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2015年12月7日月曜日

ペスタロッチは52歳で「教育」という天命に目覚めた

(ペスタロッチの肖像画  wikipedia より)

ペスタロッチが、「シュタンス孤児院」に着任したのは1798年12月7日のことであった。そのときペスタロッチは52歳。その決断が、「教育実践家ペスタロッチ」の誕生となったのである。

ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ(1746~1827)は、ドイツ語圏スイスの人。ゲーテの同時代人で、ルソーの影響のもと、貧民や未婚の母など社会的弱者のために生きるという青年時代以来の理想主義を一生貫いた人だ。

現代では「教育家」として知られるペスタロッチだが、最初から「教育家」だったわけではない。農場経営の失敗、貧民学校の失敗など実践家としての試みが失敗に終わった後は、文筆家として身を立てていた。「教育家」としての天命に目覚めたのは、冒頭に記したように、じつに52歳のときであった。さまざまな人生経験を経た後にたどりついたのがこの境地であったのだ。

81歳という長命の人であったペスタロッチであるが、当時の平均寿命からいえば52歳は晩年であろう。もし52歳でのこの決意がなければ、ペスタロッチはその他大勢の作家の一人として、人々の記憶からまったく消えていたことだろう。

このペスタロッチと、かれに触発されたドイツのフレーベルこそが、幼児教育の元祖的存在であることは教育関係者であれば常識であろう。この流れのなかに思想家ルドルフ・シュタイナーによるシュタイナー教育がある。いずれもドイツ語圏で生まれ育った教育思想である。

そんなペスタロッチについて知るためになにか一冊読んでおきたいと思って読んだのが、『人と思想 108 ペスタロッチ』(長尾十三二・福田弘、清水書院、1991)である。生涯と思想を要領よくまとめたもので、高校の倫理社会の副読本としても使用されているシリーズである。

この本からは、著者たちのペスタロッチへの深い傾倒ぶりがうかがわれる。実質的な執筆者である福田弘氏もまた、ペスタロッチとはじつに奇妙な名前だなという感想が、最初の出会いにあったと「あとがき」に記している。じつはわたしもそうであった。福田氏は学生時代、大怪我の療養中に、この奇妙な名前に引かれて人物の伝記を読んだことで人生が決定されたのだという。まさに人生のターニングポイントである。

たしかにペスタロッチという名前は奇妙に響く。本書で初めて詳しく知ったが、スイスのドイツ語圏チューリヒに生まれ育ったペスタロッチ(Pestalozzi:ペスタローツィ)は、イタリア系スイス人だったのだ。16世紀に北イタリアのキアヴェンナ(Chiavenna)出身の福音派プロテスタントの家系なのだという。

ペスタロッチは、おなじくスイスだがフランス語圏ジュネーブ出身の思想家ジャン・ジャック・ルソーの強い影響を受けている。ドイツ語圏の人でありながら、理想主義肌で情熱的な性格は、ラテン系という出自によるのであろうか。

ペスタロッチはゲーテと同時代の人だ。フランス革命という大変化のまっただなかで、ドイツ語を母語とする人間として生きた人である。

スイスでは、フランス革命の強力な影響のもとで革命政権が成立し、ヘルヴェティア共和国(1798~1803年)と名乗る短い時代があった。ペスタロッチ自身のターニングポイントはそのときに発生したのである。

フランス軍による「反革命」の鎮圧が行われたのがシュタンスで、牧畜と農業を中心としたアルプスの小都市では孤児や浮浪児がたくさん発生した。そのシュタンスこそがペスタロッチにとっての人生のターニングポイントとなった地だ。

革命政権の依頼でペスタロッチはシュタンス行きを受諾。民衆を救済し、みずからの理想である「教育実験」を行うため、みずから教師になることを決断したのである。それが1798年12月7日、ペスタロッチ52歳のときであった。「わたしは教師になる」と言い切ったのである。長い人生遍歴のすえ、52歳にして天命に目覚めたのである。

シュタンス孤児院におけるペスタロッチの手探りの教育実践については、ペスタロッチ自身による『シュタンスだより』に記述されている。岩波文庫に長田新訳で『隠者の夕暮 シュタンツだより』(1943年、1982年改版)に収録されている。この本も今回はじめて読んでみたが、なまなましい息遣いの感じられる内容である。

どんな子どもでも、もともと潜在的にもっているすぐれた特質を「引き出し」て育てるという姿勢、これはペスタロッチの手探りの実践から生まれたのである「子どもが多数で不揃いであることが私の仕事を容易にした」と逆説的な口調で『シュタンス便り』で語っている。一人ひとりへの目配りは当然のことながら、集団の多様性こそ重要だという認識を読み取ることができる。

ペスタロッチのシュタンス滞在は、孤児院が閉鎖されてしまったため半年で終わってしまったのだが、その意義はきわめて大きなものがあったといえる。

ペスタロッチが「教育」という天命に目覚めなければ、ドイツ語のキンダーガルテン(Kindergarten:子どもたちの園=幼稚園)の生みの親であるフレーベルも存在しなかったからである。どんな分野においても、最初の一歩を踏み出す人がいなければ、何事も始まらないのである。

(シュタンス孤児院におけるペスタロッチ 『シュタンスだより』岩波文庫旧版より)


ペスタロッチ登場以前の「子ども」の「教育」-ペスタロッチ出現の意味

ペスタロッチ以前の教育がいかなるものであったのか? これは重要なので考えておく必要がある。そうでないとペスタロッチの天命の意味が見えてこないからだ。

われわれは、ついつい現在の常識が以前から常識であったとみなしがちだ。だが、「革命」の意義は、革命以後の時間のなかで定着していくものである。あとから振り返ると、あのときがターニングポイントだったとわかることが多々あるが、じつは物事はそれほど急激に変化するわけではない。

そもそも、「子ども」が発見されたのは18世紀以降であり、「子ども」という認識はヨーロッパにおける近代の産物なのである。これは、フランスの「日曜歴史家」フィリップ・アリエスが、『<子供>の誕生-アンシァン・レジーム期の子供と家族生活-』(みすず書房、1980、原書出版 1960)という本で明らかにした見解だ。中世ヨーロッパにおいて子どもは「小さな大人」とみなされていたのである。そして、「教化され庇護される存在」であり、「克服されるべき野性」である、と。

「子ども期」の認識は13世紀頃に萌芽があらわれ、16~17世紀に明確になってきたものだ。だが、それがヨーロッパ全体で共有されるにはかなりの時間がかかったと考えなくてはならない。教育学の古典とされる『エミール』の著者ルソーですら、自分の子どもを5人とも孤児院に捨てて平然としているのである!

第二次世界大戦や戦後復興期の孤児院や寄宿舎を扱ったヨーロッパ映画では、子どもたちが暴力的に折檻されるシーンはいくらでもでてくる。

たとえば、第二次世界大戦下のハンガリーを舞台にした 映画 『悪童日記』(2013年、ハンガリー)は、過酷で不条理な状況に置かれた双子の少年たちが、特異な方法で心身を鍛え抜きサバイバルしていく成長物語だが、折り合いの悪い祖母や見知らぬ大人から平手打ちされるシーンなど多数ある。

映画 『シスタースマイル ドミニクの歌』 は、第二次大戦後の復興期のベルギーが舞台だが、反抗的な発言をした娘が母親から平手打ちされるシーンがある。第二次世界大戦後の復興期においてすら、ヨーロッパでは教育現場においても暴力は当たり前であった大きな変化があったのは、戦後生まれ世代が中心となった「1968年革命」以降であろう。

そう考えれば、スイスもまた同様であったと考えるべきだろう。山岳地帯のスイスはかなり保守的な風土である。

ペスタロッチを生み出したスイスが、はたしてペスタロッチ流の理想にもとづいた教育の中心となっているかといえば、それとこれとは別でないだろうか。チューリヒやジュネーブのような都市を除けば、大半が山岳地帯の農村というスイスである。女性参政権が完全に認められたのが、なんと1991年(!)というほど保守的なスイスの風土であることを考えるべきなのだ。

「預言者故郷に容れられず」という格言があるが、理想主義者のペスタロッチの試みは、すくなくとも生前においては故国のスイスでは受け入れられなかった

むしろ、ペスタロッチから直接的な影響を受けたフレーベルによって当時の先進国プロイセン王国で、その後は英語圏で、さらにはドイツの影響を受けた大正時代の日本の私学で継承・発展していく。

とはいえ、現代でもペスタロッチ流の人間観にもとづく教育がマジョリティといえるのかどうか? これはただちにそうだと言う訳にはいかない。いまだマイノリティのままなのではないかという気もする。あるいは位置づけとしてはオルタナティブだといえようか。

教育における理想もそうだが、理想は、なかなか実現が難しいからこそ理想なのである。そういう言い方も可能かもしれない。


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<付記> ペスタロッチとフレーベルの著作の日本語訳について

買ったまま読んでいなかった『隠者の夕暮れ シュタンツたより』(長田新訳、岩波文庫、1943)を読んだ。そのあと、ペスタロッチにインスパイアされたフレーベルの『フレーベル自伝』(長田新訳、岩波文庫、1949)を読んでみたが、同じ翻訳者であるのに、フレーベルのほうはあまりにも翻訳がひどすぎる。この本は絶版にして新訳を行うべきである。


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<ブログ内関連記事>

1980年代に出版された、日本女性の手になる二冊の「スイス本」・・・犬養道子の『私のスイス』 と 八木あき子の 『二十世紀の迷信 理想国家スイス』・・・を振り返っておこう

「小国」スイスは「小国」日本のモデルとなりうるか?-スイスについて考えるために

「チューリヒ美術館展-印象派からシュルレアリスムまで-」(国立新美術館)にいってきた(2014年11月26日)-チューリヒ美術館は、もっている!

映画 『悪童日記』(2013年、ハンガリー)を見てきた(2014年11月11日)-過酷で不条理な状況に置かれた双子の少年たちが、特異な方法で心身を鍛え抜きサバイバルしていく成長物語
・・『悪童日記』の原作者はスイスのフランス語圏に定住したハンガリー難民

修道院から始まった「近代化」-ココ・シャネルの「ファッション革命」の原点はシトー会修道院にあった
・・シャネルは少女時代を孤児院で過ごしている。そこは規律の厳しい世界であった

書評 『ココ・シャネルの「ネットワーク戦略」』(西口敏宏、祥伝社黄金文庫、2011)-人脈の戦略的活用法をシャネルの生涯に学ぶ

「生命と食」という切り口から、ルドルフ・シュタイナーについて考えてみる

「ルドルフ・シュタイナー展 天使の国」(ワタリウム美術館)にいってきた(2014年4月10日)-「黒板絵」と「建築」に表現された「思考するアート」

子安美知子氏の「シュタイナー教育」関連本をまとめて読んで「シュタイナー教育」について考えてみる

「人間の本質は学びにある」-モンテッソーリ教育について考えてみる

『モチベーション3.0』(ダニエル・ピンク、大前研一訳、講談社、2010) は、「やる気=ドライブ」に着目した、「内発的動機付け」に基づく、21世紀の先進国型モチベーションのあり方を探求する本
・・大人の世界でも「内発的モチベーション」の重要性が指摘されるようになってきている

三度目のミャンマー、三度目の正直 (8) 僧院付属の孤児院で「ミャンマー式結婚式」に参列

(2016年6月18日 情報追加)



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2010年4月9日金曜日

三度目のミャンマー、三度目の正直 (8) 僧院付属の孤児院で「ミャンマー式結婚式」に参列




 さて、いよいよメイン・イベントに参加しなければならない。ミャンマー式の結婚式に参列することになっているのだ。そのためにミャンマーに渡航することになったのだ。
 といっても私の結婚式ではない(笑)。私の友人の結婚式である。
 日本人女性とミャンマー人男性のカップルが、娘一人を連れてミャンマーの首都ヤンゴンで結婚式を行う、というわけだ。その日本人女性が私の友人である。

 「ミャンマー式結婚式」がどういうものかは、私は何の知識ももっていなかった。たぶん「タイ式」と同じようなものだろう、と。キンキラのカンムリなんかかぶって、男も「おてもやん」みたいな化粧する、というやつ。
 ところが、今回は新婦じゃなくて、新郎の希望でそういう結婚式はあげたくないので、簡素化したものである、と。しかも、新婦の希望で、豪華なものではなく、孤児院でやりたいのだ、と。
 というわけで、僧院付属の孤児院を会場にして結婚式が行われることになったのであった。

 孤児院で結婚式をやる!?、という話を新婦から聞いたときは、「またまた、なんでそんなとこで」と思ったのは正直な感想であったが、ヤンゴンで日本からの「結婚式ツアー」に合流し(・・私は早めにミャンマー入りしていた)、その翌日の朝にバスで孤児院に到着したとき、「ああ、こういう手作り感に充ち満ちた結婚式もいいものだなあ」、と思ったのであった。

 ヤンゴン市内の、その僧院付属の孤児院は、日本でいえば、お寺が経営する幼稚園みたいなものだ、といってもいいだろうか。2階で行われた結婚式のあと、1階の孤児院の昼食風景や授業前の教室を見学させていただいたとき、子どもたちにまったく暗さがないのが実に印象的だった。
 こういう場所で結婚式を行って、食事を振る舞い、お坊さんや子どもたちに日本からのプレゼントを差し上げるということで功徳を積む、これまた正しい振る舞いなのである。

 われわれ「結婚式ツアー」とほぼ同時期に、かの有名な勝間和代女史が特定非営利法人JEN の視察のため、ミャンマー入りしていたらしいということは、私は友人から教えてもらって帰国後に知った。
 勝間女史のやっていることはそれはそれで正しいのだが、社会貢献というものは、必ずしも狭義の NPO(・・日本の法律に基づく NPO法人 のこと)をつうじて行わなくてもいいのである。
 お寺という広義の NPO(=非営利組織。英語ではむしろ広義での使用が当たり前)に寄進して、それが孤児を含めた子どもたちにために直接使われるのであれば、けっして目新しいものではなく、むしろ伝統的な方法であるが、寄進を行った本人にとっても個人として「功徳を積む」ことになるのである。
 「現世で積んだ徳は、あの世で引き出す」、というわけだ。むしろそのした援助のほうがミャンマー社会からは受け入れられやすいだろうし、いかなる政権であれ拒むことはできないであろう。キリスト教色が全面に出過ぎた欧米の援助団体よりは受け入れやすいはずだ。
 とはいえ、上座仏教徒であるミャンマー人たちは、パゴダを建てることが、現世で徳を積むには最高のことだと考えているので、生活を切り詰めてでもお寺に寄進してしまうことがあるようだ。この寄進の一部でも現世で役に立つことに使われるといいのだが。
 それはさておき、勝間女史のような有名人が、直接ミャンマーに入ってその様子をブログやツイッターで報告するのは、たいへんよいことである。フォロワーの皆さんは、ネット上でフォローするだけでなく、リアルワールドで勝間女史をフォローするべきだろう。これを機に、ぜひ直接、ミャンマーの地に足を踏み入れて欲しいものである。
 

 話が先走ってしまったが、メイン・イベントは「ミャンマー式結婚式」である。この話をしなくてはならない。

 それはどういうものかと一言で説明すれば、「仏教式結婚式」なのである。
 日本でも仏教式のものがあるらしいが、残念ながら私は参列したことはない。
 今回は、仏教は仏教でもミャンマーの上座仏教、日本の葬式仏教とはまったく異なり、仏教はミャンマー人の人生を誕生からその死まですべてに仏教がかかわってくる。これはタイも同様である。機能としては、日本でいえば、むしろ神道に近いかもしれない。上座仏教は宗教と云うよりも、人生全般を律する倫理としての意味合いが大きいからだ。

 式次第を簡単に説明すると、まず僧院の大僧正による法話40分。結婚式をあげるカップルは15分くらいに短くしてくれと頼んだそうだが、大僧正からは即座に却下されたらしい。大僧正いわく、キチンと決められて通りにやらないと祝福したことにならない、と。ごもっともである。
 ただし、日本と違ってずっと正座していなくてもいいので、その点は参列者にとってはラクなものだ。とはいっても、ミャンマーでもタイでも、目上の者や高僧の前でする正式な横座りは、慣れていないと日本人には腰への負担が大きいので、ロンジーをはいて「にわかミャンマー人」になりすました私も、日本人ということで正座と胡座(あぐら)を交互に繰り返して、足がくたびれるのを防止したのであった。
 
 大僧正の法話だが、まったく理解できなかった、というのが正直な告白である。私にとってだけでなく、日本から来た人たちにとっては、まったくもって「お経のようなもの」であり(・・文字どおりお経なのであるが)、ミャンマー人にとっても仏教要語をすべて理解できりうわけでもないらしい。
 なぜなら、法話はミャンマー語(ビルマ語)ではなく、聞くところによるとパーリ語らしい。上座仏教圏に産まれた男子なら、とくにミャンマーでは子どものときに一時出家するのは重要な通過儀礼の一つだから、パーリ語のお経は内容はわからなくても、耳にはしているはずである。
 私のパーリ語の知識といえば、仏法僧の三宝にたてまつるという意味の、「ブッダム サラナム ガッチャーミー、ダンマム サラナム ガッチャーミー、サンガム サラナム ガッチャーミー」くらいしかないので、法話の内容は、結婚を祝福し人生の門出にあたって云々というような意味だろうと推測するくらいしかないのであった。法話の最中に聴き取れたのは、アルハットくらいである。アルハットとは阿羅漢のことである。
 ちなみに誤解あるようだが、上座仏教の経典はパーリ語、大乗仏教の経典はサンスクリット語である。涅槃はパーリ語ではニッパーナ、サンスクリット語ではニルバーナ。仏法の法はパーリ語ではダンマ、サンスクリット語ではダルマ。まあ似たようなものではある。

 大僧正による法話の最中、両隣に高僧が座っているが、まったく一言も発しない。大僧正の衣の色はややオレンジ。この三人はイスに座っている。
 そのまわりに小坊主たちが床に直か座りをしているが、これがまあ落ち着かないといったらありゃしない。まったくもって退屈なのだろうし、じっと座っていられないようだ。そんな小坊主を観察するのも面白い。日本的な形式主義文化ではなさそうだ。

 法話が終わると、そのお礼に食事を差し上げる儀式がある。丸テーブルというよりもちゃぶ台に所狭しと並べられた食事を前に座った高僧と祝福されたばかりのカップルが、ちゃぶ台を持ち上げる儀式が行われる。この意味はよくわからないが、江戸時代の武士が殿中(でんちゅう)でお膳を捧げ持つのと同じようなものなのだろうか。この儀式は、ちゃぶ台ごとに行われる。
 この儀式のあと、高僧から先に食事をとることになる。高僧たちの食事が終わったら、今度は小坊主たちのい食事である。小坊主たち全員でお祈りのコトバを大声で唱えてから、食事をいただくことになる。
 時間は午前11時過ぎ、昼食の時間であるが、上座仏教においては出家僧は、一日2回しか食事をとることが出来ない。しかも、午後12時以降は水以外はクチにすることができないのである。このため、小坊主たちは腹一杯食ってお腹にため込まなくてはならないのだ。育ち盛りの小坊主たちにとっては、空腹を耐えるのもまた、なかなか大変な修行であろう。 
 まかないの人たちが、ご飯をよそって歩き回る光景を眺めているのは、われわれ参列者の食事が一番最後になるからだ。

 このあと、うながされて1階におりて孤児たちの食事風景を見学させていただいた。先にも触れたが、孤児院という感じではなく、幼稚園みたいな感じで、子どもたちはまったく屈託がない。
 ついでに授業開始前の教室も見学させていただいた。私が大声でミンガラバー!(こんにちは)というと、子どもたちも声をそろえてミンガラバー!と返してくれた。


 この教室の場合は、机と椅子があるので、三度目のミャンマー、三度目の正直 (6) ミャンマーの僧院は寺子屋だ-インデインにて (インレー湖 ⑤)で書いたような寺子屋ではないが、僧院付属の孤児院ということもあり、ここでの先生はお坊さんたちである。ある意味で、ミャンマーの基礎教育は仏教抜きには語ることはできないであろう。
 ちなみにミャンマーの識字率は90%以上と、発展途上国とは思えないような高い数値を示している。ミャンマー語(ビルマ語)の独特な丸文字は、漢字仮名交じりの日本語よりは習得は容易だろうと思われる。
 教育は国作りの基礎である。こうして教育を受ける機会にめぐまれた孤児たちのあいだからも、立派な人物がでてくるかもしれない。
 つくづく教育の機会均等の必要性を痛感させられるとともに、基礎教育レベルが行き届いていることに、ミャンマーという国の潜在能力の大きさもまた感じるのである。まあ、もともと第二次大戦後の1950年代には、敗戦国日本よりも生活水準が高かったらしいのだが。


 やっとわれわれの食事の番が回ってきた。お坊さんたちと同様、ちゃぶ台の前に座ってミャンマー料理をいただくことになる。
 メニューはいうまでもなく各種のミャンマー風カレー。中華料理と同様、ミャンマー料理も、大人数でいろんなものを注文して、ちょっとずつ食べるのがよい。
 なんせ腹が減っているし、久々の本格的なミャンマー料理なので、たらふく食べてしまう。

 ついでにでてきた、お茶の葉を発酵させて味付けしたラペットウをいただく(写真左)。ああこれを食べるとミャンマーだなあ、という気持ちになる。
 デザートででてきたマンゴーがまたうまい! 前回の投資ミッションでマンダレーのマンゴー農園を訪問したときに食べたマンゴーもうまかったが、ミャンマーのマンゴーは知られざる名品だなあ。日本ではフィリピン産かタイ産しか入手できないが、ミャンマーのマンゴーはうまい! と繰り返しておく。
 このあとさらにスイーツがでてきたのだが、さすがにちょっとだけ食べてみるだけにとどめておいた。濃いい紅茶があればいいのだが、ミャンマーではインドと同様に砂糖入りのミルクティーになってしまって甘すぎるのだ。まあ、そんな贅沢は求めてはいけないのであるが・・。


 ということで、お昼過ぎには結婚式とその後の食事会もすべて終了、次のスケジュールは、孤児たちへのプレゼントを贈るイベント。エンピツや消しゴムをあげたのだが、こういった形で直接孤児たちに手渡しであげることができるのはよいことだ。

 援助しても本当に必要な人たちに、本当に必要なものが届かない、ということはよくある話である。モノを媒介にしているわけであるが、「収益の一部は寄付しました」というような免罪符的な形よりも、はるかに意味のあることだし、あげる側も貰う側も、ともに幸せを実感することができる機会となる。
 この孤児院じたい、日本の援助によって建築されたものであることが、プレートとして飾られている。具体的に見える形で寄付をする、援助することが重要なだけでなく、こういった本当に必要な援助まで現在は抑制されているのは、どうしたものか、という感もうけるのである。
 杓子定規で、原理原則だけで物事をすすめるのがいいのだろうか、日本人としては、原理原則もさることながら融通無碍(ゆうづうむげ)にフレクシブルに振る舞うべきなのではないかと思ってみたりもした、ミャンマーでの一日であった。

 書き始めると、ついつい長くなってしまうのは悪いクセ。少しまじめな内容になりすぎてしまっただろうか・・・・


(ミャンマーの話、もう少しだけ続きます)




<ブログ内関連記事>

「ミャンマー再遊記」(2009年6月) 総目次

「三度目のミャンマー、三度目の正直」 総目次 および ミャンマー関連の参考文献案内(2010年3月)

(2015年10月4日 項目新設)





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