(渡辺崋山「四州真景図 釜原」*現在の鎌ヶ谷)
「天高く馬肥ゆる秋」ですね!
自分がいま住んでいる地域のことをもっとよく知りたい。これは人間としては、きわめて普通の欲求というものでしょう。いま住んでいる千葉県船橋市の内陸部は、じつはそのむかしは野馬(のま)の放牧場であったのでした。
高校時代まで過ごした八千代市にも習志野市をはさんで隣接するこの地域は、かつて下野牧(しものまき)と呼ばれた地域です。この地域に点在する遺跡の数々を歩いてまわるこのチャンスを活かさない手はないというわけで東葉高速鉄道の開通15周年の記念イベントである「健康ウォーク」に参加した次第。
多くの人がそうだと思いますが、移住してからしばらくは周辺を歩き回ってみるが、しばらくたつと関心が薄れてしまい、結局いかずじまいになってします。
江戸幕府の軍馬の放牧場であったこの地域は、明治になてからは陸軍騎兵隊の拠点となり、機動力の主力が馬から戦車の時代になって馬の重要性が低下してしばらくたってから日本は敗戦、戦後は旺盛な宅地需要をまかなうために、騎兵隊の後裔である空挺団を擁する陸上自衛隊習志野駐屯地の敷地以外はほぼすべてが開発されて、いまは遺跡として現存するものはわずかのみ。
各所に点在する遺跡をたどりながら歩くこのコースは、矢印も掲示されるしスタッフも要所にたつので道を間違うこともないので、ありがたいのだ、実際は「健康ウォーク」目的での参加者が大半で、遺跡で立ち止まってじっくり観察するひとはきわめて少ないようであったが、それはそれでよい。わたしの目的はそれとは別にあるのだから。
以下は、「健康ウォーク」の概要です。
1. イベントの名称
東葉高速線開業15周年記念 東葉健康ウォーク ~下野牧(しものまき)の跡をたずねて~
2. 開催日
2011年(平成23年)10月8日(土) ※小雨決行・荒天中止
3.スタート地点及びゴール地点
◎スタート:船橋日大前駅東口【受付時間9:00~9:30 】
◎ゴール:飯山満駅【受付時間10:00~12:30 】
4. コース
船橋日大前駅東口 → 子者清水(こわしみず:北習志野近隣公園)→ 野馬除土手(のまよけどて:高根台第二小学校)→ 旧近藤家長屋門(きゅうこんどうけながやもん:現在の東葉高校の東葉門)→ 飯山満駅(はざまえき)
5. 距離 約8km
6. お申し込み方法
当日、直接ご来場の上、参加申込書(募集チラシ)に記入してください。参加無料です。
すこし早めにスタート地点の船橋日大前駅東口にいったら、もうすごい人が集まっていて驚きました。そういう状況なので、スタート時間の9時をまえに、8時50分から受け付けが開始されたわけです。
ペットボトルの水を一本もらって出発。ゴールには10時40分に到着したので、二駅間の約8kmを2時間弱で歩いたことになります。思ったより意外に起伏のあるコースでありましたが、わたしの標準スピードと変わらず、安定的な歩行ができたことになります。2kmで30分弱がだいたいの目安。
以下に、下野牧の主要スポットを写真で紹介しましょう。
まずは、子者清水(こわしみず)。かつてはここから泉が湧いていたそうで、野馬の水飲み場になっていたそうです。明治時代になってからは軍馬の水飲み場になっていたそうですが、現在ではごらんのとおり、清水は涸れて、こんもりとした盛り土があるのみです。
野馬除土手(のまよけどて)。江戸時事代においては、野馬(のま)の放牧場のなかに農村がぽつんぽつんと点在していたようなものだったようで、野馬が飛び越えて進入してこないように土手をつくって囲いとしていたようです。
その一部が残っているのですが、ごらんのとおり、かなり埋まってしまているので、土手といってもかなり低くなってしまっています。これじゃあ、馬ならずとも、人間でも飛び越えられます(笑)
旧近藤家長屋門(きゅうこんどうけながやもん)は、現在の東葉高等学校の「東葉門」として使われていますが、かつては野馬(のま)の放牧の管理を幕府から請け負っていた、牧士(もくし)とよばれる役人の豪邸があったようです。
そして、ゴールの東葉高速鉄道の飯山満駅へ。飯山満と書いてはざまと読む、面白い地名と駅名です。今回のウォークでその川筋を歩いてきた飯山満川が、谷の狭間(はざま)にあるので、おそらく飯山満という当て字となったのでしょう。なぜ飯山満という文字が使われているのかはわかりませんが。
完歩の記念としてバッヂをもらいました。また簡単なアンケートにこたえてボールペンもゲット。
■下野牧(しものまき)における馬の話あれこれ
下野牧(しものまき)は千葉県西部を南北にひろがる小金牧(こがねまき)の一部です。ここには、江戸時代までは幕府の野馬放牧地で、明治以降も陸軍の習志野原軍用地に転用され、騎兵隊、牧場、競馬場など馬にかかわる施設が置かれてきました。
野馬(のま)の放牧場のなかに、島のように農村が点在していた土地なのでした。そのため、千葉県は破傷風の菌が多いと言われているそうです。
なるほど、子どもの頃、爪のなかの泥をキチンと洗い流せときびしく言われていた理由がわかります。小学生高学年で、東京都から千葉県に転校したわたしにはつよく記憶に残っています。
現在ではこの地域は、明治期に、1961年(昭和36年)以降は、東京都心への人口集中への対応として、住都公団によるマンモス団地が多数建設されることとなりました。
(wikipedia の項目「小金牧」に掲載された地図の下半分 クリックで拡大!)
新京成線や、今回のウォークを主催した東葉高速鉄道は、この下野牧のなかを走っていることが上記の地図で確認できます。新京成電鉄は、もともとは陸軍鉄道部隊の線路を敗戦後は民間に払い下げで私鉄路線となったものです。そのため、短い区間のなかに、じつに多くのS字カーブが多い、日本でもきわめてまれな路線となっています。
以下に、wikipedia の項目「小金牧」から概要を引用しておきます。
下野牧(しものまき)は、北部の船橋市二和・三咲のほか、南部の「習志野」も含み、現、鎌ケ谷・船橋・八千代・習志野・千葉の各市、一部は千葉郡に及ぶ広大な牧であった。初期には市川市東縁に達していたと考えられる。南部は東京湾に近く、農地とならず習志野等の軍用地となった土地、千葉市域では旧長作村名主武左衛門による請願の結果、地元民による開墾が認められ[70]、番号順の地名でない土地、一時期、習志野原御猟場となった土地もある。
新京成線には高根木戸駅という名前の駅があるが、この高根木戸とは野馬の放牧場に設けられた木戸のことであったらしい。野馬に耕作地を荒らされないよう築かれた土手の通用口のことである。さらに南に下ると、八千代市には新木戸(にいきど)という地名もある。これも同じく木戸のことであるようだ。
子どもの頃、陸上自衛隊習志野駐屯地の敷地内に入っては遊んでいたが、土を掘るとよく馬の骨がでてきた。文字通りの馬の骨である。どこの馬の骨かというと、敗戦時に軍馬を処分したものだと聞かされたが、もしかすると、江戸時代に斃れた野馬のものかもしれない。
■下野牧(しものまき)と馬とのかかわりを写真でつづる
下野牧は、陸軍の軍用地に転用された。敗戦後は陸上自衛隊へ。習志野駐屯地の敷地内にある「日本騎兵之碑」にその歴史をたどることができる。『坂の上の雲』の主人公の一人、秋山好古陸軍中将もこの地で、日本騎兵隊の創設に尽力した。
下野牧にはまた、「ペガサス乗馬クラブ」という乗馬クラブがある。すでに大東亜戦争中に、機動力の中心は馬から戦車に移行していたが、戦後は軍馬の役割は完全に終わった。民間の馬関連施設としては、ここにあげた乗馬クラブや地方競馬場があげられる。
「馬頭観音」(ばとう・かんのん)という仏教の民間信仰があるが、野馬の放牧地で馬とはゆかりの深いこの地には、馬頭観音をしばしば見ることがある。
「馬頭観音」とは「罵倒観世音」ともいうが、wikipedia にはこいう説明されている。ば、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E9%A0%AD%E8%A6%B3%E9%9F%B3 馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、動物供養塔としての意味合いが強くなっていった。このような例は中馬街道などで見られる。なお「馬頭観世音」の文字だけ彫られたものは多くが供養として祀られたものである。
こちらはより古風な「馬頭観音」。馬の浮き彫りが、なんだかほのぼのと可愛らしい。かつての人も馬も多く往来した街道筋にあった鎌ヶ谷大仏の敷地内にある。だが、昭和年代なのでけっして古くはない。なお、鎌ヶ谷大仏は、大仏とは名ばかりで、わたしは「世界最小の大仏」と呼んでいる。
馬が死ぬと馬頭観音として祀られたらしい。「人も馬も 道行きつかれ 死ににけり。旅寝かさなる ほどのかそけさ」(釋迢空)という歌を想起させる。釋迢空とは折口信夫のことである。
今回のウォークで出会った、船橋市飯山満(はざま)の古風な馬頭観音。碑銘をみると、寛延年間(1748年~1750年)のものであるから、いまから260年以上前のものである。
最後に、広重の浮世絵「小金牧」。馬のクローズアップの向こうに富士がみえる。
<参考文献>
■下野牧(しものまき)を含んだ小金牧(こがねまき)にかんするもの
『小金牧 野馬土手は泣いている』(青木更吉、崙書房出版、2001)
『小金牧を歩く』(青木更吉、崙書房出版、2003)
『佐倉牧を歩く』(青木更吉、崙書房出版、2007)
・・地方史家が書いた小金牧(こがねまき)にかんする決定版
『新京成電鉄沿線ガイド』(崙書房・竹島 盤=編、崙書房出版、1995)
・・第1部の2「小金牧とその開墾」、「陸軍鉄道連隊」の項を参照。鉄道連隊の演習線路を払い下げて改行したのが新京成電鉄である。
『本当にあった陸自鉄道部隊-知られざる第101建設隊の活躍-』(伊藤東作、光人社NF文庫、2008)
・・占領地ですみやかに鉄道を敷設する工兵隊の本拠は習志野の地にあった
『「成田参詣記」を歩く』(川田壽、崙書房出版、2001)
・・「成田名所図絵」の挿絵・・「下野牧野馬執(のまとり)の図」P.82~90
『利根川図志』(赤松宗旦、柳田國男校訂、岩波文庫、1938)
・・「野馬取」の記述あり(P.249)
■日本の馬について
『馬は語る-人間・家畜・自然-』(澤崎担、岩波新書、1987)
<関連サイト>
「野馬土手 - 小金牧の残光」(東葛人的サイト)
・・野馬土手の写真が充実。
冬の日の氷雨のなか、東京のど真ん中を走る馬車を見た
・・皇宮警察の馬車を目撃した冬の一日
<ブログ内関連記事>
陸上自衛隊「習志野駐屯地夏祭り」2009に足を運んでみた
・・千葉県の陸上自衛隊習志野駐屯地に配属されている戦略部隊の「第一空挺団」の前身は「騎兵隊」。基地内には「日本騎兵之碑」がある
"世界最小の大仏"を見に行ってきた・・そしてついでに新京成線全線踏破を実行
・・鎌ヶ谷大仏の鎮座する墓地には「馬頭観音」もある。なお、上記の記事にも書いたように、新京成線は陸軍鉄道部隊の演習用線路の民間転用であり、この沿線はかつて「下野牧」が存在した場所であった
インド神話のハヤグリーヴァ(馬頭) が大乗仏教に取り入れられて馬頭観音となった
『新京成電鉄-駅と電車の半世紀-』(白土貞夫=編著、彩流社、2012)で、「戦後史」を振り返る
書評 『京成電鉄-昭和の記憶-』(三好好三、彩流社、2012)-かつて京成には行商専用列車があった!
辰年(2012年)の初詣は御瀧不動尊(おたき・ふどうそん)にいってきた
(2014年8月16日 情報追加)
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