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2009年6月11日木曜日

連続ドラマ『夜光の階段』-松本清張生誕100年


           
 テレビ朝日系列の連続ドラマでいま松本清張原作の『夜光の階段』(木曜午後9時)をやっている。
 ドラマはすでに次回が最終回だが、主人公の野心家の美容師を演じる藤木直人が、じりじりと追い詰められていくサスペンスドラマである。相手役の女優陣が豪華キャストなので、なかなか楽しめる。

 人間存在の暗い側面、悪の側面から目をそらすことなく、徹底的に見つめ、書きつづけてきた松本清張は、死後16年たっても、まったく古びていない。設定さえ少し変更すれば、いままさにそこで起こってもおかしくない話が、いくらでも掘り起こすことができる。実際、今回のドラマ化も3回目らしい。
 視聴率の面からいえば、毎週10%前後と苦戦しているようだが、原因の一つは原作を読まなくても最初から結論がほぼ見えてしまっていることにあるだろう。つまり主人公が頂点に向けて昇りつつある階段は、同時に破滅への階段でもあるからだ。先読みができてしまう人は、途中で見るのをやめてしまう可能性が大きい。

 あとは役者の演技次第だが、同じく松本清張原作の『黒皮の手帖』の米倉涼子とまではいかないが、藤木直人はかなりはまり役だし、女優陣ではベテランの室井滋はいうまでもなく、木村佳乃の意外に(!)高い演技力は、男としては息苦しさを感じさせるほどのもので、男性主人公への感情移入さえ呼び起こすものがあった。

 ドラマの質の高さと視聴率は残念ながら、必ずしも相関関係にはない。視聴率は、あくまでも同じ時間帯の他局の番組との視聴者争奪戦であるため相対評価でしかないのだが、同時進行中の他の連続ドラマとは視聴率が絶対評価として比較対象となるという性格をもつ。限られたパイ(=視聴者)をめぐる競争である以上仕方がない。DVD化したら売れるだろう。

 いわゆる辛口評論家の佐高信は、松本清張(1909-1992)と司馬遼太郎(1923-1996)をいつも対比してきた。

 「司馬遼太郎など愛読書にしている経営者はダメだ、清張を読むようない経営者でないと信用するな」なんてことを、以前読んだ記憶がある(・・記憶不鮮明ゆえ正確さに欠く恐れあり、悪しからず)。佐高信は、10年前の金融危機の頃はいろいろ読んだが、いまでも評論家として健在かどうか。

 たしかに司馬遼太郎は、一般読者向けの新聞連載が多く、ひたすら人間性の善なる面のみ描こうとしていたキライがある。たしかに、司馬遼太郎との比較との比較は意味がある。

 松本清張は共産党寄りであったことも経営者が忌み嫌った理由の一つかもしれない。

 以前、仕事でロシアにいったとき、通訳を介して行動をともにしたロシア人と話したとき、ロシア文学の話になって、私の発言に対しそのロシア人は、松本清張を愛読している、という答えが返ってきた。 え、ロシアで松本清張!? 同行したベテラン通訳の方に聞くと、松本清張はかなり以前、ソ連時代からからロシア語に翻訳されているようである。松本清張は人間性に関する普遍性のあるテーマを描き続けた作家だといえる一つの例証だろう。

 松本清張は、人間が逃れることのできない悪の面を徹底的に追及して描いてきたといえる。どろどろとした人間の情念、自らの野心につぶされてゆく人間、国際的な大規模な陰謀に巻き込まれる人間などなど・・・現代ものも、歴史ものも、エンターテインメントとして一級品である。

 あえて極端な比較をすれば、ロシア文学でいえば、司馬遼太郎がトルストイだとすれば、松本清張はドストエフスキーであろうか。
  

 ともに先の大戦においては陸軍に徴兵され苦労しているとはいえ、松本清張は学歴的には小学校卒業、印刷工としてかなりの辛酸をなめてきた人生は、東京外語(現 東京外国語大学)の蒙古語科(モンゴル語科)を卒業して、戦後産経新聞の文化部記者となった司馬遼太郎とは根本的に異なる。

 松本清張には、世の中に対する怨念、ルサンチマンのようなものを感じるのは私だけではあるまい。

 司馬遼太郎はたしかに「昭和の語り部」とはいえるだろう。しかしあくまでも歴史小説作家であって、歴史家ではない。「司馬史観」などと無批判に称揚する人たちが多いが、私は賛成しかねる。ただし、『街道をゆく』シリーズなどの各種歴史エッセイはたいへん読みごたえのあるものが多いので愛読してきた。徹底的に取材し、徹底的に文献調査もやる人だっただけに、小説化する以前の素材は信頼性が高いのである。

 いずれにせよ、高度成長期日本にはもっともフィットした歴史家であった。「昇り坂」だけを描いた人だった、といえよう。


 司馬遼太郎の代表作の一つである『坂の上の雲』(文春文庫)は現在NHKでドラマ化をすすめており、私もかなり以前に読んで好きな作品だが、批判もまた多いのは当然である。

 「坂の上の雲」をつかもうとひたすら登ったら、そこが絶頂で、あとは下りあるのみ、これが日露戦争後の日本であった、と司馬遼太郎は暗示しているのだが、結局彼は「下り坂」の歴史からはひたすら逃げて逃げて、最後まで逃げまくった。ノモンハン事件は徹底的に取材しながら、結局小説化できなかった。

 今後まちがいなく「下り坂」をゆく衰退する日本で、いわゆる「司馬史観」に基づいて説教を垂れるオヤジ連中は正直言って美しくない。すでに「下り坂」なのだから、衰退しているという事実を、無理せず受け止めなければならないのだ。

 むしろ、いかにきれいに老いていくか、といった女性論のほうが私には面白く感じられる。つまり「衰退の作法」こそ、これから重要になるのだ。

 大英帝国のようにうまく衰退していきたい。
                      
         




(2012年7月3日発売の拙著です)








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