展開されている。これは、養老氏がイエズス会系の栄光学園という男子校出身であることと関係があるのかもしれない。たとえ信者ではなくても、教育をつうじて「見えないもの」に対する感知力が高くなるのであろう。

もともと西欧で発達した自然科学という思考法もまた、「見えないもの」を「見える化」することにある。あくまでもアタマのなかで構築された世界を、実験と観察という実証をつうじて理論化するのが科学的思考の本質なのである。

人体を扱う解剖学者がなぜ、臓器の一部とはいえその他の臓器とは性格の異なる脳の話に行き着くのか、本書を読むとその理由が見えてくるはずだ。

ぜひ一度は手に取って読んでみてほしい本である。



目 次

はじめに
第1章 自己と対象 1 客観主義
 2 実験科学
 3 形態学とはなにか
 4 形をあつかう
第2章 形態学の方法 1 具体的な方法
 2 画像と言葉
 3 形態学と言語
 4 方法の限界-情報の伝達可能性
第3章 形態とは何か 1 構造の定義
 2 ホロン
 3 構造と輪
第4章 対応関係―相同と相似
 1 タコの眼とヒトの眼
 2 相同関係
 3 具体的な対応関係の検討
 4 相似あるいは類比
第5章 重複と多様性
 1 剰余が多様性をみちびく
 2 構造の剰余
 3 剰余性の統御
第6章 純形態学
 1 形だけを扱う
 2 原型としての鰓弓血管
 3 数学的な形の取り扱い
第7章 機械としての構造 1 生物は機械か
 2 素材の違い
 3 現代の機械論
第8章 機能解剖学
 1 機能解剖学とはなにか
 2 機能における枠組み
 3 機能は形を決定するか
第9章 形態と時間
 1 形態学の立場
 2 発生過程と進化過程
 3 発生と形
 4 進化と形
第10章 形態の意味
参照文献

著者プロフィール
養老孟司(ようろう・たけし)
1937(昭和12)年、鎌倉生れ。解剖学者。東京大学医学部卒。東京大学名誉教授。心の問題や社会現象を、脳科学や解剖学などの知識を交えながら解説し、多くの読者を得た。1989(平成元)年『からだの見方』でサントリー学芸賞受賞。新潮新書『バカの壁』は大ヒットし2003年のベストセラー第1位、また新語・流行語大賞、毎日出版文化賞特別賞を受賞した。大の虫好きとして知られ、現在も昆虫採集・標本作成を続けている。『唯脳論』『かけがえのないもの』『身体の文学史』『手入れという思想』『バカの壁のそのまた向こう』など著書多数。(最新著書の書籍案内より)。


<関連サイト>

養老孟司×隈研吾×廣瀬通孝 鼎談:日本人とキリスト教死生観(2) (日経ビジネスオンライン 2014年3月25日)
・・「相対評価」ではなく「絶対評価」が個人主義を育む」  近代精神の主導者であるイエズス会系の栄光学園という男子校出身者の三人が語りあう記事。養老孟司氏が「見えないもの」にかんする感知力が高い理由の背景がわかる。一部引用しておこう。

- 以前、養老先生は、日本人とキリスト教は折り合いが悪いとおっしゃっていました。
養老: そうね、だから世間にふたつの基準ははいらない、という。
- 若い時にキリスト教的な価値観を浴びたことで、ご苦労されたことはありますか。
養老: 苦労というか、考え方ですよね。これは自分じゃなかなか分からないんですけど、考え方は相当、影響を受けているんじゃないですか。キリスト教的な考え方に合う、合わない、というもとの性質はあるとは思いますけど。だって僕は日本の世間とは、もともとあまり合わないじゃないですか。・・(後略)・・

養老: 僕は当事者の感情を書くのにも、どうしてもロジックで書くようになる。そうすると、典型的にヨーロッパ風になる。栄光の教育では、ヨーロッパの思想が日本という違う風土に入った分、もっと純粋化されている。もともと理屈っぽかったんだけど、それに拍車をかけられてしまった感じですね。


なお、上記の対談は『日本人はどう死ぬべきか?』というタイトルで日経BP社から単行本化されている(2014年11月28日 記す)



PS 2020年1月にようやく文庫化が実現!

講談社学術文庫から同じタイトルのまま『形を読む ー 生物の形態をめぐって』として文庫化されます。これを機会に養老孟司氏の原点であるこの本が広く読まれるようになることを願う次第。(2020年1月9日 記す)


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<ブログ内関連記事>

養老孟司氏関連

書評 『唯脳論』(養老孟司、青土社、1989)-「構造」と「機能」という対比関係にある二つの側面から脳と人間について考える「心身一元論」

書評 『身体巡礼-[ドイツ・オーストリア・チェコ編]-』(養老孟司、新潮社、2014)-西欧人の無意識が反映した「文化」をさぐる解剖学者の知的な旅の記録

書評 『見える日本 見えない日本-養老孟司対談集-』(養老孟司、清流出版、2003)- 「世間」 という日本人を縛っている人間関係もまた「見えない日本」の一つである

書評 『希望のしくみ』(アルボムッレ・スマナサーラ/養老孟司、宝島社新書、2006)-近代科学のアプローチで考えた内容が、ブッダが2500年前に説いていた「真理」とほぼ同じ地点に到達

「釈尊成道2600年記念 ウェーサーカ法要 仏陀の徳を遍く」 に参加してきた(2011年5月14日)
・・養老孟司氏とスマナサーラ長老という、ビッグな対談者の存在と発言。 「養老孟司氏の深くて低いトーンの語り口を心地よく聞いていた。脳死問題にかんして、日本で脳死議論が諸外国に比べて10年以上も遅れた理由を「世間」から解き明かしたのは実に明快であった。日本では死ねば「世間」から外に出される。一方、妊娠中絶がまったくといっていいほど問題にならないのは、「世間」に入っていない状態だから」


解剖学とアート(芸術&技術)

『バロック・アナトミア』(佐藤 明=写真、トレヴィル、1994)で、「解剖学蝋人形」という視覚芸術(?)に表現されたバロック時代の西欧人の情熱を知る
・・この本も南阿佐ヶ谷の書原本店で出会った

書評 『猟奇博物館へようこそ-西洋近代の暗部をめぐる旅-』(加賀野井秀一、白水社、2012)-猟奇なオブジェの数々は「近代科学」が切り落としていった痕跡

医療ドラマ 『チーム・バチスタ 3-アリアドネの糸-』 のテーマは Ai (=画像診断による死因究明)。「医学情報」の意味について異分野の人間が学んだこと
・・死因の糾明に解剖に頼らず、AI(Autopsy Imaging:死亡時画像診断)を使おうという提唱する医者=作家の作品とそのドラマ化


形態学(モルフォロジー)に専念したゲーテの「原型」

ルカ・パチョーリ、ゲーテ、与謝野鉄幹に共通するものとは?-共通するコンセプトを「見えざるつながり」として抽出する

銀杏と書いて「イチョウ」と読むか、「ギンナン」と読むか-強烈な匂いで知る日本の秋の風物詩

「ルドルフ・シュタイナー展 天使の国」(ワタリウム美術館)にいってきた(2014年4月10日)-「黒板絵」と「建築」に表現された「思考するアート」
・・ゲーテの科学思想の研究から出発したシュタイナー

「生命と食」という切り口から、ルドルフ・シュタイナーについて考えてみる
・ゲーテの科学思想の研究から出発したシュタイナー


古生物学と進化論

書評 『神父と頭蓋骨-北京原人を発見した「異端者」と進化論の発展-』(アミール・アクゼル、林 大訳、早川書房、2010)・・あるイエズス会士の古生物学者とローマ教皇庁との軋轢。科学と宗教の葛藤


部分と全体、階層性、そしてアーサー・ケストラー

「ホリスティック」に考える-「医学」のアナロジーで「全体」を観る視点を身につける
・・ケストラーの「ホロン」の議論とも重なる哲学的視点

書評 『武士とはなにか-中世の王権を読み解く-』(本郷和人、角川ソフィア文庫、2013)-日本史の枠を超えた知的刺激の一冊
・・ツリー型の階層型組織構造が一神教と親和性が高いこと

・・ユダヤ教が布教された地域は、アーサ-・ケストラーの著作で有名になった「ハザール王国」だけではない
最近ふたたび復活した世界的大数学者・岡潔(おか・きよし)を文庫本で読んで、数学について考えてみる

書評 『「大発見」の思考法-iPS細胞 vs. 素粒子-』(山中伸弥 / 益川敏英、文春新書、2011)-人生には何一つムダなことなどない!

企画展「ウメサオタダオ展-未来を探検する知の道具-」(東京会場)にいってきた-日本科学未来館で 「地球時代の知の巨人」を身近に感じてみよう!
・・「「発見」というものは、たいていまったく突然にやってくるのである」(梅棹忠夫)


人間と動物とロボット

書評 『ロボットとは何か-人の心を写す鏡-』(石黒浩、講談社現代新書、2009)-「人間とは何か」、「自分とは何か」という哲学的な問いを考える手引き ・・ロボットに魂をもちうるのか?

書評 『動物に魂はあるのか-生命を見つめる哲学-』(金森修、中公新書、2012)-日本人にとっては自明なこの命題は、西欧人にとってはかならずしもそうではない
・・デカルトの「動物機械論」の波紋とその攻防の西欧近代思想史


■日本語の特性について


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