「アタマの引き出し」は「雑学」ときわめて近い・・日本マクドナルド創業者・藤田田(ふじた・でん)に学ぶものとは?

◆「アタマの引き出し」つくりは "掛け算" だ : 「引き出し」 = Σ 「仕事」 × 「遊び」
◆酒は飲んでも飲まれるな! 本は読んでも読まれるな!◆ 
◆一に体験、二に読書、その体験を書いてみる、しゃべってみる!◆
◆「好きこそものの上手なれ!」◆

<旅先や出張先で本を読む。人を読む、モノを読む、自然を読む>
トについてのブログ
●「内向きバンザイ!」-「この国」日本こそ、もっとよく知ろう!●

■■ 「むかし富士山八号目の山小屋で働いていた」全5回 ■■
 総目次はここをクリック!
■■ 「成田山新勝寺 断食参籠(さんろう)修行(三泊四日)体験記 」全7回 ■■ 
 総目次はここをクリック!
■■ 「庄内平野と出羽三山への旅」 全12回+α - 「山伏修行体験塾」(二泊三日)を中心に ■■
 総目次はここをクリック!


「個」と「組織」のよい関係が元気をつくる!

「個」と「組織」のよい関係が元気をつくる!
ビジネス寄りでマネジメント関連の記事はこちら。その他の活動報告も。最新投稿は画像をクリック!



ご意見・ご感想・ご質問 ken@kensatoken.com にどうぞ。
お手数ですが、コピー&ペーストでお願いします。

© 2009~2024 禁無断転載!



2021年5月25日火曜日

「旧鴇田家住宅」(習志野市実籾2丁目)をはじめて訪問(2021年5月25日)-東金街道(=御成街道)沿いの名主の屋敷はじつに大きくて立派だった!

(旧鴇田家の全景 筆者撮影。以下同様) 


たまたまその千葉県習志野市実籾(みもみ)に用事があってので訪ねたところ、その途中で目に入ってきたのが茅葺きの大きな民家と、それを囲む公園だった。

気になっていたので、用事を済ませたあと、帰途に立ち寄ってみたら、それが千葉県指定有形文化財の「旧鴇田家住宅」であった。

京成電鉄の実籾駅の北側には日本大学生産工学部があるが、実籾駅の南側に行ったのは今回はじめてのことだったこともあって、いまのいままでまったくその存在すら知らなかったのだ。


「旧鴇田家住宅」とは何か、習志野市のウェブサイトから引用しておこう。リーフレットにも記されている説明書きである(*太字ゴチックは私によるもの)




千葉県指定有形文化財(平成17年3月29日指定)旧鴇田(ときた)家住宅は、享保(きょうほう)12年(1727)から翌13年にかけて東金(御成:おなり)街道沿いに建築され、江戸時代に実籾村の名主(なぬし)をつとめた鴇田家の住居として、平成3年(1991)まで使用されていました。平成12年10月にほぼ建築当初の姿で移築復原され、同年11月に開館しました。L字型に曲がった主屋おもやは、かつて東北地方に多く分布していた「曲屋まがりや」であり、南関東ではきわめて珍しい建築様式です。また、この住宅は、身分の高い人が来訪した時に使う「ゲンカン(玄関)」や、その供の者が待機した「トモマチベヤ(供待ち部屋)」、江戸時代の民家としては貴重な客便所など、名主の家にふさわしい特色を伝えています。

◆茅葺平屋寄棟造(かやぶきひらやよせむねづくり) 
 床面積 315.7㎡ 
 オモヤ 桁行(けたゆき): 20.0m 
     梁間(はりま): 11.0m(廊下・客便所を含まず) 
 ドマ  桁行: 9.4m
     梁間: 8.2m
 棟高さ 10.3m(礎石上端から棟木上端まで)



(土間をあがると広い座敷)

じつに大きくて立派な古民家である。しかも江戸時代後期のものだ。


武家屋敷と比べて、農民層の名主の屋敷の、なんと大きくて立派なことよ! 

(奥の間から庭を見る)

江戸時代の「身分制度の実態」をよく現しているというべきだろう。

武士は支配者であったが、豊臣時代から江戸時代初期にかけて実行された「兵農分離」によって武士は城下町に居住することを義務づけられ、みだりに農村に立ち入ることはできなくなったのである。その意味では、江戸時代以降は狭義の封建制ではない。

農村は自治が行われており、武士と農民の仲介役となっていたのが農民を代表する名主であった。領地からあがる年貢を取り集め、一括して納入する責務を負っていたのが名主だ。

しかも、経済力からいったら、名主のそれはきわめて大きなものであったことは、名主ではなかったが豪農出身であった渋沢栄一を想起したらいい。

(梁の太さに注目!)

「旧鴇田家住宅」が本来面していた「東金街道」にも注目しておきたい。

(習志野市ウェブサイトより)

東金街道は、千葉県の船橋市本町と東金市までの37kmをほぼ直線で結んでいる街道だ。



もともとは御成街道(おなりかいどう)と呼ばれていたのは、「徳川家康(東照大権現)が九十九里方面での鷹狩のために土井利勝に命じて、慶長19年正月から数ヶ月間かけて元和元年11月に完成した街道」(Wikipedia)だからだ。大坂冬の陣のあった1614年のことだ。
  
つまり鴇田家は、街道筋の名主であったわけだ。
  
たまたま火曜日だから開いていたようだが、「新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止のため、4月20日(火曜日)以降、建物内への入館者数の制限を、40名から20名に変更いたします」とあった。とはいえ、このときの同時の来館者は自分を含めて3名のみだった。

習志野市民はよく知っているのだろうが、隣接する船橋市民にすら知られていない「旧鴇田家住宅」だが、江戸時代後期の名主の実力がいかなるものか実感するためにも、機会があれば訪れる価値はあるといっていいだろう。実籾(みもみ)という地名もまた良い。

「旧鴇田家住宅」の存在は、たまたま偶然に知ったわけだが、こういう形での発見というものは重要なことだと思う次第。










(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!

 (2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!

(2020年5月28日発売の拙著です 画像をクリック!

(2019年4月27日発売の拙著です 画像をクリック!

(2017年5月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!


 



ケン・マネジメントのウェブサイトは

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!








end