バングラデシュ情勢が流動化している。 学生が主体のデモが数百人の犠牲を生んだすえに暴動に発展し、一昨日(2024年8月5日)にはついにハシナ首相が退陣して国外脱出という事態になった。
ハシナ元首相にかんしては、10年以上前のことになるが、東京で開催された海外直接投資のセミナーで見たことがある。小柄だがエネルギッシュな女性であった。フィリピンのアロヨ元大統領もそんな感じだったな。
そんな元首相も、長年にわたって統治をつづけるうちに権威主義低傾向が強まり、軍隊をつかって反対派の声を封じる挙にでて、その結果かえって大きな抵抗運動を生み出すにいたったのであろう。
今後のバングラデシュ情勢は要注視である。現在は首相退陣に大きな役割をはたした国軍が治安維持を行っているが、平和裏に総選挙が実施されることを願うばかりだ。
すでにヒンドゥー寺院襲撃など少数派への暴力行為が発生していると報道されている。民主主義の枠組みのなか、選挙をつうじて過激なイスラーム主義者に乗っ取られないことを望みたい。
バングラデシュといえば、発展途上国のソーシャルビジネスを支える「マイクロクレジット」の生みの親で、グラミン銀行の創設者で元総裁のユヌス博士のことは知っている人も少なくないと思う。2006年にノーベル平和賞を受賞している。
ユヌス博士は、崩壊した前政権と対立して総裁退陣を余儀なくされていた。学生の熱い支持のもと、再浮上してきたのがムハマド・ユヌス氏だ。ユヌス氏は「(1971年のパキスタンからの独立につぐ)第二の解放だ!」という第一声を発している。84歳のユヌス氏は、暫定政権の首相になることが期待されている。
■在日バングラデシュ人という視点
さて、こんなときだからこそ積ん読となっていたバングラデシュ関連書を読む絶好の機会である。
まずは、『パンツを脱いだその日から ー 日本という国で生きる』(マホムッド・ジャケル、ごま書房新社、2022)という本から。副題には「日本社会の一員となったバングラデシュ人の物語」とある。
大学に入るため日本にはじめて来て銭湯に入った際、番台のオバチャンから言われたのが、「パンツを脱ぎなさい!」という一言。 この一言が、人前ではハダカにならない文化に育った著者のプライドを崩壊させ、そして同時に日本人に生まれ変わった瞬間であった、と著者は回想している。
貧困国のバングラデシュに生まれ育ち、不法滞在していた兄の影響もあって「憧れの国」日本にやってきた若き著者の苦労の物語。
転々と職を変え、日本社会で生きる苦しさを味わいながらも、残り物には福があるというべきか、最終的に著者は日本企業ハクキンカイロの正社員となり、バングラデシュ人と結婚しながらも日本国籍を取得することに成功する。
ムスリムでありながら酒が好き、バングラデシュ人の妻と結婚する前のことであるが、惚れやすい体質など、なかなか人間くさい人物のようだ。
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目 次まえがき第1章 バングラデシュに生まれて第2章 日本への旅立ち前夜第3章 日本という国で生きる第4章 日本の人たちと関わって第5章 日本人のひとりとなって第6章 日本とバングラデシュの架け橋へ
著者プロフィールマホムッド・ジャケル(Mahmud Jaker)1972年、バングラデシュ独立戦争中に生まれる。フェニ県ダゴンブィヤンプロショバゴニプル村出身。アジアの最貧困と言われたバングラデシュで青春期を過ごし、1994年4月に来日。出稼ぎも兼ねた外国人留学生として日本語を学び、城西国際大学人文学部(千葉県東金市)に入学。在学中にバングラデシュの現状を訴えたスピーチで、「留学生日本語弁論大会」NHK大阪社長賞を受賞。また翌年には「留学生スピーチコンテスト」で毎日新聞社賞を受賞。卒業後は外国人労働者として、仕事を転々としながら入国管理局や大阪府警察本部などで民間通訳人(日本語ーベンガル語)も担当する。2003年にはハクキンカイロ株式会社に入社し、現在に至る。仕事の傍ら、バングラデシュ人留学生に日本生活情報支援を行い、2019年にはNPO法人関西バングラディシュソサイエティ(KBS)を設立。日本とバングラデシュの架け橋になるため、在日バングラデシュ人には日本の文化を、日本人にはバングラデシュの文化を伝えている。また、現在は日本国籍を取得している。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)
■インドの詩聖タゴールはバングラデシュでも絶対的存在
それにしても印象的なのが、全編にわたって「タゴールの詩句」が何度も引用されることだ。数えてみたら13箇所もあった。
ラビンドラナート・タゴール(1861~1941)は、英国の植民地時代のインドが生んだ、インドを代表する詩人で万能のアーチストである。 「詩聖」として讃えられている。
アジア人ではじめてノーベル賞(文学賞)を受賞した人だ。日本でいえば大正時代のことであり、日本でもタゴールのブームが巻き起こったらしい。 日本にもなんども来日している。
母語であるベンガル語で書いた詩集『ギーターンジャリ』(=歌の捧げ物)をみずから英語にした詩集が受賞対象となった。
ベンガル語は、インド北東部のベンガル地方でつかわれていることばだが、ベンガルはインド独立後にイスラームとヒンドゥー教が「宗教分断線」となって、ムスリムが多数派のバングラデシュとヒンドゥー教徒が中心のベンガル州に分離されてしまったのである。
タゴールというとインドという連想があるのだが、じつはベンガル語地帯のバングラデシュでも、きわめて大きな存在であることが、この本を読んでよくわかった。バングラデシュの国歌もタゴールの詩に曲をつけたものだという。インドの国歌については言うまでもない。
というわけで、森本達雄訳註の『ギタンジャリ』(第三文明社レグルス文庫、1994)も引っ張り出してきて一緒に読む。
岩波文庫その他にもベンガル語からの訳と英語版からの訳が収録されているが、レグルス文庫版では英語原文も収録されているのがいい。
■近代以降のベンガルと日本の深い絆を再確認する
そんなバングラデシュも含めたベンガル地方と日本の関係は、近代に入ってからだが、じつに深くて熱いものがあることは、日本人全体の常識にしておきたいものだ。
そこで、積ん読のままにしておいた『日本がアジアを目覚めさせた ー 語り継ぎたい「20世紀の奇跡」インド独立への道』(プロビール・ビカシュ・シャーカー、ハート出版、2020)も読む。
在日30年で、日本語に堪能な日本国籍のバングラデシュ知識人が書いた本だ。
このテーマは自分としては、昔から比較的よく知っている。「悲惨なインパール作戦、インドからはどう見えるのか 「形を変えて」インド独立につながっていた」 という記事も書いたことがある。
だが、本書を通読してみて思ったのは、じつによく調べ、じつによくまとまった良書であると感じた。日本人こそ読むべきだと大いに薦めたい。
なによりも、バングラデシュ人である著者が、ベンガル人として書いた本であることが重要だ。カバーの肖像写真はタゴールである。
岡倉天心とタゴールの出会いと深い友情から始まった日本とベンガルの歴史は、「中村屋のボース」ことラス・ビハリ・ボース、そしてインド独立を軍事面から推進したチャンドラ・ボースを経て、法律専門家として中立的立場から東京裁判でA級戦犯の無罪を主張したパル判事などにつながっていく。
もちろん、タゴールとの出会いの前には、ラーマクリシュナの高弟であったヴィヴェーカーナンダと天心との出会いがあったことは記しておかないといけない。残念ながら体調を崩していた彼を日本に招致することは叶わなかった。
また、詩聖タゴールは5回も来日しており、日印協会の会頭を務めていた渋沢栄一との交流も特記しておくべきだろう。1924年(大正13年)には、「タゴール歓迎有志会総代」としてタゴールをもてなしている。タゴールは日本女子大創設者の成瀬仁蔵からの紹介であった。
(東京王子の「渋沢資料館」の展示 筆者撮影)
著者は言及していないが、ノーベル経済学賞を受賞したアマルティヤ・セン博士もこの系譜に加えるべきであろう。セン博士は英国のケンブリッジ大学教授だが、タゴールが創設した学校で学び、日本との関係も深い方だ。
日本とベンガルとの関係は、このようにじつに深くて熱いのである。だからこそ、バングラデシュでは日本への憧れがあり、『パンツを脱いだ日』の著者も来日して日本国籍を取得するに至っているのである。
バングラデシュの国旗は、緑地に赤丸であり日の丸と酷似(・・ただし、バングラデシュの赤丸は太陽ではなく、1971年の独立戦争で流された血を象徴しているという)しているのも、その現れであろう。
とはいえ、さまざまな人間関係があることは承知の上であることは言うまでもない。父親がバングラデシュ人の女性タレントがいることは、意外と知られていないかもしれない。
その一方、2016年の「ダッカテロ事件」で日本人援助関係者7人が虐殺されたことも、また「イスラーム国」に身を投じた過激なイスラーム主義者のテロリストが日本留学組から生まれていることから、目をそらすべきではない。
それでもなお、ベンガル人と日本人の絆を確認しておきたいのである。
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目 次はじめに第1章 日本とベンガルの交流のはじまり第2章 タゴールと岡倉天心第3章 ラス・ビハリ・ボースと日本第4章 受け継がれる「独立」への意志第5章 チャンドラ・ボースとインド国民軍第6章 「パル判決書」の歴史的意義第7章 バングラデシュ小史特別対談 ペマ・ギャルポ × シャーカーおわりに主要参考引用文献
著者プロフィールプロビール・ビカシュ・シャーカー(Probir Bikash Sarker)1959年、バングラデシュ・コミラ県生まれ。チッタゴン国立大学歴史学部卒業。大学在学中、中曽根首相時代の「留学生10万人計画」により1984年来日。日本の印刷技術と出版業を学び、1991~2002年、日本で初めてのベンガル語情報誌『月刊マンチットロ』出版。2007~2014年、ベンガル語子ども新聞『月刊キショルチットロ』編集長。タゴール研究家、出版者、編集者、作家、日本語法廷通訳。現在、アジア自由民主連帯協議会理事、岐阜女子大学南アジア研究センター特別研究員。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)
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・・ベンガル系の家族に生まれたヨーガ指導者
・・「在日バングラデシュ人の起業家ユヌス・ラハマンも 『おカネを取るヒト 取られるヒト』(H&I、2005)という本で、カネの重要性と人間の生き方について書いている。」
・・ユヌス博士が登壇
2010年7月23日金曜日
・・チャンドラ・ボースと「インド国民軍」は、日本軍とともにインパール作戦に参加した
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