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メインイベントへの参加も終わったし、「三度目のミャンマー」の旅もそろそろ終わりに近づいてきた。
結婚式のあとは、ヤンゴン市内のカバイェー寺院と併設の仏陀博物館、インヤー湖(・・インレー湖ではない!)のカフェ(tea house)へ、そして夜はヤンゴン市内のチャイナタウンにてミャンマー・ビアの生ビールをガンガン飲みまくり・・・という楽しくも充実した一日を過ごした。
私は早めにミャンマー入りしたこともあり、また会社設立作業を一時中断してのバカンス(?)となったため、翌日の夕方の便でバンコク乗り継ぎで帰国することにしていた。結婚式ツアーの皆さんは、三連休であったのであと2日の予定をまだ残していたのだが。
さて、日曜日を帰国日としていた。レイト・チェックアウトが運良く午後4時まで可能となったが、夕方まで特にすることもない。友人からの誘いで、昼食までツアーの皆さんと同行することした。
向かった先はチャウタン(Kyautan)、ヤンゴンからはクルマで1時間ほど南の近郊にある「水中寺院」で有名な町である。バスで走っているうちに思い出したが、この道は13年前に通ったことがあるなー、進行方向右側に遊園地の観覧車がある!・・・ひさびさだ。なんんだか妙に懐かしい。
大河ヤンゴン川の河口に向かって走ることになるのだが、中国の援助で建設された大橋を渡る。
道すがら、周囲に何もない環境のなかに「ミャンマー海洋大学」(Myanmar Maritime University)のキャンパスが現れてくる。以前、バンコク行きのTGで隣り合わせた日本人が日本の海運会社の社長さんで、ミャンマーに経済ミッションで行くというのだが、ミッションの内容は船員確保のための視察がテーマなのだという。
現在では、人件費高騰のため日本人の船員はほとんどおらず、フィリピン人船員が多いということは知っていたが、ミャンマー人の船員も多いのだということはその時まで知らなかった。
船員というのは労働集約型産業の最たるものだから、人件費の比較的安いフィリピン人やミャンマー人が採用されることは理解できる。海運会社の社長さんの話では、ミャンマー人の船員の質は高いらしい。ミャンマー政府も人材育成にチカラを入れているようだ。かつては繁栄していても、独立後に経済のテイクオフに失敗した国の共通点かもしれない。
これといった産業のない最貧国にとっては、観光とならんで貴重な外貨獲得手段と位置づけられているのだろう。
さてバスはチャウタンの町へ。川を左手にみながら狭い道の陸側には干物屋がぎっちりと軒を並べている。個人旅行なら干物屋をひやかしてみたい気もしたが、団体様一行なのでそこはぐっとこらえてバスのなかから写真を撮るだけにとどめる。
バスを下りると暑い! にわかミャンマー人スタイルのミスター・ロンジーこと私も、陽射しがきつくいのでサングラスは必携である。
「水中寺院」は川の中州にある。イェレー・パヤーという名のパゴダ(仏塔)である。アクセスは舟のみである。そうそう13年前に来たときもこうだった。人でごったがえしたような船着き場からはひっきりなしに舟が行き来している。
舟に乗っている時間はわずかなのだが、それにしても水中(・・というより水上というべきだと思うのだが)にパゴダを建設するのは、インレー湖もそうだが、ミャンマー人一般に共通する性格のようだ。ミャンマーは多民族国家であるが、東南アジアに共通する「水の民」としての性格が濃厚であることを実感する。
川の中州のパゴダは面積としては小さいのだが、この島にミャンマー各地から大量の善男善女(ぜんなんぜんにょ)が集まってきて、思い思いに祈ったり、そぞろ歩きをして、ごった返しているる姿を見るのは壮観である。日本でいえば、東京・浅草の浅草寺(せんそうじ)を狭い島のなかに移し替えたようなものか。そういえば浅草寺も、漁民が網に引っかかった観音様を拾い上げて、それをお祀りしたことから始まったのが縁起だということを思い出したが、その意味では日本人も「水の民」としての性格をもっていることがわかる。
ガイドをしてくれたミャンマー人青年によると、この日に多く来ていたのはモン人であるという。チャイティーヨーの「ゴールデン・ロック」周辺地帯に住む民族である。私からみても外見で区別することができないのだが。
エサをまくと魚が争うようにして集まってくる。どうやらナマズらしいが、神聖な魚なので食べてはいけないらしい。こうやってエサをやることもまた仏教的にいえば功徳を積むことになる。なんだか、房総半島の泡勝浦の鯛ノ浦の日蓮上人の故事を思い出す。
水中寺院の参観はミャンマー人は無料(フリー)だが、外国人は米ドルで1ドル払わなければならない。面白い看板を見つけた(写真)。「外国人は US1.00 (or) FEC 1.00 per person to the Pagoda 寄付せよ」と看板に書いてある。FEC ねえー、FEC とは Foreign Exchange Certificate の略、日本語でいえば兌換券のことだ。13年前からこの看板はそのままなのだろうか。
そうそう13年前のミャンマーにはまだ兌換券が使用されていたのだ。空港で(・・しかも現在の新しくて立派な建物ではなく昔の木造のやつ)、300ドルの強制両替が強いられていたことを思い出したが、兌換券は現在でも使用されているのかどうか?
米ドルの使用は公には禁止されているはずだが、実際には市中に流通しているし、公の交換レートとは別に実勢レートでのミャンマーの通貨チャットとの交換もされるし、受取が拒否されることもそれほど多くない。中国でも昔は兌換券があったが現在では使用されてないし、ミャンマーはいったいどうなっているのだろうか・・・。
さて、今回の旅は以上で終わりである。
ミャンマーには、チャイティーヨーの「ゴールデンロック」、バゴーの巨大寝仏、マンダレーの王宮、世界遺産であるバガンの仏教遺跡など、まだまだ訪れるべき観光名所も多い。これらはみな、13年前にクルマと運転手を雇って1週間で回ったので、この場で紹介することはしないが、いずれも定番コースであるのであえて説明するまでもないだろう。
上座仏教では、「ゴールデンロック」もそうであるが、女人禁制(にょにんきんぜい)の場所も多いので、女性の方には不満も多いだろうが、これは異文化だと思って割り切っていただくしかない。日本も明治時代になるまで女人禁制の場所は多かったことを思い出していただけばよい。
そうそう、女人禁制の話だが、最期にティラシンについて触れておこう。
タイに比べてミャンマーは、まだまだ生活の中に仏教が生きている国だが、お坊さんだけでなく尼さんのような姿形のティラシンを多く見かける。チャウタンの水中寺院にも多かった。
スキンヘッドに色鮮やかな衣を身にまとったティラシンは、実は大乗仏教には存在する尼僧ではない。上座仏教では女性は出家できないのは、比丘尼に求められる戒律をみたしていないこと、授戒の伝統が途絶えてしまっていることが理由であるらしい。これはタイの場合も同じであるようだ。
『ビルマ佛教』(生野善應、大蔵出版、1975)によれば、在俗信者であるが、出家者と在俗信者の中間的存在とみなされているらしい(P.182-185)。生野善應氏は修道女という日本語をあてている。戒律は10のうち8つを守り、独身であり、午後は食事を摂らないようだ。
東南アジア学の権威である石井米雄氏によれば、タイの場合についていうと、息子が一時出家することが母親にとっては最大の功徳であり、女人救済はこういった迂回ルートをとって行われると説明している。逆にいえば、息子としては一時出家することが母親に対する最高の親孝行となるわけだ。ミャンマー(ビルマ)も同様であろう。
ただしこのことをもって人権侵害とか短絡的に捉えるべきではないだろう。ユダヤ教正統派やイスラームにおいてと同様、上座仏教圏は異文化なのであるから、それはそれとして受け取るべきである。実際、タイもそうだが、ミャンマーでは女性の社会進出は日本の比ではない。
ということで、ここでいったん終わりにします。キリがないからね。
あと1回、総集編を書いて締めくくります。旅のアドバイスや参考文献の追加など。
二度あることは三度ある、三度あることは・・・。なんだかすっかミャンマーに取り込まれつつある私です。
(つづく)
<ブログ内関連記事>
「ミャンマー再遊記」(2009年6月) 総目次
「三度目のミャンマー、三度目の正直」 総目次 および ミャンマー関連の参考文献案内(2010年3月)
(2015年10月4日 項目新設)
(2012年7月3日発売の拙著です)
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