ビジネスパーソンでドラッカーの名前を聞いたことがない、そんな人はいないはずだ。 2001年に95歳で亡くなってからすでに22年になる(2026年現在)。
ところが、過去の人になるどころか、繰り返し繰り返しその名が呼び戻される巨大な存在だ。ところが、かえってそのために「マネジメントの父」という評価のみが固定観念と化してしまい、「知の巨人」の知性の拡がりが視界の外に消えてしまったような気がしないでもない。
そもそも、ドラッカー自身が自分のことを「経営学者」などとは見なしていなかったことを知る必要がある。経営学の世界でも、ドラッカーは経営学者とは見なされてなかったのである。
わたしが1990年頃にMBA取得のために米国に大学で学んでいたときも、授業でドラッカーのに言及されることなど一度もことはなかった。日本のビジネス界で知らない人がいないほそ絶大な人気のあったドラッカーが、米国の経営学ではまったく話題にのぼることすらないのだ!
ドラッカーがやっていたことは、狭義の「科学」(サイエンス)ではない。マネジメントという現象に対する「観察」であり、しかも間接的な関与であった。もちろん、その考察内容とアドバイスがきわめてすぐれたものであったことは言うまでもない。
ドラッカー自身は「傍観者」(bystander)と表現している。「当事者」ではない、という意味だ。 知っている人は知っているだろうが、本人は「社会生態学者」であるという認識をもっていた。
『ピーター・ドラッカー 「マネジメントの父」の実像』(井坂康志、岩波新書、2024)を読んで、その思いはさらに強まった。
本書は、外国メディアとしてドラッカーに最後にインタビューした著者が、いまだ理解されざる「思想家ドラッカー」の全体像を把握しようとする果敢な試みである。新書版でドラッカーの全体像を語り尽くすことなどそもそも不可能であるが、よくそのエッセンスをまとめ上げたものだ感心している。
ドラッカーを経営学者だと思い込んでいる人は、おそらく聞いたこともないような人名がこれでもか、これでもかと登場してくることにウンザリしてしまうかもしれない。あるいは、ほぼ読み飛ばしてしまうことだろう。だが、わたしのような人間には、ディテールにこそ興味が向かうのであり、最初から最後まで興味が尽きない。
第一次大戦後のウィーン時代での少年時代から、高校卒業後に職についたドイツのハンブルクとフランクフルト時代、ユダヤ系であることも理由のひとつとしてナチスドイツを離れてロンドンに移動し、さらに「新天地」の米国に移住するまでは、前半生のハイライトであり、ドラッカーの思想をつくりあげる基礎となっている。
この時代については、ドラッカー自身も『傍観者の時代』などの著書をつうじて語っているが、経営実務家ではない研究者の著者は、「当事者」ではない、それこそ「傍観者」の視点から事実関係とドラッカーによる語りとのズレを視野に入れている。ドラッカーは自分が生きた時代の雰囲気を語るため、どうやらレトリックとして事実の改変も意識的に行っているようなのだ。
本書でとくに印象に残るのは、ドラッカーの根底にあるのがドイツ時代に熟読したキルケゴールの「実存主義」哲学であること、そして24歳のときロンドンで日本の水墨画に偶然出会ってから95歳で亡くなるまで、コレクターとして日本の水墨画と禅画を愛し続けたこと、である。この2点がドラッカーの生涯を貫く通奏低音となっているのである。その意味を深く考えなくてはならない。両者に共通するのは人間の生死の根底にある「実存」と「自由」にかんする哲学である。
米国移住後にはメディア論のマクルーハンや、発明家で思想家のバックミンスター・フラーと密接な関係があったことなど、本書ではじめて知った。これらの点については、時間の余裕のあるときに深掘りしてみたい。前者はメディアとレトリックについての、後者は人間とテクノロジーに関係についてのディスカッション相手だった。
日本人はマネジメントという側面だけでなく、ドラッカーはなぜ日本の水墨画と禅画を愛したのか、なにをそこに観ていたのか、知る必要があるだろう。ドラッカーについて知ることは、日本人が日本についてよりよく知ることにもつながるはずだ。
この件については、『ドラッカー・コレクション 珠玉の水墨画 ― 「マネジメントの父」が愛した日本の美』(千葉市美術館)に行ってきた(2015年5月28日)― 水墨画を中心としたコレクションにドラッカーの知的創造の源泉を読む と題してブログに書いておいたので参照されたい。
つねに新たな現実に関心を抱いて思考を行い、学問分野横断型の総合知性として20世紀を生き抜いたドラッカーという思想家。
ドラッカーとは何者だったのか? この問いに対する解答の試みは、まだ始まったばかりである。
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目 次はしがき第1章 破局 1909~1928第1節 幼少期の環境第2節 時代への目覚め「インターミッション①」 憧れ ― オペラ『ファルスタッフ』第2章 抵抗 1929~1948第1節 フランクフルトからロンドンへ第2節 新天地アメリカ「インターミッション②」 『傍観者の時代』の危うい筆法 ― カール・ポランニー第3章 覚醒 1949~1968第1節 ニューヨーク大学時代第2節 初来日(1959年)「インターミッション③」 「大工の言葉」の使い手 ― マクルーハン第4章 転回 1969~1988第1節 断絶第2節 西海岸移住「インターミッション④」 失われた風景 ― 小説『最後の四重奏』第5章 回帰 1989~2005第1節 ポスト資本主義第2節 共生の社会へ「インターミッション⑤」 信仰生活終章 転生 2006~参考文献あとがき
著者プロフィール井坂 康志(いさか やすし)1972年生まれ。日本の経営学者・社会情報学者。ものつくり大学教授、NPO法人ドラッカー学会共同代表。東洋経済新報社を経て、現在ものつくり大学教養教育センター教授(ドラッカー経営学研究室)、図書館・メディア情報センター長。(Wikipediaなどから編集)
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・・思想家ドラッカーの前半生の主著
・・ドラッカーの「山荘コレクション」(Sanso Collection)の大半が千葉市美術館によって買い取られて日本に里帰りしている
・・「法話という聴覚に訴えるメディアだけでなく、画賛という絵と文字をあわせた視覚に訴えるメディアも活用したということである。しかも、それを見る者を巻き込む involving media (マクルーハン)すら開発していた白隠」。 ドラッカーは白隠や仙厓の「禅画」に惹きつけられていた。仙厓のコレクターであった出光佐三とは、さぞかし話があったことであろう
・・ドラッカーが愛した日本の水墨画や禅画は、その背景に禅仏教があり、さらに禅仏教はインド生まれの仏教が老荘思想であって中国化したものであり、日本に伝わった禅仏教が室町時代の「東山文化」」という形で花開いたことまで考えるべき。老荘思想のうち荘子は「古代中国の実存主義」だと福永光司氏はいう。ドラッカーが実存主義の元祖キルケゴールに心酔していたことを考え合わせると、たんなる偶然の一致以上のものを感じないわけにはいかない
・・日本ではあまり論じられることのない、非営利組織としてのコミュニティである「メガチャーチ」に対するドラッカーの多大な関心が語られている
・・なぜかこの本は、『ピーター・ドラッカー 「マネジメントの父」の実像』では取り上げられていない。もちろん、保守主義の政治思想は重要だが、ドラッカー思想の全体ではない
・・ブダペスト出身の天才ポランニー兄弟のうち、ドラッカーは兄で経済学者のカールと米国の大学で同僚となり親しく付き合ったが、経営学者の野中郁次郎は弟の化学者で科学思想家のマイケルの「暗黙知」に着目して、「ナレッジ・マネジメント」(知識経営)を理論化した
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