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2021年9月19日日曜日

書評『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(ブレイディみかこ、新潮文庫、2021)―「ブレクジット」(=EU離脱)後の英国の現在の空気がビンビンつたわってくるライブ感で読ませる


単行本がでてから2年間で60万部突破という『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(ブレイディみかこ、新潮文庫、2021)を読んだ。著者の本は、読むのはこれで3冊目だ。  

イングランド南部の海岸にある地方都市ブライトンを舞台に、日本出身の母親(著者のこと)と労働者階級出身のアイリッシュ系英国人の配偶者のあいだに生まれた一人息子の成長物語。この本も、読み出すと最後まで読みたくなってしまう。 

「イエローでホワイト」というのは言うまでもなく肌の色。「ブルー」というのは、すでに日本語にもなっているように憂鬱(ユーウツ)という意味。カトリック系の公立小学校(そんなのが英国にはあるのだ)を卒業して、中学に入学して、ノートに書きつけた息子の学校生活と家庭生活、地域生活が人間関係を中心に描かれる。 

そこにあるのは「多様性」(ダイバーシティ)。だが、この「多様性」は、「みんなちがって、みんないい」といった類いのキレイ事の話ではない。 

人種、民族、宗教、階級、LGBTQ。こういった見える化された違いと目に見えない違いが、複雑にからみあって多様性を生み出し、その多様性が差別感情を生み出し、さまざまな形の暴力も誘発する。 

そんな状況のなかを生き抜いてきた著者にとっても、「地雷」を踏みかねないのが現在の英国の現実なのだ。そんなシーンがこの本には満載だ。 

「他者に対するエンパシー」ということばと概念が、この本をつうじて有名になった。 「エンパシー」(empathy)は、同情を意味する「シンパシー」(sympathy)と似ているが、後者が感情の動きだけであるのに対して、前者は知的に認識して行動に移すことまで含まれている。 

このエンパシーによって、複雑な多様性のある社会を生きてくことが、英語で「他人の靴をはく」(to put oneself in someone's shoes)と表現される。感じるだけでなく、行動に移すことが大事なのだ。 この表現も単行本をつうじて有名になったことは周知のとおり。

こういったメッセージは、すでになんども語られているので、これ以上は書く必要もないと思う。 

だが、本というのはどういう読み方をしてもいいわけであって、自分にとっては「ブレクジット」(=EU離脱)後の英国の現在の空気がビンビンつたわってくる、そのライブ感に強く感じるものがあった。 

「中流階級崩壊」という点において、新自由主義を推進したサッチャー後の英国の後追いをしている日本だが、不可逆的な流れとして、ますます多様性が当たり前となることは間違いない。 

そんな日本社会で生きていくための「予行演習」として、この本を読むことが必要なのではないかと思う。脳内シミュレーションである。 

繰り返すが、「多様性」はキレイ事で済まされることのない社会の現実(リアリティ)なのである。英国の状況は、他人事と考えないことだ。 


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PS 続編である『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー2』が2024年6月に文庫化された



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・・マーガレット・サッチャーの死を祝う人たちが英国には多くいた



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2014年11月4日火曜日

書評『「肌色」の憂鬱 ― 近代日本の人種体験』(眞嶋亜有、中公叢書、2014) ― 「近代日本」のエリート男性たちが隠してきた「人種の壁」にまつわる心情とは



2014年後半の最大の快挙といえば、男子テニス界の錦織圭(にしこり・けい)選手の活躍かもしれない。

日本人男子としては、なんと96年ぶり(!)に全米オープンでのベスト4進出、アジア人選手としては初の決勝進出を果たしたことに日本中が沸いた。女子であれ男子であれ、スポーツの世界における日本人選手の活躍ほど痛快なものはない。

体格でも体力でもまさる世界の強豪選手にうち勝つには、すぐれたセンスと技能、そして精神力が求められるが、実力がモノをいう世界では、目に見える成果を出す以外にサバイバルする方法はない。

日本人の多くが錦織選手の快挙を賞賛するのは、テニスという近代スポーツもまたそうであるが、欧米人が支配する世界では日本人には越えられない高い壁がいまでも存在するからだ。その壁を乗り越えるのが、一握りのスポーツ・エリートに課された使命である。

本書『「肌色」の憂鬱 ー 近代日本の人種体験』(眞嶋亜有、中公叢書、2014)は、「近代化」の担い手としての使命を実行したエリート男性たちが、日本という島国から一歩出ると痛烈に感じざるを得なかった、肌の色の違いと体格差にあらわれた「人種」という壁にまつわる心情を、正面から取り上げて分析してみせた労作だ。

明治維新以後、ひたすら「近代化=西欧化」を国是として突っ走ってきた日本が、西欧世界が中心の弱肉強食の国際社会でいかにサバイバルしてきたか。しかしながら、一つ一つ国際社会での地歩を固めていきながらも、絶対に越えることのできない壁であると感じなくてはならなかったのが「人種の壁」であった。日本は西欧をモデルに近代化に邁進したのだが、日本人は白人ではないのである。白人にはなり得ないのである。

著者は、「近代化=西欧化」の担い手であったエリート男性のなかでも、官僚や実業家ではなく、意識が先鋭化しがちな文系知識人の体験を取り上げることで、エリート日本人男性があえて語らずにクチを閉ざしてきた心情に迫っている。本書が、読み物としても面白いのは、著者の意図がそこにあるかは別にして、エリート男性の「隠された心情」を解剖して摘出してみせたことにあるといっていいかもしれない。

とくに興味深く読んだのは、作家・遠藤周作について取り上げた「第6章 永遠の差異-遠藤周作と戦後」である。12歳で洗礼を受けたカトリック作家の遠藤周作が生涯追求したテーマは、いくら西欧化しても、西欧人そのものにはなり得ない日本人という存在についてであった。「一流の二流性」というフレーズほど、日本人という存在の寂しさを感じさせるものはない。

身長と肌の色に代表される人種の壁は、キワモノめいたテーマではある。誰もが内心で思っていても、活字として公表することはめったにない。だが、「近代化=西欧化」を国是として近代をサバイバルしてきた日本と日本人にとっては避けて通れないテーマである。

「隠された心情」を明るみに出す文学活動を行った」遠藤周作は、その意味では例外的な存在であったようだ。国費留学でも資産家の援助による留学でもなく、欧州のカトリック信徒が拠出した奨学金でフランスに渡航した苦学生であったことも、その理由の一つであろう。


■近代社会のなかで生き残るために自己否定した日本

西欧の制度を徹底研究したうえで選択的に導入し、「脱亜入欧」すなわちみずからのアジア性を否定し、西欧化することで国際社会でサバイバルする道を選択したのが日本であった。

だがその選択肢は、日本が生き残るためには日本を否定しなければならないという、精神的には苦渋に満ちたものであった。ヴィスコンティ監督の映画『山猫』には、アラン・ドロン演じる若き貴族が語る、「変わらないためには、変わらなくてはならない」という名セリフがあるが、明治維新後の日本も、変わらずに日本でありつづけるためには、変わることで日本を否定しなくてはならなかったのであった。

「近代化=西欧化」の渦中にあった日本において、英米を中心とする西欧世界への憧れと劣等感という相矛盾する心情を痛感していたのが、洋行する機会に恵まれたエリートたちであった。

日本国内にいるかぎり、みずからの肌の色について意識することはほとんどない、だが、一歩外に出出ると、いやというほど意識せざる得なくなる。美醜が善悪以上の判断基準となる日本人にとっては、なおさらのことだ。

西欧に対する憧れと劣等感。モデルとしている存在に近づくことはできても、絶対にそこに到達できないもどかしさとあきらめ。つねに他者を意識しなくては落ち着かない不安感と劣等感、優越感と裏腹の自虐意識。こういった相矛盾する意識のあいだで揺れ動くのが日本人である。日本という辺境の地の国民の宿命というべきか。

この構造は根本的に変化していない。あからさまに語ることはなくても、英語のできる日本人でも「アジア人と英語で話しているほうが、ネイティブスピーカーの英米人と話すよりもホッとする」と漏らす人が多いことにそれは現れている。もちろん、わたしも例外ではない。

かつてアパルトヘイトという人種隔離政策が行われていた南アフリカでは、在留日本人は「名誉白人」として遇されていたことを想起する。有色人種であっても、白人に準じた扱いをするという意味である。「名誉白人」というコトバは消えても、このメンタリティーは無意識のうちに日本人のなかに存在するのかもしれない。

アジアの時代と声高に叫ばれ、「脱欧入亜」を主張する人もいる。とはいえ、人種的にはアジア人でありながら、意識面では西欧人のような日本人。もちろん日本人といえども個人差は大きいが、マインド&ボディのアンバランスもまた、日本人のアイデンティティを不安定なものとしている。

これが「日本文明」なのだといってしまえば、それで話は終わりになってしまうのだが、「近代化=西欧化」が終了した現在においても、日本人のアイデンティティは、つねに揺れ動いていることは否定できない。いったいわれわれは何なのだ、と。


■身長の高低は優越感と劣等感をもたらす

本書で興味深いのは、肌の色だけでなく身長の高低が、その当人の意識にもたらす意味について具体的に語っている点だ。本書で言及されている著名人の身長を抜き書きしておこう。

●内村鑑三: 178cm
●遠藤周作: 179cm
●夏目漱石: 157cm
●ラドヤード・キプリング(英国人作家): 不明(小柄)
●エルヴィン・ベルツ(ドイツ人医師): 不明(小柄)
●ラフカディオ・ハーン(=小泉八雲): 154cm

どうだろう、このように具体的に数字で示すと意外な感想をもつのではないだろうか。

身長の高低はその人の実存に大きな影響を与える。身長が高いほど、視野が拡大するからだ。しかも、身長が高い人は、身長が低い人を上から見下ろすことができる。身長の高い低いは優越感と劣等感を生み出す源泉でもある。だが、劣等感にかかわるものだけに、表だって語られることはあまりない。

わたしはといえば、ラフカディオ・ハーンや夏目漱石よりも身長は高いが、内村鑑三や遠藤周作には及ばないと書いておこう。自分の身長について語るのは、正直いってためらうものがあることは否定しない。

現在でも、G7(ジー・セブン) という先進国の首脳が一同に集まるサミットにおいては、日本が唯一の参加国である。ロシアが抜けているので現時点では G6(ジー・シックス) になっているが、肌の色が違い、身長差もあり、しかも英語が堪能ではない日本の首相は「異質」な存在として目立つ存在だ。醜いアヒルの子のようなものだというと、自虐的すぎるかもしれないが。

拡大版の G20(ジー・トウェンティ) になると、アジアからは中国とインドが入ってくるが、自己主張のかたまりのような彼らと日本人は、まったく異なる存在である。自己主張の強さという点では、中国人やインド人は、むしろ西欧人に近い。どこまでいっても日本人は異質の存在なのだろうか・・・。

「日本異質論」をふりかざしたアメリカ人による激しい日本バッシングが行われたのは、1980年代のことであった。自己意識と他者意識のあいだには、依然としてズレが存在する。ねじれといっていいかもしれない。


■それは日本人だけが体験したものではない

国際社会で「異質」であることの不安と劣等感。それは西欧世界の内部でありながら辺境でありつづけきたユダヤ民族とも相通じるものがある。

日本が「近代化=西欧化」の道を突っ走っていたのと同時代、西欧そのものであるドイツのハンブルクで、裕福な銀行家の家に生まれた、あるユダヤ系ドイツ人について紹介しておこう。それはアビ・ヴァールブルクという美術史家である。

アビは、自分がユダヤ系であることに悩みつづけた結果、ハンブルクの著名な銀行家ヴァールブルク家の長男に生まれながら家督相続を拒否し、さらには自己否定の結果、ユダヤ教からも遠ざかる。そして、精神の病に追い込まれてしまう。

それは、いくら自分の意識のなかでユダヤ性を遠ざけても、自分を見る周囲の目にはユダヤ人でしかないという矛盾を感ぜずにはいられなかったからだ。自己認識と他者認識のズレがもたらした悲劇である。

フランス革命後の18世紀末から19世紀初頭にかけての「ユダヤ人解放」によって、西欧世界と「同化」する道を選択した西欧のユダヤ人の運命は、強いられた開国によって「近代化=西欧化」の世界に生きることを選択した日本人と共通する問題かもしれない。

西欧世界への「同化」の道を選択したユダヤ人であったが、その選択は運命に裏切られることになる。西欧世界にとって「異質」な存在である日本人は原爆を投下され、おなじく「異質」な存在であるユダヤ人は強制収容所で虐殺される。

本書は、エリート日本人男性の体験に絞って考察が行われているが、日本以外の非西欧世界について考える際には参考になるかもしれない。そのなかでもとくにユダヤ人の体験ほど日本人の体験に近いものはない。


繰り返すが、キワモノめいたテーマでありながら、あえて学術研究の枠組みのなかでこのテーマを正面から取り上げて論じた著者の姿勢を大いに評価したい。

女性研究者の視点からみた近代日本のエリート男性のメンタリティの解剖といってもいい内容は、読み物としてもじつに面白いことも強調しておこう。


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目 次

まえがき
序章 近代日本の自己矛盾
 西洋の権威化 
 近き、そして遠き他者
第1章 差別化という模倣-日清戦争後
 内村鑑三とスコッチテリー
 「シナ人」との同化
 モンゴロイド
 和装と洋装のはざまで
第2章 <一等国>の栄光とその不安-日露戦争後
 語られぬみじめさ
 自己醜悪視
 「東洋人」の境界
 所属感の欠如
第3章 華麗なる<有色人種>という現実
 「平等」の裏側-パリ講和会議
 排日移民法
 自尊心のありか
第4章 「要するに力」-日独伊三国同盟とその前後
 現実主義と精神主義
 「黒い眼と青い眼」
 乖離し、乖離しえないもの
第5章 敗戦と愛憎の念
 ふたりの写真-昭和天皇とマッカーサー
 崇拝と落胆
 埋めきれぬ空虚
第6章 永遠の差異-遠藤周作と戦後
 神々と神
 皮膚のかなしみ
 血の隔たり
 一流の二流性
終章 近代日本の光と影
あとがき


著者プロフィール
眞嶋亜有(まじま・あゆ)
ハーバード大学ライシャワー日本研究所アソシエイト、ICUアジア文化研究所研究員、国際日本文化研究センター共同研究員。1976(昭和51)年東京都生まれ。2004年国際基督教大学大学院比較文化研究科博士課程修了。学術博士。日本学術振興会特別研究員、ハーバード大学ライシャワー日本研究所ポストドクトラル・フェロー、法政大学、国際基督教大学講師などを経て現在に至る。専門は近現代日本社会・文化史、比較文化論(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。



<ブログ内関連記事>

■英米中心の世界で「外様」として生きる道を選んだ日本

書評 『黒船の世紀 上下-あの頃、アメリカは仮想敵国だった-』 (猪瀬直樹、中公文庫、2011 単行本初版 1993)-日露戦争を制した日本を待っていたのはバラ色の未来ではなかった・・・

書評 『持たざる国への道-あの戦争と大日本帝国の破綻-』(松元 崇、中公文庫、2013)-誤算による日米開戦と国家破綻、そして明治維新以来の近代日本の連続性について「財政史」の観点から考察した好著

「倫理」の教科書からいまだ払拭されていない「西洋中心主義」-日本人が真の精神的独立を果たすために「教科書検定制度」は廃止すべし!


■現実主義だからこそ精神主義にならざるを得なかった日本 

書評 『未完のファシズム-「持たざる国」日本の運命-』(片山杜秀、新潮選書、2012)-陸軍軍人たちの合理的思考が行き着いた先の「逆説」とは

書評 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子、朝日出版社、2009)-「対話型授業」を日本近現代史でやってのけた本書は、「ハーバード白熱授業」よりもはるかに面白い!

書評 『新大東亜戦争肯定論』(富岡幸一郎、飛鳥新社、2006)-「太平洋戦争」ではない!「大東亜戦争」である! すべては、名を正すことから出発しなくてはならない
・・無謀な戦争ではあったが、心情的にはそう思う気持ちは誰にでもあるのではないか


■西欧中心の近代世界における日本人とユダヤ人の運命

書評 『日本近代史の総括-日本人とユダヤ人、民族の地政学と精神分析-』(湯浅赳男、新評論、2000)-日本と日本人は近代世界をどう生きてきたか、生きていくべきか?
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高橋是清の盟友となったユダヤ系米国人の投資銀行家ジェイコブ・シフはなぜ日露戦争で日本を助けたのか?-「坂の上の雲」についての所感 (3)

書評 『驕れる白人と闘うための日本近代史』(松原久子、田中敏訳、文春文庫、2008 単行本初版 2005)-ドイツ人読者にむけて書かれた日本近代史は日本人にとっても有益な内容


■西欧人との体格差というリアル

会田雄次の『アーロン収容所』は、英国人とビルマ人(=ミャンマー人)とインド人を知るために絶対に読んでおきたい現代の古典である!

「プリンシプルは何と訳してよいか知らない。原則とでもいうのか」-白洲次郎の「プリンシプル」について
・・アメリカ占領軍の高官たちと対等に渡り合った白洲次郎は180cm近い長身で脚も長かった


■スポーツにおける人種差に意味はあるのか?

書評 『人種とスポーツ-黒人は本当に「速く」「強い」のか-』(川島浩平、中公新書、2012)-近代スポーツが誕生以来たどってきた歴史的・文化的なコンテクストを知ることの重要性


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2012年8月12日日曜日

書評 『人種とスポーツ-黒人は本当に「速く」「強い」のか-』(川島浩平、中公新書、2012)-近代スポーツが誕生以来たどってきた歴史的・文化的なコンテクストを知ることの重要性


2012年のロンドン・オリンピックもいよいよ最終日を迎えている。

今回もさまざまなドラマが繰り広げられたが、たしかに黒人選手の活躍はあいかわらず多いという印象をもっている人もすくなくないと思う。

しかし種目ごとに詳細に見ていくと、すべての種目で黒人選手のプレゼンスが、かならずしも大きなものではないことに気がつく。

陸上短距離では、ジャマイカのボルト選手が圧倒的な強さを示していた。過去にもカール・ルイスなどの選手がいたことも思い出す。マラソンでもアフリカ勢がつよいのはいつものことだ。

しかし、水泳では黒人選手はほとんど見ない。チームスポーツでも、ブラジルにはサッカーでもバレーボールでも黒人選手は多いが、それ以外の種目ではかならずしもそうではない。

バスケットボールのアメリカ代表チームには黒人選手が圧倒的に多いが、それ以外の種目はかならずしもそうではない。

つまり、黒人選手が圧倒的につよいというのはあくまでも印象論であって、ステレオタイプ的なものの見方に過ぎないかもしれないのだ。

本書を読むと、実際のところ、スポーツ種目のなかで黒人選手のプレゼンスが圧倒的に大きいのは、バスケットボール、アメリカンフットボール、陸上競技の3つなのだという。

黒人選手は生まれながらにして運動神経がすぐれているから選手として優秀だという語りは、1930年代以降に優勢となったものらしい。

「不可視」の存在であった黒人アスリートが、1930年代にはさまざまな理由によって、目に見える形で無視できない存在になったためだというのだ。そしてこの語りは、現在にいたるまで続いているのだ、と。

本書ではあまり強調されていないが、同時代のナチス・ドイツではアメリカ発の「人種理論」や「優生学」がいかに破壊的な働きをしたかを知っていれば、聞き捨てならないものを感じるのである。

本書は、近代スポーツの中心となったアメリカに重点をおいて、人種とスポーツの関係を歴史的、社会科学的に跡づけた好著である。

ある特定のスポーツ種目がなぜ黒人選手のプレゼンスが大きいのか、それはスポーツの特性からだけではなく、そのスポーツ種目が誕生以来たどってきた歴史的、スポーツ文化的な背景をコンテクスト(文脈)として捉えないと理解できないということを示している。

スポーツはさまざまな見方が可能だが、「人種とスポーツ」という「常識」を疑って見ることも大事なことを教えてくれる本である。

スポーツの一つの見方として読めば、視野が広がることを覚えるだろう。






目 次

はしがき

序章 黒人と身体能力―生まれつき優れているのか
第Ⅰ章 「不可視」の時代-南北戦争以後~20世紀初頭
第Ⅱ章 人種分離主義体制下-20世紀初頭~1920年代
第Ⅲ章 「黒人優越」の起源-身体的ステレオタイプ成立と1930年代
第Ⅳ章 アメリカンスポーツ界の人種統合-すべてはベースボールから始まった
第Ⅴ章 台頭から優越へ-メダル量産と黒人選手比率の激増
第Ⅵ章 水泳、陸上競技と黒人選手-「黒人」としての特質なのか
終章 「強い」というリアリティ-歴史、環境、多様性
あとがき
図版出典一覧
参考文献


川島浩平(かわしま・こうへい)


1961(昭和36)年東京都生まれ。1985年筑波大学第二学郡比較文化学類卒業。1987年米国ブラウン大学大学院史学部入学。1992年ブラウン大学大学院より博士号取得。共立女子大学研究助手などを経て、1998年武蔵大学人文学部助教授、2003年より武蔵大学人文学部教授。専攻アメリカ研究。著書『都市コミュニティと階級・エスニシティ』(御茶の水書房、2002年)アメリカ学会・清水博賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)

<ブログ内関連記事>

書評 『コリアンスポーツ<克日>戦争』(大島裕史、新潮社、2008)-韓国のナショナリズムと国策としてのスポーツ立国

書評 『ヒトラーの秘密図書館』(ティモシー・ライバック、赤根洋子訳、文藝春秋、2010)
・・ヒトラーの人種理論は、アメリカの出版物のドイツ語訳から情報を得ていたことが具体的な書名とともに触れられている

エスニシティからアメリカ社会を読み解く-フェイスブック創業者ザッカーバーグというユダヤ系米国人と中国系米国人のカップルが写った一枚の結婚写真から

(2014年2月14日 情報追加)

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