「アタマの引き出し」は「雑学」ときわめて近い・・日本マクドナルド創業者・藤田田(ふじた・でん)に学ぶものとは?

◆「アタマの引き出し」つくりは "掛け算" だ : 「引き出し」 = Σ 「仕事」 × 「遊び」
◆酒は飲んでも飲まれるな! 本は読んでも読まれるな!◆ 
◆一に体験、二に読書、その体験を書いてみる、しゃべってみる!◆
◆「好きこそものの上手なれ!」◆

<旅先や出張先で本を読む。人を読む、モノを読む、自然を読む>
トについてのブログ
●「内向きバンザイ!」-「この国」日本こそ、もっとよく知ろう!●

■■ 「むかし富士山八号目の山小屋で働いていた」全5回 ■■
 総目次はここをクリック!
■■ 「成田山新勝寺 断食参籠(さんろう)修行(三泊四日)体験記 」全7回 ■■ 
 総目次はここをクリック!
■■ 「庄内平野と出羽三山への旅」 全12回+α - 「山伏修行体験塾」(二泊三日)を中心に ■■
 総目次はここをクリック!


「個」と「組織」のよい関係が元気をつくる!

「個」と「組織」のよい関係が元気をつくる!
ビジネス寄りでマネジメント関連の記事はこちら。その他の活動報告も。最新投稿は画像をクリック!



ご意見・ご感想・ご質問 ken@kensatoken.com にどうぞ。
お手数ですが、コピー&ペーストでお願いします。

© 2009~2026 禁無断転載!



ラベル 大正教養主義 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 大正教養主義 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025年2月15日土曜日

「旧制高校」における「教養主義」とは何だったのか? ー 上原専禄と安岡正篤という二人の「同世代」のインテリに共通する「大正教養主義」と「修養主義」について比較列伝的に考えてみる

(和服姿の上原専禄 洋服姿の安岡正篤)


「教養主義」とは何だったのか? 「大正教養主義」と「修養主義」との関係は?

この問いを考えるにあたって、上原専禄(うえはら・せんろく)と安岡正篤(やすおか・まさひろ)を比較してみたいと思う。

この2人をセレクトしたのは、とくに大きな意味はない。上原専禄は、わが恩師の 阿部謹也先生の恩師だった。安岡正篤は、自分自身はとくに恩義は感じていないが、「歴代首相の指南役」として知られていた著名人であった。

一見するとまったく異なる資質と影響力をもった人たちだが、共通点が見いだされる。2人の履歴をごく簡単に見ておこう。

上原専禄(1899~1975):京都市生まれ、松山育ち。松山中学校、東京商大予科、専攻部経済学科。1923年から2年間、第一次大戦後にウィーン大学に留学し、西洋中世史を学ぶ。後ろになでつけた銀髪がトレードマークの、いかにもインテリといった風貌のポートレートで知られている。

安岡正篤(1898~1983):大阪市生まれ。四條畷中学校、一高、東京帝大法学部政治学科。文部官僚になるが半年で辞め、以後は在野の東洋思想研究家を貫いている。もっぱら後年の禿頭のポートレートから、いかにもというイメージを醸し出している。

この2人は同時代人である。というよりも、1学年違いであり、ほぼ同級生といってもよい。しかも、ともに関西出身で、帝都の東京で学問を修め、東京を中心に活躍した人である。おなじ時代の、おなじ空気を吸っているのである。

安岡正篤は現在でも熱心な崇拝者が存在するが、上原専禄はいまでは過去の人になってしまっているかもしれない。

ただし、上原専禄は「3・11」(2011年)以降は「死者論」での関連で再評価が始まっているようだ。最晩年の著書『死者・生者 ー 日蓮認識への発想と視点』(未来社、1974)における死生観に関心が高まっている。

いっけんなんの関係もないような二人だが、比較してみると意外なことに相違点もさることながら、共通点が多いことが明らかになる。

それは、上原専禄と安岡正篤という二人の「同世代」のインテリに共通する「大正教養主義」と「修養主義」についてである。



■人物評価は思想信条の違いよりも共通点に注目すべき

ある世代の人たちにとっては、西欧派で進歩派であり「左派」とみなされがちであった上原専禄、逆に東洋派で保守的であり「右派」とみなされてきたのが安岡正篤だ。

真逆にみえるこの二人の「同世代」のインテリに共通するのは、「大正教養主義」と「修養主義」である。

「陽明学」の人と見なされてきた安岡正篤だが、英語とドイツ語をつうじた深い西洋的教養の持ち主であった。

ドイツ中世史を専門としていた上原専禄だが、少年時代から培かわれてきたのは能楽と『法華経』と日蓮を中心とした大乗仏教世界への沈潜である。

明治時代の人物ほどではないが、いずれも「和漢洋」の「教養」を身につけていた人であったことが共通している。

プルタルコスの『対比列伝』(・・日本では『プルターク英雄伝』で知られてきた)ではないが、いっけん似て非なる二人の日本人インテリを対比させながら、相違点よりも共通点を浮かび上がらせてみたいと思う。

「右と左の違い」が不鮮明になっていくだけでなく、「インテリと非インテリの違い」こそ大きなものであることがわかってくるはずだ。

時局との距離の取り方にかんして、戦時中の上原専禄の発言は検証が必要だろう。戦後の進歩派的で「左派」と皆されがちだった上原専禄イメージを裏切るものもあることに目をつぶるべきではない。

あきらかに「右派」の安岡正篤であったが、意外なことに時局とは距離を置いていた。日米戦争開戦から一年後に出版した『世界の旅』では、当局からの削除命令にもかかわらず、交戦国のアメリカを評価する趣旨の文章を削除せずに出版させることに成功している。

上原専禄も安岡正篤も、ともに一筋縄ではいかない複雑な人物であったのではあるまいか?



■東洋哲学の安岡正篤は、西欧思想史の林達夫とは旧制一高で同級生

あえて安岡正篤の比較対象を上原専禄としたのは、わたしの恩師である阿部謹也の恩師であったからであって、それ以外にとくに理由はない。

逆に安岡正篤には心酔しているわけでも、愛読してきたわけでもない。知的に関心があるだけだ。

安岡正篤の比較対象としては、むしろ旧制高校の第一高校で同級生であった林達夫(1896~1984)にしたほうが良かったかもしれない。徹底的に西洋主義者であった林達夫は、一高を中退後あえて京都帝大に進学している。

この件にかんしては、中央公論の編集長であった粕谷一希の「知の形態について 安岡正篤と林達夫」にくわしい。『対比列伝 戦後人物像を再構築する』(新潮社、1982年)に収録されている。林達夫自身による文章は、回想「一高時代の友だち」(著作集 第6巻)を参照。





■上原専禄と安岡正篤を「対比列伝」的に見ると見えてくるのは・・・

上原専禄は、大学教師。商大予科を経て東京商大(=東京商科大学)卒。西洋中世史。英語、ドイツ語。ラテン語。リベラリスト。ナショナリスト。法華経。

安岡正篤は、在野の教師。旧制一高を経て東京帝大(=東京帝国大学)卒。東洋思想。英語、ドイツ語、漢文。右翼。ナショナリスト。儒学ことに陽明学。

上原専禄は、「アカデミズム」の人であり、大学学長を経験しながらも、定年前に大学を退職して隠棲。俗世間とのかかわりを断って、「在野」の研究者として独自の「世界史」構想を考究。

安岡正篤は、大学卒業以来、文部官僚としての半年間を除いて、一貫して「在野」の立場で私塾の代表として生き抜く。政界、財界の指南役。

上原専禄は、1889年生まれ。1975年没(死後3年も生死不明であった!)。安岡正篤は、1888年生まれ。1983年没。出生は一年違いであり、同世代である。関西生まれで、戦前・戦中・戦後と生き抜いた点も共通している。

ちなみに、保守政治家で自民党の池田勇人や、社会党の浅沼稲次郎も、おなじく1989年前後生まれの同世代である。

上原専禄は、戦後の日教組とのかかわりから「左派」とみられがち。これとは真逆に、安岡正篤といえば、戦前は右翼思想家で「右派」、戦後も「歴代首相の指南役」として保守とみなされてきた。

ところが、世代と受けた教育内容に着目してみると、意外なことに共通点が多いのだ。

上原専禄と安岡正篤は、ともに「大正教養主義」の申し子といってよい。

日露戦争後の世代であり、高校入学時は第一次世界大戦の最中である。1917年には「ロシア革命」によって世界初の社会主義国家であるソ連が誕生している。上原専禄は、父親が日露戦争で戦死して一家離散し、叔父に引き取られて高商入学で上京するまで愛媛県の松山で過ごしている。

ともに旧制高校でドイツ哲学の大きな影響を受けたが、高校入学以前に日本的な教養の「型」を身につけていた人たちである、

上原専禄は、絵にかいたような「大正デモクラシー」の体現者である。民本主義の吉野作造とともに「黎明会」を組織した、福田徳三の講義も商大で聴講している。当時は「一橋ルネサンス」とよばれる戦前の黄金期であった。

上原専禄は、河上肇の『貧乏物語』を読んで貧民問題に関心をもち、貧民窟でフィールドワークを行っている写真が残っている。とはいえ、実践行動にはコミットしていない。ある種の知的ディレッタントであったことは否定できない。実業の学校に在学していたが、実業よりも教養分野に傾斜


(安岡正篤が感銘したというフィヒテの『独逸國民に告ぐ』)


安岡正篤は、法学部では右派的な上杉慎吉の憲法学には心酔したが、法学そのものにはあまり関心をもたず、中国古典の研究に独学で没頭していた。

ただし、旧制一高時代にはエマソンを愛読し、ドイツ語も熱心に学んでフィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』の訳稿を作成している(・・これは出版には至らなかった。ちなみに、上原専禄は戦後のゼミナールでは、フィヒテの同時代人で、保守主義的歴史観をもっていたユストゥス・メーザーを取り上げている。

上原専禄は、大学卒業後、第一次大戦後のウィーンに留学し、碩学の歴史学者のもとでドイツ中世史の原典研究の訓練を受けている。滞在中の2年間に欧州各地を訪れる。1923年9月1日の関東大震災は、横浜に停泊中の船中にて体験している。このため出航が遅れたらしい。

安岡正篤には留学経験はないが、戦前の1939年には半年間外遊して、ドイツやイタリアなど欧州、さらには米国を自分の脚で歩き、自分の目で視察している。その他、中国大陸や台湾には渡航している。

上原専禄は、京都生まれだが愛媛の松山育ち。養父としての叔父のもとで、能楽と『法華経』の素読で過ごす。『法華経』の世界への没入は、インドに重点をおいた東洋、そして西洋へと拡がっていく。石原莞爾や宮沢賢治が会員であったことで知られる「国柱会」の会員であり、田中智学との面識もあった。養父が会員だったためである。

安岡正篤は大阪出身で、四条畷(しじょうなわて)中学で中国古典の漢文教育、文人と剣客のあいだで過ごす。奈良に近い大阪郊外の北河内の四条畷は楠木正行(くすのき・まさつら)ゆかりの地。大阪は江戸時代の「懐徳堂」以来の儒学の中心地。「陽明学者」としての中国と日本への眼差しは徹底していた。

上原専禄は、大乗仏教の『法華経』に「身読」で主体的に取り組んだが、安岡正篤は陽明学の「知行合一」をモットーとしていた。ただし、安岡の場合、文字通り完全に実践できたのかどうかは疑問が残る。右派の実践行動にはコミットしていない。

上原専禄の『法華経』を読み込む生活は「型」そのもの。ウィーンでドープシュ教授のゼミナールで自らに課していたのも、西洋の「型」を身につけたいと欲したのではあるまいか? 

おそらく『法華経』によって日本人としてのアイデンティティを確固としたうえで、西洋とがっぷり四つに取り組んだ主体的な姿勢は、『法華経』がその基盤にあると言えるだろう。



■エリートを排出した「旧制高校」における「教養主義」

いっけん真逆に見える上原専禄と安岡正篤だが、共通点が多いことがわかったのではないかと思う。

ともに地方出身(・・しかも関西を含んだ西日本)で旧制高校入学と同時に上京し、旧制高校(予科)で西洋文明に出会って目が開かれたくちだ。森鴎外のいう「ムクドリ」であったわけだ。

安岡正篤は、第一高等学校(=旧制一高)から東京帝大法学部。上原専禄は、東京商科大学予科から専門部に進学。安岡正篤の同級生の大半はエリート国家官僚になっている。官僚出身の政治家もいる。上原専禄の同級生の大半は実業界に進み、ビジネスエリートになっている。




ともに「旧制高校」的なるものを体験している点は共通している。「東京商大予科」はいわゆる「ナンバースクール」ではないが、旧制高校的であったことは『空白の歴史』(綱淵謙錠、文藝春秋、1994)に収録された「長煙遠く棚引きて―東京商科大学予科ルポ」を参照。

上原専禄が学んだ東京商大とその予科、安岡正篤が学んだ東京帝大と旧制一高は、ともに指導者を育成するという学校であったことは共通。そもそも、この時代の大学生は特権階級である。

『座談会 明治・大正文学史(3)』(柳田泉他編、岩波現代文庫、2000)では、「大正時代」には商大の同級生の大半は実業界に進んだビジネスエリートであったと、上原専禄本人が語っている。『上原専禄著作集 第18巻』(評論社、1999)は『大正研究』と題されて、その時代に執筆した文章や、その時代についてあとから書かれた文章が収録されている

上原専禄と安岡正篤は、ともに旧制高校を体験しているエリートだが、商大と帝大では、校風」からくる「ハビトゥス」の違いは大きい。

たとえ本人がその道に進まなくても、周囲の大半が進む道は、直接・間接に影響をうけるのである。「ハビトゥス」とは、周囲の「環境」が無意識レベルであたえる影響のことである。帝大製が進む官僚の世界と、商大生が進む実業界との違いは、思っている以上に大きなものがある

社会学者ブルデューの「ハビトゥス」(habitus)論を踏まえた「校風」の違いににかんしては、教育社会学者の竹内洋の著作を参照するとよい。「教養主義」とその衰退については、そのものズバリのタイトル『教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化』(中公新書、2003)がある。

『大衆モダニズムの夢の跡ー彷徨する「教養」と大学』(新曜社、2001)に収録の「現代思想としての一橋的なるもの」も参照。石原慎太郎や田中康夫といった作家、上原専禄の弟子の阿部謹也もその系譜に位置づけて論じられている。

同書によれば、石原慎太郎は上原専禄を高評価したとある。ちなみに、石原は長きにわたって上原に著書を恵贈していたらしい。石原が選挙対策から霊友会を紹介され、『法華経』世界に導かれていった伏線は、見えないところで上原専禄につながっていたのかもしれない。





「陽明学」の安岡正篤もエマソン愛読者だった。「旧制高校」出身で「大正教養主義」の申し子であった安岡正篤における「教養」と「修養」について考える

書評『近代日本の右翼思想』(片山杜秀、講談社選書メチエ、2007)-「変革思想」としての「右翼思想」の変容とその終焉のストーリー
・・「第2章 右翼と教養主義」が安岡正篤の思想を分析している。だが、英文学とドイツの思想と文学をその要素とする「大正教養主義」があふれんばかりにてんこ盛りになった安岡正篤の『世界の旅』(昭和17年)には言及がないのは不思議だ

村上一郎氏の幕末関連書を読む ー『幕末 ー 非命の維新者』(中公文庫、2017)と『草莽論 ー その精神史的自己検証』(ちくま学芸文庫、2018)
・・「一橋」的で海軍出身の評論家・村上一郎氏の「教養」について


(2025年1月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!

 (2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!

(2020年5月28日発売の拙著です 画像をクリック!

(2019年4月27日発売の拙著です 画像をクリック!

(2017年5月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!


 



ケン・マネジメントのウェブサイトは

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!








end

2025年2月14日金曜日

「陽明学」の安岡正篤もエマソン愛読者だった。「旧制高校」出身で「大正教養主義」の申し子であった安岡正篤における「教養」と「修養」について考える

 


在野の東洋思想研究者で、陽明学者として政財界に多大な影響をあたえたのが安岡正篤(やすおか・まさひろ)であった。

「歴代首相の指南役」といったフレーズや、「平成」という元号の選定者であり、また「終戦の詔勅」を添削した人であった。そんな話を聞いたことがあるかもしれない。 

安岡正篤といえば陽明学、つまり漢学者というイメージがあるので、おそらく「エマソン愛読者」というイメージは、なかなか出てこないのではないだろうか。 


■陽明学の安岡正篤もエマソン愛読者だった 

大阪に生まれた安岡正篤(1898~1983)は、「一高・東大」という超学歴エリートコースを歩み、東京帝大法学部出身でありながら官界での出世には早々と見切りをつけ、生涯を在野の思想家として貫いた人物だ。エマソンに出会ったのは旧制一高時代のことである。

安岡氏の世界訪問録である『新編 世界の旅』(エモーチオ21、1994 初版1942)には、欧州を歴訪したあと米国に渡航し、エマソンの旧宅をコンコードに訪ね、墓を探し出して墓参りしたことが書かれている。  

安岡氏の文章の引用は拙著『エマソン 自分を信じる言葉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2025)の「特別付録」として用意したものの、残念ながらページ数の関係から『エマソン 自分を信じる言葉』には収録できなかった。一部をここに採録しておこう。  

私も高等学校生の時代、彼の論文集を愛読したばかりではなく、その一部は教科書となって、厭な試験の種にまでなった。・・(上掲書 P.172 「コンコード」) 

ここにいう「論文集」とは『エッセイズ』のことで、その「第一部」には、かの有名な「自己信頼」(セルフ・リライアンス)が収録されている。時代はまさに「大正教養主義」のまっただ中であり、「教養主義」時代のエマソンの位置づけがわかろうというものだ。漢学者とし身を立てた安岡氏は、英語のみならずドイツ語も読みこなしていた。


(旧制高校を知るのに最適の本)


 『対比列伝 戦後人物像を再構築する』(粕谷一希、新潮社、1982)に収録された「知の形態について 安岡正篤と林達夫」を読むと、バリバリの西欧派であった林達夫と東洋哲学の安岡正篤は、じつは一高で同級生だったことがわかる。「大正教養主義」の時代は、すでに明治時代ほどではなかったものの、いまだ「和漢洋」教養が血肉となっていた時代であった。  




安岡氏の「世界旅行」が行われたのは、1938年のことである。ムッソリーニ政権下のイタリアやヒトラーが政権獲得後のドイツだけでなく、英仏をはじめとする欧州先進国を歴訪している。 

ここで『世界の旅』の初版の出版年が、1942年(昭和17年)4月ということに注目したい。 

すでに前年の12月8日に対米英戦争に踏み切り、「鬼畜米英」が叫ばれていた時代である。米国訪問と米国人礼賛の内容をふくんだ著書の出版に対して、当局から検閲が強いられたものの、その大半をはねのけて出版にこぎつけたらしい。エマソン愛読者の面目躍如たるものがある。 


■エマソンは陽明学的である。

さて、拙著『エマソン 自分を信じる言葉』では、あえて「知行合一」という表現をつかうことにした。英語で表現すれば、knowing is doing となる。「知ることは行うこと」。アメリカのビジネス界では強調されるフレーズである。 この両者のギャップ(knowing-doing -gap)を以下にミニマムにするかが問われるのである。

「知行合一」とは、言うまでもなく陽明学の基本用語であるが、「知識は行動に移さなくてはならない」と説くエマソンは、ある意味では陽明学的といえるかもしれない。プラグマティズムが社会に浸透しているアメリカ社会は、あえてエマソンに言及することなく当たり前のマインドセットとしているのだ。

昌平坂学問所の儒官となっていた晩年の佐藤一斎の弟子に、中村敬宇(正直)がいる。というよりも、明治時代のベストセラー『西国立志編』(原著セルフ・ヘルプ)の訳者というべきかもしれない。 

朱子学を中心に陽明学まで修めていた中村敬宇は、幕府から派遣されて英国に留学、儒教の究極としてキリスト教徒になっている。儒教の「天」と類似する概念をそこに見いだしたのであろう。西郷隆盛のモットーとして有名な「敬天愛人」というフレーズの作成者である。

中村敬宇は、翻訳こそ出さなかったが、エマソンの愛読者でもあった。とくに『エッセイズ 第一集』に収録されている「償い」(コンペンセーション)を愛読しており、そこに『易経』の「陰陽二元論」を見ていたようだ。

相補性原理である「陰陽二元論」は自然界の法則であり、宇宙の法則である。地球が自転しているから昼と夜があり、満月になれば月は欠けていく。

エマソン自身は、若い頃から自分でこの「償い」というテーマを考察していたと本人自身が書いている。佐藤一斎がもっとも集中して研究していたのが『易経』であった。どうりで佐藤一斎とエマソンが似ているのは当然ではないか! 

このように東洋思想とはきわめて親和性の高いエマソンである。明治時代の先人たち、そしてかれらにつづく世代の人たちがエマソンを愛読した理由が、どこにあったかわかるのではないだろうか。 

ちなみに安岡正篤は、『易學入門』(明徳出版社、1960)の「易の根本思想」でつぎのように書いている。

易は宇宙人生を渾然として全きもの、現代知識人の理解を容易にするため、西洋的思惟・表現を仮るならば "the complete whole" として見る。それは無内容なものではなく、万有の遍満 plenitude であり、万有は偉大な連鎖 The Great Chain of Being である。(・・・後略・・・)*

そして、この一節に注をつけている。

*これらの解説については、1933年、ハーバード大学で行はれた A.O. Lovejoy 氏の連続講演 The Great Chain of Being に得る所があつた。

まさか、安岡正篤の書き物にラヴジョイの『存在の偉大なる連鎖』(ちくま学芸文庫、2013)が登場するとは思いもしなかった。この大著は、前近代の西洋思想における「天」の概念をプラトンから18世紀にいたるまで論述した「観念史」(history of ideas)の古典的名著である。

畏るべし安岡正篤! まさか山口昌男的であり、その師匠格の林達夫的なラブジョイまで目を通していたとは! 和漢洋の「教養」は「修養」の前提となっていたのである。

学問を実際に活かすとは、こういうことを指しているのである。


画像をクリック!





<参考1> 『新編 世界の旅』(安岡正篤、エモーチオ21、1994 初版 1942)について

昭和17年(1942年)出版。1938年の欧州と米国横断旅行を4年後に出版。中国古典以外ではほぼ唯一の西欧関連のものだろうか。

「大正教養主義」の横溢する内容は、安岡正篤像を「異化」するために読む意味はある。時局的な内容ゆえに、かえって歴史的な興味もひくことだろう。

読めばこの時代の旧制高校出身者の「教養」の中身を知ることができる。理科はさておき、文科の教養の中身は、東洋古典の研究で名をなした安岡正篤にとっても、英語とドイツ語を介したものであったことがよくわかる。

それとともに、「大正教養主義」の時代においても、「教養」イコール「修養」であったことも納得させられる。

「目次」を紹介しておこう。

新序(昭和56年)
序(昭和17年)
航海
埃及とクレオパトラ
ナポリとポンペイの廃墟
羅馬-ムッソリーニとファッショ
フィレンツェ-ダンテと世界國家
ヴェネチャとガルダ-ダヌンチオの荘園
スウィス-國際連盟を弔ふ
パリ・ラ・フランス-ノートルダームの怪物
マルメゾーン-ナポレオンを憶ふ
ドーヴァー詩興
エーヴォン河畔-シェークスピーアの故蹟
ボーンマウスにて
ロンドン-英國及び英國人
ワイマール-ゲーテを憶ふ
ニュルンベルヒとミュンヘン-ナチスの起り
ベルヒテスガーデン
ダニューブに沿ひて
嗚呼ヘス
ウォシントンにて-アメリカ精神の問題
コンコード
 (一) エマーソンとホーソーン
 (二) 世界を旅して
西洋と日本
太平洋上-国家百年の計をを憶ふ
世界漫遊詩録
歴訪経路
あとがき(林繁之)



<参考2> 安岡正篤は「大正教養主義」の申し子。その実像と虚像

『近代日本の右翼思想』(片山杜秀、講談社選書メチエ、2007)の「第2章 右翼と教養主義」安岡正篤が取り上げられている。安岡正篤は基本的に「右派」として分類するべき人物である。

安岡正篤は最晩年の醜聞が週刊誌ネタになったことにより、神話のメッキがはげて落ちた偶像」となってしまったが、影が薄くなったとはいえ、ビジネス界にはいまだに信奉者が存在する。

陽明学をもとにした人間論、指導者論としての人気はつづいているが、戦前の「右翼思想家」としての側面は、意外なことにあまり知られていない

また、安岡正篤が「大正教養主義」の申し子であるという指摘が面白い。

官界でのキャリア地球は早々と捨ててしまったとはいえ、一高・東大の超エリートコースを歩んだ知識階層であり、軍部を含む戦前の国家官僚との親和性や、戦後の保守政治家や大企業経営者との親和性は、逆にいえばエリートと一般民衆との乖離を示している。これは同書に描かれている「血盟団」におけるエピソードに端的にあらわれている。行動主義の血盟団との確執は終生つきまとったようだ。

さて、すでに10年以上前のことになるが、片山氏の著書で取り上げられていた『昭和の教祖 安岡正篤』(塩田潮、文藝春秋、1991)を読んでみた。

これがまた面白い。この評伝は、ある意味で安岡正篤の「脱神格化」ともいうべき内容である。『「昭和の教祖」安岡正篤の真実』と解題さいたうえで、WAC文庫から2006年に再刊されている。この本については後述する。

この本の「第5章 白足袋の運動家」にこの世界旅行のことが書かれており、『世界の旅』(昭和17年)という本の存在を知った。

戦後に復刊されていたことを知り、アマゾンで中古本を購入、さっそく読んでみたらこれが面白い。ネットサーフィンならぬ、本の「はしご」である。

同書にでてくる「教養」について、西洋のものについてのみピックアップしておこう。「大正教養主義」の「教養」の中身が手に取るようにわかる。

プルターク
E.E.カミングスの英詩を暗唱
ムッソリーニのローマ進軍を追う ナポーリからローマへ
「一高時代、ダンテやゲーテに熱中したことを思ひ出して、それが一番懐かしかつた」(P.42)
ダヌンチオ・・三島由紀夫のダヌンツィオ好きは知られているが安岡正篤もまた。
アミエル(の日記) P.57
クルティウスの『フランス文化案内』(ドイツ語)
支那とフランスの比較文化論(P.69~73)
フランスの個人主義・・人口減少 (⇔ ドイツ ユーゲント)
ナポレオン → エマーソン『偉人伝』(英語)
マシュー・アーノルの英詩を暗唱 P.87 批評 P.115
シェイクスピア P.95
ワーズワース P.109
英国の衰退・・人口減少 P.116 (⇔ ドイツ ユーゲント)
ゲーテ P.120 
「イギリスはシェ-クスピーア、ドイツはゲーテであるが・・・近頃やはり彼の偉いところが解せられる」 ワーマールを訪問
 「國民聖地」としてのニュルンベルク
 『我が闘争』 Mein Kampf をミュンヘンで購入(1938年)
ヒトラーに劇作家クライストを読む
 ベルヒテスガーデンを訪問 ヒトラーの別荘地があった・・・
 チェコ併合直後に入る P.146に重要な指摘
ブダペスト 世界に流行した「暗い日曜」
 ヘス副総統と肝胆相照らす
アメリカのフロンティーアとパイオニーア p.163~165 P.170
エマーソンとホーソーン P.171
 「エマーソンにいたっては、カーライルと共に日本の学生に最もお馴染である。私も高等学校生の時代彼の論文集を愛読したばかりでなく、・・・」(P.172)
ホーソーン P.174
ベルリンのシュターツオーパーでワグネルの歌劇 P.203


先に紹介した『昭和の教祖 安岡正篤』(塩田潮)だが、仕官せずに在野でフリーランスで生き抜いた一人の人物として見る視点がよい。「安岡神話」破壊の本である。




南朝うんぬんは真偽の定かではないセルフプロデュースで、「歴代総理の指南役」も世間の虚像をうまく利用したセルフブランディング。実像と虚像、真と偽の「はざま」「あわい」をうまく利用したといえる。処世術。

「第4章 右翼の源流」と「第5章 「白足袋」の運動家」がとくに面白い。

『近代日本の右翼思想』(片山杜秀)の「第2章 右翼と教養主義」とあわせて読むと、安岡正篤の真相が見えてくる。「口舌の徒」だけでなく「白足袋の運動家」などといわれていたらしい。

思想としての右翼であっても、しょせん「主知主義」であったということ。責めるわけではないが、「知行合一」を説いた陽明学との距離があることは否定できない。

「歴代総理の指南役」にかんしても、個人的なつなりをもっていたのは吉田茂、岸信介、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳だけ、いずれも官僚出身で保守本流と呼ばれてきた政治家ばかり(P.243)である。田中角栄など、学歴エリートではない実利派との関係はない。

ここに安岡正篤の本質がみてとれる。東京帝国大学法学部卒の安岡正篤との同質性だけでなく、東京商大卒で大蔵官僚であった大平正芳が、なぜ安岡を頼りにしたかがわかる。大平は、漢文の教養不足を感じていた。

漢語の美辞麗句が意味をもたなくなった現在、もはや安岡正篤はあまり意味をもたなくなっている。「平成」とは異なり、あらたな元号の「令和」には、安岡の影すらない。

晩節を汚した占い師女性との一件についても、もはや忘却の彼方に去ったというべきか。

とはいえ、安岡正篤という人物は、「大正教養主義」なるものの本質を逆照射してくれる存在とみなすこともできる。

安岡はドイツ語でフィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』を読み、みずから日本語訳までしていたという。訳稿を失ったため出版には至らなかったようだが。

つまるところは「学者」であり、処世術に長けていた人であった。だからといって、無意味だなどというつもりはない。なんといっても影響力が大きかったのだから。

安岡正篤にかんしては、実像と虚像のあわいを意識したうえで、近代日本思想史における位置づけを行うべきであろう。



(2025年1月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!

 (2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!

(2020年5月28日発売の拙著です 画像をクリック!

(2019年4月27日発売の拙著です 画像をクリック!

(2017年5月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!


 



ケン・マネジメントのウェブサイトは

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!








end