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2010年2月15日月曜日

書評 『テレビ霊能者を斬る-メディアとスピリチュアルの蜜月-』(小池 靖、 ソフトバンク新書、2007)-宗教社会学者が分析した「テレビ霊能者」現象




宗教社会学者が分析した「テレビ霊能者」現象

 「テレビ霊能者」が出演する番組をバッシングする者が多い一方で、なぜここまで視聴率の取れる番組となっているのか。

 著者は、テレビという一般大衆向けのマスメディアと、スピリチュアル(霊性)が、きわめて親和性が高いことを指摘している。提供する側のメディアの事情と、受容する側である視聴者のニーズが合致しているのである。

 視聴率をとりたいテレビ側の事情は、理解するのはそう難しくない。視聴者の側の状況を考えなければならないが、視聴者の状況とはこういうことになろう。地域共同体はいうまでもなく、最後のコミュニティであったはずの会社すら崩壊しつつある現在、バラバラの個人となってしまった日本人は、いったい何に精神の安定を求めればいいのか。

 「テレビ霊能者」現象の根底にすけてみえるのは、「先祖供養」を基本にした日本人の宗教観念である。特定の宗教はもっていないと主張する日本人が多いものの、こと先祖供養ということにかんしては、これを完全に否定できる者はまずいないのである。

 「死ねばゴミになる」と広言できる日本人は、きわめてまれである。現在の苦境の真因が、先祖供養をキチンとしていないからだと指摘されて、それを完全に否定しきれる唯物論者は、そう多くはないのではないか。

 それだけ、先祖供養にまつわる問題は、日本人の精神の奥底で、日本人の行動を無意識のうちに規定しているのである。

 だから、「テレビ霊能者」現象は、いっけん新しく見えながら、実は意外と古い現象なのだ。メディアが新しくなっただけで、過去とは大いに連続性が存在するのである。

 では「霊能者」の世界は、さらに新しいメディアであるインターネットの世界に移行するのだろうか。この問題については、直接本書にあたって考えてみてほしい。

 タイトルの響きはどぎついが、中身はいたって冷静な内容の本である。


<初出情報>

■bk1書評「宗教社会学者が分析した「テレビ霊能者」現象」投稿掲載(2010年2月5日)

 再録に当たって一部の字句を修正した。



<書評への付記>

「先祖供養」とはいったい何か?

 この問題は日本人の宗教観そのものにかかわる問題であり、とても短い字数では書ききれない。アタマで考えるよりも、ココロで感じるものといえるだろうか。

 日本では先祖供養(先祖祭祀)は、近世に入ってからは江戸幕府が統制した檀家制度のもと、仏教がほぼ一手に握ってきたが、このため儒教は為政者である武士階級と知識人であった儒者だけに影響がとどまり、一般民衆にまで普及しなかった理由の一つだといわれている。つまり先祖祭祀を根幹とする宗教としての儒教は習俗化しなかったために、影響は人口の一部を占めるに過ぎない知識階級むけの倫理体系としてしか浸透していない。

 したがって、この観点から見る限り、日本を儒教圏というのは正しくないのである。このへんの事情については、書評『日本人は爆発しなければならない-復刻増補 日本列島文化論-』(対話 岡本太郎・泉 靖一、ミュゼ、2000)に長々と引用した泉靖一の見解を参照されたい。

 また別の見方からすれば、本来は儒教の根幹をなす先祖祭祀の習俗化を、仏教が全面的に受け持ったために、日本では仏教が生きのびたともいえる。「葬式仏教」といういいかたで批判や揶揄されることが多いが、根は実に深いと考えなくてはならない。日本文化の歴史』(尾藤正英、岩波新書、2000)の「第8章 国民的宗教の成立」の記述によれば、檀家制度は権力による人為的なものというよりも、それ自体が自然発生的に成立したものを江戸幕府が追認したと見るのが妥当だ、という見解を示している。

 「葬式仏教」が成立したために、「葬式儒教」(?)はまったく定着しなかったのである。儒教は知識階層のアタマの領域には入り込んだが、一般庶民のココロの中には浸透しなかった。より正確にいえば、石門心学などの形で民衆教化の倫理道徳思想としては浸透したが、それは儒教そのものではなく、儒教と仏教をいっしょくたにした混合物である。

 明治中期以降に、教育勅語や軍人勅諭などをつうじて、「儒教による教化」が推進されたが、敗戦によって儒教の影響が一般庶民から霧散してしまったのは、だから不思議でもなんでもないわけだ。そもそも儒教を受容する基盤が一般ピープルの側にないからだ。アタマで理解してもココロが受け付けないという話である。

 そもそも儒教は為政者が民衆を統治するための管理思想であり、民衆からでてきた思想ではない。

 中国思想研究家・加地伸行の『儒教とは何か』(中公新書、1990)は、そもそも先祖供養(祖先崇拝)が儒教に由来するものだと主張している。日本についてこの説があてはまるのかどうかは、専門家ではないので私には判断しかねるが、儒教の根幹に先祖祭祀があることは誰も否定できないだろう。

 なんといってもこの本がインパクトがあったのは、儒教の葬送儀礼について詳しく紹介していることだ。これは日本人の一般常識にはなかったことである。いまの日本で儒教式の葬送儀礼を行うのは、在日コリアンくらいだろう。在日コリアン向けに日本語で書かれた冠婚葬祭本には詳しい記述がある。

 儒教による葬送儀礼がもっとも厳格に遂行されているのが、"朱子学原理主義国"ともいうべき韓国(および北朝鮮)である。これは、韓国映画には儒教式の葬送儀礼のシーンがよくでてくるので、映像で確認することができる。名優アン・ソンギ主演、イム・グォンテク監督のコメディ作品祝祭』(1996)は葬式そのものの映画である。日本の伊丹十三による『お葬式』の韓国バージョンか。『祝祭』の韓国版トレーラーはこちら(音声は韓国語、字幕はイタリア語)。日本の葬式と比較すると面白い。日本と韓国は黒白反対になる。

 そういえば、キム・イルソン(金日成)の死後、キム・ジョンギル(金正日)は3年間の喪に服すという名目で姿を現さなかった。男子直系相続にこだわる北朝鮮もまた、"朱子学原理主義国家"なのである。

 基本的に先祖供養(祖先祭祀)は東アジア世界共通のものであり、日本もその例外ではない。知識人や唯物主義者がアタマで考えるような、簡単な問題ではないのだ。

 TV番組『オーラの泉』は2009年9月に終了したとのことだが、祖先祭祀(先祖供養)という日本人のココロの奥底にある無意識レベルにかかわるものだ。したがって、こういった番組は『オーラの泉』が放送終了しても、消えてなくなることはないだろう。

 ただ単に供給側の問題ではないのだ。一般ピープルに根強いニーズが存在するのである。いたずらに不安を煽って儲ける「不安産業」だという批判も根強いが、なぜ自称他称含めて霊能者といわれる人たちから、「あなたの不幸の原因は先祖供養を怠っているからだ」と宣告されて、日本人一般ピープルは不安を感じるのか、この根っこの部分を理解しない限り、何の解決にもならないではないか。これはアタマで考えて理解できるものではない。ココロが感じる「不安」である。

 もちろん、公共電波であるテレビ番組では、いき過ぎがないように、放送倫理規定で一定の規制をかける必要は否定しない。

 結局ながながと書いてしまったなあ。しかしこの件は、もっと突っ込んで検討すべき領域だ。また書く機会もあると思うのでその際に補足したい。









(2012年7月3日発売の拙著です)







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