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2014年11月4日火曜日

書評『「肌色」の憂鬱 ー 近代日本の人種体験』(眞嶋亜有、中公叢書、2014)ー「近代日本」のエリート男性たちが隠してきた「人種の壁」にまつわる心情とは


2014年後半の最大の快挙といえば、男子テニス界の錦織圭(にしこり・けい)選手の活躍かもしれない。

日本人男子としては、なんと96年ぶり(!)に全米オープンでのベスト4進出、アジア人選手としては初の決勝進出を果たしたことに日本中が沸いた。女子であれ男子であれ、スポーツの世界における日本人選手の活躍ほど痛快なものはない。

体格でも体力でもまさる世界の強豪選手にうち勝つには、すぐれたセンスと技能、そして精神力が求められるが、実力がモノをいう世界では、目に見える成果を出す以外にサバイバルする方法はない。

日本人の多くが錦織選手の快挙を賞賛するのは、テニスという近代スポーツもまたそうであるが、欧米人が支配する世界では日本人には越えられない高い壁がいまでも存在するからだ。その壁を乗り越えるのが、一握りのスポーツ・エリートに課された使命である。

本書は、「近代化」の担い手としての使命を実行したエリート男性たちが、日本という島国から一歩出ると痛烈に感じざるを得なかった、肌の色の違いと体格差にあらわれた「人種」という壁にまつわる心情を、正面から取り上げて分析してみせた労作だ。

明治維新以後、ひたすら「近代化=西欧化」を国是として突っ走ってきた日本が、西欧世界が中心の弱肉強食の国際社会でいかにサバイバルしてきたか。しかしながら、一つ一つ国際社会での地歩を固めていきながらも、絶対に越えることのできない壁であると感じなくてはならなかったのが「人種の壁」であった。日本は西欧をモデルに近代化に邁進したのだが、日本人は白人ではないのである。白人にはなり得ないのである。

著者は、「近代化=西欧化」の担い手であったエリート男性のなかでも、官僚や実業家ではなく、意識が先鋭化しがちな文系知識人の体験を取り上げることで、エリート日本人男性があえて語らずにクチを閉ざしてきた心情に迫っている。本書が、読み物としても面白いのは、著者の意図がそこにあるかは別にして、エリート男性の「隠された心情」を解剖して摘出してみせたことにあるといっていいかもしれない。

とくに興味深く読んだのは、作家・遠藤周作について取り上げた「第6章 永遠の差異-遠藤周作と戦後」である。12歳で洗礼を受けたカトリック作家の遠藤周作が生涯追求したテーマは、いくら西欧化しても、西欧人そのものにはなり得ない日本人という存在についてであった。「一流の二流性」というフレーズほど、日本人という存在の寂しさを感じさせるものはない。

身長と肌の色に代表される人種の壁は、キワモノめいたテーマではある。誰もが内心で思っていても、活字として公表することはめったにない。だが、「近代化=西欧化」を国是として近代をサバイバルしてきた日本と日本人にとっては避けて通れないテーマである。

「隠された心情」を明るみに出す文学活動を行った」遠藤周作は、その意味では例外的な存在であったようだ。国費留学でも資産家の援助による留学でもなく、欧州のカトリック信徒が拠出した奨学金でフランスに渡航した苦学生であったことも、その理由の一つであろう。


近代社会のなかで生き残るために自己否定した日本

西欧の制度を徹底研究したうえで選択的に導入し、「脱亜入欧」すなわちみずからのアジア性を否定し、西欧化することで国際社会でサバイバルする道を選択したのが日本であった。

だがその選択肢は、日本が生き残るためには日本を否定しなければならないという、精神的には苦渋に満ちたものであった。ヴィスコンティ監督の映画『山猫』には、アラン・ドロン演じる若き貴族が語る、「変わらないためには、変わらなくてはならない」という名セリフがあるが、明治維新後の日本も、変わらずに日本でありつづけるためには、変わることで日本を否定しなくてはならなかったのであった。

「近代化=西欧化」の渦中にあった日本において、英米を中心とする西欧世界への憧れと劣等感という相矛盾する心情を痛感していたのが、洋行する機会に恵まれたエリートたちであった。

日本国内にいるかぎり、みずからの肌の色について意識することはほとんどない、だが、一歩外に出出ると、いやというほど意識せざる得なくなる。美醜が善悪以上の判断基準となる日本人にとっては、なおさらのことだ。

西欧に対する憧れと劣等感。モデルとしている存在に近づくことはできても、絶対にそこに到達できないもどかしさとあきらめ。つねに他者を意識しなくては落ち着かない不安感と劣等感、優越感と裏腹の自虐意識。こういった相矛盾する意識のあいだで揺れ動くのが日本人である。日本という辺境の地の国民の宿命というべきか。

この構造は根本的に変化していない。あからさまに語ることはなくても、英語のできる日本人でも「アジア人と英語で話しているほうが、ネイティブスピーカーの英米人と話すよりもホッとする」と漏らす人が多いことにそれは現れている。もちろん、わたしも例外ではない。

かつてアパルトヘイトという人種隔離政策が行われていた南アフリカでは、在留日本人は「名誉白人」として遇されていたことを想起する。有色人種であっても、白人に準じた扱いをするという意味である。「名誉白人」というコトバは消えても、このメンタリティーは無意識のうちに日本人のなかに存在するのかもしれない。

アジアの時代と声高に叫ばれ、「脱欧入亜」を主張する人もいる。とはいえ、人種的にはアジア人でありながら、意識面では西欧人のような日本人。もちろん日本人といえども個人差は大きいが、マインド&ボディのアンバランスもまた、日本人のアイデンティティを不安定なものとしている。

これが「日本文明」なのだといってしまえば、それで話は終わりになってしまうのだが、「近代化=西欧化」が終了した現在においても、日本人のアイデンティティは、つねに揺れ動いていることは否定できない。いったいわれわれは何なのだ、と。


身長の高低は優越感と劣等感をもたらす

本書で興味深いのは、肌の色だけでなく身長の高低が、その当人の意識にもたらす意味について具体的に語っている点だ。本書で言及されている著名人の身長を抜き書きしておこう。

内村鑑三: 178cm
●遠藤周作: 179cm
●夏目漱石: 157cm
●ラドヤード・キプリング(英国人作家): 不明(小柄)
●エルヴィン・ベルツ(ドイツ人医師): 不明(小柄)
●ラフカディオ・ハーン(=小泉八雲): 154cm

どうだろう、このように具体的に数字で示すと意外な感想をもつのではないだろうか。

身長の高低はその人の実存に大きな影響を与える。身長が高いほど、視野が拡大するからだ。しかも、身長が高い人は、身長が低い人を上から見下ろすことができる。身長の高い低いは優越感と劣等感を生み出す源泉でもある。だが、劣等感にかかわるものだけに、表だって語られることはあまりない。

わたしはといえば、ラフカディオ・ハーンや夏目漱石よりも身長は高いが、内村鑑三や遠藤周作には及ばないと書いておこう。自分の身長について語るのは、正直いってためらうものがあることは否定しない。

現在でも、G7(ジー・セブン) という先進国の首脳が一同に集まるサミットにおいては、日本が唯一の参加国である。ロシアが抜けているので現時点では G6(ジー・シックス) になっているが、肌の色が違い、身長差もあり、しかも英語が堪能ではない日本の首相は「異質」な存在として目立つ存在だ。醜いアヒルの子のようなものだというと、自虐的すぎるかもしれないが。

拡大版の G20(ジー・トウェンティ) になると、アジアからは中国とインドが入ってくるが、自己主張のかたまりのような彼らと日本人は、まったく異なる存在である。自己主張の強さという点では、中国人やインド人は、むしろ西欧人に近い。どこまでいっても日本人は異質の存在なのだろうか・・・。

「日本異質論」をふりかざしたアメリカ人による激しい日本バッシングが行われたのは、1980年代のことであった。自己意識と他者意識のあいだには、依然としてズレが存在する。ねじれといっていいかもしれない。


それは日本人だけが体験したものではない

国際社会で「異質」であることの不安と劣等感。それは西欧世界の内部でありながら辺境でありつづけきたユダヤ民族とも相通じるものがある。

日本が「近代化=西欧化」の道を突っ走っていたのと同時代、西欧そのものであるドイツのハンブルクで、裕福な銀行家の家に生まれた、あるユダヤ系ドイツ人について紹介しておこう。それはアビ・ヴァールブルクという美術史家である。

アビは、自分がユダヤ系であることに悩みつづけた結果、ハンブルクの著名な銀行家ヴァールブルク家の長男に生まれながら家督相続を拒否し、さらには自己否定の結果、ユダヤ教からも遠ざかる。そして、精神の病に追い込まれてしまう。

それは、いくら自分の意識のなかでユダヤ性を遠ざけても、自分を見る周囲の目にはユダヤ人でしかないという矛盾を感ぜずにはいられなかったからだ。自己認識と他者認識のズレがもたらした悲劇である。

フランス革命後の18世紀末から19世紀初頭にかけての「ユダヤ人解放」によって、西欧世界と「同化」する道を選択した西欧のユダヤ人の運命は、強いられた開国によって「近代化=西欧化」の世界に生きることを選択した日本人と共通する問題かもしれない。

西欧世界への「同化」の道を選択したユダヤ人であったが、その選択は運命に裏切られることになる。西欧世界にとって「異質」な存在である日本人は原爆を投下され、おなじく「異質」な存在であるユダヤ人は強制収容所で虐殺される。

本書は、エリート日本人男性の体験に絞って考察が行われているが、日本以外の非西欧世界について考える際には参考になるかもしれない。そのなかでもとくにユダヤ人の体験ほど日本人の体験に近いものはない。


繰り返すが、キワモノめいたテーマでありながら、あえて学術研究の枠組みのなかでこのテーマを正面から取り上げて論じた著者の姿勢を大いに評価したい。

女性研究者の視点からみた近代日本のエリート男性のメンタリティの解剖といってもいい内容は、読み物としてもじつに面白いことも強調しておこう。




目 次

まえがき
序章 近代日本の自己矛盾
 西洋の権威化 
 近き、そして遠き他者
第1章 差別化という模倣-日清戦争後
 内村鑑三とスコッチテリー
 「シナ人」との同化
 モンゴロイド
 和装と洋装のはざまで
第2章 <一等国>の栄光とその不安-日露戦争後
 語られぬみじめさ
 自己醜悪視
 「東洋人」の境界
 所属感の欠如
第3章 華麗なる<有色人種>という現実
 「平等」の裏側-パリ講和会議
 排日移民法
 自尊心のありか
第4章 「要するに力」-日独伊三国同盟とその前後
 現実主義と精神主義
 「黒い眼と青い眼」
 乖離し、乖離しえないもの
第5章 敗戦と愛憎の念
 ふたりの写真-昭和天皇とマッカーサー
 崇拝と落胆
 埋めきれぬ空虚
第6章 永遠の差異-遠藤周作と戦後
 神々と神
 皮膚のかなしみ
 血の隔たり
 一流の二流性
終章 近代日本の光と影
あとがき


著者プロフィール
眞嶋亜有(まじま・あゆ)
ハーバード大学ライシャワー日本研究所アソシエイト、ICUアジア文化研究所研究員、国際日本文化研究センター共同研究員。1976(昭和51)年東京都生まれ。2004年国際基督教大学大学院比較文化研究科博士課程修了。学術博士。日本学術振興会特別研究員、ハーバード大学ライシャワー日本研究所ポストドクトラル・フェロー、法政大学、国際基督教大学講師などを経て現在に至る。専門は近現代日本社会・文化史、比較文化論(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。



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