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2010年11月26日金曜日

「精神の空洞化」をすでに予言していた三島由紀夫について、つれづれなる私の個人的な感想




 今年は三島由紀夫が割腹自決してから40年、第40回の「憂国忌」に参加したことは、このブログでもすでに書いた。その件については、「憂国忌」にはじめて参加してみた(2010年11月25日) を参照していただきたい。

 自分のなかで平成はすでに22年、自分の人生のなかではいまだ昭和が半分以上を占めており、その意味ではまごうことなき昭和人である。
 しかも、昭和天皇の崩御以来、時間が止まってしまているような感覚がなくもない。それ以来、私は元号を使うのをやめた。西暦のみ使っているので、聞かないと今年が平成何年にあたるかわからないくらいだ。この国では公文書はすべて元号を使用することになっているので、その都度聞いて確かめている。

 私がでた大学では「平成卒業生の会」なるものがあるが、昭和60年卒業の私にとっては、なんだか最初から門前払いされているような感じで、いささかもって不愉快でもある(笑)。

 こういう人間にとっては、当然のことながら三島由紀夫とは考えが異なっていて当然だろう。
 なんせ、大正15年、すなわち昭和元年生まれの三島由紀夫は、その人生は昭和そのものであったからだ。三島由紀夫が割腹自決した1970年は昭和45年。三島由紀夫は享年45歳であった。
 

1970年というのは当時小学校二年生にとって、どういう時代だったのか

 「三島事件」は、私が小学生の頃の出来事であった。当日の事件そのものについては、とくに記憶はない。「生首」写真が掲載されたという朝日新聞など取るはずのない家であったから(・・読売新聞であった)、事件のインパクトも映像記憶も、1970年11月25日のものはない。

 しかし、この事件は大きな話題になっていたことは間違いないことで、その当時通っていた歯医者の待合室で、転がっている三島由紀夫の「生首」写真が写っている週刊誌をみた記憶がある。
 その後、大学時代には、朝日新聞の縮刷版でその写真を確認した。現在では、「三島由紀夫 生首」で検索すれば、ネット上で簡単に画像を見出すことは可能だ。

 これは不確かな記憶だが、セップクごっこ、ハラキリごっこというのが学校で流行ったような記憶もある。もちろん真似するだけなので、ナイフを使うわけではない。定規を腹にあてて切る真似をするのである。
 子どもというものは、そういう形で大人世界を再現してみる存在だ。もちろん、政治的な意味や、思想的な意味などわかるはずもない。ただ、形を真似るのである。

 形を真似るといえば、なんといっても学生デモだろう。
 テレビではしょっちゅう、学生紛争のことをやっていたので、私は子どもの頃、大学というのはヘルメットかぶってデモをして、ゲバ棒で殴り合いするところだと思っていた。親が大学に行けとうるさくいっていたが、何のためにいくのかサッパリ意味がわからなかったものだ。
 
 1970年はなんといっても大阪万博の年でもある。
 国民歌手・三波春夫が着物姿で歌っていた「万博音頭」。正確にいうと「世界の国からこんにちは」

♪こんにちは~ こんにちは~ ・・・ 1970年のこんにちは

 「世界の国からこんにちは」は、YouTube でぜひ聞いてみてほしい。ほれぼれとするような歌いぶりだが、きわめてキッチュでチープな感覚は、表面的なものだけを見れば、三島由紀夫にも共通するものがあるように思う。

 その当時すでに両親とともに東京に移っていたが、関西に里帰りを兼ねて大阪万博にいったことは、子ども時代の良き思い出である。子どもにとって最大のアイドルはなんといっても太陽の塔、ここにいったのは私にとっては自慢の一つだ。アメリカ館では「月の石」も見た。

 よのなかすべてSF的で楽観的な未来図に充ち満ちていた。イラストレーターの真鍋博が描く世界。
 
 当然のことながら小学校二年生は、万博の世界の側にいて、三島由紀夫の世界の側にはいない。一般大衆もまた万博の世界の側にいた。
 1973年の石油ショック発生による狂乱物価になるまでは、明るい未来が無条件に信じられていた時代だ。 田中角栄の時代でもあった。

 そう、こういう一般大衆の欲望充足の世界を嫌っていたのだろう、三島由紀夫は。そしてその予見力の鋭さと深さは、40年後の現在あらためて驚かされるのである。


三島由紀夫の予言-「精神の空洞化」をすでに40年以上前に予言していた三島由紀夫

 小学校二年生はいうまでもなく、そんな時代の一般大衆が、三島由紀夫の以下のような発言を真正面から受け止めることが果たしてできただろうか。できるはずがないだろう。

 三島由紀夫は、1970年7月7日付けの「サンケイ新聞」(・・現在の産経新聞)の夕刊に、こういう文章を寄稿している。題して「果たし得てゐない約束-私の中の二十五年」

 私の中の二十五年間を考へると、その空虚に今更びつくりする。私はほとんど「生きた」とはいへない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。
 ・・(中略)・・
 私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまふのではないかというふ感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代はりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目のない、或る経済大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思ってゐる人たちと、私は口をきく氣にもなれなくなってゐるのである。


 「私の中の二十五年」とは、昭和20年(1945年)の敗戦から「戦後復興」を成し遂げて「高度成長」を謳歌していた25年間のことである。

 物質的成功のみに目がくらみ、精神的なものをことごとく捨て去っていった25年。

 「三島事件」からさらに25年たった1995年には「オウム事件」が発生した。このときはじめて多くの人たちが、バブルに狂奔し、バブル崩壊後の瓦礫状態のなかで、物質だけでなく、精神もまた枯れ果ててしまっていたことを知ったのだ。

 今年2010年は、「オウム事件」からさらに15年、「三島事件」からは40年、取り返しのつかない状況にあることが否定できないだけでなく、どうしたらいいかいまだに道が見いだせていない状態。

 「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目のない、或る経済大国」。三島由紀夫が唾棄するがごとく言い放ったこのフレーズから、すでに「富裕な、抜け目のない、或る経済大国」すら消え去った。
 いま残っているのは「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の」だけだ。

 かつては、自嘲気味に「経済一流、政治二流」などと多くの人がうそぶいていたものだが、現在では「経済二流、政治漂流」といわねばならない状態ですらある。

 三島由紀夫には、すべてがお見通しだったということだろう。


「英霊の聲」では、さらにより深い次元で現在を見通していた

 三島由紀夫が割腹自決したのは、まだまだ未来が信じられていた時代だ。1973年のオイルショックまでは、1980年代後半のバブル時代と同様、その当時の未来予測はまさにバラ色のものでった。

 先が見えすぎる三島由紀夫は、あえて時代に対して反時代的なスタンスをとったのか? 反時代的なスタンスということでは、万博で太陽の塔を作った岡本太郎もそうであったが、しかし・・・

 先に引いた「果たし得てゐない約束-私の中の二十五年」と並んで、といよりも、より深い次元で40年後の現在をすでに予言しているかのようなのが、『英霊の聲(こえ)』である。虚心坦懐に読み込んでみたい。
 
『英霊の聲』より

かけまくもあやにかしこき
すめらみことに伏して奏さく
今、四海必ずしも波穏やかならねど、
日の本のやまとの国は
鼓腹撃壌(こふくげきじよう)の世をば現じ
御仁徳の下(もと)、平和は世にみちみち
人ら泰平のゆるき微笑みに顔見交はし
利害は錯綜し、敵味方も相結び、
外国(とつくに)の金銭は人らを走らせ
もはや戦ひを欲せざる者は卑劣をも愛し、
邪なる戦のみ陰にはびこり
夫婦朋友も信ずる能(あた)はず
いつはりの人間主義をたつきの糧となし
偽善の団欒は世をおほひ
力は貶(へん)せられ、肉は蔑(なみ)され、
若人らは咽喉元(のどもと)をしめつけられつつ
怠惰と麻薬と闘争に
かつまた望みなき小志の道へ
羊のごとく歩みを揃へ、
快楽もその実を失ひ、信義もその力を喪ひ、
魂は悉く腐蝕せられ
年老ひたる者は卑しき自己肯定と保全をば、
道徳の名の下に天下にひろげ
真実はおほひかくされ、真情は病み、
道ゆく人の足は希望に躍ることかつてなく
なべてに痴呆の笑ひは浸潤し
魂の死は行人の額に透かし見られ、
よろこびも悲しみも須臾(しゆゆ)にして去り
清純は商(あきな)はれ、淫蕩は衰へ、
ただ金(かね)よ金よと思ひめぐらせば
人の値打は金よりも卑しくなりゆき、
世に背く者は背く者の流派に、
生(なま)かしこげの安住の宿りを営み、
世に時めく者は自己満足の
いぎたなき鼻孔をふくらませ、
ふたたび衰へたる美は天下を風靡し
陋劣(ろうれつ)なる真実のみ真実と呼ばれ、
車は繁殖し、愚かしき速度は魂を寸断し、
大ビルは建てども大義は崩壊し
その窓々は欲球不満の螢光燈に輝き渡り、
朝な朝な昇る日はスモッグに曇り
感情は鈍磨し、鋭角は摩滅し、
烈しきもの、雄々しき魂は地を払ふ。
血潮はことごとく汚れて平和に澱み
ほとばしる清き血潮は涸れ果てぬ。
天翔けるものは翼を折られ
不朽の栄光をば白蟻どもは嘲笑(あざわら)ふ。
かかる日に 
などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし


 鎮魂帰神の法によって、神主に憑依した、二二六事件で挫折した青年将校の霊が、神風特攻隊員の霊に語らせたものだ。帰神とは神がかりのこと。さて感想はどうだろうか?

 この一節を三島由紀夫自らが朗読した音声が YouTube にアップされているので、よかったらぜひ聴いてみてほしい。曇りなく澄んだ明晰な高めの清涼な声には、狂気の影はいっさいない。神がかりのコトバであるのに、祝詞の奏上といった雰囲気でないのがまったくもって不思議だ。

 「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」という呪詛のフレーズが繰り返される。「すめろぎ」とは天皇のこと。聖アンセルムスの「クール・デウス・ホモ」(Cur Deus Homo: なぜ神は人となったか)というラテン語のもじりだが、神がかりのコトバに中世哲学者のコトバを援用するあたり、さすが西欧文明にも通じていた、ペダンティックな三島由紀夫だけのことはある。

 東大法学部卒で大蔵省の役人になったという三島由紀夫は、そもそも吉田松陰的なファナティックとは無縁な人であったことが、声からも聴き取ることができるのではないか。
 きわめてロジカル(論理的)でかつラショナル(理性的)な人間であったようだ。


三島由紀夫の割腹自決による「諫死」とイエス・キリストの「刑死」について考える

 三島由紀夫の割腹自決は「諫死」(かんし)である、三島由紀夫と親しかった文芸評論家・村松剛がそういったのだという。乃木大将夫妻の自決が「殉死」であれば、三島由紀夫の自決はまさに「諫死」である。主君の不正不義なる行いに対して、死をもって諫めるのが「諫死」である。

 さきに引いた「英霊の聲」で語った三島由紀夫の声、エレミヤやエゼキエルにように亡国の危険について繰り返し警告した旧約の預言者たちのようにも聞こえるが、その行為を取り上げれば旧約的というよりも、新約聖書のイエスキリストに近い。

 割腹自決と刑死という違いはあれど、その死が同時代の、そしてその後につづく時代の人々につきつけた意味は、量りなく大きいからだ。

 私は、大学時代に恩師の阿部謹也先生が、イエス・キリストの刑死について述べていたことを思い出した。

 イエス・キリストの死とは、お返しや見返りをいっさい拒否した一方的な贈与である、と。

 互酬性の議論にからめて述べたものだが、つまり香典に対する香典返しというように、贈与に対して見返りを求めないということは、つまり円滑な人間関係を拒否する行為であると。

 イエス・キリストの死は、われわれに対して一方的に投げつけられた死であって、この死に対してはわれわれは永遠に罪の意識を追い続けなければならないのである、と。

 人類史におけるイエス・キリストの死と、日本史における三島由紀夫の死を同列に置くことは不謹慎であるといわれるかもしれない。私はキリスト教徒でもなく、三島由紀夫の信者でもない。 

 しかし、1970年以降にも生き続けている日本人にとって、三島由紀夫が書いたコトバ、語ったコトバ、そして割腹自決という行為そのものは、日本人には半永久的につき刺さったトゲとして消えることないのだろう。すでに「諫死」した三島由紀夫へのお返しのしようがないからだ。

 イエス・キリストを指さして「この人を見よ」(エッケ・ホモ:Ecce Homo)といったのは総督ピラトである。三島由紀夫について「この人を見よ」といったのは、本人自らである。三島由紀夫の場合は、いやが応でも見ざるをえないだろう。たとえ、あのバルコニーのシーン画像や映像をつうじてであっても、長く記憶に残る。




 もちろん、三島由紀夫自身が一体化したかったのは、みずから写真集 『薔薇刑』(BA RA KEI)のためにコスプレを演じたこともある聖セバスチャンであろう。しかし、古代ローマの「兵士」であった聖セバスチャンのように、戦陣で死ぬ事は不可能であったということである。

 ベトナム戦争の最前線に、米陸軍の従軍記者として取材に出て、九死に一生を得た経験をもつ開高健は、三島由紀夫が勇ましいことを言っている割には腰抜けではないかと皮肉っている。もちろん、これは割腹自決する前の発言である。

 ベトナム戦争の戦場でマシンガンの弾丸で蜂の巣になる死や、爆弾の炸裂でカラダがバラバラになったりする死は、三島由紀夫の美意識にかなうものではなかったということだろう。聖セバスチャンのように、全身に矢を貫かれて死ぬのはいいのだろうが。

 自らシナリオを書き、自ら監督・演出し、自らが主役として死を選んだのは、戦陣ではなく、平和日本の自衛隊基地のなかであった。

 しかし割腹後、楯の会の森田必勝の介錯がスムーズにいかずに、二度だけでなく三度も首を斬りつけられることにになったが、耐え抜いた三島由紀夫。このストイックで強靱な精神力は、すさまじいの一言に尽きる。

 最期は、「兵士」ではなく、文字通り「武士」として死んだのである。 


老醜を極度に嫌っていた三島由紀夫、しかしフツーの人であるわれわれは・・・

 三島由紀夫が割腹自決下のは45歳、私はすでにその歳を越えてしまった。三島由紀夫が極度に嫌っていた老醜への道を、私も今後は必然的に歩んでいかねばならない。私も、老醜は正直なところ好きではない。

 ただし、永遠の若さをとどめるために割腹自決する気など毛頭ないし、ましてやボディビルをやるつもりも毛頭ない(笑)。

 杉山隆男の『「兵士」になれなかった三島由紀夫』(小学館、2007)によれば、体験入隊した自衛隊では、ムリしてボディビルで作り上げた上半身とはあまりにもアンバランスであった、弱々しい貧弱な下半身について語られている。訓練が終わって風呂に入っているときに見た、三島由起夫の脚の細さを自衛隊関係者に観察されていたのである。

 また割腹自決の数日前に三島由紀夫とたまたま遭遇したという江藤淳は、三島の後ろ姿に老いを見たと書いているらしい。上半身の全面は鍛えることができたとしても、背筋が弱かったのだろうか?

 つまるところ、ボディビルによって人工的に作り上げた上半身の筋肉なのであって、若いときに走り込んだ経験がないためだろう。

 杉山隆男の本でこのエピソードを読んだとき、なんだか三島由紀夫が気の毒な感じがしたものである。肉体にコンプレックスを抱え続けた一人のインテリが、ムリにムリを重ねた結果だったのかと思うと。

 さて、私はといえば、現在55歳の郷ひろみにならって、肉体的にも精神的にもいつまでも若さを維持していきたいと思っている。方法論は私なりのアンチ・エイジングのやり方で。中身は内緒(笑)。

 もちろん、衰退していくことは、生物として生きている以上、避けることのできない運命である。うまい衰退の仕方によって、たとえ老いても醜くはなりたくないものである。






<関連サイト>

MISHIMA: A LIFE IN FOUR CHAPTERS (Paul Schrader, 1985) Trailer
・・緒形拳主演の幻の映画のトレーラー。日本では遺族が公開に反対したため未公開といわれている。緒形拳が少しマッチョすぎて三島由紀夫とは違うような気がするのだが・・・。その他の出演者は、沢田研二、永島敏行などけっこう豪華キャストである。

『憂国』("YUKOKU" by Yukio Mishima
・・三島由紀夫の原作・主演による『憂国』。二二六事件で生き残ってしまった青年将校の割腹。



<ブログ内関連記事>

「憂国忌」にはじめて参加してみた(2010年11月25日)

「行動とは忍耐である」(三島由紀夫)・・・社会人3年目に響いたコトバ

「神やぶれたまふ」-日米戦争の本質は「宗教戦争」でもあったとする敗戦後の折口信夫の深い反省を考えてみる
・・日本人の精神の荒廃はは、宗教戦争に敗れた結果に深刻な反省をしなかったことにあるのではないかという問いかけ

書評 『近代日本の右翼思想』(片山杜秀、講談社選書メチエ、2007)-「変革思想」としての「右翼思想」の変容とその終焉のストーリー
・・ユートピア論の観点からみると、日本ではすでに1936年には「右翼」は終焉し、「左翼」もまた1991年には完全に消滅した

沢木耕太郎の傑作ノンフィクション 『テロルの決算』 と 『危機の宰相』 で「1960年」という転換点を読む
・・遅れてきた右翼少年によるテロをともなった「政治の季節」は1960年に終わり、以後の日本は「高度成長」路線を突っ走る。「世界の静かな中心」というフレーズは、 『危機の宰相』で沢木耕太郎が引用している三島由紀夫のコトバである

マンガ 『20世紀少年』(浦沢直樹、小学館、2000~2007) 全22巻を一気読み
・・小学生の視線からみた1970年の大阪万博

ひさびさに大阪・千里の「みんぱく」(国立民族学博物館)に行ってきた(2012年8月2日)
・・大阪万博の「太陽の塔」はいまでも現物のまま保存されている

映画 『バーダー・マインホフ-理想の果てに-』(ドイツ、2008年)を見て考えたこと
・・三島由紀夫と同時代の1960年代後半は、日本でもドイツでもイタリアでも「極左テロの季節」であった

「やってみなはれ」 と 「みとくんなはれ」 -いまの日本人に必要なのはこの精神なのとちゃうか?
・・三島由紀夫の割腹自決の一年前の1969年に創業70年を迎えたサントリー、これを記念して開高健が執筆した「やってみなはれ」は「高度成長」期の日本人のメンタリティそのもの

書評 『高度成長-日本を変えた6000日-』(吉川洋、中公文庫、2012 初版単行本 1997)-1960年代の「高度成長」を境に日本は根底から変化した

書評 『日本人は爆発しなければならない-復刻増補 日本列島文化論-』(対話 岡本太郎・泉 靖一、ミュゼ、2000)
・・1970年という時代状況に、三島由紀夫より 14歳年上で、三島が影響を受けたフランスの思想家ジョルジュ・バタイユとはパリ時代に親友であった岡本太郎がいかなるスタンスで臨んでいたか。ともに芸術家として存在そのものがアートであった岡本太郎と三島由紀夫の二人を対比させてみるのも面白い。「反時代」としての姿勢は共通していたが・・・

(2014年8月14日、2015年1月28日、10月25日 情報追加)


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