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2024年3月17日日曜日

我孫子にプチ旅行 その2 「我孫子の手賀沼文学散歩」(2024年3月16日)― 手賀沼の北岸はかって文人たちの別荘地であった

 

さて、我孫子駅ホームにある天才画家・山下清画伯ゆかりの「弥生軒6号店」で腹ごしらえをしたあとは、生まれてはじめて我孫子駅の外にでる。駅前ロータリーに面して設置されているパネルが上掲の「我孫子市ゆかりの文化人」のパネルである。

今回の小旅行の目的は、手賀沼の北岸に形成されていた別荘地の痕跡を見に行くことにあった。パネルにも登場する「白樺派」の柳宗悦を筆頭に、若き日の志賀直哉や武者小路実篤が集まって、いわゆる「文士村」が形成されていたという。 

「文士村」といえば、田端や本郷、そして荻窪などが想起されるが、千葉県北西部に位置する我孫子もまたそうだったのだ。 そんなことを知ってから、いずれ我孫子と手賀沼散策をする必要があるなと思っていたのだが、直接のキッカケは「白樺派」ではなかった。
  

杉村楚人冠(1872~1945)はジャーナリストで、朝日新聞社の取締役まで務めた人だ。在世当時はひじょうに人気の高い文筆家であったという。ネットで調べていると、なんと「杉村楚人冠記念館」なるものが我孫子にあるというではないか。

それなら杉村楚人冠記念館も含め行ってみる行ってみるべきだなと思ったのである。3月らしい陽気に誘われ、重い腰をあげて我孫子に日帰りのプチ旅行を行うことにした次第だ。


(手賀沼のほとりに設置されたプレート 筆者撮影)



■ほんとうに重要な人物は嘉納治五郎であった!

現地にいってみて、この「我孫子文士村」ともいうべき、手賀沼北岸地域で、ほんとうに重要な人物は嘉納治五郎だとわかった。

柔道の講道館の父である。教育者として、日本のスポーツ界の重鎮でもあった、あの嘉納治五郎だ。 

嘉納治五郎が我孫子に別荘を建てたことからすべてが始まったのである。その嘉納治五郎の縁者であったのが、柳宗悦であった。現在では「民藝運動の父」として知られている宗教哲学者である。嘉納の姉が柳宗悦の母であり、柳宗悦にとっては伯父さんであった。  

まずは、「嘉納後楽農園跡」というものに立ちよる。現在は単なる「跡地」でプレート以外にはなにもない。


(天神坂を上から見る 筆者撮影)


「嘉納治五郎別荘跡」はそこから歩いて、天神坂という風情のある坂の上にある。現在は公園になっており、嘉納治五郎の銅像が立っている。


(嘉納治五郎の銅像 筆者撮影)


「嘉納治五郎別荘跡」は、まさに「手賀沼ビュー」ともいうべき、風光明媚な立地である。 
 

(嘉納治五郎別荘跡から手賀沼を見下ろす 筆者撮影)


その嘉納治五郎の別荘の隣に入居したのが柳宗悦であった。「三樹荘」という。現在はその土地はの所有者は私人であり、建物も当時のものではないようだ。

その柳宗悦に引かれるように白樺派の面々が移住してきた。志賀直哉であり、武者小路実篤などである。「白樺文学館」が我孫子にあるのはそのためだ。

そしてその「三樹荘」から「民藝」へのつながりが生まれてくる。英国人の陶芸家バーナード・リーチがその庭で窯を開いており、そこをたずねてきた濱田庄司と出会うことになる。



■手賀沼北岸に理想的な郊外生活の拠点を置いた杉村楚人冠

だが、今回のハイライトというべきなのは「杉村楚人冠記念館」であった。これがいちばんいい。

建築物として、外観も内観もいい味だしている。楚人冠がいかなる人であるか知らなくても、訪れてみる価値がある。 


(杉村楚人冠記念館の外観 筆者撮影)


杉村楚人冠は、関東大震災後に大森を引き払って、我孫子を終の棲家と決めたらしい。これまた嘉納治五郎がらみのようだ。 

杉村楚人冠の旧邸が記念館となって保存されているが、ここもまた「手賀沼ビュー」ともいうべき好立地にあり、しかも当時は最新の耐震住宅として設計されたという。 だから現在でもびくともしないのだ、と。


(総ガラス張りの渡り廊下 筆者撮影)


入館料を払ってなかを拝見する。総ガラス張りの陽光をふんだんに取り入れた趣ある日本住宅である。なるほど、映画のロケに使用されるわけだ。

展示品は撮影禁止だが、応接間や書斎は撮影OKだ。 


(作り付けの書棚のある応接間 筆者撮影)


書斎の蔵書には、鈴木大拙の本が何冊も並んでいた。しかも和文の単行本だけでなく、『禅と日本文明』の英文原著も架蔵されている。


(杉村楚人冠の書斎の蔵書から 筆者撮影)


「我孫子文学散歩」のガイドにはまったく説明がないが、鈴木大拙は学習院で英語教師として柳宗悦の先生であったことを想起すべきだろう。白樺派の面々はみな学習院出身者であった。さまざまな縁で、つながれた人たちが集まっていたわけだ。 



■我孫子は古代ギリシアとつながっている

最後に「旧村川別荘」まで歩く。ここは古代ギリシアを専門とした歴史家親子、村川堅固と村川堅太郎が別荘としていたものだ。


(旧村川別荘の門 筆者撮影)


これまた手賀沼を見下ろす高台の中腹に設けられた、「手賀沼ビュー」ともいうべき好立地にある。総ガラス張りの応接間からは手賀沼が一望できる。


(手賀沼が一望できる応接間 筆者撮影)


村川堅固は熊本出身で、嘉納治五郎の弟子であった。そして、その息子の村川堅太郎もまた我孫子と縁のある人だとは、いまのいままでまったく知らなかった。 

我孫子は古代ギリシアともつながっているのか、と。



■手賀「沼」の「湖畔」にて

 さて、ひととおり「文学散歩」を終えたら、手賀沼の「湖畔」に出る。

沼なのに湖畔というのも変だが、地元では「湖畔」というらしい。たしかに、手賀沼は沼というよりも湖っぽい。 手賀沼の水は現在では濁っているが、白樺派が移住した頃は美しかったらしい。


(手賀沼公園から南東方向を見る 筆者撮影)


そんな現在の手賀沼だが、それでも手賀沼公園の湖畔に置かれたベンチに腰掛け、水面をつたわって吹いてくる風に身をさらしていると気持ちいい。 

いつまでもそうしていたい気持ちもあったが、適当な時間に切り上げて帰途についた。 

(おわり)



<ブログ内関連記事>




・・もともと宗教哲学者であった柳宗悦は、鈴木大拙が学習院で英語を教えていた時代の生徒であった




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2021年5月24日月曜日

船橋はかつて別荘地だった! ― 海の見える丘にある旧別荘地の「凌雲荘」(現在 東船橋花輪緑地)にはじめて行ってみた(2021年5月24日)

(「凌雲荘」の額が掲げられた正門 筆者撮影。以下同様)


船橋はかつて別荘地だった。このことを知ったのは、たまたま wikipedia で「船橋市」という項目を見ていたらときのことだ。はじめて知った事実だ。

こんな記述である。そのまま引用させていただくこととしよう(2021年5月24日現在のもの)。

明治以来、船橋では軍事施設が増えたため、軍の将校、外国の武官、留学生などの住宅が建てられた。1933年(昭和8年)、京成電鉄が海神駅北側の海神台や風光明媚な海神山(丘陵地)に開発した海神台分譲地(海浜別荘住宅地)が売り出された。花輪台(宮本6丁目周辺)では、明治40年頃に凸版印刷の創始者・伊藤貴志の別荘(伊藤別荘)が建てられ、大正期には東京両国で広く洋紙卸業を営んでいた山崎梅之助の息子・山崎鉦三が迎賓館的な使用を目的として山崎別荘(凌雲荘)を建てるなど「西の海神、東の花輪台」と呼称される別荘地・高級住宅街となった

なるほど、「西の海神、東の花輪台」と呼称される別荘地・高級住宅街」ねえ。

海神(かいじん)とはいかにも海辺の街にふさわしい由緒あるネーミングだが、なぜ花輪台と命名されたのかはわからない。開発後の命名か。「船橋では軍事施設が増えた」というのはもっぱら海軍のものだろう。

さっそく「凌雲荘」を Google map で調べてみると、東船橋にある船橋税務署からも近い。税務申告書を提出するついでに立ち寄ってみることにした。


この近辺は、わが母校の千葉県立船橋高等学校からも近いが、いまのいままで「凌雲荘」のことはまったく知らなかった。まことにもって迂闊なことである。

e-taxが推奨されているが、創業以来、税務申告書の提出は直接税務署で行うことにしている。東船橋駅から船橋駅まで歩くことで、環境変化を実感したいからでもある。この習慣は10年以上にわたってつづけている。

実質的に早い梅雨入りとなっている関東地方だが、月曜日のこの日は晴れていたので、いい散歩日和となった。

スマホの地図をたよりに移動していくと、石垣が目に入ってくる。おお、ここだな、と。




「凌雲荘」の額(ただし右から読む)の掲げられた正門(*上掲の写真)をくぐると、石畳の坂となる。




現在は建物は残っていないので、日本庭園となっている。




歩ききると、休憩スペースがあって、由緒書を記した「高札」が立てられている。




高札にはこう書かれている。そのまま書き起こしておこう(*スマホでスキャンして文字起こしした。ただし、読みかな太字ゴチックは私によるもの)。


凌雲荘の地は、 凸版印刷株式会社の創始者伊藤貴志(たかし)の「伊藤別荘」(明治40年頃)でした。その後、両国で大規模に洋紙卸業を営んでいた山崎梅之助が昭和2年に別荘地として取得し、その息子山崎鉦三(しょうぞう)とともに昭和1年から12年にかけ迎賓館的な使用を前提に木造3階建ての「凌雲荘」(通称「山崎別荘」)を建築しました。 
また、戦前は一時閑院宮(かんいんのみや)邸として使用され、 戦後は「観光荘」という名の料理屋になったこともありました。 
別荘の土地は、全体が砂地で崩れやすいことから、多摩川石や筑波石で砂山全体を覆ってお り、玉石を敷いた回遊路を設け、東側斜面には 岩石を何段にも組んだ滝や池も造られた日本庭園でした。 
なお、この地域は昭和初期に船橋町で区画整理が実施され「花輪台・はなわだい」と名付けられ別荘地として宅地分譲が行われた土地でありました。
市は、平成7年度に住宅地に残る数少ない緑地の保全を目的に取得しましたが、平成12年度に老朽化や構造上の問題もあり解体しました。
その後、平成26年度に当時の凌雲荘の領域を復元し、隣接する東船橋1号緑地と併せて日本風庭園に緑地として整備したものであります。


高校時代のことだからすでに40年前のことになるが、当時すでに「教員生活25年!」という数学教師のS先生が、「むかしは高校から海が見えました」と言っていた。

現在では船橋の海岸は三番瀬以外は埋め立てられて、京葉工業地帯の工場や倉庫群が並ぶ一帯となっているが、いまから60年近く前の1950年代から60年代にかけては、埋め立て事業も活発化されていなかったわけだ。

そう考えれば、この別荘地は「海を見下ろす丘の上の別荘地」だったということになる。おそらく往事には「風光明媚な別荘地」だったのであろう。


(坂の上から見下ろす形で石垣が続く)


別荘地は坂をあがっていた高台のうえにある。現在では石垣だけが残っているが、別荘地の跡地は「東船橋花輪緑地庭園」(船橋市)として整備されている。この周辺の住宅は、なるほど立派なものが多いことに気がつかされた。


(山吹の黄色が美しい季節であった)


船橋大神宮には明治時代初期の木造の灯台が保存されているが、海からこの灯台が見えたということを意味している。大神宮の近くまで海があったのだ。まさに海神である。

船橋ゆかりの太宰治の夾竹桃の碑が市民センターに建てられているが、太宰治が籠もって執筆していたという老舗割烹旅館の「玉川旅館」はコロナウイルス感染症(COVID-19)のなか、廃業となり解体されてしまった。


「凌雲荘」については、私の高校時代の40年前にはまだ取り壊されることなく、その場所に「凌雲荘」があったわけだ。平成12年(2000年)までは建物も残っていたのである。

毎日通っていた高校の近くにありながら、高校時代にはまったく知らなかったし、関心もなかった。自分の交友関係には、そんな話題に関心をもつ者もいなかったからムリもない話だ。

毎週土曜日には、高校から歩いて船橋大神宮を経由して西武百貨店船橋店の書店LIBROに通っていたのだが、その西武百貨店もいまはない

ああ、玉川旅館など風情のあった建築物が消えていく今日この頃の船橋。昭和は遠くなりにけり。



<関連サイト>


上記の「連載」をあわせて『娯楽する郊外』と題して1冊の単行本として2019年に出版されていたことを知った。船橋がいちばん最初におかれて、市川の前にくることを、船橋市民は喜ぶべき。もちろん「市川 軍隊と芸術で栄えた「東の鎌倉」」も面白い。このほか、千葉県内では「稲毛・谷津」「柏」が取り上げられている。(2023年12月17日 記す)


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<ブログ内関連記事>







・船橋の軍事施設は海軍。隣接する習志野市の軍事施設は陸軍(騎兵隊と鉄道部隊)



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