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2024年8月15日木曜日

「アジアは一つ」(Asia Is One)という名言はインドで生まれた!ー 『岡倉天心とインド ー 「アジアは一つ」が生まれるまで』(外川昌彦、慶應義塾大学出版会、2023)を読む



岡倉天心といえば『茶の本』が有名だが、この本は "The Book Of Tea" というタイトルで1906年に英語で出版された本だ。だから原文は英語である。 

岡倉天心がつくったフレーズでもっとも有名なものは「アジアは一つ」(Asia is One)であろう。 このフレーズも、最初から英語で発表されたものであり、日本語訳は本人によるものではない。

これほど誤解を生み出し、毀誉褒貶(きよほうへん)に満ちた表現はほかにはないかもしれない。だが、もともとこのフレーズは「美術史」の文脈のなかで生まれたものだ。  

「アジアは一つ」というフレーズが生まれたのは、岡倉天心がインドに9ヶ月滞在していた1902年(明治35年)のことであった。 

このテーマを全面的に取り上げたのが、『岡倉天心とインド ー 「アジアは一つ」が生まれるまで』(外川昌彦、慶應義塾大学出版会、2023)である。学術書だが一般書として読むこともできる。




著者の外川氏は、ベンガル地方での長年にわたるフィールドワークの記録を、『聖者たちの国へ ー ベンガルの宗教文化誌』(NHKブックス、2008)として一般書にまとめている人だ。

現在ではイスラームのバングラデシュと、ヒンドゥー教のインドの西ベンガル州に分断されているが、ベンガル地方はもともとベンガル語という共通語をもつ地域であった。

天心が向かったのは、当時は植民地支配者の英国が本拠地としていたベンガル地方であった。


■インド体験は岡倉天心にとっての人生のターニングポイント

1902年の9ヶ月にわたるインド滞在は、明治政府の美術行政からキャリアを開始した岡倉天心にとって「人生の転換点」となった。そのとき、天心は39歳であった。 

公私にわたるごたごたを払拭するかのようにインドに渡った天心。当時のインドは、英国による植民地時代であった。天心が滞在したのは、首都がデリーに移転する前のベンガル地方であった。 

インド渡航の目的であったのが、ベンガル生まれのヴィヴェーカーナンダ(Vivekananda)を日本に招くため、本人と直接と会うことであった。


(1903年シカゴでのヴィヴェーカーナンダ Wikipediaより)


ヴィヴェーカーナンダは、聖者ラーマクリシュナの弟子で、ヒンドゥー教の復興運動を主導した知識人でもある。宗教と精神性を核にして、インド人としての自覚を促し、まずは精神的独立を目指す運動を移動した人物であった。

同世代であるだけでなく、1863年生まれの同年齢であった天心とヴィヴェーカーナンダその出会いと、インド美術をめぐる旅をつうじて深めた意気投合し、深い対話をつうじて生まれてきたのが、「アジアは一つ」というコンセプトだったのだ。 

だが、ヴィヴェーカーナンダとの出会いは、その年にヴィヴェーカーナンダが死去したことで終わる。享年39歳。あまりにも早い死であった。

残りのインド滞在中、天心はヴィヴェーカーナンダの系譜にある詩人タゴールとともに過ごしている。天心のインド体験は、ヴィヴェーカーナンダとの出会いに始まり、タゴールとの交流で深まっていったのである。

ナショナリストであり、かつインターナショナリストでもある。この両面性を兼ね備えていたのが、岡倉天心であり、ヴィヴェーカーナンダであり、タゴールであった。



「アジアは一つ」とは、「多様性のなかの統一」そのもの

「アジアは一つ」とは、「多様性のなかの統一」そのものである、多言語で多宗教という、多様性に充ち満ちたインドに身を置いていたからこそ生まれてきたといっていいだろう。

19世紀当時の欧米の学者の偏見に満ちた美術史ではなく、アジア人の視点から美術史を書き直す運動、そのなかから生まれ出てきたのである。 

もちろん、中国とインドだけでも大きく違っているのに、ましてや「アジアが一つ」なわけがないだろう、そう主張する人も少なからずいるはずだ。だが、地球全体のなかでみれば、やはり「アジア性」というものが存在するといわざるを得ないのではないか。 

天心の趣旨は、インドで生まれた文明が中国に伝播し、そのインド文明と中国文明の精華が融合したのが極東の日本だというものである。

わたしは、アメリカ留学中にアジアからの留学生たちと親しく接するなか、天心のこの「アジアは一つ」というフレーズを思い出し、大きくうなづくものを感じたのである。

多種多様なバックグラウンドをもったアジア人だが、明らかに欧米人とは違うアジア人。そう、アジア人はアジア人以外のなにものでもない。自分もまた「アジア人としての自覚」をつよく抱いたのであった。 



■英語圏の読者にむかって英語で発信しつづけた岡倉覚三

もともと、内村鑑三や新渡戸稲造などと同様、天心は「英語名人世代」の人であり、漢文を習う前に横浜で英語を習得していた人である。

その天心は、インド体験の1902年以降は英語圏の読者に向けて英語で書くことになる。だが号である天心名義ではなく、本名の Kakuzo Okakura(=岡倉覚三)名義である。

生前の天心は、英語著作の日本語訳はけっして許さなかったという。最初から英語で、インドを含めた英語圏の読者に向けて書いた本は、日本語読者を意識したものではなかったのだ。 日本語による著作とは読者層も目的も異なっていたのである。


わたしは、天心ゆかりのボストン美術館を訪れた際に、ミュージアムショップで "The Book Of Tea" のペーパーバックを購入した。天心は、 英語圏では Kakuzo Okakura として、現在に至るまで読まれ続けている。


(かつて名古屋にあったボストン美術館の日本館は2018年に閉鎖)


そしてわたしは、アメリカから帰国してから3年後、はじめてインドを訪れた。1995年のことである。

そして本日(2024年8月15日)は、「インド独立」から77年にあたる。だが、残念なことに、それはインドとパキスタンの「分離」をともなったものであった。

ベンガル地方もまた、東パキスタン(現在のバングラデシュ)とインドの西ベンガル州に分離してしまったのである。


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目 次
地図/年表/凡例 
序章 
第1章 岡倉天心のインド体験 
第2章 越境するアジア知識人 
第3章 岡倉天心の「転向」 
第4章 ヴィヴェーカーナンダと日本 
第5章 インド社会像の探求 
第6章 反響するインド美術史観 
終章 切り開かれた地平 ― 多様な「アジア」へ 
初出一覧 
あとがき 
参照文献/注/事項索引/人名索引 


著者プロフィール 
外川昌彦(とがわ・まさひこ) 
1964年生まれ。東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所教授。1992~1997年にインドに留学し、ベンガルの農村社会で住み込み調査を行う。慶應義塾大学大学院社会学研究科博士課程修了。博士号(社会学)。専門は、文化人類学、宗教学、ベンガル文化論。



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