さて成田山参詣を終え、成田羊羹資料館を訪問したあとは、つぎの目的地である成東(なるとう)に向けて移動する。伊藤左千夫の生家を見に行くのが目的だ。今回のショートトリップの最大目的である。
まずはJR成田線で成田駅から佐倉駅まで行き、ここで総武本線に乗り換える。JR佐倉駅で下車するのは初めてだ。銚子行きの4両編成に電車に乗車するが、総武本線が佐倉から先は単線になることも初めて知った。
成東駅で下車し、伊藤左千夫の生家とそこに隣接されている「山武市歴史民俗資料館」に向けて歩く。徒歩で15分くらいの距離である。
■伊藤左千夫といえば『野菊の墓』だが、その本領は歌人であった
伊藤左千夫といえば『野菊の墓』。おそらく、この一作をもって末永く日本の文学史に残る文学者なのだろう。少年少女の悲恋を描いた、日本人なら誰でも涙する名作である。「矢切の渡し」といえば、あああれねと思い出すはずだ。
ところが、この名作は伊藤左千夫にとっては、小説第一作であった。なんと45歳のときの作品である。左千夫の肖像写真を見たらわかるように、およそセンチメンタルな作品とは相容れないような風貌である。
伊藤左千夫の本領は歌人であり、しかもアララギ派の代表者でもあった。正岡子規の『歌よみに与ふる書』にインスパイアされた左千夫だが、その門人であった斎藤茂吉や土屋文明といった名前は言及されることがあっても、歌人としての伊藤左千夫が想起されることは、現在あまりないのかもしれない。
左千夫の代表作は、「牛飼いが 歌よむ時に 世の中の あらたしき歌 おほひに起る」である。 このマニフェスト(宣言)のような歌にあるように、そう、伊藤左千夫は「牛飼い」、つまり搾乳業の経営者であったのだ。
(伊藤左千夫生家の前にある牛飼いの歌碑)
左千夫が経営していた牧場は、本所茅場町、現在のJR錦糸町駅前広場にあったという。その地には「伊藤左千夫牧舎兼住居跡」の石碑がある。
(伊藤左千夫牧舎兼住居跡 筆者撮影)
バス停のそばに立てられているが、気がつく人はあまりいないようだ。現在の錦糸町駅前からは、かつて牧場があったことなど想像もしようがない。
26歳のとき搾乳業で起業、事業が軌道にのるまで、1日18時間はたらいていたという。生活に余裕ができはじめてから、まずは誘われてお茶、そして歌の道に入っていったのだと。
そんな伊藤左千夫は成東の農家出身で、その生家が成東に残されていることを知ったのは、だいぶ前のことになる。
ところが、成東にはとくに用事もないし(・・九十九里浜に海水浴にいくこともないので)、なかなか実行することがなかった。だから、今回ようやく成田詣でと組み合わせて成東まで足を伸ばすことにしたのだ。
(成東の観光案内図より)
■九十九里浜に近からず遠からず成東に伊藤左千夫生家がある
実際に訪れてみると、茅葺きの伊藤左千夫の生家は、思っていたよりも大きいことに気がつく。
(伊藤左千夫生家 筆者撮影)
現在まで残って修復されている武士の旧宅が質素で小さめであるのに対し、各地に残されている江戸時代以来の農家の住宅は、比較的大きなものが少なくないような気がする。 伊藤左千夫生家もまた、比較的大きなものだ。
伊藤左千夫生家を見学するのは、まずは「山武市歴史民俗資料館」に入館料を支払う必要がある。民俗資料館の1階は企画展示スペースで、2階が伊藤左千夫関連の常設展示スペースとなっている。
正岡子規の弟子となり、その後アララギ派を主催することになった伊藤左千夫。その教養のベースをつくった漢籍や短冊(・・この地は「上総道学」として朱子学のさかんな地であった)、画家の中村不折など交友関係や、アララギ派関係者関連のほか、映画化された『野菊の墓』のポスターなどが展示されている。
(パンフレットの内容)
展示品の写真撮影が不可なのが残念だが、記念館発行の『伊藤左千夫アルバム』や『伊藤左千夫の歌碑・文学碑』などの資料を購入する。
それにしても、左千夫の歌碑は意外と多い。生誕の地である千葉県と長年暮らした東京都が中心であるが、東日本に30以上もある。
(太宰治が残した伊藤左千夫の歌を記した色紙 Wikipediaより)
ちなみに、太宰治が晩年に『左千夫歌集』を愛読していたことにも触れておきたい。友人の伊馬春部にあてた、実質的な遺書ともとれる色紙に左千夫の歌が書かれている。
池水は 濁りににごり 藤波の影もうつらず 雨降りしきる
この歌は、左千夫が雨の日に思い立って亀戸天神を訪れ、人影もないなかで抱いた感慨を詠んだものである。亀戸天神は「藤棚」で有名だが、牧場のあった本所茅場町(現在の錦糸町)からも近い。
「亀井戸の 藤もをはりと 雨の日を からかさゝして ひとり見にこし」で始まる「藤」の連作9首である。明治34年(1901年)の作品だ。
太宰治がなぜ『左千夫歌集』を愛読していたのかは知らないが、そんなこともあり、歌人としての伊藤左千夫は、もっと関心をもってしかるべき存在なのではなかろうか。
■『野菊の墓』のブーム再来は、はたしていつのことに・・
さて、伊藤左千夫生家からの帰途は「野菊路」と命名された小道を歩いて「伊藤左千夫記念公園」へ。
ここには左千夫の歌碑のほか、『野菊の墓』の主人公である「政夫と民子の銅像」が設置されている。
熱海市にある『金色夜叉』をモチーフにした「貫一お宮の像」ほど有名ではないが、知る人ぞ知る銅像であろうか。
(文字のかすれた「野菊路」)
なんどもリメークされている『野菊の墓』だが、アイドル全盛時代の1980年代の松田聖子主演以来、映画版ではあらたなリメーク製作がないためだろうか、「野菊路」の標識も色あせ、文字がかすれて読めない状態である。
『野菊の墓』のブーム再来は、はたしていつのことになるのだろうか・・・。
(おわり)
(画像をクリック!)
<ブログ内関連記事>
・・「『折口信夫 独身漂流』(持田叙子、人文書院、1999)の第一章「餓鬼の思想-大食家・正岡子規と折口信夫」には、子規と信夫(のちアララギ派は脱退)のほか、アララギ派の同人で、『野菊の墓』の作者・伊藤左千夫が自ら庖丁を握ってウサギを屠り、料理する姿も引用されており、意外な感を抱くものである。」
・・いまや東京都内や千葉県北西部でも乳牛の牧場は姿を消した。船橋市内に唯一残る・・
(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!)
end