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2014年8月13日水曜日

『形を読む ー 生物の形態をめぐって』(養老孟司、培風館、1986)は、「見える形」から「見えないもの」をあぶり出す解剖学者・養老孟司の思想の原点



養老孟司氏といえば、口述筆記を活字化した新書本 『バカの壁』(2003年)ですっかり国民的有名人になってしまったが、そのはるか以前の1986年に、一般書ではないが洞察にとんだ本書のような著作を出していることをご存じだろうか。

『形を読む ー 生物の形態をめぐって』(養老孟司、培風館、1986)は、著者みずからが「原点」だとしている本である。いまから28年前のものであるが、幸いなことに現在でも入手可能である。

わたしがこの本と出会ったのは、当時住んでいた場所に近かった書原・杉並本店(南阿佐ヶ谷駅前)である。いまから十数年前のことだ。

書原は、じつに不思議な本屋で、専門書から実用書やマンガまで、じつにさまざまなジャンルの本をジャンル横断型で並べている。かつて丸善本店の一角に実験的店舗として存在した松丸本舗のようなものであった。

当時すでに解剖学の知見をベースにした数々の著書がちくま文庫を中心に文庫化されており、わたしも愛読して大いに影響を受けていたが、本来は専門書の棚にあってしかるべき 『形を読む ー 生物の形態をめぐって』を知ったのも、解剖学では養老氏の先行者にあたる、『胎児の世界』の著者で解剖学者・三木成夫氏の一連の著作と出会ったのも、みなこの書店であった。

たしか平積みになっていたのではないかと記憶している。わたしにとって書原は、ある意味では、図書館以上に「知の発信地」的な存在であった。

この本は、かなりクセのある個性的な内容の本である。「生物の形」の意味について、「形態学という学問」について、「自然科学というもの」について、著者がつねづね疑問に思っていたことを、自分のアタマで考えた内容を独特の文体つづったものだ。

だから、もちろん教科書的な記述ではない。したがって、無味乾燥な内容ではない。哲学や思想までカバーした膨大な読書をもとにした引用も多い。自分の専門に即して、そもそも論を考え抜いた思索の跡を言語化したものだから、いわゆる哲学的な考察にもなっているのだろう。

解剖学も形態学もわたしの専門ではないので、正直いって全部を理解したとは言い難い。だが、ひじょうに刺激的な内容である。通説に反した見解もあえて提示しているからだ。

購入してから部分的につまみ食いしただけだったが、今回あらためて最初から最後までとおして読んでみて、いろいろ思うことがあった。その一端をここに記しておきたいと思う。


人間は視覚をつうじて形(かたち)を認識する

人間はいわゆる五感をつうじて知覚しているわけだが、とりわけ視覚とつうじて「ものの形」を認識している。人間の知覚における視覚のウェイトは、その他の動物と比較して突出して高いこともその理由の一つであろう。

著者は「はじめに」でこう書いている。

「ヒトが見る」世界には、視覚の特質が、強く反映するにちがいない。そこから、形態学の、認識論的性質が生まれる。・・(中略)・・私が形態の意味や解釈をあつかう理由は一つである。それは、そうしたものが、けっきょく、自分の頭の中の現象だと考えるからである。自然科学の各分野は、しばしば対象のみを純粋に取り扱うという「ふり」をしてきた。そうすれば、自分の頭の方は、無視できるからである。形態学も、その典型であろう。((P.iii~P.iv *太字ゴチックは引用者=さとう)

自然科学に限らず、学問研究というものは「自分と対象との関係」がつねに存在するにもかかわらず、「自分」という存在をカッコのなかに入れて、客観的に対象を扱っているという「ふり」をしてきたことに対する痛烈な批判である。

実験し観察する主体である「自分」。この存在を抜きに考えることができないだけでなく、観察対象である事物や現象そのものが、「自分」というフィルターがそれを選択し、自分の脳内で解釈しているという事実。解剖学者がなぜ「唯脳論」などというタイトルの本を出すことになるのか、ここに言い表されている。

かの有名な「バカの壁」というフレーズが、すでに「馬鹿の壁」という表記で、1986年時点で本人が使用していたこともわかる。

自然科学のいわゆる客観性、つまり、いつどこでも同じ結論に達する、という性質は、一種の「強制伝達可能性」である。あるいは、自然科学とは、無限に多用な現実から、そうした部分のみを、情報として切り出してくる作業である。
情報の伝達という面から、自然科学で起こる最大の問題は、じつは情報の受け手が、馬鹿だったらどうするか、というものである。相手が馬鹿だと、本来伝達可能であるはずの情報が、伝達不能になる。これを、とりあえず「馬鹿の壁」と表現しよう
たとえば、そうした相手が、科学の結論を信じこんだとき、科学が宗教と同じ機能をはたす、という現象を生じるだから、科学と宗教は、ときどき仲が悪い。
結論が導かれる過程を重視せず、一方その結論のみを信じるという意味で、宗教の結論も、科学の結論も、御託宣にほかならない。・・(中略)・・ 相手がほんとうに馬鹿なら、科学の結論をみちびく過程、およびその結論が伝達不能だということは、歴然としている。
・・(中略)・・
「文学がわからない」という台辞は、伝達可能性における受け手の問題、つまり自然科学ではふつう隠されている「馬鹿の壁」が、文学ではタブーではなく、前提としてはじめから許されていることを示す。(P.50~53 太字ゴチックは引用者=さとう)


専門分化がさらに進行する現在、専門が狭くなればなるほど「バカの壁」が高くなることがわかる。「バカの壁」とは「専門」と言い換えていい。細分化された、その狭い専門の範囲内では、その分野の特殊な専門用語でコミュニケーションを行うので、きわめて「強制伝達可能性」が高いのであり、つまりポジティブな側面だけを見れば、効率がきわめて良いということを意味している。

いわば青果市場のセリの符丁のようなものだが、魚市場とは符丁が異なるので、当然のことながら同じ日本人であっても、青果市場と魚市場とでは符丁によるコミュニケーションは不可能である。これとおなじことが、細分化された「学会」どうしでは発生するわけだ。

なるほど、こういうことをつねづね考えていた人だからこそ、歴史学者・阿部謹也の「世間論」(1995年)にいちはやく反応し、現在でも「世間」をキータームで社会の諸現象に評論を行っているのだと理解できる。「世間」の内部ではツーカーで話が通じるが、「世間」の外とは前提条件を共有しないので話が通じないことが多い。「バカの壁」とは「専門用語の壁」である。

「学会は世間だ」というフレーズにつよく反応したことは、養老氏は別の著書のなかで語っている。養老氏の阿部謹也部謹也先生との対談もぜひ目を通していただきたいと思う。学会とは細分化された専門を守る外壁であり、その本質が 「専門=学会=世間」 であることがわかるのである。

その意味では、「会社もまた世間」である。ある種の共同体(コミュニティ)なのである。コミュニティと考えれば、「世間」が日本特有の現象ではなく、程度の違いはあれ普遍的な現象であるといっていいかもしれない。



日本語で科学を記述できるか、という問い

日本語は論理的ではあるのだが、どうも情緒的な側面がつよく、事実関係をそのまま記述すると、どうしても無味乾燥なものになってしまいがちだ。

日本人が一般的に、事実と感想を区別しないで語る傾向があるのは日本語にその原因があるのではないか、もしかしたら同じ言語とはいっても、英語と日本語の違いは想像以上に大きいのではないか。

言語学の専門家はけっして語らない、このような疑問に対する考察も、解剖学者ならではのものであるといっていい。

日本語でいちばん忘れられているのは、伝達のみでなく、現実を表象し、その代替物として利用できる、そういう言語の機能であろう。西欧語には、解剖学用語のように、言語と現実のあいだに、抜き差しならぬ関係がある。それでは言い過ぎだというなら、ことばと現実のあいだの関節が固い。そんな気がする。
言語と現実のあいだに堅い紐帯があれば、証言は重要である。証言の立証、反証が可能だからである。日本語はむしろ、使用者、つまりわれわれの感情世界との結びつきがより強く、したがって、「語るに落ちる」。
証人が、その事態について、感情の上で同意か不同意かを、日本語は見事に表現してしまう。そうしないためには、日本語ならざる日本語、つまり官庁式答弁をするほかはない。他方、現実のその事態がどんなものかについては、ややいい加減で済む。だから、われわれは伝統的に自白を重視する。これは言語の特性だから、しかたがない。日本語は、使用者の心理状態と、ことばとの間の関節が固いのである。
・・(中略)・・
こうした日本語を用いて、自然科学を表現しようというのは、本来かなりの難事である。自然科学のための日本語はまだ完成していない。そう私は考える。おそらく、そした日本語の完成が、ある意味での、我が国の科学の自立と完成を導くであろう。 (P.48~50 `太字ゴチックは引用者=さとう)


残念なことではあるが、現在でも「自然科学のための日本語はまだ完成していない」ようだ。ビジネス文書を含めた報告書の日本語文体もまた、まだまだ改善の余地が大きい。

自然科学の研究者が、もっぱら米英の専門雑誌に英語で専門論文を発表するのは、実質的に専門コミュニティが英語圏に偏っているからであるが、かならずしもそれだけではないのかもしれない。そんなことを考えさせられる。

一般読者向けに科学を解説したポピュラーサイエンスの読み物が、いまだに英米の翻訳物が圧倒的多数を占めているのが現状だが、こういった科学ノンフィクションの読書に慣れた世代から「自然科学のための日本語」が育っていくと期待したいものだ。



階層構造という西欧思考が生み出す還元論と全体論の対立

「第3章 形態とはなにか」で、作家で思想家のアーサー・ケストラーの「ホロン」(=全体子)を取り上げている。部分と全体にかんする議論である。

かつて「ホロン的経営」(あるいは「ホロニックマネジメント」)なるコンセプトが1980年代後半の日本で話題になったことを知っているわたしには、購入時点でいちばん関心をもった箇所だ。

養老氏は、ケストラーが描く「ホロン」を紹介しているが、というコメントを付している。

ケストラーが描くホロン。 典型的に階層構造を示している。むしろ、階層しか示していないことに留意せよ。それがなぜ「全体子」か。(P.65)

 


(ケストラーの「ホロン」の階層性の図 P.65より)


ケストラー(1905~1983)はハンガリーのブダペスト生まれのユダヤ人だが、ハプスブルク帝国という西欧世界で知的形成を行った知識人だ。中退したもののウィーン工科大学で工学を専攻したケストラーは、無意識レベルまで西欧思想が浸透しているのだろうか。

階層性という考えは、どこから生じたのか。次章にも述べるように、これはおそらく、ギリシャ以来の伝統ではないかと思う。・・(中略)・・プラトン自身が世界の階層性をどう考えていたか知らないが、すくなくともアリストテレス以来、生物界の階層性というものは、西欧思考の前提だったらしい。(P.67)

アメリカの哲学者ラブジョイの『存在の大いなる連鎖』を引きながら論じているのは、日本語訳が1984年に出版されて話題になっていたからだろうが、「階層構造」は世界最古でかつ最強の組織であるカトリック教会の根幹にあるものと考えれば、プラトンとアリストテレスの影響がきわめて強いのは明白である。

生物の構造は、全体を構成する部分がまた下位レベルの全体であり、その部分がまた全体であるという性格をもっている。だが、養老氏は以下のように書いている。

私は、階層性の存在を仮定することが、誤りだとはいわない。しかし、西欧思想のように、それにとわられる必要はないと考える。たしかに、階層性はたいへん便利な観念であるが、おかげで、現実的には、還元論と全体論の対立のような不便もまた、そこから生じる。
階層性ではないとしたら、私の考える構造の特性とはなにか。
それは「輪」である。あるいは、輪廻である。
べつにキリスト教神学の向こうをはって、仏さまを持ち出したわけではない。「輪」のやや具体的な像として、私が頭に描いているのは、たとえば、クレプス回路である。(P.68~69)

クレプス回路とは、クエン酸回路のことである。酸素呼吸を行う生物すべてのみられるものだ。TCA回路、TCAサイクルとも呼ばれる。光合成反応における炭酸固定反応を示したカルビン回路とともに、高校生物学で学習することになっている。いわゆる「動的平衡」である。

ここで大切なのは、クレプス回路自体は、現実の構造ではない、ということである。しかし、その中に、構造がもつ性質がよく表現されている。本の中の図に描き出されたクレプス回路は、じつは現実に存在する生体の構造の、きわめてよく出来たマンガになっている。(P.71)

生物モデルでものを考える際に重要な概念である。モデルは現実に説明を容易にするためにあるが、現実そのものではなく、人間がアタマのなかで描き出して「見える化」したものだ。モデルというのはそういうものである。


(クレプス回路=クエン酸回路 wikipediaより)



「生物は機械である」 & 「「ロボットはヒトの擬態である」

養老氏の「形態」の取り扱い方は、以下の4つの観点によるものだ。これが第6章から第10章まで展開されている。

① 数学的・機械的
② 機能的観点
③ 発生的観点(時間的観点1:個体レベル)
④ 進化的観点(時間的観点2:系統レベル)

わたしがとくに面白いと思ったのは「第7章 機械としての構造」である。生物と機械、人間と機械、人間とロボットの関係についての考察が興味深い。

生物が機械だ、という考えには、いろいろな違いがありうる。こうした言い方は、すでに何度か出てきたが、けっきょく、ことばの定義の問題に過ぎない。
このばあい、私は、機械は人間の一部だと考える。機械は元来、ヒトが作り出したものであり、その意味では道具である。道具は人体の一部だという考えは、古くからあった。ヒトが作り出した道具が、人間の属性を帯びることに、じつは何の不思議もない。そうならなかったら、そのほうが不思議である。その意味でいえば、機械はもともと生物の一部であり、それを生き物と錯覚しても、考えようによってはあたりまえである。
・・(中略)・・
こうして機械を考える際にも、意識的にか無意識的にか知らないが、ヒトはヒトの身体を模倣する。だからやはり、機械はヒトの一部であって、それ以上のものではない。その一部が人間以上の能力を持ちだしたといって、驚くこともない。もともと人間以上の能力を発揮させるために、ヒトは機械を造った。(P.152~153)

こういう冷めた見方を、しれっと語る姿勢がじつにいい。「なんでこんな簡単なことがわからないのか?」という著者の内心の声が聞こえてくるようだ。冷静に考えれば十分に納得する内容だろう。

素材にこだわると、かえってわからなくなることは多い。形態学者もまた、その穴に落ちる。後に述べる擬態は典型的な例である。擬態は機械とおなじように、同じ生物が、違う素材で作られた、と考えてもいい。ふつうは、違う生物が同じ形をとる、と考えるが、それでいけないわけではない。しかし、ときには逆に考えてよいであろう。(P.154)

形と素材を区別せよ、という議論もきわめて重要だ。機械はもっぱら金属製であることが多いが、素材がプラスティックでも、セラミックスでも、木材であっても、同じ形に作ることは可能である。素材主義への注意を促している。

ロボットはその意味では、ヒトの擬態である。擬態である証拠に、かつてのあるいはマンガのロボットは、しばしばヒトそっくりにできている。その必要性は、いわゆる機能からすれば、明らかではない。現実のロボットは、形の上で、かならずしもヒトに似ていない。アンドロイドを作ろうとする理由は、通常きわめて行動学的なものである。ひと目でヒトに見えないというのは、社会行動にはいささか具合が悪い。だから、ヒトそっくりのアンドロイドを考えるのである。(P.154)

擬態とは、生物が攻撃から身を避けるために、周からだの色や形などを周囲の植物・動物に似せたり、その他の生物に似せたりすうことを意味しているが、「ロボットはヒトの擬態である」とまで言い切ることに、ある種のすがしがしさを感じるのは、わたしだけではないだろう。

こう考えることで、生物と人間、そしてロボットを同じ土俵で論じることが可能になる。


(紀伊國屋書店のサイトに掲載 画像をクリック!



「見える形」を論じて、「見えないもの」をあぶり出す

以上見てきたように、本書は原液のような濃いエッセンスに充ち満ちた本である。

その後の著作では、本書で展開された思索が希釈化され、飲みやすく(=読みやすく)なっているが、原液そのものはかならずしもすんなりと飲み干せないものを感じることだろう。

だが、それでいいのである。「原点」としての「原典」を読むことの重要性は、あらためて強調するまでもない。

「見える形」を論じて、「見えないもの」をあぶり出す思考法は、その後の「唯脳論」などで本格的に展開されている。これは、養老氏がイエズス会系の栄光学園という男子校出身であることと関係があるのかもしれない。たとえ信者ではなくても、教育をつうじて「見えないもの」に対する感知力が高くなるのであろう。

もともと西欧で発達した自然科学という思考法もまた、「見えないもの」を「見える化」することにある。あくまでもアタマのなかで構築された世界を、実験と観察という実証をつうじて理論化するのが科学的思考の本質なのである。

人体を扱う解剖学者がなぜ、臓器の一部とはいえその他の臓器とは性格の異なる脳の話に行き着くのか、本書を読むとその理由が見えてくるはずだ。

ぜひ一度は手に取って読んでみてほしい本である。



目 次

はじめに
第1章 自己と対象 1 客観主義
 2 実験科学
 3 形態学とはなにか
 4 形をあつかう
第2章 形態学の方法 1 具体的な方法
 2 画像と言葉
 3 形態学と言語
 4 方法の限界-情報の伝達可能性
第3章 形態とは何か 1 構造の定義
 2 ホロン
 3 構造と輪
第4章 対応関係―相同と相似
 1 タコの眼とヒトの眼
 2 相同関係
 3 具体的な対応関係の検討
 4 相似あるいは類比
第5章 重複と多様性
 1 剰余が多様性をみちびく
 2 構造の剰余
 3 剰余性の統御
第6章 純形態学
 1 形だけを扱う
 2 原型としての鰓弓血管
 3 数学的な形の取り扱い
第7章 機械としての構造 1 生物は機械か
 2 素材の違い
 3 現代の機械論
第8章 機能解剖学
 1 機能解剖学とはなにか
 2 機能における枠組み
 3 機能は形を決定するか
第9章 形態と時間
 1 形態学の立場
 2 発生過程と進化過程
 3 発生と形
 4 進化と形
第10章 形態の意味
参照文献

著者プロフィール
養老孟司(ようろう・たけし)
1937(昭和12)年、鎌倉生れ。解剖学者。東京大学医学部卒。東京大学名誉教授。心の問題や社会現象を、脳科学や解剖学などの知識を交えながら解説し、多くの読者を得た。1989(平成元)年『からだの見方』でサントリー学芸賞受賞。新潮新書『バカの壁』は大ヒットし2003年のベストセラー第1位、また新語・流行語大賞、毎日出版文化賞特別賞を受賞した。大の虫好きとして知られ、現在も昆虫採集・標本作成を続けている。『唯脳論』『かけがえのないもの』『身体の文学史』『手入れという思想』『バカの壁のそのまた向こう』など著書多数。(最新著書の書籍案内より)。


<関連サイト>

養老孟司×隈研吾×廣瀬通孝 鼎談:日本人とキリスト教死生観(2) (日経ビジネスオンライン 2014年3月25日)
・・「相対評価」ではなく「絶対評価」が個人主義を育む」  近代精神の主導者であるイエズス会系の栄光学園という男子校出身者の三人が語りあう記事。養老孟司氏が「見えないもの」にかんする感知力が高い理由の背景がわかる。一部引用しておこう。

- 以前、養老先生は、日本人とキリスト教は折り合いが悪いとおっしゃっていました。
養老: そうね、だから世間にふたつの基準ははいらない、という。
- 若い時にキリスト教的な価値観を浴びたことで、ご苦労されたことはありますか。
養老: 苦労というか、考え方ですよね。これは自分じゃなかなか分からないんですけど、考え方は相当、影響を受けているんじゃないですか。キリスト教的な考え方に合う、合わない、というもとの性質はあるとは思いますけど。だって僕は日本の世間とは、もともとあまり合わないじゃないですか。・・(後略)・・

養老: 僕は当事者の感情を書くのにも、どうしてもロジックで書くようになる。そうすると、典型的にヨーロッパ風になる。栄光の教育では、ヨーロッパの思想が日本という違う風土に入った分、もっと純粋化されている。もともと理屈っぽかったんだけど、それに拍車をかけられてしまった感じですね。


なお、上記の対談は『日本人はどう死ぬべきか?』というタイトルで日経BP社から単行本化されている(2014年11月28日 記す)



PS 2020年1月にようやく文庫化が実現!

講談社学術文庫から同じタイトルのまま『形を読む ー 生物の形態をめぐって』として文庫化されます。これを機会に養老孟司氏の原点であるこの本が広く読まれるようになることを願う次第。(2020年1月9日 記す)


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養老孟司氏関連

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書評 『見える日本 見えない日本-養老孟司対談集-』(養老孟司、清流出版、2003)- 「世間」 という日本人を縛っている人間関係もまた「見えない日本」の一つである

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「釈尊成道2600年記念 ウェーサーカ法要 仏陀の徳を遍く」 に参加してきた(2011年5月14日)
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銀杏と書いて「イチョウ」と読むか、「ギンナン」と読むか-強烈な匂いで知る日本の秋の風物詩

「ルドルフ・シュタイナー展 天使の国」(ワタリウム美術館)にいってきた(2014年4月10日)-「黒板絵」と「建築」に表現された「思考するアート」
・・ゲーテの科学思想の研究から出発したシュタイナー

「生命と食」という切り口から、ルドルフ・シュタイナーについて考えてみる
・ゲーテの科学思想の研究から出発したシュタイナー


古生物学と進化論

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部分と全体、階層性、そしてアーサー・ケストラー

「ホリスティック」に考える-「医学」のアナロジーで「全体」を観る視点を身につける
・・ケストラーの「ホロン」の議論とも重なる哲学的視点

書評 『武士とはなにか-中世の王権を読み解く-』(本郷和人、角川ソフィア文庫、2013)-日本史の枠を超えた知的刺激の一冊
・・ツリー型の階層型組織構造が一神教と親和性が高いこと

・・ユダヤ教が布教された地域は、アーサ-・ケストラーの著作で有名になった「ハザール王国」だけではない
最近ふたたび復活した世界的大数学者・岡潔(おか・きよし)を文庫本で読んで、数学について考えてみる

書評 『「大発見」の思考法-iPS細胞 vs. 素粒子-』(山中伸弥 / 益川敏英、文春新書、2011)-人生には何一つムダなことなどない!

企画展「ウメサオタダオ展-未来を探検する知の道具-」(東京会場)にいってきた-日本科学未来館で 「地球時代の知の巨人」を身近に感じてみよう!
・・「「発見」というものは、たいていまったく突然にやってくるのである」(梅棹忠夫)


人間と動物とロボット

書評 『ロボットとは何か-人の心を写す鏡-』(石黒浩、講談社現代新書、2009)-「人間とは何か」、「自分とは何か」という哲学的な問いを考える手引き ・・ロボットに魂をもちうるのか?

書評 『動物に魂はあるのか-生命を見つめる哲学-』(金森修、中公新書、2012)-日本人にとっては自明なこの命題は、西欧人にとってはかならずしもそうではない
・・デカルトの「動物機械論」の波紋とその攻防の西欧近代思想史

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