養老孟司氏といえば、
口述筆記を活字化した新書本 『バカの壁』(2003年)ですっかり国民的有名人になってしまったが、そのはるか以前の1986年に、一般書ではないが洞察にとんだ本書のような著作を出していることをご存じだろうか。
『形を読む ー 生物の形態をめぐって』(養老孟司、培風館、1986)は、
著者みずからが「原点」だとしている本である。いまから28年前のものであるが、幸いなことに現在でも入手可能である。
わたしがこの本と出会ったのは、当時住んでいた場所に近かった
書原・杉並本店(南阿佐ヶ谷駅前)である。いまから十数年前のことだ。
たしか平積みになっていたのではないかと記憶している。わたしにとって書原は、ある意味では、図書館以上に「知の発信地」的な存在であった。
この本は、
かなりクセのある個性的な内容の本である。
「生物の形」の意味について、
「形態学という学問」について、
「自然科学というもの」について、著者がつねづね疑問に思っていたことを、自分のアタマで考えた内容を独特の文体つづったものだ。
だから、もちろん
教科書的な記述ではない。したがって、
無味乾燥な内容ではない。哲学や思想までカバーした膨大な読書をもとにした引用も多い。
自分の専門に即して、そもそも論を考え抜いた思索の跡を言語化したものだから、いわゆる哲学的な考察にもなっているのだろう。
解剖学も形態学もわたしの専門ではないので、正直いって全部を理解したとは言い難い。だが、ひじょうに刺激的な内容である。通説に反した見解もあえて提示しているからだ。
購入してから部分的につまみ食いしただけだったが、今回あらためて最初から最後までとおして読んでみて、いろいろ思うことがあった。その一端をここに記しておきたいと思う。
■
人間は視覚をつうじて形(かたち)を認識する
人間はいわゆる五感をつうじて知覚しているわけだが、とりわけ
視覚とつうじて「ものの形」を認識している。
人間の知覚における視覚のウェイトは、その他の動物と比較して突出して高いこともその理由の一つであろう。
著者は「はじめに」でこう書いている。
「ヒトが見る」世界には、視覚の特質が、強く反映するにちがいない。そこから、形態学の、認識論的性質が生まれる。・・(中略)・・私が形態の意味や解釈をあつかう理由は一つである。それは、そうしたものが、けっきょく、自分の頭の中の現象だと考えるからである。自然科学の各分野は、しばしば対象のみを純粋に取り扱うという「ふり」をしてきた。そうすれば、自分の頭の方は、無視できるからである。形態学も、その典型であろう。((P.iii~P.iv *太字ゴチックは引用者=さとう)
自然科学に限らず、学問研究というものは「自分と対象との関係」がつねに存在するにもかかわらず、
「自分」という存在をカッコのなかに入れて、客観的に対象を扱っているという「ふり」をしてきたことに対する痛烈な批判である。
実験し観察する主体である「自分」。この存在を抜きに考えることができないだけでなく、
観察対象である事物や現象そのものが、「自分」というフィルターがそれを選択し、自分の脳内で解釈しているという事実。解剖学者がなぜ「唯脳論」などというタイトルの本を出すことになるのか、ここに言い表されている。
かの有名な
「バカの壁」というフレーズが、すでに「馬鹿の壁」という表記で、1986年時点で本人が使用していたこともわかる。
自然科学のいわゆる客観性、つまり、いつどこでも同じ結論に達する、という性質は、一種の「強制伝達可能性」である。あるいは、自然科学とは、無限に多用な現実から、そうした部分のみを、情報として切り出してくる作業である。
情報の伝達という面から、自然科学で起こる最大の問題は、じつは情報の受け手が、馬鹿だったらどうするか、というものである。相手が馬鹿だと、本来伝達可能であるはずの情報が、伝達不能になる。これを、とりあえず「馬鹿の壁」と表現しよう。
たとえば、そうした相手が、科学の結論を信じこんだとき、科学が宗教と同じ機能をはたす、という現象を生じるだから、科学と宗教は、ときどき仲が悪い。
結論が導かれる過程を重視せず、一方その結論のみを信じるという意味で、宗教の結論も、科学の結論も、御託宣にほかならない。・・(中略)・・ 相手がほんとうに馬鹿なら、科学の結論をみちびく過程、およびその結論が伝達不能だということは、歴然としている。
・・(中略)・・
「文学がわからない」という台辞は、伝達可能性における受け手の問題、つまり自然科学ではふつう隠されている「馬鹿の壁」が、文学ではタブーではなく、前提としてはじめから許されていることを示す。(P.50~53 太字ゴチックは引用者=さとう)
専門分化がさらに進行する現在、
専門が狭くなればなるほど「バカの壁」が高くなることがわかる。
「バカの壁」とは「専門」と言い換えていい。細分化された、その
狭い専門の範囲内では、その分野の特殊な専門用語でコミュニケーションを行うので、きわめて「強制伝達可能性」が高いのであり、つまり
ポジティブな側面だけを見れば、効率がきわめて良いということを意味している。
いわば青果市場のセリの符丁のようなものだが、魚市場とは符丁が異なるので、当然のことながら同じ日本人であっても、青果市場と魚市場とでは符丁によるコミュニケーションは不可能である。これとおなじことが、細分化された「学会」どうしでは発生するわけだ。
なるほど、こういうことをつねづね考えていた人だからこそ、
歴史学者・阿部謹也の「世間論」(1995年)にいちはやく反応し、現在でも「世間」をキータームで社会の諸現象に評論を行っているのだと理解できる。「世間」の内部ではツーカーで話が通じるが、「世間」の外とは前提条件を共有しないので話が通じないことが多い。「バカの壁」とは「専門用語の壁」である。
「学会は世間だ」というフレーズにつよく反応したことは、養老氏は別の著書のなかで語っている。
養老氏の阿部謹也部謹也先生との対談もぜひ目を通していただきたいと思う。
学会とは細分化された専門を守る外壁であり、その本質が
「専門=学会=世間」 であることがわかるのである。
その意味では、「会社もまた世間」である。ある種の共同体(コミュニティ)なのである。コミュニティと考えれば、「世間」が日本特有の現象ではなく、程度の違いはあれ普遍的な現象であるといっていいかもしれない。
■
日本語で科学を記述できるか、という問い
日本語は論理的ではあるのだが、どうも情緒的な側面がつよく、事実関係をそのまま記述すると、どうしても無味乾燥なものになってしまいがちだ。
日本人が一般的に、事実と感想を区別しないで語る傾向があるのは日本語にその原因があるのではないか、もしかしたら同じ言語とはいっても、英語と日本語の違いは想像以上に大きいのではないか。
言語学の専門家はけっして語らない、このような疑問に対する考察も、解剖学者ならではのものであるといっていい。
日本語でいちばん忘れられているのは、伝達のみでなく、現実を表象し、その代替物として利用できる、そういう言語の機能であろう。西欧語には、解剖学用語のように、言語と現実のあいだに、抜き差しならぬ関係がある。それでは言い過ぎだというなら、ことばと現実のあいだの関節が固い。そんな気がする。
言語と現実のあいだに堅い紐帯があれば、証言は重要である。証言の立証、反証が可能だからである。日本語はむしろ、使用者、つまりわれわれの感情世界との結びつきがより強く、したがって、「語るに落ちる」。
証人が、その事態について、感情の上で同意か不同意かを、日本語は見事に表現してしまう。そうしないためには、日本語ならざる日本語、つまり官庁式答弁をするほかはない。他方、現実のその事態がどんなものかについては、ややいい加減で済む。だから、われわれは伝統的に自白を重視する。これは言語の特性だから、しかたがない。日本語は、使用者の心理状態と、ことばとの間の関節が固いのである。
・・(中略)・・
こうした日本語を用いて、自然科学を表現しようというのは、本来かなりの難事である。自然科学のための日本語はまだ完成していない。そう私は考える。おそらく、そした日本語の完成が、ある意味での、我が国の科学の自立と完成を導くであろう。 (P.48~50 `太字ゴチックは引用者=さとう)
残念なことではあるが、
現在でも「自然科学のための日本語はまだ完成していない」ようだ。ビジネス文書を含めた報告書の日本語文体もまた、まだまだ改善の余地が大きい。
自然科学の研究者が、もっぱら米英の専門雑誌に英語で専門論文を発表するのは、実質的に専門コミュニティが英語圏に偏っているからであるが、かならずしもそれだけではないのかもしれない。そんなことを考えさせられる。
一般読者向けに科学を解説したポピュラーサイエンスの読み物が、いまだに英米の翻訳物が圧倒的多数を占めているのが現状だが、こういった科学ノンフィクションの読書に慣れた世代から「自然科学のための日本語」が育っていくと期待したいものだ。
■
階層構造という西欧思考が生み出す還元論と全体論の対立
「第3章 形態とはなにか」で、
作家で思想家のアーサー・ケストラーの「ホロン」(=全体子)を取り上げている。
部分と全体にかんする議論である。
かつて「ホロン的経営」(あるいは「ホロニックマネジメント」)なるコンセプトが1980年代後半の日本で話題になったことを知っているわたしには、購入時点でいちばん関心をもった箇所だ。
養老氏は、
ケストラーが描く「ホロン」を紹介しているが、というコメントを付している。
ケストラーが描くホロン。 典型的に階層構造を示している。むしろ、階層しか示していないことに留意せよ。それがなぜ「全体子」か。(P.65)
(ケストラーの「ホロン」の階層性の図 P.65より)
ケストラー(1905~1983)はハンガリーのブダペスト生まれのユダヤ人だが、ハプスブルク帝国という西欧世界で知的形成を行った知識人だ。中退したもののウィーン工科大学で工学を専攻したケストラーは、無意識レベルまで西欧思想が浸透しているのだろうか。
階層性という考えは、どこから生じたのか。次章にも述べるように、これはおそらく、ギリシャ以来の伝統ではないかと思う。・・(中略)・・プラトン自身が世界の階層性をどう考えていたか知らないが、すくなくともアリストテレス以来、生物界の階層性というものは、西欧思考の前提だったらしい。(P.67)
アメリカの哲学者ラブジョイの『存在の大いなる連鎖』を引きながら論じているのは、日本語訳が1984年に出版されて話題になっていたからだろうが、
「階層構造」は世界最古でかつ最強の組織であるカトリック教会の根幹にあるものと考えれば、プラトンとアリストテレスの影響がきわめて強いのは明白である。
生物の構造は、全体を構成する部分がまた下位レベルの全体であり、その部分がまた全体であるという性格をもっている。だが、養老氏は以下のように書いている。
私は、階層性の存在を仮定することが、誤りだとはいわない。しかし、西欧思想のように、それにとわられる必要はないと考える。たしかに、階層性はたいへん便利な観念であるが、おかげで、現実的には、還元論と全体論の対立のような不便もまた、そこから生じる。
階層性ではないとしたら、私の考える構造の特性とはなにか。
それは「輪」である。あるいは、輪廻である。
べつにキリスト教神学の向こうをはって、仏さまを持ち出したわけではない。「輪」のやや具体的な像として、私が頭に描いているのは、たとえば、クレプス回路である。(P.68~69)
クレプス回路とは、クエン酸回路のことである。酸素呼吸を行う生物すべてのみられるものだ。TCA回路、TCAサイクルとも呼ばれる。光合成反応における炭酸固定反応を示したカルビン回路とともに、高校生物学で学習することになっている。いわゆる「動的平衡」である。
ここで大切なのは、クレプス回路自体は、現実の構造ではない、ということである。しかし、その中に、構造がもつ性質がよく表現されている。本の中の図に描き出されたクレプス回路は、じつは現実に存在する生体の構造の、きわめてよく出来たマンガになっている。(P.71)
生物モデルでものを考える際に重要な概念である。モデルは現実に説明を容易にするためにあるが、現実そのものではなく、人間がアタマのなかで描き出して「見える化」したものだ。モデルというのはそういうものである。
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