岡倉天心について書いておきたいことがある。これほど誤解されている人物もほかにはいないのではないかと思えるからだ。
岡倉天心(1863-1913)は、本名は岡倉覚三(Kakuzo Okakura)、いわゆる明治初期の「英語名人世代」の人である。英語は横浜で直接外国人から学んだが、一方で漢文もよくし、著作は英語と日本語の双方で行っている。
美術行政にかかわる文部省の役人としてキャリアを開始した人だ。商品としての日本美術の輸出促進を行政の立場で行った。しかし、東京美術学校校長から追われた後、民間人として日本美術院を旗揚げ、横山大観や菱田春草などの日本画家を育成したことで著名である。
ボストン美術館から招聘されて東洋美術部門の主任として渡米、滞米中の英文著作 The Book of Tea(茶の本)を出版、当時のベストセラーになっている。いや、現在にいたるまでロングセラーである。
また、米国だけでなくインド、とくにベンガルには深く関わったことは、インドの詩聖タゴールとの交友だけでなく、宝石の声なる人プリヤンバダ・デーヴィーとの秘めた恋など、人間臭い側面もしっておくべきだろう。
「知の人」ではあったが、何よりも「情の人」、であった。
岡倉天心といえば、なんといっても「アジアは一つ」(Asia is One)というコトバが有名だ。このコトバは日本美術史にかんする英文著作『東洋の理想』(The ideal of the East with Special Reference to the Art of Japan, 1903)の冒頭のコトバである。
私はこの Asia is One というコトバを米国で生活した二年間で、心の底から実感した。一言でいえば、アジア人としての覚醒を経験した、ということになろうか。
人はよく、日本を離れて米国にいくと、日本が良く見えるという。自分の場合はそうではなく、アジア人としての覚醒であったのは、日本にいたときからもともと日本人としての自覚を強くもった人間だったからだ。大学の卒論で「ユダヤ史」などをやったからだろう。このテーマを扱うと、自分のなかの民族意識について自覚的にならざるをえない。
幸いなことに私がいった大学院は理工系ということもあって日本人比率が小さく、いたのは韓国人、台湾人、中国人(米国国籍の華人を含む)を中心に香港人、マレーシア(大半が華人)、日系人(ハワイ出身とか日本語がしゃべれないブラジルの人間もいる)、タイ人、フィリピン人といった具合であった。ヒンドゥー教徒のインド人、シーク教徒のインド人、イスラームのパキスタン人も多いが、東南アジア人も含めた東アジア人とはかなり異なる。それでも、やはり彼らは広い意味のアジア人である。
彼らとの交友をつうじて、アジア人としての自己を発見、アジア人としての自覚に目覚めたのは、何よりも留学生を通じて多くのアジア人とつきあったことが大きい。「アジアは一つ」ではない!と得意げに主張する人も少なからずいるが、地球全体のなかでみれば、やはりアジア性というものが存在するといわざるを得ない。多様のなかの統一、それが「アジアは一つ」ということの意味である。
滞米中、岡倉天心ゆかりのボストン美術館(Museum of Fine Arts, Boston)のミュージアム・ショップで、The Book of Tea を購入した。当時でUS$2.95、Dover Publication から出版されているペーパーバックである。
研究者によれば、同書は米国人によるネイティブ・チェックもしてもらっているとのことだが、英語を母語としない人が書いたとは思えない、流れるように美しい英語で、同じく「英語名人世代」の内村鑑三のゴツゴツした文体とも、新渡戸稲造の装飾過剰な文体とも、まったく異なるものだ。
The Book of Tea(1906) は、現在でも英語から世界各国語に翻訳されてロングセラーを続けている。日本人が英語で書いた本ではもっとも売れた本ではないだろうか。
日本では『茶の本』と題して、日本語訳ばかりが何度も訳者を替え、版を替え出版されているが、原文はあくまでも英語である!ということを強調すべきである。岡倉天心は、世界の読者に向けて、あえて最初から英語で書いたのである。
ところで、先に紹介した『醜い日本の私』(中島義道、新潮文庫、2009)第2章「欲望自然主義」には、「世間」についてこういうことが書かれている。
むしろ、それは、前後左右から自分を突き刺す他人(世間)の視線を気にかけた欲望の実現であって、それこそこの国では自然な欲望追求の仕方なのだ。
日本的自我は、はじめからそして。徹底徹尾他人の視線のもとにある。ハイデガーの言葉をもじれば、まさにそれは「世間=内=存在」である。・・(後略)・・ (*引用は、同書P.84 太字は引用者=さとう)
これだけ見ればなかなか鋭い指摘なのだが、ここで哲学者ハイデガーのコトバを持ち出すのは、あまり意味のないことなのである。なぜかというと、ハイデガーは、日本語に訳された表現では、人間存在のことを「世界内存在」というコトバを使って表現しているが、ハイデガーはこのコトバを岡倉天心の『茶の本』からパクったらしいのだ。
美学を専攻する哲学者・今道友信は、イスラーム神秘哲学の世界的権威であった井筒俊彦との対談でこういうことを述べている。
井筒 そういえば、ハイデガーと禅なんかを比較する人はずいぶん多いですね。あれどうお考えになりますか。
今道 ハイデガーというのは例のダス・イン・デア・ヴェルト・ザインにしても独創ではありません。1890年代に出た岡倉覚三の英文の『茶の本』の「ビーイング・イン・ザ・ワールド」というのが最初に1908年かに独訳されたときにダス・イン・デア・ヴェルト・ザインと訳されましてね、独訳の『茶の本』はインゼル叢書にあって第一次大戦前後のベストセラーです。彼はそれを伊藤吉之助から貰い、あの語をそのまま取って黙っていたり、リヒャルト・ヴィルヘルムの訳した荘子や老子の書物から取った言葉を黙って知らん顔しているというところがありますしね、だからハイデガーを本当に研究しょうと思ったらハイデガ-のソースを考える必要がある。たしかに後期フッサールがあるでしょう・・・・
井筒 そうですね。
今道 それからもう一つはグノーシス、そしてまた、東洋の言葉ですね、テルミノロギーとしては東洋が多い。だから「ビーイング・イン・ザ・ワールド」というのは荘子の「処世」の訳なんですから、それを「世界内存在」なんてまた変に訳さないで、処世という言葉にもどしてくるぐらいのそれこそ思想史的なフレキシビリティーがないと、読んだってハイデガーはわからないことはたしかだと思いますね。
(出典:『叡知の台座-井筒俊彦対談集-』(岩波書店、1986)所収 Ⅱ 東西の哲学 P.122)
ハイデガーは、岡倉覚三(天心)の英文著作『茶の本』(The Book of Tea)にある being in the world のドイツ語訳 das 》in-der-Welt-sein《 をそのまま黙って借用し、あたかも自分の独創であるかのように表現していた、ということらしいのだ。
だから、「世界内存在」などと、もったいぶって訳された日本語表現は、実は「処世」であり、つまるところ「世間」のことにほかならない。
岡倉天心が、どういう文脈でこのコトバを使っているのか、検証しておこう。
III. Taoism and Zennism
But the chief contribution of Taoism to Asiatic life has been in the realm of aesthetics. Chinese historians have always spoken of Taoism as the "art of being in the world," for it deals with the present--ourselves.
(出典:The Book of Tea by Kakuzo Okakura)
http://www.sacred-texts.com/bud/tea.htm
"art of being in the world,"、つまり道教でいう「処世」術のことなんですね。
岡倉天心の「処世」が、ハイデガーの「世界内存在」に、そして中島義道の「世間=内=存在」にと変化しているわけだが、なんのことはない、「世間」のことをまわりくどくいっているだけなのである。
*****
さて冒頭で触れた、「アジアは一つ」(Asia is One)に戻ろう。
このコトバは、第二次世界大戦中、「大東亜共栄圏」の思想的根拠とされたと、いまでも一部の人からやり玉に挙げられているが、第一次大戦前に亡くなっていた岡倉天心の発想ではないし、もちろん岡倉天心の本意がそこにあったわけではない。しかしながら、このコトバが日本内外のアジア主義者たちを鼓舞してきたことまでは否定できない。
たとえば、武力によるインド独立の道を選んだチャンドラ・ボースもベンガルの人であり、そういったアジア主義者の系譜のなかにあるといっていいだろう。
先に引いた哲学者・井筒俊彦は、岡倉天心のコトバを引いて、イスラームのことを「騎馬の儒教」と言っていたという。弟子でイスラーム哲学研究者の五十嵐一が著書のなかでそう書いている。五十嵐氏は、サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』を翻訳し、イランのアヤトッラー・ホメイニ師による「死刑命令」のファトワーに従ったバングラデシュ人に、筑波大学のキャンパスで刺殺されている。
イラン王立アカデミー教授であった井筒俊彦が、1979年の「イラン革命」勃発後は日本に帰国し、西アジアのイスラームまで含めた、広義の「東洋哲学」を構想して日本語の著作として発表したのは、岡倉天心の「アジアは一つ」という発想が根底にあったと考えるべきであろう。
たとえば、武力によるインド独立の道を選んだチャンドラ・ボースもベンガルの人であり、そういったアジア主義者の系譜のなかにあるといっていいだろう。
先に引いた哲学者・井筒俊彦は、岡倉天心のコトバを引いて、イスラームのことを「騎馬の儒教」と言っていたという。弟子でイスラーム哲学研究者の五十嵐一が著書のなかでそう書いている。五十嵐氏は、サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』を翻訳し、イランのアヤトッラー・ホメイニ師による「死刑命令」のファトワーに従ったバングラデシュ人に、筑波大学のキャンパスで刺殺されている。
イラン王立アカデミー教授であった井筒俊彦が、1979年の「イラン革命」勃発後は日本に帰国し、西アジアのイスラームまで含めた、広義の「東洋哲学」を構想して日本語の著作として発表したのは、岡倉天心の「アジアは一つ」という発想が根底にあったと考えるべきであろう。
*****
しかしこのコトバ Asia is One は、アジア主義者を鼓舞しただけではない。あるヨーロッパ人の心を大きく動かしたのである。
そのヨーロパ人とは、リヒャルト・クーデンドーフ=カレルギー伯爵。欧州共同体構想の生みの親である。伯爵の母は、よく知られているように、日本人・青山光子である。いわゆるミツコ(Mitsouko)、のことだ。ゲランの香水の名前として知られている。
リヒャルトが提唱した「汎ヨーロッパ主義」(Paneuropa)とは、アジアが一つなのに、なぜ欧州が一つになれないことがあろうか、国家どうしが争うのではなく、「欧州は一つ」(Europe is One)になるべきなのだ、という主張である。
第一次世界大戦後崩壊したハプスブルク帝国、すなわちオーストリア=ハンガリー帝国へのノスタルジーが念頭にあったようだ。また、彼が提唱した友愛精神(Brüderlichkeit)は、まわりまわって現在の日本の首相にも影響を与えている。
ちなみに、シンガポール攻略作戦の総大将で、休戦交渉においてシンガポール駐在英軍司令官に Surrender ? Yes or No ? と迫ったといわれる山下奉文陸軍大将は、実はドイツ語畑出身で、オーストリア大使館兼ハンガリー公使館附武官としてウィーンに駐在中、晩年のクーデンホーフ=カレルギー光子に会ったらしい。余談ではあるが、ふと思い出したので書いておいた。
日本人だけでなく、ハイデガーやクーデンホーフ=カレルギー伯爵といった欧州人も動かしてきた思想の源泉が岡倉天心にある。この事実はほとんど知られないままになっているが、コトバ自体のもつ喚起力においてはメガトン級のものがあるといっていいだろう。
これほどさように、コトバのもつチカラには大きなものがあるのだ。
(画像をクリック!)
P.S. 茨城県の五浦(いづら)にあった、岡倉天心ゆかりの六角堂が「東北関東大震災」(2011年3月11日)による大津波で跡形もなく流されてしまった、という報道をみた。結局、一度も訪れることもなく・・・残念である。もちろん、大震災と大津波の犠牲者の方々のことを考えれば、文化財の流出など取るに取らぬものであるといっていいのかもしれない。
●参考サイト> 岡倉天心と五浦の地
PS2 映画 『天心』-岡倉天心と六角堂の復興支援の日本映画が作製公開された。
映画 『天心』公式サイト
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